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  [No.1021] 上野国の増田姓
     投稿者:増田   投稿日:2015/02/03(Tue) 13:55:06

増田と申します。私のルーツを調べているうちにこのHPに出会いました。
私の実家は明治初期まで群馬県桐生市新里町新川というところにありました。
明治維新で没落し、祖父の代で栃木に移ってしましましたが、先祖代々の墓は群馬にまだあります。
除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子をもらっており、身分には士族と書かれていました。
家系図等文書では残されておりませんが、父や叔父の話では、いつ頃の昔の話か分かりませんが、
赤城山南麓の広大な領地を支配していた聞きます。子供のころの話なので、大ぼらを吹いているのだなと
ほとんど関心はありませんでしたが、父が亡くなった今少しずつ調べはしめているのですが、下記のことが
分かりつつあります。

・先祖代々の墓は江戸初期(一番古いもので寛文3年 1663年)から江戸末期までのものが
現存しております。

・家紋は「丸に抱き茗荷」です。

・除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子を迎えている。身分は「士族」となっている。
・しかし群馬の新川という場所は城下町ではなく、武士が住んでいたとは思えないので、いわゆる
郷士だったのではないかと考えている。

・父や叔父の話では(言い伝えなので真偽は不明)、いつの時代か知らないが、赤城南麓の広大な
領地を支配していたと聞く。

・除籍謄本での住所は、南勢多郡新川村66であり、淵名荘と新田荘の境界争いをしていた「早川」
という川沿いの西側(淵名荘側)である。江戸時代からの墓は、お寺ではなく増田家の敷地内にあった。
場所は家と同じ早川沿いの西側で、住居の新川66から北に約2km行った早川沿いの西側。

・祖父の妹の話では、子供のころ(明治時代)家の近くの「天神山」というところでよく遊んでいた。
この山は中世期、五輪塔の良質な材料としてよく使われたいた。

・群馬県に太田市にお住いのある個人所有の家系図に「藤原姓益田(増田)氏家系略記」という
ものがあり、ルーツは藤原秀郷と書かれているようです。この家系図によれば、秀郷の流れを汲む
大胡氏が築城されたとする大胡城は、実は秀郷流藤原姓益田(増田)氏の先祖が築城したと記されて
いる。(もちろん真偽は不明)。彼の子孫が横瀬国繁の時代、大胡城を攻められ、岩松、横瀬氏が
支配する太田金山に引き取られたということらしいです。

ということで、家紋の「丸に抱き茗荷」では秀郷の流れを汲んでいる可能性があるような気がするのですが
、横瀬氏との関係では新田氏のような気もするし、よくわかりません。
いずれにしましてもいつの時代にあの地に住み着いたのか(少なくとも江戸初期には住み着いていた)
、私のルーツは誰なのか?知りたいですね。
是非とも青木さんのご見解をお聞かせ願えませんでしょうか。宜しくお願い致します。

増田


  [No.1022] Re:上野国の増田姓
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/04(Wed) 10:24:11

増田さん 今日は、始めまして。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。

これからもよろしくお願いします。

さて、本サイトは、青木氏ですので、増田氏の事は全くわかりません。

しかし、折角ですから、判る事をお話しします。

先ずは、そのルーツ判定に重要な基に成る事は、先ずは「家紋」ですね。
次に、「上野国」と云う地域です。

それとお家が云う「秀郷流関係の情報」です。
そこで、この「家紋」から進めますと、次ぎの様な事が出てきます。
そもそも、この「家紋」は、「銀杏の葉紋」に似せて作ったとする説と、「仏教の冥加の言葉」に合わせて縁起を担いで作ったとする説とが在ります。

作られたこの「抱き茗荷」の文様は、戦国時代で、元は「比叡山天台宗」の「仏神の曼荼羅神」の「神紋」として用いられていました。
依って、この文様を最も早く使用したのは、「比叡山」の「お膝元の氏子衆」であった者が、戦国で立身出世して「武士」に成ったもので、それが「近江二宮氏」です。
この「一族一門」の関西地域では、江戸初期に大名と成った「稲垣氏」と、その一族の「鳥羽氏」「山下氏」等です。
関東では、この「二宮氏の支流」が、江戸初期に「相模」から「下野、上野の地域」に移動してその子孫を遺しました。その支流が「小沢氏」です。
(元々は、この「二宮氏」には他説が多くあり、この家柄を搾取した武士が多い姓名です。)
何れも比較的新しい武士と成った、要するに”「姓氏」”です。

この「家紋」から、押し出すと、お家は関東の「二宮氏の末裔」と云う事に成ります。

確かに、この北関東の「下野と上野」の地域には、「藤原秀郷流一門」として「秀郷流青木氏」の支流族がこの地域を押えていました。
この二宮氏と直接に江戸初期に血縁した「秀郷流青木氏」が確かに有ります。

そうすると、室町期末期から江戸初期に掛けて、この「抱き茗荷紋の増田氏」がどの様に生まれたかにかかります。其れと、秀郷流一門とどの様に繋がったのかに依ります。

頂きました下の情報を鑑みて、お答えから先に、「秀郷流一門との繋がりの可能性」は低いと考えられます。
そもそも、「秀郷流一門」は「日本一の超大豪族」で、平安中期の「古名跡の家柄」もこれに勝る家柄は先ず無いのです。
「江戸初期前後の血縁」の「武家」の「習慣仕来り掟」は、「純血性」を重視し考えながら「家柄の吊り合い」で行いました。
「秀郷一門」には「361氏」ありますが、この中に、「増田氏の姓名」が在りません。

