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  [No.1007] 千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2014/11/26(Wed) 17:37:28

こんにちわ。はじめまして。 黒木と申します。
色々と悩んだ末にメールする事と致しました。

私の祖父は永嶋と申します。祖母と祖父の間に3人の子があり
そのうちの一人が私の父です。
祖父は千葉県の出身で、実家は庄屋を営んでおりました。
戦争中に祖父は若くして亡くなり、祖母は戦後の中やむなく
永嶋家を去り再婚を致しました。しかし、再婚相手に恵まれず
全財産を騙し取られた上、多大な借金を抱え離縁となったと
聞いております。
その後、祖母が他界してしまった為、残された3人の子供達は
(叔母が当時15歳、父親が13歳、叔父が10歳)
父親の実家を頼りに養子縁組をお願いしたのですが
一旦家を出たからと言う事で、永嶋家への養子にはなれなかった
ようです。その後、高度成長期もあり、3人の子供大変良く働き
借金返済も終わり、母親に墓を作る事に致しました。

墓石を作るときに、家紋が必要だと言う事になり、祖母の実家に
出かけ、家紋を次いで良いかと聞くと、これも遺産問題などがあり
実家の家紋も頂けない事になってしまいました。

仕方なく、私の母が、祖父のお墓に出かけ、墓石に紙を当て
鉛筆で型を取って、我が家の家紋とし、墓石に彫ってもらいました。
(無断で借用してしまったのです。)

私の、父親も高齢になり、お墓の話になった時に、どうも
祖父のお墓が移動されてしまい、何処にあるか分からなくなっていると言う事を
気にして、できれば祖母と同じ墓に生きているうちに入れてあげたい
と言われました。そこから、私が、祖父の生い立ちなり
先祖様の家系を知りたくなり、永嶋家について調べ始め、こちらの掲示板に
たどり着きました。

戦争のドサクサも有り、叔父も叔母も父も高齢ですし、出来れば
生きている内に祖父の家系が分かれば
是非知ってもらいたいと私は願っております。

小さい頃から叔母がよく話してくれた事に、子供3人で
祖母が無くなった後、永嶋家を頼ったのですが、面倒を見てもらえず
泣きながら夜の田んぼ道を兄弟3人で帰ったと言う話を聞いていましたので、
その後、永嶋家とは疎遠になっているのだと思います。
(情報が余りに少ないので)

長々と身の上話になってしまい誠に申し訳ございません。
現在私が分かっている事は、

1、祖父の姓名が『永嶋』である
2、実家は千葉県にある庄屋だったらしい。
3、家紋が下がり藤である。

と言う事ぐらいです。
また、叔母の話では、永嶋家は地元の有力者のようで
蔵が7つも建っており、家には火縄銃のようなものまで
あったと言う事です。(確か祖父の親か忘れましたが博打に
はまり、財産を失ったと聞いておりますが確かな事は
分かりません。)

こんな中途半端な情報しかありませんが、もし
青木氏に繋がる家系であるのであれば、是非
叔父、叔母、父に話をしてあげたいと思い至りました。

長々と要領を得ない文章で大変恐縮でございますが、もし何か情報がございましたら
お教え頂けましたら大変幸せに存じます。

突然の書き込みで大変失礼いたしますが
他にどのような挨拶をすべきか分からず、大変
お恥ずかしい事ですが、掲示板に書き込ませて頂きました。

宜しくお願い申し上げます。


  [No.1008] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/27(Thu) 10:53:48

千葉の永嶋さん 始めまして。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
本サイトは、「青木氏氏」と呼称して「青木氏族」について「先祖の歴史」に付いて研究しているサイトです。
全国の青木さんが集って管理人さんの下でサイトを運営しています。
これからも青木氏に関するいろいろなお話や情報が在りましたらお気軽にお便りください。
お待ちしています。

さて,お便りによると、御親族は大変ご苦労されていたのですね。
世の中の人は、「御先祖の生き様」を知りたいと思うは、ご自分の「現世の生き様」に対して、「御先祖の生き様」を照らし合わせて、「今後の生きる力」にしようとする人間が持っている根本的な本能であると考えます。
”古を知る事”に依る事は、神仏が”人間に与えた最大の癒し”であると考えます。

その意味で、ご先祖の事に付いて知る事に、是非に「青木サイト」はご協力を致します。
今後ともに、”青木氏族のサイト”として御自由にご利用ください。
青木氏は歓迎いたします。



さて、「青木氏氏」とは、「青木氏族」と云うのが歴史的に在りまして、その「青木氏族」とは、青木氏、長沼氏、永嶋氏、進藤氏、長谷川氏の五氏を主に云います。
特に、永嶋氏は、青木氏の中でも、最も、「青木氏」に近い氏族でして、この「青木氏」は、大別すると二つの流れに分けられます。
一つは、「皇族系の青木氏」で、この青木氏には更に二つに分流しています。
「皇族賜姓族青木氏」と「皇族系青木氏」の29氏に別れます。奈良期からの氏族です。
二つは、「藤原秀郷流青木氏」で、この青木氏は116氏が在ります。平安初期からの氏族です。
この「藤原秀郷流青木氏」も一つ目の青木氏とは、母方で古くから平安初期からの血縁関係を持っています。
一つ目の「皇族賜姓青木氏」の職務を補佐する意味で、特別に天皇に賜姓されて発祥した「特別賜姓族青木氏」です。
「皇族賜姓青木氏」とは、天智天皇の第六位皇子(施基皇子)が臣下して成った氏族です。
この「賜姓族」とは天皇から直接に姓を与えられて、特別な権限と権威を与えられた氏の事を云います。
天皇の皇子は、第四位皇子までの「真人族」と、第六位皇子は「朝臣族」に分けられます。
第七位皇子からは「連族」に成り皇族から離れて、地方に配置されて侍と成ります。
第五位はその中間の身分で、欠員の有無によってどちらかに身分は所属します。
さて、この「特別賜姓族青木氏」が、藤原秀郷一門から出自しています。
藤原氏北家筋の秀郷一門は、母方が天皇家に嫁ぎ、この「皇族賜姓族青木氏」の母方にも嫁いでいます。
この藤原秀郷一門は361氏にもなる日本最大の氏族の集団です。
この中で、中心に成って「藤原氏秀郷一族一門」の「第二の宗家」と呼ばれ、一門を指揮してきたのが、この「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」なのです。
藤原氏の中でも最大に勢力を持ち、最大の家柄です。
その勢力は、関東の武蔵に領国を持ち、その周囲の下野、上野、下総、駿河を平安時は領国にし、陸奥域も勢力圏に収めていました。
関東以北と云っても良い程の超大豪族でした。
この中で、「藤原秀郷流永嶋氏」は、「藤原秀郷流長沼氏」と共に、この「藤原秀郷流青木氏」と最も血縁関係が深い親族の一族です。

そこで、お家の情報が極めて少ないので、確定するまでには行きませんが、”千葉”と”庄屋”の情報からすると、この「藤原秀郷流永嶋氏」の「末裔」である可能性が極めて高いと観られます。

実は、この「藤原秀郷流永嶋氏」は、千葉を中心に関東に拠点を置いて、各地に永嶋氏の子孫を拡大させているのです。
その中でも、本拠地の千葉に、ご先祖のお家が定住しているとなると、「結城」に拠点を置いていた”「関東屋形」”と呼ばれた室町期には「日本一の勢力」を誇った本流の「結城永嶋氏」の末裔である可能性が有ります。
室町期末期に秀吉に依って潰され、その勢力は低下したのですが、後に家康に依って引き上げられて、徳川幕府樹立の立役者と成って、幕府を明治期まで支えた氏族です。
明治期には、この勢力は無く成り、明治政府から土地の地主や庄屋や名主や豪農として認められて生き延びてきました。
その領国の永嶋氏の拠点を置いていた地域の庄屋さんであった事は大きな決め手です。
千葉のどの辺に、江戸時代のご先祖がお住いで在ったかが判れば、更に確定できる程にその可能性が高まります。
又、お家の宗派が判れば更に確実に成ります。
千葉地域の庄屋さんをされていた事は、その可能性が、80%程度に成っているのです。
そもそも、”庄屋さん”に成るには、だれでもと云う訳にはいかず、大抵は元の地主で土地の「郷氏」(土地地域の豪族)である特別な身分の者でなくては成れませんでした。
幕府も維新政府もこの方式は維持しました。
この地域の庄屋の殆どが、この「藤原秀郷流一門」の者(永嶋氏)が成っていたのです。
「藤原秀郷流一族一門」の中でも、その「永嶋氏」は、平安期には、この千葉の領主であった事、江戸期に成っても、徳川氏の特別な「御家人」と云う高い身分の家臣でしたので、千葉の全域を土地の地主としても、永嶋氏が庄屋を務めていたのです。
この”庄屋”は、お家の家柄を確定する最大の歴史的な事柄であるのです。
特に千葉と云う地域の庄屋であることが、最大の決定要素です。
出来得れば、その庄屋の地域と昔の宗派やお寺さんが判れば、最早、疑う余地はありません。
この地域は、この事がはっきりしていたのです。
更に、庄屋さんでしたから、昔の「家紋」を持っていたので、判ればこの「家紋」もお調べに成ってお知らせください。
家紋は「下がり藤紋」との事ですが、もし、この「藤原氏北家」の「総紋」を直にお使いに成っているとすると、宗家か本家筋の家筋と成ります。
この「総紋」は、宗家本家筋が、直接家紋として使え継承する家紋です。
宗家本家筋以外は、後の分家筋は「副紋」と云う別の紋を使います。
お家の「総紋」は、藤原氏北家一門の「下がり藤紋」である事は間違いないのですが、永嶋氏の本家筋はこの「下がり藤紋」を使います。
「副紋」が別にあった筈ですが、お調べください。
もし、無かったとすると、お家は、藤原氏の中でも本流の最古の血筋を繋いだ「結城永嶋氏の本家筋」であった事に成ります。
これを証明するのは、千葉の地域と宗派で決まります。

(永嶋氏の家紋群に付いても、資料が研究室にありますので、お家の家紋がどれかを御確認ください。)

そこで、この「藤原秀郷流永嶋氏」の詳細は、「ルーツ掲示板」と「研究室」に「青木氏族」として極めて詳しく論文を載せていますので、そこを先ずはお読みください。
家紋や出自や由来や経緯を詳しく述べています。
膨大な資料に成りますが、ゆっくりと少しずつ楽しんでお読みください。
その過程で、判らない事が出てきましたら、その都度、お尋ね頂き、お答えしながらそのお家のルーツを理解していただく事にしましょう。
その上でまとめて、御尊父や祖父母の方々にお教えする事が最も良いかと考えます。

その方法で、昔のお家のご親類の方々がルーツをご理解して頂いています。
この「ルーツ掲示板」では、掲示板検索で ”永嶋氏”と入力しますと、大変な数の永嶋さんの事が書かれていますので、お読みください。
長嶋さんもお家の分家や支流のご親族です。
「研究室」には、単独で”永嶋氏の事”を論じています。全ての永嶋氏や長嶋氏の事が判りますよ。
「ルーツ掲示板」には、お家の昔のご親戚の方のお便りが沢山あります。

これをお読みに成るとお家の全ての事がお判りに成れますよ。
ご親族は、ご先祖の事が判ってお喜びに成ると思います。
その上で、お読みに成っていて御質問や不明な事が在りましたらお便りを是非ください。

先ずは、お答えはここまでとしておいて、お読みに成ってからの事と致しましょう。
このお便りを、「お家の専用欄」としますので、Reでお便りください。

では、お便りをお待ちしています。


  [No.1009] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2014/12/01(Mon) 07:58:21

こんにちわ。
早速のご返信有難うございました。

アドバイス頂きましたように、先は
祖父の埋められているお寺の宗派と
家紋に副紋がないのか調べてみたいと
思います。

家紋を祖父の墓石から写したのは母なので
母に聞けば早いのですが、それが出来ません。
5年前にこの世を去り、今は自ら写し取った
家紋のついた墓石の下に祖母と共に眠っております。

仕事の関係で今は伊勢市に住んでおりますので
お正月実家に帰り、調べてみます。

叔母の話では、過去帳なるものが有るらしく、
それには宗派などのっているようです。
(そんなのが有るなら早く言って欲しかった・・・)

また分かり次第ご連絡させて頂きます。

それまで、研究室のデータを勉強して見たいと思います。
色々とご助言頂けまして誠に有難うございました。


  [No.1010] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/12/01(Mon) 09:42:21

