青木ルーツ掲示板
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  [No.1020] Re:先祖が知りたいです
     投稿者:宮城の青木さん   投稿日:2015/02/01(Sun) 11:59:12

宮城の青木さん 今日は。始めまして。

全国の青木さんが集うサイトです。これからもよろしくお願いします。

雑談掲示板からこちらに移しました。

さて、お便りのご質問ですが、サイトメニューの地名地形データベースに記載しているものをコピーして、お答えします。

家紋だけの情報では、無理です。
一般路の加美郡の事でお話します。

お家の御先祖が住んでいたここは、昔は広域の「陸前国」と言う地名でした。
この国を始め、現在の東北6県には、「賜姓青木氏」及び、「藤原秀郷流青木氏」、並びに、「藤原一族」の者が、守護、又は、それに類する「官職」で赴任している事はありますが、ここにはありません。

この地は「奥州藤原氏(1200年頃まで)の勢力範囲」であったことも原因していると思われます。

従って、「何れかの青木氏」が、この地域(2地域)に定住したとしたとするならば、「寄進系荘園制」のものとも考えられますが、「奥州藤原氏の勢力圏内」に、ここにわざわざと「関東の藤原秀郷一族の管理の為の移動」とは考え難いのです。
鎌倉期前後に「藤原秀郷一族」が、「24の守護地」と、それに類する官職を全て失った結果、瓦解して、各地に定住していた「藤原秀郷一族」と、護衛をしていた多くの一門の「青木一族」は、故郷の「武蔵国」と「下野国」の北部の地方に戻ったことが史実として確認出来ます。

その時、「直流の青木氏一族」は、下野付近までで、「支流の青木一族」は下野北部方面に移動しています。
又、もう一つは、「武田氏と織田氏との戦い」にて「武田氏系の諏訪族青木氏」を始めとして、「3つの青木氏」が、藤原氏を頼って神奈川横浜から下野北部地方の宮城地方までに逃げ延びています。
(これが考えられる第1ルーツです。)

又、これ以外に考えられるのは、何らかの理由で源氏一族のものが逃げ込み、青木姓を名乗ったとも考えられるが、その史実がないのです。
更に、還俗僧が青木姓を名乗ったとする考えも対象人数が極めて低いので可能性はないのです。

恐らくは、赴任地の24地域の各地から戻ってきた「護衛役の秀郷流青木一族」であるとも考えられます。(第2のルーツです。)

その一族としては、東北地方に近いところに戻ってきた史実は、現在の所「二つの青木氏」が確認されています。

「四国地方」に赴任していた宗家の「宗政、時政親子」の「護衛役」として阿波地方に赴任していた「秀郷流青木氏」(A)と、「四国讃岐地方」に赴任していた宗家「文紀」の「護衛役」として赴任していた「秀郷流青木氏」(B)が、更に、「中国地方の安芸」に移動していた「秀郷流青木氏」(C)が、戻っています。
戻った定住先は、確定は出来ないが「下野北部」である事は確認出来ています。

前者(AとB)は、「片喰紋」、後者(C)は、「亀甲紋」の家紋が確認出来るので、後者とも考えられます。
さて、しかし、ここで、お家は「三階松紋」であるので、この文様は、四国讃岐ー土佐域から東部の徳島域まで分布しています。

四国に赴任していた「秀郷流青木氏」(三階松紋)が、「下野北部」に戻った事に成ります。

「讃岐土佐地方」として家紋200選にも出て来る「三階松紋(丸付き紋含む)」の「讃岐秀郷流青木氏」(D−1)の一族があります。
この一族は讃岐が定住地ですから戻る事はありません。

そうすると、「三階松紋」の「土地の豪族」と血縁した「讃岐秀郷流青木氏」の末裔で、この家紋の持つ「讃岐秀郷流青木氏一族」と、阿波に赴任していた(AかB)が、血縁して、その「三階松紋」となった者(D−2)の末裔が「下野北部域」に戻った可能性があります。

つまり、「現地の末裔」が、”「親郷」”を頼ってここに移動して定住したと考えられます。

依って、最も確立の高いところとしては、この二つのどちらかの「秀郷流青木一族」が戻ったところと考えられます。
(三階松紋の一族のD−2の可能性は非常に大)

「栗原郡」にも「青木の地名」がある事から、この地方には、前者(AB)も、(C)(D)も、(「抱き松紋の青木氏」も含む)が移動していたのではないかと見られます。

平安末期から鎌倉末期までの事と観られます。
これがお家のルーツと成ります。

情報が「家紋」と云うだけですから、ここまでが限度です。

追記
「来場記帳」に「曹洞宗」とありました。

福井の「永平寺の禅宗」ですが、「青木氏」は、浄土宗で、密教です。
宗派が異なっています。
ただ、この禅宗は、宗教概念の基教は、顕教の浄土宗に成ります。

この加美郡には、この時期には「浄土宗の青木氏の菩提寺」はありませんでした。
一時、この地域は平安期には、広域の”陸奥域”と呼ばれ、「秀郷一門の勢力圏」がこの域までありましたが、次第に撤退して、室町期には青森域までの勢力圏と成って仕舞いました。
最終、秀郷一門の結城氏と青木氏が小陸奥を勢力圏を護っていました。
この加美郡域は陸奥側と武蔵下野側から勢力境界地と成っていました。
加美郡は、その昔の勢力地であった事から境界一部が遺されていたのです。
しかし、菩提寺などは戦いで焼き払われて「浄土宗青木氏の菩提寺」(西光寺)は無く成りました。
依って、この事は、ここが「青木氏」の「元来の定住地」では無い事を意味します。

この事は、”「三階松紋の一族」の「D−2の可能性」は非常に大”を証明しています。
青木氏は、慣習で、普通は「浄土宗」で、地方の地域に赴任定住して現地末孫を増やした場合、仮に無ければ、「浄土真宗」を容認しています。

お家は、「現地末孫」の「三階松紋の秀郷流青木氏」ですので、この「加美郡」には、[秀郷流青木氏の菩提寺」は近隣には無かった事から、次ぎに、下級武士が入信する浄土宗系の「曹洞宗」に入ったと成ります。
依って、お家の本来の青木氏の”「菩提寺」”ではありません。顕教の「檀家寺」です。
この、「曹洞宗」が陸奥地方に広まったのは、比較的新しく、室町期中期に成ります。
三階松紋の四国での発祥期の暫く後の時期と成ります。
其処から、加美郡に移動定住したとすると、江戸初期前後頃に成ります。
室町期末期に秀吉に攻められると云う事が起こっていますので、陸奥の秀郷一門結城白河氏らも攻められて激戦と成った地域です。
秀吉が一番戦死者を出した激戦区でした。
その危険性から、四国の一門からこの地域の守備に配置した可能性が有ります。

栗原郡の青木氏と一致していますので、恐らくは親族であった事に成ります。
秀郷流青木氏の現地末孫である事から、直系で青木村を形成している「武蔵や24定住地」には住めません。
そこで、陸奥域の加美郡域には、青森より南域の勢力範囲の境界部の領地を護る為に、配置された一族です。

陸奥域の秀郷流青木氏は、赴任が終わる冬の時期は「武蔵域」に戻る「仕来り」で、「交代制」を採っていました。
お家は、現地末孫の支流族の移動でしたから、この境界部に守備留守居として配置定住の役目を担った青木氏に成ります。


情報が他にありましたらお知らせください。



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