「秀郷一門の361氏」はそもそも”「氏族」”です。
「二宮氏」は、室町期中期から興った”「姓族」”です。

一般に云う「武士」でも、江戸期前では、「氏族」の「武家族」と、「姓族」の「武士族」とがあったのです。
「秀郷一門」はこの「氏族」の「トップの位置」にある「武家族」です。
これに勝る氏族は「青木氏」か「佐々木氏」しかありません。「最高位の武家族」なのです。
藤原氏はそもそも四家あって、その中のトップの位置にある「北家筋」のその最高位にある藤原氏です。
従って、本来は、「姓族の武士族」が「秀郷一門の系列」を持つ事は、身分家からを社会の規準としていた”「氏家制度の社会」”の中では、先ず無いのが普通です。

そこで、あるとすれば、「藤原秀郷一門の分家支流傍系族」(遠縁筋)が血縁している事は確認できます。
この地域は「秀郷流青木氏の定住地」でしたから、「青木氏支流傍系族」が何らかの関係で「土地の二宮氏」と女系で血縁して、二代続きの養子と成りました。
この事で「女系」と成った事から「養子先の家紋」に変わってしまった「青木氏」で、この「青木氏」が、他の「秀郷流進藤氏、秀郷流永嶋氏、秀郷流長谷川氏、秀郷流長沼氏」と血縁して末裔が広がる事はあり得ます。
この血縁は、直系的には繋がってはいませんが、現実には起こっています。
氏家制度の仕来りが弱まった時期の江戸中期以降から江戸期末期までに起こっています。


この「二つの族」(氏族 姓族)には、何が根本的に違うかと云う事です。
「氏族」の「武家族」は”「ルーツ」を持つ”と云う事です。
「姓族」の「武士族」は”「ルーツ」を持たない”と云う違いです。

つまり、”室町期末期以前のルーツが無い事”、と、「朝廷が認定した氏」である事の差から来ています。
現実に、今でも、”「氏名」”と云う言葉と、”「姓名」”と云う言葉が二つ在りますが、この事を物語っています。

「二宮氏系のお家」は、少なくともこの「姓名」の「姓族の武士族」に相当します。

「藤原秀郷流の直系」の系列下に「増田氏」がある事は論理的に先ずありません。
「氏家制度の社会」の「封建制度身分制度」の中では、生きている社会と環境が異なり、そこから来る「血縁等の厳しい仕来り」があったのです。
この社会制度が続いた江戸中期までの社会の中では、この「二つの族」が直接繋がると云う事は先ず無いのです。
つまり、「氏族の藤原氏側」から観れば、身分家柄を落とした事に成りますし、増田氏側から観れば、身分家柄を挙げた事に成ります。
「姓族」の二宮氏側から観れば、喜ぶ事に成ります。態々下げる必要のない名誉財力も桁違いに有る藤原氏が、身分家柄を下げる事はありませんし、下げた場合の藤原氏の社会から受けるリスクは計り知れません。
そんな事を宗家本家が認める事は絶対にありません。即座に「追放の憂き目」を受ける社会です。
恋愛より見合い制度の社会の中では、特に、武家族社会の中では、あり得ない事で有ったのです。

そもそも、「氏家制度」とは、一族が「本家」の管理の下で生きていますので、「分家」や「支流や傍系族]が、宗家の許しなく勝手な事をして、この「慣習仕来り掟」からは著しくはみ出す様な事が在りますと、「本家の力」で潰されるか追放される事に成ります。
秀郷一族一門は、この仕来りを強く護っているこの宗家本家 総宗本家の日本一の最たる「氏族」です。
家康でも現実に頭が上がらなかった「氏族」です。
増田氏が徳川氏と血縁で繋がっていると思いますか、思わないですよね。其れよりも「上位の身分と家柄の氏族」です。

間接的に、何かで幕末頃に血縁として、繋がった事は起こり得た事も考えられますが、江戸初期頃は先ずあり得ません。

”「秀郷流系列」”と云う事は、この家紋が「抱き茗荷紋」である限りは、「氏家制度」が厳格に維持されていた時期の江戸中期前には先ず有りません。
もし、あったとすれば戦いに成ります。放置すれば、秀郷一門の名に傷がつく事にも成りかねません。
現実には室末末期から江戸初期にはこの「争い」が起こりました。
「青木氏」にも3件もあったのです。有名な事件で歴史的に記録が遺っています。
青木氏の場合、中には、「秀吉」が仲介に入り、250人の兵力で秀吉の目の前で戦いに依る決着を就けた事も起こりました。

確かに、ご先祖が、周囲に「秀郷流青木氏」らが”「青木村」”を創って土地を押えて定住していました。
そこで、これを使って後に緩んだ江戸中期以降に”「家柄誇張」の搾取”をしたと観られます。
この現象が、江戸初期前後と江戸中期と明治初期前後に大ブームと成って起こりました。


そもそも、この時代は、時の幕府が、社会全般に「一般の勃興氏」に成った社会に対して、「権威」が無く成り、無理にでも、この搾取行為を認めて「権威付け」として奨励したのです。
「権威の持たない者」が「立身出世」が大半を占めたこの時期には、政治を安定させるには、「権威」が必要と成ったからです。
そこで、江戸幕府は、そうしないと、幕臣のみならず各藩の「家臣」と成る者には、「黒印状」と云う「証明書」を発行しました。
この「国印状」が無ければ、幕府と藩主に認めて貰わないと「武士」として生きても行けない事が起こったのです。
藩主も同じ立場に置かれました。

江戸幕府の「徳川氏」が、自らが、幕僚の家臣の大半を占める”「藤原」”と血縁したかの様に搾取して、”「藤原氏」の「氏族」”を名乗ったくらいなのです。
当然に、各藩の藩主と家臣の「武士族」は、右へ習えです。

そして、何時しか江戸中期以降には、「経済的な原因」もあって、この事が過ぎて、各藩に「断絶家」が続々と増えました。
そこで困った幕府は、この「武士株」の「売り買い」を認めて、「武士」の「家柄の保全」の為に、減らさない為にも、「株方式」を認めたのです。
そこで成った家が全国的に、沢山発生したのです。
例えば、「坂本龍馬の実家」は、[土佐郷士の坂下家」が潰れ、「商家」であった実家が、この「武士株」の「郷士株」を買って「土佐郷士」に成ったのです。
「土佐藩の家臣」の下位に置かれました。これで大事件が起こり、龍馬は脱藩するのです。