今日は。
早速、お便りのお答えを読んで頂きありがとう御座います。

現在、伊勢に居られるようですが、伊勢は筆者のルーツで、伊勢の青木氏です。
又、この伊勢には、お家のご親族のルーツがあるところです。
伊勢の長嶋氏は、お家のご先祖が、中部までその威力を拡大し、ここに伊勢の永嶋氏(区別する為に長嶋氏を名乗った)が定住していまして、室町期末期までは永嶋氏の領国でした。
秀吉に依って、「伊勢長嶋攻め」で潰されて衰退しました。
この時、筆者の先祖が、この戦いに伊勢の「長嶋氏」に合力しました。
敗退して共に、一時、筆者の領地の和歌山の新宮に逃げ延びて、一年後に蒲生氏郷に許されて、末裔の方々と共に伊勢に戻りました。
この様な因縁の歴史が在ります。今は長島温泉の地域と成っています。
この地域には、「藤原秀郷流の青木氏」(四日市付近一帯)と、「藤原秀郷流の伊藤氏」(伊勢北部東域)が定住していた所で、今でも、この3氏が定住しているところです。
つまりは、昔、お家のご親族の方々が住んでいた所です。

論文を是非お読み頂いて、ご質問やご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ルーツの解明には、一寸した事が解明の糸口に成る事が在るのです。
ですから、どんなお答えの方法でも構いませんから、お家の方法でお家の思う様にしてお便りをお書きに成るなりしてお尋ねください。
その言葉の中に意外に手がかりが潜んでいる事が多いのです。

さて、そこで、今回のお礼文を頂きましが、その中に大変大きな手掛かりが在ったのです。
実は、それは”「過去帳」”です。
この「過去帳」は、昔の慣習では、武士階級の上位の家柄、例えば、お家の永嶋氏の様に、関東ではトップの家柄が持つお寺のご先祖の累代の記録なのです。
一般には、「過去帳」では無く、「人別帳」と云う物に成ります。
それを「過去帳」としていますので、前回の千葉庄屋の情報のみならず、「藤原秀郷流永嶋氏」である事を物語る情報でして、ルーツの確定を更に進めた事に成ります。
後は、江戸期のご先祖が眠るそこのお寺の宗派が判れば確定します。
それには、「永嶋氏の末裔の宗派」は二つに限られます。この二つのどちらかに成る筈です。
江戸期の宗派か、更に進んで、室町期の宗派まで判れば完璧です。同じであれば問題はありません。
「江戸期の宗派」が、「永嶋氏の宗派」であれば室町期までさかのぼる必要はありません。
そして、「過去帳」が在ったとして、その最も古い御先祖の人の時代の年号、それに伴って、この古い人の戒名に「院殿居士」が付いているかが判れば、確定から進んで、お家の永嶋氏の本家分家筋のどの位置にあった家柄かも判る事に成ります。
更に、「戒名」には、その人の生前の生きた業績などの意を含ませていますので、どの様な人で在ったかも判りますよ。
この事に依っても、「家紋」も限定されてきますので、お調べに成ってください。
但し、昭和の大戦などの混乱で、千葉では大変でしたから、「副紋」を忘却または消失している可能性が有ります。
しかし、ご先祖のいた地域と宗派とが判れば、概ねこの「副紋の家紋」も判ってきます。
場合に依っては、「下がり藤紋」の真ん中にお家の副紋を挿入している事もあります。
秀郷一門は、多くは、「副紋]をこの「下り藤紋」の「挿入型」を採用しているのです。
その事に依って、何時しか末裔の方が、この事を解らずにこの「挿入の副紋」を消失してしまっている事が観られます。
お調べに成る時は、是非この点も合わせてご確認してください。

では、又、ゆっくりと知らべられてお便りください。お待ちしています。


  [No.1016] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/01/08(Thu) 16:48:55

こんにちわ。
先日、自宅よりメール致しましたが、
もしかしたらメールが届いていないように
思いましたので、もう一度再送させて下さい。

もし、2重に届いてしまいましたらご容赦頂きたく
お願い申し上げます。

宜しくお願い申し上げます。

以下前回のメール内容********************

明けましておめでとうございます。
本年度も宜しくお願い申し上げます。

年末、年始に実家に帰って色々と調べて来ました。
思った程の収穫はありませんでしたが、少しは
前進したように思います。

まづ始めにお詫びがございます。
私のお墓に付いていた家紋は下がり藤では
ありませんでした。
『丸付き抱き沢瀉紋』でした。
私もうろ覚えでしたので現物を見て違う事に
気がつきました。
父親に聞いたら、そうそう下がり藤ってやつだと
言っていたので、すっかり信じてしまいました。
申し訳ございません。

また、叔母の家に新年の挨拶に行った折に
過去帳を見せてもらおうと思ったのですが
物置の奥に入ってしまっているので今は無理と
大変つれない返事で、見る事が出来ませんでした。

ところが、母が生前、叔母宛に手紙を出しており
そこに、墓石にまつわる事が調べられており
少しは状況が分りました。

まづ、家紋についてですが、母の手紙には
家紋一覧表が同封されており、そこに
『抱き沢瀉紋』の所にマーカーの記しが付いていました。
どうも母は、祖父の墓の家紋を紙に写し取った後、家紋一覧表
から『抱き沢瀉紋』を見つけたのだと思います。

しかし、何故墓石につけた家紋を、『丸付き抱き沢瀉紋』に
したのかは分かりません。家紋一覧表には、同じページの
少し離れた所に『丸付き抱き沢瀉紋』が掲載されているので
間違えたとは思えません。同じページの家紋一覧表の中から、
わざわざ『抱き沢瀉紋』にマークしてあったのですから
何か意図して、お墓の家紋の所を『丸付き抱き沢瀉紋』に変えたのだと思います。

私の祖父は次男だったから『丸付き』にしたのか、祖母が永嶋の籍を
離れたから『丸付き』にしたのかは分かりません。

当時の関係者の父に聞いても、藤紋と間違えるほど無頓着ですし、
叔母に聞くと、あ〜間違えちゃったんだね。後で墓石の方を直して
おくよと気軽に言っておりました。

墓石に直接家紋が彫られているのに、どーやって修正するのか
全く分かりませんが、父や叔母はあてになりませんので
この経緯はここまでしか分かりません。

また、家紋一覧表を見ていると、叔母の娘(私からは従姉妹にあたります)が
祖父の写真に写っている袴に『立ち沢瀉紋』がついていたような気がすると言いました。
祖父の写真を見た事が無いので私は確証は持てませんが、81歳の叔母より
は従姉妹の方が信頼できると思いますので、何か関係があるのかも知れません。

叔母のあやふやな話によると、父は近衛兵もしくは騎馬隊にいた。(第二次大戦で
騎馬隊があったのか疑問ですが)
祖父は、叔父と父に似てとてもイケメンだった。(遺伝子学的にそれは無いと思うのですが・・・)
永嶋家のお墓は大きかった。
血縁関係にある伊藤さんのお墓が近くにあった。

と言う事が分かりました。(とっても怪しい証言ですが・・・)

また、母の手紙には、何処から調べたのか千葉県袖ヶ浦市役所の
除籍の謄本の写しが同封されていました。

それによると、祖父の祖父の父からの記録が載っていましたので
簡単に以下記してみたいと思います。

地籍本 千葉県君津郡富岡村xxxxx

祖父の祖父の父 永嶋佐兵衛(天保拾弐年拾壱月弐拾九日生)
その妻       永嶋がく(天保拾四年九月拾日生、柴崎左エ門の四女上?国)

祖父の祖父 永嶋治郎次(出生日、出生地不明)
その妻    永嶋さだ(文久弐年拾壱月弐拾四日生、永嶋佐兵衛長女)

祖父の父 永嶋忠治(明治拾弐年九月拾九日生、千葉県君津郡)
その妻   永嶋るい(明治拾壱年九月拾日生、菊池伊八の四女千葉県君津郡)

祖父 永嶋伊之八*次男(明治四拾四年壱月壱日生、千葉県君津郡)
その妻 永嶋ユキミ(明治参拾九年拾弐月三拾日生、黒木茂吉の長女、宮崎県東臼杵郡)

そしてこの伊之八が私の祖父に当たり、父と叔母と叔父が生まれました。

私はこの祖父の長男の息子(長男)になります。

この戸籍から見ると、祖父の祖父である治郎次は永嶋家に婿養子に
来た人のようです。

また、気になる所では、私の祖父、伊之八の兄(長男)の嫁に
当たる方が、『永嶋』と掛かれずに『永嶌』と姓が書かれていました。
この女性も出生日、出生地が不明でした。)

この他にも母の手紙には、現在の永嶋家でご存命の方数名の
住所、氏名、電話番号が記されており、この方々へ手紙等で連絡をして
祖父のお墓の場所を教えてもらおうと思います。
(電話番号は分かりますが、電話をいきなりしたら怪しまれると思いますので・・・)

しかし、生前の母は当時インターネットも無い頃(平成8年)に
よくこれだけ調べたものだと我が母ながらたいしたものだと
思います。私の母方も旧姓武田と言い、昔は大地主で
家にはでかい槍が飾っており、祖母は人力車で
女学校へ通っていたが、戦後の農地解放にて土地を
失ったと言う経緯があるようで、いづれ調べて見ようと
思っております。

長々と書き大変恐縮ですが、上記から何か分かればお教え頂けましたら
大変幸いでございます。
お願いばかりで大変恐縮ですが、
宜しくお願い申し上げます。


  [No.1017] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/01/09(Fri) 13:06:53

永嶋さん 今日は。
お久しぶりですね。お元気でしたでしょうか。

ご先祖の事が少しづつでも解明されて進んでいる様で良かったですね。
慌てずに、少しづつでも良いですから、解明して、忘れられた「伝統」を掘り起こし、末裔にロマンとして遺してください。
若い時は、その勢いから、伝統から来る心の癒しが感じないのは当然で、それは其れで良いと思いますが、必ず、何時か、「心と体の勢い」が一致する時が人には来ます。
その時の「心のお土産」として、残して上げて置く事は人の優しさでしょう。
その遺す内容の如何は問わないと思います。
”何か通ずる物が遺されている”と云う「感覚の癒し」だと思います。
そして、今、永嶋さんは、その末裔の「心の動き」に来ている時期ではないかと考えます。
「心と体のバランス」が取れ始めた時ではないかと心得ます。
その証拠に、ご本家の方々の動きや遺した事柄を思い出し、その”ご先祖の生き様の如何”を知ろうとしているのです。
この度、お便りの内容を観させて頂きましたが、具に、その事が出ています。

(お便りの信号は入っていましたが、文章が入っていませんでした。)

さて、お便りのお答えに入ります。

お答えの結論を先に述べます。

全く、問題はありません。

「お墓の家紋」が”「下がり藤紋」”である事には問題は無く、むしろ、斯くあるべき事です。

前回にもお答えいたしましたが、お家は「藤原秀郷流永嶋氏」で、「秀郷一族一門361氏」の中の、「主要8氏」を構成する「青木氏族の永嶋氏」です。
その流れを「主筋の範囲」で繋いでいる「千葉の永嶋氏」です。

”「関東屋形」”と呼ばれ、室町期には、「秀郷一門の宗家」よりその勢力を高め、西は伊勢域まで、北は陸奥域まで広げて子孫を拡大した「一族の末裔」で、その勢力は「信長−秀吉−家康」を震撼させたくらいのものでした。
結局は、この三人は、秀郷一門の力を恐れて潰す事が出来なかったのです。
家康などは、この恐ろしい勢力の中に転封で「秀吉」に追いやられたのですが、流石、「家康」、この勢力を逆に取り込んで自分の勢力の根幹にしてしまったのです。
江戸幕府開幕時は、主要官僚として御家人旗本の根幹に据えたのです。
そして、自らも「藤原姓」を名乗る事をしました。

その「千葉の永嶋氏」で広く庄屋をされていたのですから、全国にある永嶋氏、遠くは鹿児島市まである永嶋氏の宗家筋に当たるのです。
当然に、秀郷一門の「主要八氏の永嶋氏」は、「秀郷一門の総紋」の宗家筋が引き継ぐ「下がり藤紋」を「主紋」として、「墓所」や「氏を伝える伝統品」(幔幕等)には、この「総紋」の「下がり藤紋」を刻むのが「秀郷主要一門の慣習」で「仕来り」です。

しかし、長い間には、お家に「男系跡目」が出来ずに、「跡目養子」や「婿養子」を迎える事などが起こります。
この時、武家の「家紋掟」に依り、この「養子」にも「男系跡目」が出来ない場合は、再び次ぎの代の娘に「婿」を迎える「二代続きの事態」が起こります。

(但し、一代目の養子に嫡子が出来れば、「家紋」は、その「嫡子」が戻して、「元の家紋」は引き継ぐ事が出来ます。)

この時、結局、「女系」と成りますから、”男系先の第一番目の養子先の家紋”を引き継ぐ事に成って仕舞います。
「養子先」の系列に入ります。従って家紋も変わる事に成るのです。
この事がお家に起こった事を示しているのです。

そもそも、お家の「家紋(副紋)」が、「丸に抱き沢潟紋」に成っているのは、「抱き沢潟紋」の氏か、「丸に抱き沢潟紋」の氏から、「養子」を迎えられた事を示しています。
この「養子」にも「嫡子」が出来ずに、「元の家紋」を継承する事が出来なかった事に成ります。