この「株」には、この「郷士株」と「武士株」と「郷氏株」とが有って値段が違います。
「坂本龍馬の実家」は、土佐では有名な「相当な金持ち」であったので落札したのです。

「武士株」は、「藩主の家来」の家が「跡目断絶」で売りに出した株です。下級武士が買った傾向が在って、これで「家臣の身分の位置」を上に上げたのです。
「郷士株」は,藩主の元々の家来では無い土地の古くから「土豪の株」です。
「商家」がこの株を買い取りました。この株を買うと、「藩との商売」が出来る事に成るので、この株を買ったのです。
「郷氏株」は、「氏族の末裔」で「古来からの名家」で、「大地主」や「庄屋」や「名主」や「武士の豪農」の株です。
この「郷氏株」は、「藩の家臣」の「上級武士」が家柄を「姓族の武士族」から「氏族の武家族」に上げて家柄を高める為にこの株を買い取った株です。相当な高額でした。

さて、この「買い取り」の後に、お家の家紋が、”「丸付紋」”に成っていますので、次ぎの事が云えます。
二宮氏の家紋が、丸付き紋の「武家支流」が出来るまでには、宗家が丸付き紋の二宮氏を認めるまでには相当な年数が掛かります。
室町末期から江戸中期前の頃が、枝葉の出来具合から観て、「丸付き紋の抱き茗荷」が出来る頃です。
更に、ここから関東に出て来て、又、この「丸付き紋」がお家の「増田氏]に繋がるには、子孫を相当に増やして拡大しなければ出来ません。
そうすると、江戸中期後から末期頃と成ります。
結局は、「時代性」に無理が出ています。


その枝葉が、この丸付き紋に成るには、先ず一つは、「二宮氏系の家」と、お家の増田家とか血縁して、「二代続きの養子の家」と成って、「娘の女系」と成って「男系筋の家紋」の「養子先の家紋」と成った事が起こっていた事に成ります。

或は、「二宮氏」か「小沢氏」の末裔で、分家支流か縁者傍系で、「妾子」か何かで”地名の増田”を採って名乗った事に成ります。
妾子は低い身分であると云う事で、よほど嗣子が無い時以外は、家系を継ぐ事は少なかったのです。

「後者の可能性」が高いと観られますので、この事に成るには、江戸末期前頃に成って仕舞います。
そうする、この「時代性の矛盾」を解決する方法は、上記の郷士株」以外に、墓所を、家紋を、土地を、持つ事は論理的に不可能です。

さて、ここで「家紋」に関しては、江戸期に家紋の使用に対して、家康は勝手に使うような事は禁令を発したのです。
従って、可成りの「判定の要素力」を持っていますので、兎に角は、お家のご先祖の大元は、買い取り後に「近江の二宮氏」の「傍系支流族」に成った事は間違いはないと思います。

次に「地主」であったとする事を前提にしますと、江戸期に地主に成るには、「氏家制度」の中では、この「二宮氏系」でなくては無理であったと考えます。
従って、秀郷流であるかは、大いに疑問です。
「地主」と成る以上は、この「買い取りの郷士」でなくては不可能です。

そこで、次ぎに、”「益田」”の「地名」で「姓名」とする場合は、「社会の仕来り」により「後者の武士」が多いのです。

故に、「秀郷一門」とは、戦乱末期に「氏子の農民」から勃興したの「二宮氏」とは、そもそも「家柄」が根本的に先ず違い過ぎますので、直接血縁をする可能性は、江戸末期か明治初期以降しか殆どありません。

しかし、少し疑問が在りまして、下記の情報を分析しますと、お家の増田家に付いてかなりの矛盾が出来ます。

さて、下記のご質問にお答えします。
>・墓は江戸初期(一番古いもので寛文3年 1663年)から江戸末期。
>・江戸初期には住み着いていた
この二つからは、確かに「武士」であった事の証になります。
室町末期からの勃興氏の姓族である事は一応は認められます。
ただ、下級武士の姓族には、勃興したての時期には、この墓所は無いのです。
まだ、二宮氏の様に室町末期に勃興した様な武士が「墓所」を持つと云う習慣が無かったのです。
この江戸初期に既に墓所を持っていることが疑問の1です。

>・家紋は「丸に抱き茗荷」です。
二宮氏系一族で、支流傍系族である事に成ります。
この「丸付き紋の支流族」が江戸初期から墓所を持つ事は考え難いのです。
「氏家制度」ですから、本家の許可なく「独自の墓所」を持つ事は先ずありません。疑問の2です。

>・江戸末期江戸の旗本から養子を迎えている。身分は「士族」
丸付き紋が証明していている事と、一つ目と二つ目の疑問とこの情報から、可能性として「郷士株」を買った可能性がある事を示しています。

>・群馬の”「新川の場所」”は 城下町ではなく、郷士か
定住地地域の環境が「武士の家」らしく無く、確実に「郷士株」の可能性がある事を示しています。
前の質問と合わせても江戸末期に頻繁に行われた現象を物語っています。

つまり、これまでの情報から”墓を含む全ての財産を買い取った”とする可能性が有ります。
そうしなければねこれらの事が成り立ちません。

>・赤城南麓の広大な領地を支配。
>・南勢多郡新川村66、淵名荘と新田荘の境界 「早川」の川沿い西側(淵名荘側)
>・江戸時代からの墓は、増田家の敷地内に
秀郷流一門が支配する地域に、二宮氏系のお家の増田氏が、大地主にこの地で成れるかの疑問の3が在ります。
しかし、成れたとすると、「株の買い取り」しかありません。
況して、”敷地内に墓所がある”と云う事は、「姓族」「武士族」「郷士族」にも疑問が残ります。
本来、「郷士族」は、古くから土地に住み着いた土地の土豪族で、元は、多くは農民です。
その村全体の農民等が、金銭で請負って「戦乱」で「傭兵」として参加した事から、起こった「農民族」の「農兵団」です。
その農兵には墓を持つ概念が未だこの時期は元々なく、河原に路傍の石を積み上げた形で済ます習慣でした。
下級武士を含む農民等が墓を持ったのは明治初期からです。
これらの階級を除いたある程度の歴史を持つ「郷士族」は、一族を固めて一か所に墓所を設ける仕来りです。
家の中にある事は、農民の江戸末期からの現象です。其れも多少土地を持った農民の習慣でした。
「国境」とか「川沿い」とかは、普通の「武士族」では無い事を意味しています。
この様な「河処」に住む者は、昔は”「河原者」”と呼ばれる人たちが住み着いた場所です。
普通の武士族は、”屋敷町”と呼ばれ、一定の良い土地に一画を採って住み着いていたのです。
この様に散らばって、墓を自宅にあるとする事は郷士にとってもありません。
「郷士族」も古くからある程度の大きさの土地に力を持った「小地主」でしたので良いところに住み着いていました。
「国境」は、普通は、この時代は、村を形成しない農民族の住む地位として、「農民の山族」と呼ばれる者が住んでた土地でした。
この事から、ただの「郷士」では無く、農民か、且つ、農民系郷士と云う事しかありません。
最早、農民であったとする疑問を解決するには、江戸中期か末期に、「増田の姓」と「その財」の一切の「株買い取り」しか納得出来る事はありません。
「株買い取り」の出来る者として、普通は「商人」と云う事に成ります。
「普通の農民系」が、株を買う事はその買い取る為の「財」を何処から得たかの問題もあります。
「買い取る」だけの「経済力を持つ者」は「土地の物産」を販売して「財」を成した者が、「株買い取り」をして「家柄一切」を買い取ったとすれば全て解決します。

室町期には、鉱物資源等を開発した者が、この株を買い取って「郷士」に成り、勉学を心掛け一族を拡大せさ、最終には大軍を打ち破った「歴史上の人物」の「楠木正成」が居ます。

「養子」を江戸末期に迎えたとする事は「武士族」にしかありませんでしたので、この事を物語っています。

>・「天神山」
>・五輪塔の良質な材料
天神山の地域と花崗岩石から観て、江戸期での「大地主」に成れるには、「株買い取り」が裏付けています。
これは、上記の「株買い取りの能力」を証明する事でもあります。
恐らくは何らかの関係があった事が頷けます。それは、邸の中に墓がある事が物語ります。
恐らくは、この地に居て、この事で財を成したものが、「株買い取り」で身分を引き上げて、その上で「養子を迎えたとすれば成り立ちます。


>・「藤原姓益田(増田)氏家系略記」ルーツは藤原秀郷と・・
この情報には搾取の間違いを起こしています。搾取である事を証明しています。
それは、藤原北家秀郷一門は、上記しました様に、「姓」ではありません。
そして、住み着き場所もはっきりしていて、「秀郷流青木氏以外」に「藤原氏宗家筋」がここには住み着いていません。
「この事を知らない人」の「後付の搾取」です。
そもそも、「氏」と「姓]が逆転しています。歴史書を観てください。この知識の知らない人が書いたものであることが直ぐわかります。
普通は、族、氏、家、姓の順位です。
もし書くとすれば、「朝臣 藤原北家・・族・・氏・・系・・増田家・・姓・・略記」
氏と姓の順序の違いもありますが、更に、藤原の直ぐ後に系譜として増田氏が繋がっている事など100%ありません。
「藤原氏族」は日本一と書きましたが、「藤原氏族」の下には系譜として「4段の枝葉」があって、もし、「増田氏」の様な家が来るのであれば「6段か7段目」に来る筈です。
間違いも大間違いのもので、恐らく書いた人物は武士では無かったと考えられます。

「武士」であれば、この程度の事は充分に知っています。

更に、江戸時代は、未だ「氏と姓の使い分け」をはっきりして護られていました。
現在でも、氏の方が大きく、姓の方が小さい扱いなのです。氏と姓が逆転するなどははなはだしくて書く気がしませんね。
この系譜にはこの使い分けそのものがを出来ていません。
書き方もこの様な書き方はしていません。
日本でもこの様に、最大に搾取偏纂されている「氏族」は「藤原秀郷流」です。

そもそも、「秀郷流一門」は、「家柄から古来の仕来り」に従って、一族はそもそも、奈良期からの仕来りに従って「地名」を「氏名」にはしていません。

藤原一族一門、中でも秀郷一門は、この様な「搾取」を防ぐ為に、全て、次ぎの「仕来り」に従っています。

藤の字の前後の何れかに役職名 役職の階級等の「佐」で佐藤氏、匠の工の工藤氏・・全て藤付き名なのです。これを「・・藤氏」と呼ばれていました。

藤の前後の何れかに地名の頭文字 伊勢であれば藤原氏の伊藤氏・・国名の一時を付けて見分けられるようにしていました。藤原氏は24の地域に赴任にて定住していますので、各地域の藤原秀郷氏はこの様にしていました。

以上のこの二つに限られていました。

従って、秀郷一族一門下には、益田、増田、大胡などは本来ありません。「後付」の搾取です。
江戸期の禁令でしたが余り護られなかったのですが、これが酷い搾取偏纂を証明しています。

更に、社会は「氏家制度」ですから、この様に勝手に系譜を創る事は出来ません。
「本家筋の許可」を得て書かれるもので、正規の認証と認証印が藤原氏には有ります。
従って、書き方も統一していて、この様な幼稚で勝手に書いた様な間違いをする事は、100%あり得ません。

以上の様に、疑問だらけで、これを解決できるのは、江戸末期に「株買い取りによるお家」と云う事に成ります。
江戸中期前は、「相当の氏家筋の者」がはっきりとして、正規に届け出て、「武士」に成りました。