ただ、ここで、未だ、「藤原秀郷一門」の中にありますし、それも「千葉の永嶋氏」と成りますので、「秀郷一門361氏」の「総紋」は引き継いでいて、「下り藤紋」である事には変わりはありません。
この時に、何時か状況に依っては、「婿も養子、娘も養女」と云う事は起こり得ます。
つまり、この状況は、「永嶋氏は断絶した」ことを意味します訳ですから、つまり、「秀郷一門の血筋」を引いていませんので、「総紋」も引き継ぐ事は、最早、出来ません。
そこで、初めて「総紋と家紋」は共に変化してしまいます。

この為にも、「名家断絶」は絶対に出来ませんので、「養子」は兎も角も、「養女」は血筋の引く縁者(「四親等内」)から求めますと、「総紋」だけは引き継ぐ事が出来ます。
そこで、より「血筋」を高いものにするには、矢張り、「養子」と成りますので、「養子」を親族縁者(四親等)内に求めて、血筋を高めようとしますが、一族一門の361氏は何処も同じ問題を抱えていますからそう簡単には行かずに、「養女」と云う形に成ります。

そこで、では、”「墓所」や「伝統品」に刻印されている家紋はどうするのか”と云う問題ですが、お家の様な名家で、「一門の血筋」を引き継いでいる場合は、「総紋」は変化しませんので、それは正しい慣習なのです。
これを、仮に、「副紋」にすると、お家が云われる様に、度々、変更しなくてはりませんね。
大変な事に成ります。(依って、「家紋」そのものが「特定の氏族」にしか用いれていませんでしたので、室町期前期の頃までは、未だ、墓所には家紋を刻むと云う習慣が在りませんでした。)
現実には、そんなことは出来ませんので、”「一門の血筋」を遺している場合”は、”「総紋」”で良い事に成ります。

さて、日本最大の「正規の氏族」の「藤原氏の秀郷一門」には、「総紋」は持っていますが、日本8000の氏姓の中でも、この”「総紋」”を持つ「氏族」は、鎌倉期では50程度、室町期では、20程度に成って仕舞っていました。
「下剋上」や「戦乱」で絶えてしまったのです。
恐らくは、江戸期の頃 お家では、曾祖父の頃までは、この知識が引き継がれて来ていて、「総紋の下り藤紋」を墓所に刻んだのです。
既に、お家の頃には、この「伝統の慣習知識」が消えて仕舞っている為なのです。
「総紋や副紋」と云った「特定氏の概念」そのものが消えていた事に成ります。
それは、「副紋の文様」が「丸付き抱き沢潟紋」に成っていた事から、”世間と同じ慣習(姓族の慣習)”と思って、お尋ねの疑問が生まれたのです。

それは、お家が、最早、周囲には珍しい”「総紋」を持つ家筋のお家である事”の「伝統」が消えて仕舞っていたからです。

”「総紋」を持っている氏”であるこの事を、子孫に添え書きで伝える事が必要です。
この時に、「丸に抱き沢潟紋」が、「副紋」である事も合わせて伝えられる必要があります。

何故ならば、お家の様に、周囲には「一族伝統の証」の「総紋」を引き継げる家は先ず無いと思いますから。

そこで、この「沢潟紋類」は、尾張の地域に群生していた野生の花から、家紋化が成されたものです。
(この尾張の周辺では、「州浜紋」、「片喰紋」、「沢潟紋」を家紋とする「土豪一族」と血縁して、その勢力伸ばした秀郷一門(青木氏を含む)が定住しています。)
この「沢潟文様」は、最初は、平安期から公家(久我氏)や高級武士の「車の紋章」に使われました。
特に江戸期には「100姓族」に使われています。
お便りの”「祖父の写真」には、「立沢潟紋」であった”とするお話は一概には否定できません。
むしろ、お家に執っては、このお話は「正しい事」なのです。
恐らくは、この様な知識が未だ親族や母上には残っていて、それを何とか子孫に遺そうとしたのでしょう。
ですから、今度は、お家が遺さねばなりませんね。

そこで、遺すものとして、「上記の総紋の事と、副紋の関係の事」は勿論ですが、もっと遺さねばならないルーツの事が在るのです。
実は、この度のお便りで重大なお家の情報が伝えられていたのです。
そもそも、「徳川氏の家臣」と成った尾張発祥の上総の「酒井氏」と「堀氏」が、この「抱き沢潟紋」と「立沢潟紋」を共に”「二紋併用方式」”を採用する習慣を持って使っていました。
「抱き沢潟紋」だけであった場合は、疑問を持ったところです。
何故ならば、尾張に生まれたこの家紋のこの「抱き沢潟紋」は、関東で、「藤原秀郷一門の氏」に関係した氏族(姓族では無い)としては、上記の二氏の家紋に成りますが、この二氏は「抱き沢潟紋」の単独使用はしていなかったのです。

そこで、何故、「二紋併用方式」が生まれるかの問題です。
この「酒井氏」の場合、尾張付近から鎌倉期頃に関東に移動して来て、秀郷一門の末裔と婚姻します。
そうすると、この「酒井氏」も関東で秀郷一門に囲まれて子孫を拡大して、何度も秀郷一門との血縁を繰り返しますので、何時か血筋が濃く成り、最早、秀郷一門に組み込まれます。
そして、子孫の「枝葉」を拡げる事に成ります。
そうすると、秀郷一門の「下がり藤紋」を「総紋」とし、「沢潟紋」を「副紋」とする事が起こります。
更に、この枝葉を拡げると、今度は「沢潟紋」を「総紋」として、「立沢潟紋」を「副紋」とする「枝葉の子孫」が起こります。
これを繰り返して行きますと、今度は、「立沢潟紋」を「総紋」として、「抱き沢潟紋」の「副紋」の「枝葉の子孫」が生まれる事に成ります。

そこで、横の関係のこの「間接系族の抱き沢潟紋」と「直系族の永嶋氏」の血縁が興ります。
依って、お家は、「下がり藤紋」を「総紋」とする「副紋」を「抱き沢潟紋」の「直系族の永嶋氏」です。
(永嶋氏は秀郷一門の元からの族ですから「下り藤紋」、酒井氏は血縁に依って間接的に一族に組み込まれた族ですから、枝葉は拡大すると自分の「総紋」を作る必要が起る。
戦いとなれば、「下がり藤紋」の旗下に組み込まれる仕組みです。)

「沢潟紋側(養子側)」から観ると、「二紋様用方式」を採っていますので、「立沢潟紋」も「第二の総紋」と成り得るのです。
だから、「祖父」の方が、「立沢潟紋」の「総紋」を「紋付」に付けていた事に成るのです。
これが、「二紋併用方式」を特別に「酒井氏の伝統」と成ってしているのです。
この事は、男系側として観れば、「抱き沢潟紋」系に組み込まれた「永嶋氏」ですから、「沢潟紋側」で行われる何らかの「冠婚葬祭」や「式典」の折には、お家は、「立沢潟紋」の「総紋」の「紋付」に付けての参加と成ります。

しかし、お家の「氏族」は、未だ「酒井氏」系では、元来無く、「直系の永嶋氏」として「氏名」を継承してきている限りは、本流の正式な氏の「総紋」は「下がり藤紋」と成るのです。
依って、「秀郷一門の永嶋氏」系の「冠婚葬祭や式典」には、「下り藤紋」を着ける事に成ります。
「酒井氏」系に成っている為に、使い分ける必要が出て来ているのです。
従って、お家の親族関係の中には、この「立沢潟紋」と「抱き沢潟紋」の「両紋併用の仕来り」が存在する事はあり得るのです。
むしろ、本来の伝統が継承されていれば、なくてはならない慣習なのです。
祖父の段階ではまでこの伝統が何とか継承されていた事をお便りは正確に物語っている事に成りります。

そこで、ルーツとしては、それが地理関係等から、堀氏より”「上総の酒井氏」”の方が合致していますので、可成りの信頼性が有ります。
その「酒井氏」系には、諸説が多いのですが、その中でも、上総の「藤原秀郷流波多野氏」の一族の氏族であるとする「流れ説」が、お家の家紋に符号一致しています。
尾張の土豪であった酒井氏の一部が、関東に出来て、秀郷一門の「波多野氏」と血縁し、関東の上総に「酒井氏」を興したのです。
つまり、この「波多野氏」は、大きな古い名門ですが、、何度も波多野氏と血縁を繰り返して、”「波多野氏系酒井氏」が出来上がった”と云う事に成ります。
お家は、「藤原氏」として、「吊り合いのとれた血縁」を前提としていましたので、一門と成ったこの「上総酒井氏」との同族血縁をした事に成ります。
この血縁関係が、恐らくは、江戸期に入っての事と思いますが、「酒井氏」の出自時期から観て、子孫拡大の時間を演算すれば、間違いはないと思います。
矛盾なく理屈に合っています。

お家の「丸付紋」は、その「分家筋」にあたる事と成りますが、お家の「永嶋氏」は、この組み合わせからの「酒井氏との養子縁組」の血縁をした可能性が非常に高いのです。

お家の一族の「お墓の家紋」や「伝統品の家紋付け」には、是非、日本全国他に観ない「悠久の歴史」を持つ「下り藤紋」を積極的にお使いに成られる様にお勧めします。

お答えは、そのままである事が正しいのです。是非、この事を御親族や御子孫にお伝えください。

そこで、附則ですが、「副紋」は、以上の理由から変化する可能性が有りますが、秀郷一門では、「副紋」の使い方は、「二通りの方法」を用いていました。

一つは、「下がり藤紋」の文様の左右の真ん中に、この「副紋」を入れる方式を使う方法と、「副紋」だけを別にして、二つで使い分ける方法とが在ります。

前者は、何時でも何処でもどんなものにも、「副紋入りの総紋」を使えます。
しかし、「副紋」が跡目の有無の事で変化する事も興るので、よほど子孫拡大があって、何処からでも同族の跡目を引っ張ってくることが出来る跡目の自信がないとこの方法は使えません。

逆に、後者は、「時場所人」によって使い分けなくてはならない事に成り、複雑で面倒と成ります。
何れも一長一短が在ります。
因みに、四国中国地方に子孫を拡大していて跡目に事は欠かない「讃岐藤氏」は、この「副紋入りの総紋」(下がり藤紋に雁金紋)を使っています。

お家の永嶋氏は、副紋併用の後者です。
お家は秀郷一門の定住地の武蔵下総の関東に居て、更には、「下総」と云う永嶋氏の居住地域の真ん中に居ましたので、周囲が一族一門とその家人と領民村民の中にいます。
従って、「副紋」を単独に使っても、周囲は全て、「総紋」の「下がり藤紋」である事から、むしろ、その「筋目の違い」を明確にするには「副紋」で示す事の方が都合が良かったのです。

ところが、時代が進むとこの周囲の伝統が消えてきます。
そうすると、今回の様な事に成って、「総紋」の有無さえも忘れて仕舞う事に成っているのだと思います。

次ぎは、系譜のお話ですが、上記しました様に、直近の系譜でも「養子の様な事」が矢張り起こっているようですね。
尚、同族結婚に近い事も起こって居る様にも見受けます。
矢張り、江戸時代以前には、秀郷一門主要八氏の「永嶋氏」などは、家紋や血筋維持の為に苦労して居た事が読み取れます。
江戸時代末期にも「庄屋」として、今回の様に、その婚姻先の氏名から、秀郷一門から血縁しているかのように見受けられます。
その理由の一つには、近隣に秀郷の曾祖父の同族系の親族の「伊勢の藤原氏」の「伊藤氏の墓」があるとしていますので、間違いはないと思います。
系譜で観ると、「北九州の発祥の菊池氏」も「秀郷一門との血縁」を何度もしていますので同様です。
ご先祖のご苦労が観える気がします。

「長嶌の姓」の件ですが、実は、明治初期の頃に、「永嶋氏」の様な特別な名跡の血筋が、社会で排斥されそうになる風土が蔓延しました。
廃仏毀釈等の平民化運動と連動して起こりました。
これは、明治期にお起こった「平民主義」の結果ですが、この時に、「永嶋氏」は、鹿児島を含む各地の「永嶋氏」の中で、この「永嶌」や「長嶌」等に一時変えてうるさい「平民主義」を避けた事が起こりました。
又、特に、「永嶋氏」は、全国各地で勢力を広め、江戸期に於いても名跡にあった事から、「永嶋氏」に所縁の有る者が、江戸初期の旗本等や明治初期の苗字令の時に合わせて、この「長嶌」や「永嶌」を便宜的に名乗ると云う現象も起こりました。

以上の通りで、一般の家紋の有り様とは異なり、「藤原氏」であるので、”お家の家紋の有り様”をご理解ください。
つまり、お墓の紋所は「下り藤門」で良いのです。
何らかの形で、母上のご努力の様に、「ルーツや家紋」に付いて遺される事をお勧めします。

ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.1018] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/01/13(Tue) 09:21:09