上記した「土佐の坂本家」も許可を得てこの「正規の仕来り」に従っていますし、他には「近藤勇の実家」などがあります。

>・「秀郷の流れ」を汲む「大胡氏」が築城されたとする大胡城、実は秀郷流藤原姓益田(増田)氏の先祖が築城したと記されている。
>・子孫が横瀬国繁の時代、大胡城を攻められ、岩松、横瀬氏支配する太田金山に引き取られた

”流れを汲む”で、中途半端に表現していますが、「361氏」全てはっきりしていますので、「流れを汲む」はあり得ません。
はっきりしていて知っていれば、普通は「藤原氏」の「氏族の仕来り倣い」で書き込む筈です。
全ての真面な記録には、この「仕来り倣い」に従っています。

如何にも家柄をよく見せようとする江戸期に興った搾取の典型的な社会現象が出ています。

>・家紋の「丸に抱き茗荷」では秀郷の流れを汲んでいる可能性が
実は、原則的には秀郷一門には、「丸付き紋」の仕来りが在りません。
直系族は「副紋方式」と云う形で「分家支流」を表現しています。
後から、別に勃興した二宮氏の様なものが秀郷一門と血縁しても秀郷流には入りません。
何度も一門と血縁を繰り返した上で起こる現象で、そこには秀郷一門から男系が降りて来なければ起こる事はありません。
秀郷一門から下位の家に降りて来る事はありません。
何度も何度も血縁して血筋を高めて、やっと関係筋の「傍系」と成るのです。

依って、秀郷一門ではありませんし、更に”「流れ」”の様な形で「子孫拡大」を認めていません。
この方法を採っていないのです。「氏族」と「姓族」の「仕来りの違い」を把握していませんね。
搾取である事ははっきりしています。

>・横瀬氏との関係では新田氏。
新田氏は清和源氏の支流族で、家紋は、本家であろうが分家であろうが変紋しません。
「笹竜胆紋」なのです。他の家紋を使っていますとそれは搾取の証拠なのです。
平安期からの氏族で、「抱き茗荷」の室町期末期の家紋とで時代性の違いが起こっています。
そもそも、笹竜胆紋と抱き茗荷紋とは紋が違いますよ。

上記しました様に、郷土史などはこの江戸期頃の搾取偏纂の資料を前提として、作り上げています。
江戸期の搾取偏纂の資料には上記する様な矛盾が多いのてす。

お便りには、宗派が書いておられませんが、「宗派」はどんなに搾取して家柄をよく見せようとしても、この宗派だけは変えられないのです。
宗教界はこの搾取を絶対に認めませんでしたので、その宗派に入信する事は出来ません。
取り分け、農民は、特定の顕教の宗派にしか入信が出来なかったのです。

墓所を持つことがそもそも、出来ず、その概念も農民には無く、明治期の3年と8年の苗字令の時から全て自由に成りました。

更に、お便りには、「菩提氏の過去帳」の件も在りませんが、上記の宗派と相まって、明治初期まではこれも下級武士以下は持っていなかったのです。
有ったとしても、”「菩提寺」の「過去帳」”では無く、”「檀家寺」の「人別帳」”です。
「人別帳」も無いが殆どでした。
念の為に「菩提寺」と「檀家寺」とは違いますよ。
この事で上記の事が全てがはっきりしますよ。
何故、最初に把握しなければならない情報で、現在でも調べなくても法事には使っていますよ。
知っている筈ですね。最初に書くべきことが何故に書かなかったのでしょうか。

先ず、ルーツをお調べに成る前に、この様な歴史に関する判別できる「知識の歴史観」を身に着けられる事が必要ではありませんか。
それでなくては無理ですよ。

では、ご不明な点やご質問が在りましたらReでお便りください、青木氏がご協力いたします。
一度、この事もお調べに成ってください。


  [No.1023] Re:上野国の増田姓
     投稿者:増田   投稿日:2015/02/05(Thu) 14:43:03

青木様

高度な知識を用いた論理展開に感服いたします。ありがとうございました。郷土誌が搾取の物語であるとは驚き
です。歴史家や学芸員は誤った材料を使い、自分にとって都合の良い解釈をし、仮説を立て、見かけの検証をし
たつもりでいるのでしょうか。歴史とは何なのでしょうか。
さて、最後のご指摘が私も気になります。現在の私の実家は栃木ですが、明治時代私の祖父が群馬から移り住み
ました。
栃木のお寺は真言宗です。しかし群馬の墓がどの宗派に属し、どこのお寺を菩提寺いや檀家寺としていたのかは
分かりません。というのは、私の祖父の代の明治中期に墓だけを残し栃木に移り住んでしまったため、親族も残
っておらず、尋ねる術がありませんでした。
その残された墓は、敷地内にあったと書きましたが、正確にはわかりません。というのは、現在その残された墓
の周りは民家が立ち並び、昔そのあたり周辺が私の先祖の敷地だったという確証はないからです。現在の墓の様
子をもう少し詳しく説明すると、その墓は宿という十字路から数十メートルはなれた道沿いにあります。そして
道の反対側には、昔親族だったと思われる他のお宅の増田家と書かれた墓石がいくつかあります。
そしてそこは宿東古墳跡だと言います。
疑問なのは、なぜ墓がお寺の境内になく、そんな古墳の場所にあるのかということです。そしてそこは増田家と
書かれた古い墓石しかありません。
青木様がご指摘されるように幕末の頃、何らかでちょっとした財を成し、郷士株を買い、旗本の二男を養子に迎
えた。そして偽の墓石を作ったか、誰かの古い墓石を持ってきて、自分の畑に墓石を設置した?可能性としては
考えられますね。
武士の家系なら、江戸時代にはお寺の境内に墓があるべきですよね。青木様のお話では、本当の郷士でさえ、江
戸時代にはお寺の境内に墓を持つことはできなかったということですね。
だんだん謎が解けてきました。ありがとうございました。