こんにちわ。
ご回答有難うございました!
お返事遅くなり申し訳ございません。
家のパソコンの調子が悪く上手く掲示板への
書き込みが出来ませんでした。

お返事の内容を一字づつ噛み締めながら拝読させて
頂きました。

私事ですが、ここの所、父親の体調が悪く、近く大きな手術を
するかもしれません。そんな中、我が家の成り立ちや歴史
の話をすると、大変喜んでもらえます。
父と私は長男同士ですので、立場が同じと言う事もあって
次第にお互いの絆が深まったように感じております。
これが、お返事の中にあった、「癒し」であるの
かと思っております。

また、親族にもこの掲示板で知った事を話しました。
但し、話した後に必ず、だからと言って
今の生活が変わる訳でもないし、何も変わる事は無く、
ただ、子々孫々に伝えてゆく義務だけはあると申し
あげました。

さて、さがり藤紋の件は良く理解出来ました。家紋定や嫡子や
氏姓制度の知識が不足していた為、誤解をしたままでした。
何とかして、この下がり藤紋を残して行きたいと思います。
(平信長、藤秀吉、藤原の家康⇒源家康と言う流れがあった
 とは今回初めてりしました。本当に勉強不足を恥じ入る
 ばかりです。)

また、別件でございますが、この掲示板を知って以来、
伊勢にお住まいの青木氏末裔に関心を持ち始めました。
私はある道場に通っておりますが、そこに青木さんが
いらっしゃいます。不思議と道場ではお見かけしませんが
忘年会や新年会には必ず顔を見せます。
 もしかしたら遠いご親戚なのかと思うと親しみが
沸いて、つい馴れ馴れしくしてしまいます。
ご先祖様の件は持ち出さずに、この馴れ馴れしいお付き合いは
しばらく続きそうです。

まづは、お返事頂きまして誠に有難うございました。
また、更に情報が分かりましたら、ご相談させて下さい。
色々とお力になって頂き感謝いたしております。
今後とも宜しくお願い申し上げます。


  [No.1063] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/09/29(Tue) 14:45:46

こんにちは。大変ご無沙汰をしております。
その後、何とか本家の親戚と連絡を取り、千葉の
お墓へ、父と叔母を連れてお参りに行ってまいりました。

結論から申し上げますと、余り状況が分かったとは
言えませんでした。そんな中ではありますが、出来る限り
ありのままに状況をお話致したく存じます。

祖父が眠っているはずのお墓がある場所は、
私がイメージしていたお墓とは随分と異なっており、
山の中に分け入って、竹やぶの中に墓石が並んでいる
と言う状態でした。(伊勢の我が家の近くの裏山でよく見るタイプ)
随分と荒れており、墓石が倒れていたり蔦で見えなくなった
ものもあり、なんとなく遺跡のような面持ちでした。

墓石の大きさは、70センチ〜80センチぐらいの高さで
文字が風化しており殆どが読めない状態でした。
向かって正面から、右に年号があり、中央に戒名、左に月日が
彫られてました。墓の左サイドの面に生前の名前が彫られてます。
台座の所に『永島』と彫られてました。
何故お墓の文字が永島であって永嶋でないのかは、
本家の親戚の人も分からないようでした。

その中でも、何とか読めた墓石の文字としては、

弘化二?年
空是山秀道信士位

寛政十二中年
元圓室妙鏡信女位

と言うお墓がありました。
(どなたのお墓かは分かりません。)

宝暦、寛政、弘化と言う年号の入ったお墓
がありましたので、少なくとも江戸中〜末期から
これらのお墓があったのではないか?と思います。

また、近くに、変わった並びのお墓がありました。
中央に墓石があり、その周りを円を囲むように
墓石が立ってました。

中央のお墓には

○中行人山(○の文字が潰れていて読めませんでした。)

と書かれており、上部に仏像が彫られてました。
台座の所になにやら紋のようなものが彫られていたようにも
見えるのですが、風化が激しく判別はできませんでした。

そして、肝心要の私の祖父の墓はやはり墓石が見当たらず
多分、この辺りと言う事で、その辺りに線香を上げてお参りを
して参りました。

これらのお墓は、本家の叔父が管理をしているような
状況で、元々管理していたお寺が廃業になったそうです。
何処かのお寺に引継ぎをしたようでしたが、そのお寺が
何処かは何となく聞きそびれてしまいました。

叔母が言うには、『レイザン』と言う宗派であるように聞きましたが
はっきりしないままです。
また、本家の叔母が言うには、永島郷土館と言うものがあり、
その永島さんとは、血縁があるかもしれないと言う話を聞いた事がある。との事でした。
本家の親戚にとっても、祖先の話は既に伝わらなくなってしまったようです。

 実は、ここの掲示板を本家の叔母もネットで見つけて私の投稿した内容を読んだそうです。
ですので、私からは特に詳しく祖先の事は説明をしませんでした。と言うよりも
今回、本家の親戚とお会いするのは、父と叔母にとって、なんと
60年ぶりの話であり、親戚一同が再会に喜んでいる時に、この話は
何となく無粋な気がして、口に出す事が憚れたからです。

父と叔母にとっては、小学生ぐらいの頃に訪れた墓地でしたが
今は70代、80代のお年寄りです。昔はお墓も平らにきれいにしていた
ようですが、今は竹やぶの山中にある荒れようで、叔母が少しばかり
ショックを感じていたようです。

また、祖父の兄嫁の方がご存命で、(90代)父がお土産を持って
ご挨拶に行った所、第一声が「あなた様からこのような物を頂く云われはありません」
と仰り、その姿が毅然として見えて、私は不思議と嬉しく感じました。
父が一生懸命自分が甥っ子である事を説明すると、ようやく理解頂き、
わーわーと仰り、あんた達、難儀したな、難儀したなと何度も何度も
言われました。それを聞いた叔母は感極まって、涙をポロポロ流しており、
それを見たら、もうそれだけで、私の胸は一杯になりました。

この掲示板が元で、背を押されるように本家へ連絡を取りました。
お陰で、疎遠であった親戚と再会する事が出来きました。
本家の叔母からも、あんたのお陰だ有難うと言われ、少し恥ずかしい
気がしております。それもこれも、ここの掲示板との出会いがあっての
事だと大変感謝しております。色々と親身に教えて頂き有難うございました。

まだまだ、私共の家系がどのような経緯を経たのかは分かりません。
また、状況が分かればご報告しますので、お教え頂けたら大変嬉しく
思います。

取りとめもなく、助長的な作文のような文章になって申し訳ございません。
また、何か分かりましたらご連絡させて下さい。

宜しくお願い申し上げます。


  [No.1064] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/30(Wed) 15:20:49

永島さんの黒木さん 今日は、お久しぶりです。

お便りを楽しく読ませていただきました。
下総の青木氏族がどんな生き方をしていたかが蘇った気がします。

さて、次にお便りには大変な多くの情報が在りました。
それを下記に答えします。


>墓石の大きさは、70センチ〜80センチぐらいの高さで文字が風化しており殆どが読めない状態でした。
>向かって正面から、右に年号があり、中央に戒名、左に月日が彫られてました。墓の左サイドの面に生前の名前が彫られてます。
>台座の所に『永島』と彫られてました。
>何故お墓の文字が永島であって永嶋でないのかは、本家の親戚の人も分からないようでした。

前回のお答えで述べました様に、「永嶋」が「永島」に成っている事は、概して、江戸初期頃か明治初期前後での社会風潮が左右したと観られます。
下記の述べています様に、お家は幕末末期から、恐らくは、その秀郷一門の古来からの「慣習仕来り」や{経済的背景」に変化を起こしています。
恐らくは、この時の影響から「お家の慣習」にある程度の断絶が起こった事に依り、取り分け、この江戸中期から明治初期の影響を強く受けた事が考えられます。
唯、その「永島」と成っている「墓所の建立年代」が何時なのかに依りますが、幕末末期頃の建立であれば、この社会風潮が影響した事に成ります。
然し、「先祖墓」があるところを観ると、江戸初期の直ぐ後の頃とも思えます。

現実に、全国の藤原秀郷一門の「永嶋氏」が、この「二つの時期」に「永島、長嶌、永嶌」等多くに変えています。
それを維新戸籍に登録して反映さして仕舞っています。
伊勢の「長嶋氏」もこの二つの時期に同様に変更しています。
江戸初期頃としては、下記のお便りの”「永島郷士館」の影響”で永島氏に変更を起こった事に成ります。
実はこの「永島郷士館」には、下記に記しますが「永島氏」に成るある意味を持っているのです。

そもそも、「永嶋氏」は、歴史的に地域に依って「見分け」が出来る様に、「名乗り」を次ぎの四つに変更しました。
基は、関東域は「永嶋氏」で、中部(伊勢尾張)関西域では「長嶋氏」、九州大蔵氏系の北九州域は室町期初期に「永嶋氏」、中部域の日向域は「永島氏」と、肥後域では「長嶌氏」、南部九州の東域は「永島氏」、南部九州の西域は「長島氏」で名乗っていました。
現在も村があって遺されています。
これらの「ナガシマ氏」の末裔が、江戸末期の動乱期から明治期初期の社会変動期に掛けて職を失う等して、この為に起こった「経済活動」に依り、末裔移動が大きく動きました。
その事に依って、全国各地にこれらの「ナガシマ」が拡がって仕舞いました。
この時、明治維新と成り全国民が新規に戸籍の登録が義務付けられました。
この時に移動地に上記の「ナガシマ氏」が各地に発祥したのです。

そこで、各地の一族が大きな一族を頼って移動しました。
南九州と北九州からも総宗本家等のルーツ元を頼って千葉や埼玉に移動しています。
九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。
実は、一つの推理としては、この時に、下記に示す様な経緯から「永島郷士館」が興ったのかも知れません。

お家の地域は、当に「永嶋氏の里」ですので、今のところでは筆者は、「江戸初期後の社会風潮」が原因だと考えます。
唯、明治初期にも「維新戸籍」で新たに国民全員が戸籍登録しますが、この時に、敢えて伝統に関わらず「永嶋氏」を「永島氏」に変更して戸籍登録した事もあってこの事も考えられます。
これらは良く観られる現象でしたが、一つの形の分家のを作り出した理由と成っています。
お家の場合は、江戸初期後と筆者は考えます。

特に、室町期中期頃からには、関東でも本家が分家に対して「永嶋氏」を名乗る事を許さずに、「永島氏」を名乗らせたと云う事も起こりました。
その理由は、分家でも正妻の子と妾子があり、妾子の場合は、良くこの「永島氏」等にさせた事も起こりました。
この現象は全国の永嶋氏でも起こりました。
一つの形の「分家「を作り出す理由と成っています。

お家は庄屋をされていた末裔で「分家」とすると、上記の形では無く、「伝統の断絶」と「社会風潮」とが合わさったものと考えられます。
完全には、時期的な事が一致していますので、「移動に伴う血縁現象」も排除は出来ません。
この点はお調べに成ると良いと思います。

唯、下記のお便りに「女性の墓所」がある事や「先祖墓」がある事は、大いに判断の材料として気に成るところです。

つまり、「女性の墓所」がある事は、「婿養子」であった事も考えられ、その子供にも男子に恵まれず、又「二代続きの養子」と成り、「藤原氏の慣習」に従って、「最初の養子先の氏名」を名乗った事も考えられます。
依って、「永島氏」に成ったと云う一つの形の永島氏の推理です。
これも一つの形の「分家」です。

そこで判断材料と成るのは次ぎのお便りです。

>その中でも、何とか読めた墓石の文字としては、
>弘化二?年
>空是山秀道信士位
>寛政十二中年
>元圓室妙鏡信女位
>と言うお墓がありました。
>(どなたのお墓かは分かりません。)
>宝暦、寛政、弘化と言う年号の入ったお墓がありましたので、少なくとも江戸中〜末期からこれらのお墓があったのではないか?と思います。
>また、近くに、変わった並びのお墓がありました。中央に墓石があり、その周りを円を囲むように墓石が立ってました。
>中央のお墓には○中行人山(○の文字が潰れていて読めませんでした。
>と書かれており、上部に仏像が彫られてました。
>台座の所になにやら紋のようなものが彫られていたようにも見えるのですが、風化が激しく判別はできませんでした。

このお墓は、”「先祖墓」”と云うもので、個人や家等の祭祀では無く、「一族一門の先祖を祭祀する墓所」と観られます。
この「先祖墓」を別にして持つと云うものは、藤原氏等の「高位の氏族」が持つ事を許された「祭祀の慣習」でした。
他氏が誰てもが認められた「慣習仕来り」ではありませんでした。
取り分け、「台座の家紋」と「上部の仏像」と「碑文の構造」から観て、「一族の家紋」を継承している「分家枝葉範囲の一族」の「先祖墓」と成ります。

この「構成している慣習」から考えると、丸の不明の文字は、「藤」と云う字であったのではないかと思います。
つまり、「先祖墓」として、一族一門のモットーとすることを刻む習慣がありましたので、それを刻んだのでは無いでしょうか。
従って、恐らくは、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と云う事の碑文を願いにしたと読み取れます。