増田


  [No.1024] Re:上野国の増田姓
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/07(Sat) 11:48:10

増田さん 今日は。
早速、お便りありがとうございます。

ルーツを探究する過程で、この様な「歴史観」に遭遇する事は良い事だと観ています。
下記のその典型的な疑問をお持ちに成る事が歴史を知る上で大切な事だと思います。
筆者の考えを披露しますと次ぎの様に成るかと思います。
長い間の歴史を探求して来たテーマでした。

>歴史とは何なのでしょうか。

平安期から室町期初期までは、この様な公的に成っている歴史の真面な書籍には、判ら無いところや、推測を交えて描いた処には、必ず、”後勘に問う。”と書いています。
つまり、今は確定出来ず判らないが、「未来の人」が必ず解き明かしてくれるだろうとする言葉です。
しかし、平安期の末期の源平の時代あたりから、世の中が、立身出世の人が多く成り、多くの階級の人々が生まれました。そこで必然的に、身分家柄制度が更に強く成り、社会が家柄身分を強く要求する様に成りました。
「朝廷の認可」が必要であった社会では、要求を叶えられない「出世族」は、結局、搾取して、或は、必要以上に誇張して、家を興そうとしました。

ここで、因みに、面白いお話をします。
この中には、無理やりに武力で、家柄のある家を襲い、一家全滅させ、娘一人を遺して、その娘に子供を産ませて、その家を継承すると云う現象が頻繁に起こったのです。
それを朝廷に金品を渡して、認めて貰い、その家柄身分から「官僚族」と成り、なんと10の地域を赴任した大出世の者までいました。
実は、青木氏にもいまして、元は伊勢の上田郷の農民で、立身出世を夢見て、都に出て、浮浪人を集めて、盗賊の様な事をしながら、勢力を高めていました。
そこに、遂には、滋賀に赴任していた青木氏が任期が終わり近江に戻りました。
しかし、この「青木氏の一部末裔」に、近江に帰らずに歳を得た家が在り、そこに娘が一人居て、この老夫婦の面倒を看ていました。
そこに、上田郷の者が襲い、この家の家柄そっくりと奪い取ったのです。
そして、この娘に子孫が出来たところで、「青木氏」を名乗らせて、届け出たのです。
結局は、上記の様な事が起こってしまったのです。
一方近江に帰った青木氏は、後に、平安期に朝廷に届け出たのですが、聞き入れられず、この事を承知していた「近江青木氏の末裔」は上田に対して「戦い」に挑みました。
ところが負けて仕舞って、青木氏としての「社会の信頼や人気」を落として、他の一族からも嫌われ、近江にも一族はいられなくなり、結局、摂津に逃げ延びました。
一方の滋賀の上田の青木氏に成った一族は、益々子孫を拡大して、「滋賀青木氏」と成りました。
ところが、この「青木氏」も息を吹き返した「摂津青木氏」と再び戦う事になり、「摂津の青木氏族」は勝利を得て、再び、「名誉」を回復して社会に出る事が出来ました。
ところが、「滋賀の青木氏」は、今度は身内で「一族争い」が起こり、結局は一族は本家筋が衰退し、昔赴任した千葉に落ち延びて行ったのです。
滋賀では「同族争いの分家筋」が、勢力拡大して滋賀に残りました。これが現在の滋賀青木氏です。

この様な事が、各地で頻繁に起こったのです。
その一つが、「下剋上」です。

「下剋上」と「戦乱」で、鎌倉期末期には認証を正式に受けた「氏族」が200以上、最大時は末端支流族まで入れると800もあった「氏族」が、80程度になり、江戸期には20にも満たない「氏族」と成って仕舞って、ルーツを持たない「姓族の社会」に成ったのです。
日本には、「8000姓」もある中で、「搾取偏纂」では無い「真面な正式な系譜」を持つ家は「20」も満たなく成って仕舞ったのです。
従って、「1%以下の系譜」が8000姓の中に居たのですから、そもそも1%には最早、意味を持ちません。それどころかこの1%に何とかルーツを繋げようとして、「搾取偏纂」が横行したのです。最早、戦って排除する事は1/8000では無理でした。
遣られるままに成っていました。

これが、初期の武力による「家柄搾取」の原因です。
ところが、室町期中頃からは、「室町文化の影響」もあり、今度は,「武力の連鎖」を呼び、結局は「搾取行為」が、失敗と成るケースが戦国時代の為に多く成り、今度は「武力」を避けて、「金品」を使っての「悠久の名家」との繋がりのある「系譜作り」で、社会を欺こうとしたのです。

社会が、文化の発展もあり、「金品の価値」が高まり、「100%に近い搾取偏纂の横行」が起こって、この状況は江戸初期まで続き、江戸初期前後がそのピークと成ったのです。
これは、認証の無い「裏の密かな搾取偏纂」であるので、時代が進むと、その真偽が判らずに信じて仕舞う「社会癖」で、「搾取偏纂」が真実化して仕舞った現象が起こったのです。
これを利用したのが、「徳川幕府の戦略」なのです。
そして、この徳川幕府が容認して出来た「搾取の系譜」のこの「江戸初期当たりの資料」を基に現在の「郷土史」が出来ているのです。
ところが、この「郷土史」は、今度は「地方の特色」を売り出す手段として利用されたのです。
”歴史のある街だ”として売り出し、誇張する現象が、明治期から起こったのです。
仕方のない現象とも考えられますが、搾取が真実化した事の現れです。
誰もこの「搾取の矛盾」を指摘する「歴史家」が出なかったのです。
むしろ、逆で、この事に加担して利益を得ようとする「歴史家」が出て来て、この「矛盾解決の後勘」が働かなくなっていきました。
更には、この様な、「裏仕事をする業者」が出て来ていたのです。
それが、「古来の歴史や故事」に強い「神社や寺社」が、生活の為に、「口止め料」を含む高額な金品を受け取り「裏稼業」で請け負っていたのです。
戦乱後に荒れて生活に困っていた「寺社の仕業」であったのです。
そこに、”社会に迎合した歴史家”とが組んで仕舞えば、異論を唱える方が異端児扱いを受ける仕儀と成って行ったのです。
そして、系譜などの「搾取偏纂業」のみならず、その証明をも寺社が自分ですると云う何とも上手くしたシステムが出来上がっていたのです。

寺社が証明するものを否定する学識や見識を持っている者が居なかった事が、この様な「搾取偏纂の社会」がまかり通る世の中にしたのでした。
それどころか江戸幕府自体が、承知の上で「黒印状の令」でこれを奨励させたのです。
これでは反論する者がいなくなります。
江戸末期の「株の買い取り制」を始め、明治初期にも、更に今度は庶民までもが3年と8年の苗字令で、このシステムを利用して、金品のある者が家柄を作り上げたのです。

当然に、この様に成ると、社会全体が「搾取偏纂の社会」と成って仕舞いますね。
しかし、それが当たり前とすると、誰もが疑問を持たなくなるのも社会の常です。
ですから、現在から、歴史を、伝統をと成ると、この事に突き当たってしまう事に成るのです。
「歴史」そのものに意味の無い事が起こり、「伝統」が廃れていったのです。
結局は、最早、「搾取(塵)無し」の正しいルーツに辿り着くことは殆ど不可能です。
その真偽を検証する事さえ、個人情報の鎖に遮られて、出来なくなりましたからね。
後は、遺されるのはこの「郷土史」と云う事に成りますね。

それは其れで良いと納得すれば、それ以上の事はありません。自己満足の領域です。
筆者は否定するつもりはありませんが、ただ、「青木氏」だけは、認めたくありません。
幸いに、奈良期からの「古来の事」が遺されている「青木氏」であり、それを「未来の後勘の資料源」とする為に遺そうとして頑張っています。
「青木氏」には、未だ、奈良期からの「歴史と伝統」が「搾取」が入り込めない「文書、口伝、遺品」に遺されています。
そして、その「悠久の青木氏」に遺された「古来の習慣や仕来りや掟」等を網羅して、「真偽の青木氏の判断資料」としています。
これは、”「塵」”を取り除いた事を望む他氏にも、読む事に依って「歴史観」が増して遡上し、「判断資料」と成り得ると考えています。
それに依って、「搾取の塵」を少しでも払おうとして研究を続けています。

結局は、「歴史」とは、この「事を解き明かして行く事」にあり、「歴」の意味「履」と、「史」の意味「伝統」と書きますからね。
「史」の語源には、「のり」(則)と、「ふみ」(文)の意味を持っています。
平安期には「史」の意味は、この「二つの言葉の意味」を持っていて使われていました。
つまり、「歴史」とは、社会の「履歴」を、”「のり」”の「規則」で、”「ふみ」”の「文章」にして、”「解き」”明かして ”「伝統」”にする事、即ち、”正しく伝える”事の意味を持っているのです。
社会とは、何時の世も「搾取偏纂」が起こる事を前提としての解釈で、それを水の中から「塵」(搾取偏纂)を取り除いて、「純粋な水」のものにする事を意味すると考えます。
其処に、「歴史を知る事の面白味」があるのかも知れませんね。
それが故に、平安期に良く使われた「後勘に問う」”後の人の勘に任す”となるのです。
平安期の人の方が、「事の深意」を悟っていたと痛感します。

しかし、それにしても、平安期の「搾取の占める割合の1%」が、江戸期には遂に、逆転して「1%の真実」と成って仕舞った事から来る現象です。
これでは「歴史」とは、「伝統」とは、と成りますよね。
簡単に云えば、「解き明かす事」が「後勘」になると考えます。


>疑問なのは、なぜ墓がお寺の境内になく、そんな古墳の場所にあるのかということです。そしてそこは増田家と書かれた古い墓石しかありません。

「古墳場所」の疑問なのですが、これが上記で云う「歴史観」を獲得する一つに成ります。
実は、「古墳場所」は、関西では大変多いところですが、現実には、この「古墳の周り」には多くの家が立ち並んでいます。
つまり、何が歴史的に起こったかと云う事です。
実は、歴史的に、次ぎの「二つの事」が起こってこの現象出ています。
一つは、その古墳を管理していたのは、「土地の村主」です。
ところが、戦乱で村が破壊され、その周辺を奪った土豪が村人を排除したと云う事が平安期から、頻繁に室町期まで起こりました。
”「戦乱の戦い」で村を奪うと云う事”は日常茶飯事で、頻繁に起こった事なのです。
これが戦乱の世の中ですが、この為に、追われた村人等は、逃げる処と云えば、この様な誰も近づかない「古墳群の様な土地」でした。
朝廷の管理下や古豪族の管理下にあったが、「朝廷の力」や「豪族の力」が戦乱で低下してこれを止める力は無く成り、結局は非常事態として、この墳墓のある処の周辺に住み着く事に成ったのです。

墳墓にも、朝廷の物から、奈良期の土地の豪族の物まであって、その豪族が戦乱で絶えてしまったりすると管理する者が居なくなり、結局は村の村主(名主や庄屋)は村人をここに避難させた事から、墳墓周辺に人が住むと云う現象が起こったのです。
中には小さい古豪族の墳墓自体を潰して、そこに村を形成したと云う事は当たり前の様に起こりました。”背に腹は代えられない”と云う事ですね。