その「上部の仏像」に導かれて永遠に続くとしたのではないでしょうか。
実は、”「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習”は、「江戸初期頃」から起こりました。
この慣習から、その「台座の部分」には、お家の「総紋」と成る「下り藤紋」が刻まれていたと考えられます。
前回お答えしました様に、この「総紋」には「お家の家紋」を組み込んだ「副紋方式」かはお調べに成る必要がありますが、どちらの「副紋方式」を採っていたかと云う事が判れば、お家の墓所の意味合いが、どの様な経緯で建設されたかが判ったのですが。
今回、この「台座の文様」が判って居れば、この問題も判ったのですが残念ですね。

「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習には、ある意味が在るのです。
それまでは、そもそも、秀郷一門は、一族一門の「独自の教義」を旨とした「密教浄土宗」でした。
ところが、江戸初期に家康に依って、全ての「高位の氏族」が宗派とする「密教系浄土宗」は、全て、「密教」を止めて「顕教」にする様に禁令(顕教令)を発しました。

そもそも、「密教の宇宙仏」は「大日如来」で、直接、如来様が下界の者に教えると云う教義です。
限定された「氏族」のみを導く「密教」に対して、誰でも全ての者を導くとするのが「顕教」です。
ところが、この「顕教」は、「宇宙仏」は「盧舎那仏」で、その「盧舎那仏」が「釈迦」を通して下界の者に言葉として教えると云う教義です。

この「江戸の顕教令」で、”「碑像」などの頂上に釈迦像等を載せてあの世に導かれるとする意味から、この像の頂上に載せる習慣が起こりました。
これは「顕教の証」です。
然し、「顕教令」が出たからと云って、「永嶋氏」らは、直ぐに「密教」の独特の「伝統や慣習や仕来りや掟」を止められる事はありません。

と云う事は、「碑像の頂上の釈迦像」があるお家の「先祖墓」は、江戸期初期以降のものであった事に成ります。

それ以前はこの慣習は在りませんでしたので、お家の「先祖墓」と、その「周囲の墓所」はそれ以降のものであった事に成ります。
お家は、この時は、既に、「永嶋氏」の宗家や本家が継承していた「密教の教義の伝統」を継承していなかった事を意味します。

つまり、「お家の永島氏」は、「宗家筋」と「本家筋」から枝分かれして、”一つの分家一族を形成して”、ここに「独自の枝葉」の「顕教の先祖墓の墓所」を作った事に成ります。
その時期が江戸初期後であった事を物語っています。
そして、その「永嶋氏の密教の伝統や慣習」は、ある程度に「不継承」と成っていた事を意味します。
従って、この段階で、「密教の永嶋氏」では無く、「顕教の永島氏」に成っていた事を意味します。
「永嶋氏」から「永島氏」に成らざるを得ない状況に成っていた事にも成ります。
「先祖墓の建設の原因」はここにあったと考えられます。
「密教の伝統」から「顕教の習慣]に換える”何か(下記)”がこの直前に起こったと云う事では無いでしょうか。
そうで無ければ、”「祭祀寺」を持つ「先祖墓」”と云う「伝統の象徴」の様なものを独自に建設する事はあり得ません。
この「先祖墓」を建設した時には、既に、「密教の伝統を引き継ぐ永嶋氏」では無く、「密教の伝統」を少なく成ってしまった「永島氏」であった事に成ります。
これも分家に成る原因の一つの形です。

ただ、これは秀郷一門の中での「習慣 仕来り 掟」に依る結果の「名乗り」です。
一族一門の「伝統」が、「別の異なる形式」の「伝統」に成ったのですから、取り分け、少なくともこの「掟」が原因している事は少なくない事に成ります。
ご先祖の本家が”「庄屋」を務めた”とすると、この「一族の証」としての「先祖墓」の「お墓の存在」を如実に物語ります。
「庄屋」を務めながらも、「ご本家筋(永嶋氏)」で何かが「宗家筋」との間で「伝統の事」等での「考え方に意見差」が起こって、その結果、その「先祖墓の場所」がここに決められ祭祀される様に成ったとこの事を物語っています。
そもそも、「先祖墓」の傍に、「祭祀寺」がある事が、「永島氏」として分家独立した事を意味しています。
顕教に成っていたのですから、祭祀寺を経営する以上は、徐々に他氏も檀家として入って来た事に成ります。

又、ご本家筋が務めていた庄屋は、村域の「人別帳」を税の為に管理していましたので、この時にお家は、「永嶋氏」か「永島氏」として登録されていたかは確認する必要があります。
この事で、「江戸期の戸籍」の「代わり」として確定される事に成るのです。
「永島氏」としてならば、上記の事があった事は間違いは無い事に成ります。
この「人別帳」を探して確認する必要がありますが、恐らくは、この時には、上記の事から、「永嶋氏」の一族の中の「永島氏」であったと観られます。

「正規の戸籍簿」は、明治維新の「維新戸籍簿」に成ります。
「維新戸籍簿」は、国民全員が個人の自発意志で登録した最初のものです。
そこで、この時に、「永島氏」として登録していれば、「永島氏」です。
藤原氏の仕来りの中では、「永島氏」であっても、この「維新戸籍簿」では「永嶋氏」と戻して登録すれば「永嶋氏」に成って居た事に成ります。
この時に、「永島氏」として登録していたとすると、上記の事が原因している事に成り、「お家の永島氏」は、この「江戸期の先祖墓」を建築した時期には、既に「永島氏」と成った事に成ります。
つまり、江戸初期の”「少し過ぎた頃」”に、「永島氏」として名乗ったと云う事に成ります。
従って、この墓所には、これ以降の先祖のお墓しか無い事に成ります。

当時は、現在の様にこの荒れた土地に在りますが、「藤原氏の慣習」に従って、この山中に「祭祀寺の菩提寺」があって、一族を祭祀していたと観られます。
それなりの未だ「藤原氏の慣習」を護って居た事を物語ります。
そして、ここを”「・・山」”と唱えて、「永島氏の先祖が眠る墓」としたのです。
これは、「名乗りの先祖墓」を作る事は、「永嶋氏枝葉一門」の「永島氏」に成った事の「藤原氏の伝統の慣習」です。
「先祖墓の建設」には、その意味を持つその一つの証です。

昔は、墓所のある処が平地でも、「山」と唱えそこに由来する呼称で「・・山」と呼称しました。
これを墓所のあるところを”「霊山」”と云っていました。
この「霊山」がある所を、「永嶋」や「永島」の「名乗り」と同様に、「一つの藤原一族の名乗りの手段」としたのです。
藤原氏の伝統を完全には消失していなかった事に成ります。
肝心なところは維持していたと観られます。
従って、この「山の名」が何であったのかも、「永島氏」と共に重要な事なのです。

「・・山」と云うと、「あぁ− 下総のあそこの永島殿か」と云う風に判る事に成るのです。
この「一族の先祖を祀る霊山」の「山の名の慣習」で、「宗家 本家 分家 支流 分流 分派 縁者」等の「一門の枝葉」が判る事に成っていたのです。

だから、親族の方がこの山の事を「一つの名乗りの記憶」として、「レイザン」の「霊山」として発言したのです。
「霊山の名」を記憶して貰えていれば良かったのですが残念ですね。
「伝統の記憶」のギリギリの処でしたね。
若しかすると、「弘化の御先祖の戒名」の方の”「空是山」”がこの山の呼称であった可能性が充分に有りますね。

普通は村を見渡せる「小高い丘」を「墓所」や「先祖墓」を置くところとされていました。
そして、そこを「・・山」として呼称していました。
現実にお便りのお墓の戒名には「空是山・・」とありますからね。
「永島氏の伝統の霊山」として、将来に遺す事も含めて、敢えてご先祖はこの「戒名」にしたのではないでしょうか。
そもそも、「空是]は、浄土宗の「般若心経」の中の「色即是空 空即是色」の一説を採ったのではないでしょうか。

実は、お便りにはこれには「藤氏の慣習」が未だ読み取れます。
それは、先祖が50年過ぎると、その個々の「先祖の墓」を、この「先祖墓」に移すと云う慣習があったのです。
それには、「二つの方式」があって、一つは、その「先祖の墓」を「先祖墓の周囲」に「小さい碑」の様な形で作って祭祀する方法です。
もう一つは、その個々の「先祖の墓」を取り外して無くし、「霊位」のみを「御霊移し」と云う形で儀式を行い「先祖墓」に移すと云う方式です。
江戸中期頃までは、この慣習が続けられていたと観られます。

恐らくは、お家は前者では無かったかと思います。
だから、上記の「碑文の様な文章」と成ったと読み取れます。

そして、弘化の墓(1844年)と寛政の墓(1789年)は、この二つの墓所は、その後、この慣習が、この山にある寺が「廃寺」(明治か幕末か)に成ってから、その慣習を実行出来なく成ったかと観られます。
一族一門を専属に祭祀する「菩提寺」が、「廃寺」になると云う事は、それを維持して行く経済力が低下した事を意味します。
「顕教令」が出ても直ぐに、だれでもが祭祀する「顕教の檀家寺」に成ったのではありませんが、然し、「顕教」でありながらも、この「先祖墓」のある寺を「菩提寺」としていた事が、「江戸期の顕教令の影響」を物語ります。
そして、この「山の名」が、仮に「空是山」とすると「浄土宗の名残」も持っているのです。
これは「永島氏の所縁」を如実に物語っています。

今回のお便りには、「永嶋氏と永島氏の所縁」を強く物語る情報が在りましたね。

宝暦、寛政の墓所が遺されている侭に成っている事は、本来であれば、この「先祖墓」に移される筈ですが、其の侭に成っていることは、1789年の50年後は1839年に移される筈ですね。
ところが、その直ぐ後の1844年にも新しい墓所が設けられています。
つまり、1839年−1844年の幕末の頃から、この慣習が護られなくなった事を物語っています。
菩提寺が衰退したか廃寺に成ったか、慣習が忘れられたか何かがあった事に成ります。
「廃寺」が、お便りでは「叔父の頃」と解釈しますが、「廃寺」に至るまでには、「衰退」が起こりますので、幕末頃には既に「藤原氏の仏教的慣習」が護れにくく成って居た事が考えられます。

(幕末頃前後から「社会の経済的衰退の状況」から、全体的にこの寺や神社の維持が極めて難しく成り「廃寺や廃社」が続発しました。
青木氏から幕府に引き渡した500社に及ぶ神明社等は、著しく荒廃して200社以下に成って居た事が伝えられています。
寺も同じで、秀郷一門の菩提寺も「・・光寺」(匿名)の荒廃も激しく、遂には「一族の菩提寺」である事さえ「伝統」が消えて仕舞っている状況です。)

その証拠に、この二つの戒名には一つのこれを物語る現象が起こっているのです。
それは、お便りに依ると、庄屋や名主の場合で、且つ、”「郷士」”の身分を確保していた様ですから、藤原秀郷一門では、普通は「戒名」は、「院殿居士」の着いた「高位の戒名」を着ける「仕来り」に成っています。
然し、普通より夫々一つ格式の上の「・・山」の着いた「信士の戒名」ですし、女性の場合は、一つ格式の上の「室」と「信女の戒名」と成っています。
江戸中期から末期には、この「院殿居士」の着いた「最高位の格式」の「慣習の戒名」を着けられなかった事に成ります。
衰退は庄屋一族でありながら、既に江戸中期には起こっていた事を意味します。

つまり、格式は、「永島氏」であったのですから、「院殿居士」を着けるには問題はありません。
ところが、着けるには、それ「相当の戒名代」として「布施金額」が必要です。
それを払えなかった事に成ります。
つまり、この事は、この「菩提寺衰退と廃寺」と「伝統の慣習」がかなり進んで忘れられていた事が同時に起こっていた事に成ります。
「忘れられていた証拠」に、「女性の墓所」を設けていた事も「藤原氏の慣習知識」が途切れて仕舞った証拠に成りますし、「女墓」が消えている事もこれを物語る事に成ります。
「藤原氏の重要な仕来り」の「女墓」は絶対にあった筈です。

最低でも、この「先祖墓」の横に、「青石等の平石」に「女性の戒名」を代々書き足す事に成っていた筈です。
これも消えている様です。
「菩提寺衰退と廃寺」の際に住職も無く成った事から、「伝統」が途切れて仕舞った事に成ります。
尚且つ、「寛政の墓」は女性の墓所ですね。

然りながら、ここで興味深い事は、”女姓の方の墓”がある事です。
本来は、「嫁家の家」の墓に入り墓石の夫と併記して祭祀されます。
且つ、同時に「女系先祖」ばかりを祭祀する”「女墓」”に祭祀され、「戒名」を代々連ねて刻まれるのが「藤氏の仕来り」です。
この事も、「菩提寺衰退と廃寺の影響」で護られなかったか、続ける事が実行出来なかったと観られます。

>そして、肝心要の私の祖父の墓はやはり墓石が見当たらず、多分、この辺りと言う事で、その辺りに線香を上げてお参りをして参りました。

「祖父の方」の「御先祖の墓」が発見されないのは、その後に、別の寺に入った事から、その宗派にも依りますが、碑の様な墓を設け、この一族の「中央の先祖墓」に50年経過後に移したのではないでしょうか。
この碑の様な「小さい墓石」が何らかの理由で紛失したか、或は、ご本家が50年経過し、分家である事から「先祖墓」の方に「御霊移し」した事で管理を容易にする為に排除した事も考えられます。
その後、其の侭に成ったと観られます。

>これらのお墓は、本家の叔父が管理をしているような状況で、元々管理していたお寺が廃業になったそうです。
>何処かのお寺に引継ぎをしたようでしたが、そのお寺が何処かは何となく聞きそびれてしまいました。
>叔母が言うには、『レイザン』と言う宗派であるように聞きましたがはっきりしないままです。
>また、本家の叔母が言うには、永島郷土館と言うものがあり、その永島さんとは、血縁があるかもしれないと言う話を聞いた事がある。との事でした。
>本家の親戚にとっても、祖先の話は既に伝わらなくなってしまったようです。

ここで、重要な情報が在ります。

先ず、”叔父さんが管理していた”とすると、その時期は明治期とし、「衰退」はそのかなり前から始まって、「廃寺」に成ったのは明治期だとすると、「藤原氏の慣習」が途切れて仕舞っていた事に成りますね。
江戸初期には、まだ「祭祀の伝統知識」は護られていたが、その後、江戸中期前の頃の宝暦1751年頃には未だ継承されていた事に成ります。
とすると、お寺の住職の代の代わり目の頃1760年代に継承され得なかった事に成ります。
何かが寺側でも起こっているようですね。

これを段階を追って分けるとすると次ぎの様に成るのではないでしょうか。

「顕教」に成った事での「寺側の影響」で、「藤原氏の永嶋氏の伝統」が途切れた事も考えられます。
この場合は、「永島氏の枝葉ご本家」が、「伝統」を寺側に示す必要がありますが、「顕教」と成った事で、「他家の檀家」の人の「家の慣習」も入ってきて、「藤原氏の伝統」は強く云えず必ずしも守れなくなってしまった事が考えられます。
そうすると、最初の根本的な伝統が途切れたのは、第一段階として「江戸初期」と成ります。
次に、「先祖墓の建設期」が第二段階となり、「江戸中期前頃」と成ります。
江戸中期後の「寺の衰退期」が第三段階と成ります。
そして、廃寺期の幕末期が第四段階と成ります。
最後は、明治初期の第五段階と成ります。

夫々、段階ごとに依ってその「伝統の消滅」は変化した事に成るでしょう。
筆者は、「永島郷士館」の存在が「大きな境目」と成ったと観ています。
恐らくは、第三段階の時期に、「永島郷士館」は゜別の寺の檀家氏」として移動してから、この「伝統」も何もかも途切れて仕舞ったと云う事だと思います。

そもそも、「ルーツ先である事さえの忘却」が起こって、且つ、その墓所が判らないと云う現象を見逃す事は出来ません。
それで、ここで「重要な情報」とは、”「永島郷士館」”と「レイザン」(「霊山」)の事です。

先ず、「レイザン」の件ですが、これは当時は、上記しました様に、先祖を祀る一族の墓所で「先祖墓」のあるところを「霊山」と呼びました。
恐らくは、この事と間違えての先祖が祀られているところの事を「レイザン」として、そこにある寺の事を宗派と間違えたと観られます。

次に、その前に、「永島」と云う苗字です。
上記した様に、「永嶋氏」が「永島氏」に成っていて、その「氏名」(姓名では無い)を呼称する館があったと云う事ですが、血縁は大いにあって一族であった筈です。
同じ地域に別の一族が住む事は「氏家制度」の中では絶対にありません。
「棲み分け」と云う習慣があったのです。、それは、”伝統により棲み分けていた”とするこの”「先祖墓」”がある事で判ります。
その周囲には、お家の「祖父の墓所」があったとする事から、間違いはありません。
更に、その「永島」さんに「郷士の呼称」が付いています。
これには、重要な意味が在ります。
それは、「棲み分け」を前提とする「郷士」である限りは、”「地権」と云う慣習”があったのです。
これがある限りは「棲み分け」をする以外にはありません。

そもそも、「郷士」とは、その「国の藩領」とは別に、「領地内」に旧来から長く住み、その領地の土地の一部に”「地権」”を認められた「一族の武士団」の事を指します。
その網の目の様に血縁で結ばれた「郷士の一族」の「郷士頭」が住んでいた処を「郷士館」と呼ばれていました。
「土地の所有の権利」を持っているのです。
この「地権」を持っているのですから、後から入って来た別氏の藩主に成った者からすると、「厄介な集団」です。

有名な江戸初期の大事件が在ります。
山内一豊が土佐の藩主として入りますが、「一豊」は「土佐郷士の勢力」を弱める為に、この「地権」を小さくする政策を採ったのです。
この「地権」の持った「郷士集団」は抵抗します。
著しい戦いが起こり、「話し合い」を理由にこの郷士集団全員を城に招き入れます。
突然、城門を占めて、これらの「土佐郷士集団」を騙し討ちで全員殲滅したのです。
日本各地で同じ様な事が起こります。
逆に「家康」は、この「永嶋氏」を始めとして秀郷一門の「下総の郷士集団」を「御家人」として「幕府官僚の主軸」に置いたのです。
前回にお答えしました様に、唯、この時、「地権の所領」は「減額」しますが、「減額分」は「御家人」「旗本」「庄屋」「名主」などの豪農の俸禄で補えましたので、この様な騒ぎは起こりませんでした。
郷氏であり御家人と成った「永嶋氏」の枝葉の中での配分ても、「地権の配分」は「宗家や本家や分家等の格式」から変更されました。
当然に「永島氏」の枝葉の中でもその「一族末裔の配分も変わった事に成ります。
当然に、枝葉を大きく広げた氏では、生活がままならない事が起こります。
お家は、「永島氏の本家」の「一村の庄屋」の更に「分家格」と成りますから、小さい地権を認められた「郷士身分」のままであった事に成ります。

筆者は、この事で起こる「密教顕教の伝統の問題」もありましたが、この「地権の問題」もあって重なって「宗家永嶋氏との意見差」が起こっていたのではないかと観ています。
結局は、江戸初期の混乱期の「何だかんだの解決策」として、ある程度の地権を認めて「先祖墓」を作る事に至ったのではないでしょうか。
生活は苦しい事が続いて祭祀寺も維持が困難と成っていったと観られます。
これが上記しました様に「江戸初期の後」と観ているのです。


「郷士頭」とは、一族一門の古来から土地に住んでいた縁者関係を纏める「指導役」を各地域毎に置いて管理していました。
この事を云います。
この一族が担当する「地域の郷士」が住む各地域の「数人の郷士頭」とその「総元締め」の「宗家筋」に当たる「本家筋」の「永嶋氏」を名乗る「郷氏」とで藩領の領地の一部を地権で管理していたのです。

この「総元締め」の「郷氏」とは、大きな地権(大地主)を持ち、その地権の下に一族の「郷士の地権」が保障されていたのです。

つまり、この「郷氏」が、「永嶋氏」であって、本家の上の「宗家」と成り、その血縁のある「郷士頭」が「永島氏」であって、「本家筋」あった事を意味しています。
そして、お家は、その「郷士館」のご「本家の分家筋」に当たる事を、この「永島郷士館」が物語っています。
お家は、この「郷士館」の永島さんと共に、当初は「墓所」を護って居た事が判りますが、「衰退と廃寺」で、結局はその後にこの「郷士館」のご本家の永島さんは墓所を別にした事も考えられます。
「永島郷士館」は「お家の家筋」が「地権を有する郷士の庄屋」であった事を証明しています。
「庄屋」でも「地権」を持つ格式高い”強い庄屋”であった事に成ります。

結局、分家筋の叔父さんルーツが何とか檀家として明治期から管理する事に成ったと観られます。
依って、「先祖墓」や個々の墓所を管理するのは大変な労力と経済的な負担も必要ですから、一族の伝統も途切れ墓所が管理しきれなく成り、現状と成っていると観られます。
「永島」と云う氏名に成ったのも、この「永島郷士館」との本家分家の関係が在った事から起こっていながらも、然りながらも、現在は其れさえも判ら無く成っている事からも理解は出来ます。
つまり、「血縁の有無」も判らないと云う事は、今は同じ墓所には無い事になりますから、「永島郷士館」の墓所は別の処に移された事を意味しています。
「お家の先祖墓」もありながらも、「ご本家筋の墓所」も「別の処」と「檀家寺の寺」に移されている事ですから、大きな変遷がお家の一族に興った事を物語っています。

今回、頂きました一寸した情報でも、当時の慣習から照らすとご先祖の色々な事を引き出す事が出来ます。
ご親族の方にもこの事をお知らせください。
これからも色々判りましたらお知らせください。
「青木氏族の生き様」ががどんどん解明されて行く事に成ります。

では、またお便りをお待ちしています。


  [No.1065] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/10/02(Fri) 14:05:22

福管理人様

詳しいご説明有難うございました!
お返事の内容を読みながら、
何点か思い当たる事がありましたので、ご報告致したく思います。
(今回のお返事で、私の中に、膨大な、疑問・推論・新事実が湧き出し
整理するのが大変な状態になってます。)

まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、
調べて見ました。そこで、分かった事は、
明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた
”永嶋”へ戻したと考えられます。(墓の台座に永島と彫ってあったものは
明治40年代以降のものに限られてました。)
この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば
『明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと
現在私は考えております。

「慣習仕来り」や{経済的背景」をキーにして、時代背景及び除籍謄本から推測すると、
嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のような
ドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を
通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった
「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。

この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の
大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い
上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。

と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。
(こちらの方が説明が簡単そうですので)
お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか
写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で
彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが
特定には至りませんでした。
”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば
”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)

こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと
今更ながら後悔しております。
山の中と言う事もあり、薮蚊が多く、10分程度で逃げ帰ってきて
しまった事が悔やまれてなりません。

この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方が
いらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか
調べてみました。測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、
お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの
極めて簡単な方法です。

お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに
調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、
唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし
、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまって
いるからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように
思います。もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の
祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が
沸いてきます。もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、
”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは
筋が通るように思います。
もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうと
したのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)

また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り
私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。

そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
これも、写真を添付致します。(←添付できませんでした。)
やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。

この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山
お墓が在ったと聞いております。現在は、この土地を手放してしまった為、少し行った
所がゴルフ場になっております。このゴルフ場の開業が平成2年
となってましたので、取り壊しがあったのは最近のようです。

本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に
移したと聞いております。
これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。

また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも
10以上は一所に収めているようでした。

お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで
竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。

ここまで書いて随分な量になってしまいました。
また、改めて”明治中期の第六段階”についてはご説明致したいと思います。

拙い文章で、分かりづらく申し訳ございません。


  [No.1066] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/10/03(Sat) 16:23:29

こんにちわ。
連投申し訳ございません。
私の考える、『明治中期の第六段階』
について、述べて行きたいと思います。
事前に言い訳ではございませんが、あくまで
私の推論ですので、後から間違いと判明する事も
ありますので、ご容赦下さい。
ご参考までにご報告致したいと思います。

まづ登場人物は、以下の3名です。

永嶋佐兵衛(先代)
永嶋治郎次(二代目)
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)

佐兵衛の爺さまは、天保拾弐年(1841年)生まれで
幕末〜維新〜明治の日本が180度ひっくり返った
時代を生きました。有名な事件に関与したかは不明ですが、
19歳の時に桜田門外の変。23歳の時に禁門の変。
26歳で大政奉還。27歳の時は、江戸城無血開城、
会津戦争、明治元年と20代の多感な時代を幕末の
動乱の中で過ごしました。断髪脱刀令は30歳の時です。
ちょん髷を切る時にはどんな想いだったのか?とたまに
想像したります。

その間に、佐兵衛(先代)爺さんは、嫡男に恵まれず、婿養子を貰います。
貰い先は、柴崎家で、佐兵衛(先代)の奥さんの実家です。
佐兵衛(先代)爺さんにとって、奥さんが柴崎家からきて、婿養子も
柴崎家からと言うと、永嶋家と柴崎家は、
かなり血縁の深い間柄だった事が分かります。

その婿養子が、永嶋治郎次(二代目)です。除籍謄本には出生日の
記載が無いので当時何歳かは推測でしか分かりません。
永嶋家に来たのは20〜25歳頃では無いかと私は考えています。
そして、多分この頃に家督も継いだのでは無いか?と考えております。

この永嶋治郎次(二代目)は、現在の親族に大変評判が悪いです。
それは、この爺さまが博打に手を出し、財産を失ったと
されている人物だからです。
最初、私も「そうなのだろうなぁ」と思っていましたが、この時代を
調べてみると、そうとも言えない深刻な事実がある事に気づきました。