二つは、平安期に豪族による「荘園制」が幅を利かせ、土地の豪族らが「朝廷の許可」を得て、朝廷の古墳とは関係の無い土豪らの小さい古墳を潰して荘園にするこ事を許可したのです。
その「荘園での税」と「裏金」で朝廷は潤っていたのです。
中には「名義貸し」と云って「公家や貴族や源氏や平家」の力のある者の「名義」を借りて「税」を免れて開発を進めたために、この様な古墳が無視されて開発されてしまうと云う事が起こったのです。
中には、その「名義を名乗る事」で、「名義の使用料」を取ると云う事でも、朝廷・公家・源氏などが利益を挙げていたのです。
ところが、この事が行き過ぎて、荘園造りや荘園での「働き手」が不足しました。
結局は、源氏等が、「戦い」で地方の豪族を攻め落として、その”「敗残兵」”を”[奴婢」”にして”荘園」”に連れて行き”「働き手」”とし利用すると云う現象が起こってしまったのです。
そして、古墳などの地を整地して、そこに”「働く者」”の住居を建てたのです。
これを観ていた心ある朝廷は、この「悪弊」を排除しようとしました。
ところが、激しいこれらの豪族から抵抗と攻撃を受けながらも、「天皇の命」も危ぶまれる程の危険を感じながらも、この「荘園制」をやっと禁止したのです。

そして、それに関わった者を罰し、「敗残兵等の「奴婢に成った者」や、「村を追われた者」等を開放して保護しました。

この最も「過激な事」をしたのが、清和源氏頼信系の「源義家」で、遂には、「悪の私闘」をしたとして、天皇から「財産没収」と「官位剥奪]と[蟄居閉門」を受け「源氏」の一族は衰退しました。

それが、時代を経て、室町期の初期頃には、「子孫]が拡大して、「人」が集まり、「村」が出来、「道」が出来、「宿」が出来て、管理する「武士」が集まり、その「武士の墓所」が出来る事になる事に成りました。
「庶民の墓所」は、遅れて、江戸末期からで、正式には墓所を持てるように成ったのは明治期からです。
この「禁止された荘園制」の影響は、直ぐには全てが解決せずに室町中期まで続きました。

そもそも、「土地」には、「地権」が、保証されていますが、必ず、”「余地」”と呼ばれる「所有権」が設定されない土地が在ります。
この様な土地は、多くは「斜面(のり面)」と呼ばれる土地で「平地」を構成する高台の一部です。
ここは法的根拠はありません。普通は、申請に依って、その「土地に連なる地権者の権利」と成ります。田畑に水を送り込む「池」や、本川であった「中洲の河原」等もこれに含みます。

現在でも、これらの「余地」の「のり面」を整地にしたものが申請すれば「使用権の許可」が得られるのです。
日本は、山岳地や海辺や河原が多い国ですから、この「のり面」が実に多いのです。

この様な「土地」を、上記の追われた人達は、埋めるか切り開くして平地にして住み着いたことに成ります。「登記権」はありませんが「使用権」が認められて、「定住地]にしていた「民」が多かったのです。放っておくと「荒れ地」に成り、崩れなどの災害を誘発しますので、「使用権」で管理させたのです。
時には、公的機関が、「道路」などで「使用権を解除」して「立ち退き」をして、分断する等の事が起こったのです。


この「二つの現象」から、古墳の上に、これらの民の「墓、家屋、田畑」が出来上がったのです。
この「古墳の上」に、未だ現在でも、関西では家が建っていたり、田畑が在ったりしています。
「古墳発掘」が良く行われて、家が立ち退き、田畑が撤去されて「古墳の保存」が進んでいます。

お家の墓所の分断が、上記の二つの事からからでこの現象と成っています。
この事から、「墓所」では無いところの「増田家の墓」が分断されているのです。
推して知るべしで、お家のルーツがこの事からも前回にお答えしました様に観えています。

>青木様がご指摘されるように幕末の頃、何らかでちょっとした財を成し、郷士株を買い、旗本の二男を養子に迎えた。そして偽の墓石を作ったか、誰かの古い墓石を持ってきて、自分の畑に墓石を設置した?可能性としては考えられますね。

上記の情報から、「偽の墓石」は考え難いですが、「郷士株」での「郷士の墓」を移したと観るのが正しいと考えます。それで、”お家が郷士に成った”とする事への「世間に対する宣言」を成し遂げる事が出来ます。この”「宣言」”は、”重要な当時の慣習”でした。
前回の「坂本龍馬の家」も、この「宣言]をして、関係者を呼び、宣言した事が記録されています。
それでこそ、正規の「血縁で繋ぐ家」から、無血縁の「株で繋ぐ家」と無血縁の「養子嫁で繋ぐ家」に変わっていったのです。
当時の墓の持つ意味は、現在とは違います。
「家=墓=先祖」の意味を持っていました。
従って、「郷士株」を買って「下士の武士」に成る以上は、「墓所」を放置したままで、知らない顔は出来ません。其れこそ「武士の務め」です。この「務め」を果たさずに”何が武士か”と成ります。
「武士」を買う以上は、「家墓先祖」を買う事に繋がりますから、「墓所の移設」は最大の「武士の宣言」でした。
武士と民の違いは、「祖を持つ事の差」で決まります。「民」には、そもそも、「ルーツの持つ概念と仕来り」は無かったのです。「無かった」と云うよりは認められていませんでした。

「墓所」の移動などの処置を行う事に依って、”武士に成りましたよ”と宣言する事が慣習と成っていたのです。

つまり、「経済的な低下」も含めて、「子孫拡大」が図れずに、「断絶家」が多く成った事で、江戸末期から変化して行ったのです。
恐らくは、この状況から、「郷士株」で「下士の武士」と成った上で、「武士の養子」を迎えたと観るべきですね。
その宣言として、「元からの武士」ではありませんから「寺の墓所」は無理と成りますから、「余地の使用権の持った畑地内」に「墓所」を移して宣言をしたのです。
その後に、「郷士株」で「下士の武士族」と成って、「養子」を迎えての「後の墓」が道路を隔てた地に設けたと観るのが「歴史観」に見合うものです。

参考
尚、墓石と墓の形は時代性で変わっています。これからもお家の事が読み取れますよ。
又、ご先祖の戒名でもお家の事を辿れますよ。

以上、御疑問は次ぎの様な歴史観が在ります。
今後の探究に役立ててください。

では、ご質問等ありましたら、御遠慮なくお尋ねください。