この時の日本の経済環境は最悪の事態で、所謂、松方デフレが深刻化し、
農民を中心に貧困に苦しんだ時期でもあります。

特に米の価格が値下がり、1884年は、米価は3分の1に、
自作農は21万軒が破産。100万人が没落し、1885年、自殺者は 7282人
に上ったとされています。

計算上ですが、この時、治郎次(二代目)爺さまは24〜29歳です。
お家の経済事情はかなり逼迫していたと考えられます。
そんな中、”博打=ムチャな投資”をしてしまったのでは無いか?
と言うのが私の推論です。デフレ期に大規模投資はリスクが大きすぎます。
多分家族の反対を押し切って無理な投資を行い、失敗し、多大な負債
を抱えた結果、全財産を失ったのだと思います。
この失敗が事実上、永嶋家の破滅を引き起こしたのだと考えました。

最初は、遊び人で丁半博打かなにかに、のめり込んだのかと
思っていましたが、時代背景からするとそんなお気楽な時代では
無いのではないか?と思うのです。(あくまで憶測ですが・・・)
私は、この二代目の治郎次(二代目)爺さんは、米価低下する不況の
中、何とか苦境を脱しようと必死に考えた結果の大博打(投資)に
敗れてしまい、結果、家を潰すまでになってしまった事を随分悔やんだと思います。
その心情は多分、苦悩して、くやしくて、くやしくて、悔やみきれない
心持だったのでは無いかと思うのです。
そして、私は、この治郎次(二代目)爺さんが、今の親族に未だに恨まれている
事について、少し不憫に思うのです。

そして、治郎次(二代目)爺さんは責任を感じ、心労が祟ったのか、
明治35年(1902年)この世を去りました。
歳にして、42〜47歳の比較的若い死だったと思います。

このような大ピンチの経済状況で家督を継いだのが、23歳の
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)です。
私は、この時家督を継ぐのが誰か、ひと悶着あったと考えております。
その理由は、永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)の2つ年下の
『叔父』がいたからです。この時、実は永嶋佐兵衛(先代)の成人した
次男坊がいたのです。長女(永嶋治郎次(二代目)の奥さん)との
歳の差が18歳!
永嶋家の経済状況をどん底に叩き込んだ、永嶋治郎次(二代目)の息子
に家督を継がして良いのか?それよりは、先代の次男坊に
家督を譲るのが正統ではないか?と言う論争は当然でたと思います。

しかし、永嶋佐兵衛(先代)が最終的に判断し、
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)に家督を譲る事に
したのだと思います。

永嶋佐兵衛(先代)は、家督相続も見据えて幾つか手を打ちました。
まづ、先代は永嶋家の苦境を何とか脱する為に、菊池家に助けを求めました。
明治34年(1901年)菊池家の息女を三代目の忠治爺さんの嫁にもらってます。
そして、明治38年(1905年)先代の永嶋佐兵衛はこの世を去ってます。
同年、永嶋佐兵衛の次男も分家届けを出し、永嶋家から除籍しています。

先代の佐兵衛爺さまは、菊池家への縁組を成功させて、家の家督相続問題のゴタゴタを
治めてから、それを見届けてからこの世を去りました。天保の幕末生まれの
男とは、かくも死に際が見事なものかと思わざるを得ません。

永嶋忠治(三代目)は、菊池家から経済的な支援も受けていたのでは
無いかと私は考えてます。その理由は、忠治(三代目)爺さまが、
菊池家に大変感謝をしているように思えるからです。
その根拠は、忠治(三代目)の長男に、菊池家の”菊”の字を取って
名前を付けている事、さらに次男坊の”伊の八”は義父の”伊八”から取って
いる事。(私の祖父が伊の八です。)もっとも祖父は”伊の八”と言う名前が
かっこ悪いと言って嫌っていたようですが。

そして、忠治(三代目)爺さまは、さらにお家安泰を狙い、永島家(永島郷土館)に助けを
求めたのでは無いか?と私は考えております。実家から郷土館まで約40km。
頼れる近所の親戚筋だったと言えなくも無いと思います。そして、この時期から、除籍謄本上で
記載される名が”永嶋”から”永島”に変わっています。
経緯は分かりませんが、郷土館の永島家の保護下に入ったのでは無いかと言うのが
”永嶋”から”永島”へ変わった名前変更の理由だと私は考えております。

その後、忠治(三代目)爺さまの、菊の文字を持つ長男は、近所の永嶌新蔵の
孫娘と結婚をします。この永嶌家は、住所が実家とほぼ同じである事から
『九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、
「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。』とお返事頂いた
九州のような他の地より移動してきた一族の者では無いかと思います。

この時、菊の文字の付く長男に娘(長女)が生まれました。しかし、理由は
分かりませんが、この娘が6歳になった頃、別の菊池家へ養子へ出し、永嶌新蔵の
孫娘とは離縁をしたようです。その次に結婚した相手が、前回、本家の親戚で
お会いした90歳の大叔母になります。

この後に、日本は第二次世界大戦に突入し、人も国土も大きく損なわれて
過去の系譜が分からなくなってしまい、今に至っているのだと私は
考えております。
ですので、忠治(三代目)爺さんが何故、明治44年から永島から永嶋へ
名を戻したのか、もはや確認する方法がなくなってしまってます。
(もしかしたら90歳の大叔母はご存知だろうか?・・・)

長々と書きましたが、これが、私が理解した
直近の千葉の永島家?永嶋家?に幕末から昭和、平成に
かけて起こった出来事です。(多分に憶測を含みますが・・・)

しかし、多かれ少なかれ事実に基づくとこのような話なのだと思います。

直近の系譜だけも、その時、その時で懸命に生きるご先祖さまが蘇るように思います。
きっと、もっと過去のご先祖さまも、何時の時代であっても
懸命に生きてこられたのだろうなと
思います。そういった系譜が重なり幾つもの家族とつながり、
ひいては、この掲示板に集う多数の家族を結びつけているのだと思うと、
ご先祖さまに心から感謝したい気持ちで一杯です。

随分と長い文章で、しかも、かなりパーソナルな内容ですので
なんらご参考にはならないかとも思いましたが、青木氏とも縁のある
一族の生き様をご紹介するのも少しは意味がある事なのかもしれないと
思い、投稿する事に致しました。

まだまだ、永嶋佐兵衛(先代)から先の流れが分からないので
これからも色々と調べて行きたいと思います。

また、調査して疑問が出て来ましたらお教え頂けましたら
大変嬉しく思います。

内容が個人的な部分も含んでおりまして、感情的な物言いになり
お見苦しい所が有りましたらご容赦頂けたらと思います。

今後とも宜しくお願い申し上げます。


  [No.1067] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/13(Tue) 09:13:04

黒木さんの永島さん 今日は。
早速、お読み頂き有難う御座います。

お答えが遅れました。実は転居致しまして、この為にお便りを直ぐに出す事が出来ませんでした。
申し訳ありませんでした。

色々と、お家の御先祖の事に御推理されている事に感謝します。
このご努力そのものが「ご先祖への敬意の表れ」であり、「伝統」の基に成る行為と考えます。

「ご先祖の生き様」に思いを馳せる事は、これからの「子孫への思い」に通ずることにも成ります。
なかなか「ご先祖の生き様」を浮き上がらせる事は、情報を引き出す伝統や資料や口伝などの消滅も在って現在では難しいものと考えます。

然し、歴史観を通して少しつづでも「紐解き」をして行く事で、大まかな処は観えて来るものと思います。
これを後の子孫に「先祖のロマン」として遺してやる事も、「子孫の心」を豊かにすると思います。

さて、そこで、次ぎのお便りに付いて、筆者の考え方を披露して観ますので、現在まで判った「ご先祖の由来」について更にお考えを纏めてください。


>まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、調べて見ました。
>そこで、分かった事は、明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた”永嶋”へ戻したと考えられます。
>(墓の台座に永島と彫ってあったものは明治40年代以降のものに限られてました。)

さて、そこで、江戸期前と明治期後では社会体制は異なっていますので、「ご先祖の生き様」取り分け、「氏名の有り様」に付いては江戸期前の論理とします。
何故ならば、明治期には、「氏名の呼称」は「維新戸籍簿」以上の氏名を興す事は出来ません。
と云う事で、先ずご推理には、若干、無理が在ります。
それは、戸籍上で「永嶋氏」から「永島氏」に変わった時期を、「初めてとし、明治38年」としていますが、これは、無理です。
「明治維新の苗字令の3年」と「督促令の8年」があって、明治9年にほぼ正式に全国民の戸籍が定まりました。
この間に「維新に対する政治的な色々な関連する動乱」が起こりますが、どんなに遅くとも明治13年には確定しています。
つまり、これ以後に戸籍上、「維新戸籍簿」で戸籍が定まりましたので、新たな苗字を起こす事は出来なかったのです。
明治38年では、完全に政治が安定しています。
「除籍謄本」ですので、この明治38年には、「永島氏」が「何れかの土地」でお家の戸籍上では定まっていて、そこから、婚姻等で、初めて、ご先祖のどなたか、恐らくは、祖父に当たる方が、ご本家筋から維新戸籍法に基づいて、籍を新たに移して、別家の「永島氏」を設けた事を意味します。
それ以前、つまり江戸期には、「人別帳」の範囲では、且つ、「永嶋氏一門」の範囲では、先ず、「永島氏」であった事に成ります。

次に、”永嶋氏に明治44年に戻した”とすると、これは、戸籍法にて「永嶋氏」に「養子縁組」をして、何れかの「永嶋氏の家」の「跡目」を継承した事に法律上は成ります。
それは、「何処かの遠縁の養子縁組」か、「何処かの維新戸籍に登録された縁籍筋の永嶋氏の断絶した家」を再び「養子縁組の形」で興した事に成ります。
これ以外には明治8年以降は起こりません。
自由には家を勝手に興したり作ったりは出来なくなっているのです。
”「永嶋氏」も新たに作って”と云う事は出来なく、「維新戸籍に登記された家以外」には新たに出来ません。
全て「養子の形に依る継承」と成ります。
これは「永島氏」であろうと別の氏姓であろうと変わりません。

そうすると、「お家の系譜」には、「永嶋氏の家」と「永島氏の家」の「二流の家筋」を持ったお家と成ります。
明治期に成っても、江戸期の「秀郷一門の永嶋氏ルーツ」の中にある事に成ります。
「永嶋氏」を継承した後には、厳然と継承者がいるかどうかは別として、戸籍上は「永島氏」も遺る事に成るのです。
つまり、お家の者は、「永嶋氏」か「永島氏」の「断絶した家」を「養子縁組」の形で起こす事が出来る事に成ります。
平たく云えば、まだルーツを継承している事に成りますね。
然し、以前のお便りからすると、明治44年に永嶋氏に成ったにも拘らず、現在は永島氏の方の家を継承している事に成っていますから、永嶋氏にはお家の先祖の別の誰かがこの「永嶋氏」を養子縁組で継承していて、お家の家筋は矢張り永島氏であった事になりますね。
つまりは、”親戚に永嶋氏の人がいる”と云う事に成りますね。
依って、お家は、江戸期初期の後頃から「永島氏」を継承している事に成ります。
然し、「明治40年の墓所の彫刻の永島氏」は、「伝統ある本家筋流れを持つ永嶋氏の格式」を持つ「江戸初期の永島氏」とは違う様に読み取れます。

>この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば、明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと現在私は考えております。

さて、この件ですが、逆ではありませんか。
そもそも、上記とした通りの経緯から、「永島氏」から一族の誰かが何処かの縁籍筋の「永嶋氏の跡目」を継承している事に成る訳ですから、そもそも衰退ではこの事は出来ない筈です。
この「永嶋氏の跡目」が、”「断絶跡目」”か、単なる”「養子跡目」”かは別として、「壊滅的」とは考え難いのではありませんか。
「断絶跡目」の場合は、「養子跡目」よりは、「経済的な裕福度」は高く無ければ出来ない事です。
何はともあれ、明治44年の「永嶋氏継承」では盛り返しているのではありませんか。
多くの家族を養う事が出来た事が出来て、他家に養子に出す事が出来るレベルは衰退とは成らないのではないでしょうか。
むしろ、お家が推理する「明治期の第六段階」は、「元のルーツ」に拡げ直した期になると考えます。
さて、そこで気に成るのですが、その「明治44年の永嶋氏」ですが、”どこの地域の永嶋氏”でしょうか。
「江戸末期の永島氏」のご本家の「明治維新戸籍簿」には、出来た最初の「永島氏の戸籍簿」には、「士分の場合」は、「何処から来た者かの発祥地域の記載」があります。
除籍簿にも土地記載がありますので、何処の土地の「永嶋氏に跡目」に入ったかが判ります。
これに依って、「断絶養子の跡目」か「養子縁組の跡目」かは凡そ判別できます。

兎も角も、明治期は、江戸期と違って、社会体制は、一族で纏まる社会の「氏家制度」から、「単位家族制度」に変わりましたので、衰退の様に観える事にも成ります。
この「明治期の衰退」と観えるのは、そもそも「氏家制度」ではありませんので、「氏の衰退」ではありません。
当然の有り様です。
そこで、明治末期には「永島氏」が、「他家(永嶋氏)」(他氏では無)を興したのですから、むしろ、混乱期を押し通して頑張って、遂には、「ルーツ元の永嶋」を再興した事は「繁栄」と観るのが正しいのではありませんか。
そこに”当主が云々”は別の問題ではありませんか。
何にせよ「永島氏」から「永嶋氏」ですからね。
「分家筋」から「本家筋」を興す事はなかなか無い事ですからね。
その「繁栄」もどこの「永嶋氏」かでそのレベルが判別できますね。

そこで、実は、気に成る一点が在ります。
それは、「菊池氏」です。
「菊池氏」には「阿蘇神社系の菊池氏」であり、「元寇の役」の際に北九州に集まった「秀郷一門の永嶋氏」と「九州域」を制圧していた大蔵氏」と血縁し、それに「九州の大蔵氏系菊池氏」があり、この「菊池氏」と「大蔵氏系永嶋氏」が血縁をして、江戸期直前にこの「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」が江戸に移動しています。
そして、この「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」と秀郷一門と更に血縁をしています。
恐らくはこの末裔ではないかと観られます。
この時期に、北九州では多くの豪族が秀郷一門と血縁をしているのです。
例えば、佐伯氏や大竹氏は秀郷一門と血縁して、その末裔の者が関東の秀郷一門の名籍を継いで関東に移動定住しています。
特に秀郷一門主要五氏の「永嶋氏」を初め、「進藤氏」や「長谷川氏」も血縁して名乗っているのです。
そして、「調整役の進藤氏」や「護衛役の長谷川氏」を名乗ると共に、遂には、「秀郷一門の関東佐伯氏」も秀郷枝葉一門として発祥させているのです。
お家が云う「菊池氏」も同じで、その秀郷一門枝葉の「関東菊池氏」だと思います。
そして、その「永嶋氏の跡目」を継いだ「明治44年の永嶋氏」もこの「大蔵氏族菊池氏系永嶋氏」だと思います。
と云う事は、お家の「永嶋氏系の永島氏」は、「九州の永嶋氏」とも同族血縁をしている事に成ります。
お家の「明治後の永嶋氏」は、明治後では「九州の永嶋氏」であった可能性があります。
つまり、明治期には未だ「永嶋氏(永島氏)の伝統」は一族の中ではある程度に伝承されていた事に成ります。
「明治44年頃の永嶋氏」は、関東本流の格式を持つ永嶋氏では無いのではと観られます。
江戸期初期の「宗家の永嶋氏」では無く、九州の菊池氏系の永嶋氏であると観られます。
明治期には、「宗家筋の永嶋氏]は、実は「宗家本家の格式」を落としての衰退はしていないのです。

>「慣習仕来り」や「経済的背景」をキーにして、「時代背景」、及び「除籍謄本」から推測すると、嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のようなドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
>この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
>確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。
>この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。

何処の家にも、「社会的な経済的衰退」がある事でしょう。
その事に依る事件も起こるものですね。
この様な事件等の御先祖の生き様を網羅する事に依り、子孫が迷った時にこれを観て、「生きる力」や「考える力」を蘇らさせて、頑張る様に成ると伝承伝統を伝える意味も出て来るものです。
出来るだけ「金田一氏」に成り切って書く事も小説的に伝承するも良い事だと思います。
是非、推理を交えての伝承にして下さい。


>と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。(こちらの方が説明が簡単そうですので)
>お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが特定には至りませんでした。
>”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
>(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)
>こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと今更ながら後悔しております。

昔の碑文には、一定のルールが有って、その一つには一族を指し示す何かの字句を読み込むルールが有ります。
歌などの様に、「枕詞」は地名の読み込みですが、「永氏」として「永」と云う字句を「永嶋氏の想起」を呼び起こすものとして使われているのを観た事が在ります。
地名の場合は。その一族が住んていた地域の枕詞が在りますので、其れを解明すれば良い事に成ります。
つまり、「永嶋氏の定住地」の「地名」を以ってして「永嶋氏を想起させる字句」としたと云う事もあります。

”「詠」とも観える”とした場合は、「永の字句」を使ったとも考えられます。
この根拠には「永」は「永久の意味」をも持つ事に成り、「読みこみ」としての上手さが観えるとも取れます。
ただ,「藤」でも、直接に「藤の字句」を使うかは別で、その碑文の「上手さ」は、一族の誰でもが想起や連想を呼び興すものである事が「上手い碑文」とも成ります。
「総紋」の「藤の花」は「下り藤紋」ですが、これを「別の形」で云い換えて連想させる方法も採っている様です。
例えば、「藤の花」は「紫」の色の代名詞と成っています。
この「紫」は、「高位の身分の者」や「藤原氏の氏」が特別に朝廷から使う事を許された「身分を表す色」なのです。
碑文の状況に依っては総紋の「紫花」ともとする事も考えられます。
今回は「山」を読み込んで掛けていますので、「山」に”「紫の藤の花が咲き乱れる様」”を読み込む事にも成っているので、この「碑文の内容」では「花」を重ねて読み込む事は無いと考えられますので、今回は「紫花」では無いと観られます。
例えば、「僧侶の袈裟色」はこの紫の色が最上位を表します。

「藤原氏の守護神」は「春日神社」ですので、「春」を使った事も考えられます。
この短文の碑文作成の要領からしても「紫の字句」とも考えられます。
もう一度、お調べに成って考えてください。


>この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方がいらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか調べてみました。
>測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの極めて簡単な方法です。
>お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまっているからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように思います。


良いところに気ずかれたと思います。
これは、藤原族の主要五氏の永嶋氏は春日神社ですので、この「唐沢山神社」が「春日神社系の分社」であるかをお調べに成る必要があります。
違えば関係は無い様に思えますが、お家は分家筋ですので「分社」である事は、充分に有り得ますので推理は当たっていると考えます。
確認してください。
昔はその様な線上に並べると云う「方位学」と云うものがありましたので、あり得る事でしょう。
コンパスと云う完全な方位では無くても良い習慣ですので、概しての範囲で良かったのです。

>もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が沸いてきます。
>もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは筋が通るように思います。
>もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうとしたのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)

墓の向きは、浄土宗仏教の慣習で、「墓」は、原則は北向きが好ましいのですが、或は「武蔵のルーツ元」の「入間」に向けて建てると云う事もあります。
昔より北は「仏の路]と云われ、「高位の方向」と云われて「天皇が坐す位置」として崇められてきました。
これには根拠があって、北はN極で、南はS極です。
北には「強力な磁場」が存在し、この地球上にある物全てはこの磁場に引き付けられています。
そもそも人間もこの磁場の御蔭で脳幹が働き、脳がシナパスを通じて反応し動く仕組みに成っています。
従って、頭を北に向けて寝ると、この「SNの地場」に引き付けられて、脳は磁場に強く影響を受けて体の機能に影響を受ける事に成ります。主に自律神経に働きます。
この様に、SNに対しては、取り分け、S極に対しては”「仏の路」”として定められていて、この道を邪魔にするとかは不浄にするとかは法度でした。
依って正常に保つ事が必要なのです。
当然に「墓所」はこの方向に向けて建てて、「仏の路」を作るのです。
従って、この概しての方向が、「北向き」か「入間」の方向に向いているかを確認ください。
この慣習に従っていると思います。
つまり、字句にしても「仏の路」ですので、一族一門を代表する何かの字句や文様を刻む事に成ります。
この方向に合って居れば、「藤の字句」に相当するものが刻まれている事に成ります。
「永嶋氏]の場合は、「常陸の方向」に成ります。
永嶋氏は関東屋形として室町期末期まで勢力を高め、江戸期でも御家人として格式を張っていましたので、仏の路は護った筈です。

>また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
>この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
>従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。

原則は、「刻む」と云う事に成りますが、本来であれば、「永嶋氏」では「燈篭」になるものが傍に在って、それに”刻む”と云う藤原氏の様な「高位の氏の習慣」でもあります。
これは、根拠が有りまして、最初、奈良期の初期の「墓という慣習」が始まった時には、当時は現在の様な「仏壇」と云う形式では無く、又、「仏壇」と云う言葉と何がしかの物を以って弔う慣習は在りませんでした。
最初は、”「仏舎」(仏舎)、又は「荘倉」(みくら)と云う方式で、奈良期の古くから藤原一族はこの慣習に従っていましたから、後に、これを「燈篭の形」にしていたと観られます。
「墓所の傍」に「仏の路」を照らす目的から昔の「墓の形の名残り」として建てたものです。
現在でも、何処でも「家の庭」に建てる習慣も、”お盆の仏の祭祀には道を照らし導く”と云う目的から庭に建てられたものです。
それが、「仏舎と燈篭と仏説」を組み合わせて一つの形にしのが「仏壇の形」に変化したものなのです。
従って、「燈篭」の様なものが「永島氏の墓所」にはあったと考えられます。
江戸末期にはこの「墓所の燈篭」を庭に持って来て据えてしまうと云う現象が起こりました。
もしかすると、ご本家の庭にはこの「墓所の燈篭」を持ち込んでいる事も考えられます。
ゴルフ場に成った事から、この燈篭を放置する訳には行かないので庭に持ち込んだ事は充分に考えられます。
恐らくは、「永島氏」ですから、この慣習を江戸期末期まで引き継いできていますので、近くにこれに当たる何かあるのかも知れませんよ。
そもそも、その総合的なその一つの「先祖墓」の様に慣習を護っているのですから、この「仏舎」や「燈篭」の様なものがあった可能性があります。
これは高位の藤原一門の浄土宗の密教の慣習ですから、確実に在ったと考えられますので一度お探しください。
「伝統シリーズ」の1から7までの論文に詳細が書いていますのでそれをお読みに成って参考にして下さい。


>そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
>やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。
>この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山お墓が在ったと聞いております。
>本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に移したと聞いております。
>これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。
>また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
>私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも10以上は一所に収めているようでした。

そもそも,戒名には、一定の戒律があって、夜とか的とか自虐的な文字を使う事は禁じ手です。
極楽で名乗る戒名ですのです、考え難い事です。
恐らくは、お墓の建立は前回のお答え通り「江戸初期の直ぐ後」と云うことであると思いますので、墓石は多かったと考えられます。
何故ならば、永嶋氏と永島氏は室町期末期に秀吉と互角の戦いをしました。
永嶋氏の結城氏は、「陸奥白河の戦い」で秀吉の最大の敗戦歴を作った一族です。
3000人と云う死者を出して、大阪に逃げ帰った事でも有名です。
伊勢の永嶋氏や伊勢の青木氏らが、秀吉の背後を突いた為に、白河では無理攻めをして最終は落城させましたが、敗戦の形は拭えませんでした。
この敗戦の始末処理如何では、豊臣家は無かった事にも成り得たのです。
元々は、この「白河」を陥落させた後に、下総の永嶋一族一門を攻め落とす計画でした。
ところが,一門の助っ人が各地から秀吉の背後を突いた事から、中止した戦歴を持っています。
従って、この煩い秀郷一門の処に家康を送り込んで衰退させようと関東に転封させた背景がある位です。
この事でも判る様に、江戸初期も大いに永嶋氏一族一門は栄え、直ぐこの地で家康に依って御家人旗本と成って栄えたのですから、確実に墓所は多かった事が云えます。


>お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
>この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。

「永島氏」に執っては重要な事ですが、「伝統」は可成り消えている様ですので、相当に研究しなくてはならない事に成るでしょう。
取り分け、多くの伝統を維持する役目にあったにも関わらず、ご本家もこの動きに無いのですから難しことだと思います。
お家が、概要でも良いですから、推理を含めて遺す事も意味が在りますね。
「青木氏の同族である近江佐々木氏」は、「青木氏族の永嶋氏」の観点からルーツに付いても研究しています。
筆者は基本的な事はこの佐々木氏からの永嶋氏に付いて学んだ経験を持っています。
お家は、この青木氏の研究論を参考にして歴史観を高めて頂き、これからの見学時の判断の基礎要素を高めて頂ければ、ルーツ探訪の際にはこの歴史観で観る事が出来ますから、より多くの情報を獲得する事が出来る様に成ると思います。
筆者もこの経験から多くを学び獲得しました。
「ルーツを知る歴史マニア」と云うのはそういうものでは無いでしょうか。

是非、慌てずにゆっくりとお読みに成って推理力を高めて置いて、後に資料や記録や先祖の遺産を観た時に、この時の推理が当たっていたか、何処がずれていたかは判って来るものです。
推理は大いに必要です。高めれば高める程に正確度は増します。

この為にも、「青木氏サイト」は青木氏族としてご協力させていただきます。

では、ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。