青木ルーツ掲示板
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  [No.1031] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/17(Tue) 14:21:42

前田さん 今日は。早速のお便りありがとうございます。

さて、「射和商人の事」で研究されていて、「伊賀の乱の事」にも関わりに興味を持たれておられるようですね。

「青木氏」として参考になる事が在りますので、協力させていただきます。

実は、前回にも書きましたが、「射和組との関係」がある事は、充分に判っているのですが、消失による資料不足にてどうしても全体を明確にするところには辿り着けませんで、それを解明する確証は掴めません。

青木氏の研究の中の伊勢地区の研究を何としても十分にして置きたいと考えていますが、「伊勢衆」の事の資料が見つかりません。青木氏側ではある程度の繋がりの事は判るのですが郷士側の確かなものが見つかりません。

その原因の一つは、織田氏の「伊勢三乱」に依って、修羅の様な戦場と成った事から「伊勢衆」の基に遺された資料関係が少ない事から来ていると観ています。

そもそも、「織田氏」と「伊勢衆]との戦いは、両者ともに「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の激しい戦いと成りました。
「ゲリラ戦」が主体と成っての戦いでしたので、それに対抗する為に織田軍側は、相手がはっきりしませんので徹底した「焼き払い戦法」を使ったのです。
この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」で、一揆とゲリラ戦が起こっていました。
織田軍側は、この二つの戦いの区別もつかなくなっていたのです。
伊勢では、多くの「農民」や「郷士衆」が滅亡しました。
その後、秀吉に依る「紀州征伐」が更に起こり、徹底して「郷士集団狩り」が起こりました。
「刀狩り」も行われ、「検地]も行われ「郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成りました。
最早、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、土地のものを活かして殖産を進める事にしたのです。
これに、紀州藩の初代頼宣も援護の手を差し伸べて、伊勢を復活させるべく取り組みました。
そして、この殖産を生き残った「伊勢衆の郷士」にやらせました。

「青木氏」は、伊賀地区、脇坂地区、上田地区、名張地区、松坂地区、員弁地区、桑名地区、四日市地区、射和地区、玉城地区、長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区等に青木氏が定住していますが、この地区毎に土地に適した殖産を進めたのです。

この射和地区は、櫛田川の水を利用した殖産を進めました。
それが、良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉]、良質な水を活かした「醤油」、粘土質の土壌を活かした「陶器」、水車を生かした「粉の生産」、水分を多く含んだ土壌を好む「楮」で「和紙」を殖産し、それを興業にし販売するシステムを構築したのです。
これを「後押し」したのが「青木氏」で、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来から持っていた上記した土地(地主)を本領安堵されたとする記録が在ります。
この土地を生かした殖産を、土地を失い遺された「伊勢衆」が行い、最終、紀州藩の勧めで江戸に店を出すまでになりました。
従って、この「職人と商人」を「射和地区の商人」と呼ばれ、「殖産の元」と成った「松坂商人」と、興した「射和商人」とに区別して、この地に「商いの組合組織」を作ったのです。
殖産を進めるには、「殖産の土地」が必要で、この土地の多くは青木氏が地主として持っていた土地を使い、上記とした様に「伊勢から南紀」に殖産は及んでいました。
何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と「全国に飛散していた者」を先ずは集めて、生き残らせる為に、江戸初期には、「家康肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩」と取り組んだのです。
この時の「紀州藩の官吏」は、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのです。
この「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が、親族である「紙屋の伊勢青木氏」と共に取り組んだのです。
「伊勢から南紀までの職能集団」と、「射和にそれを取り扱う商人」を配置したのです。

これが、「射和商人」と後に呼ばれる様に成った由来です。
「青木氏」とは、生き残った「郷士衆」とは、シンジケートの関係で「古来から血縁」があった事が判っているのですが、女系の為に記録も辿り着けないのです。
遺された一部の系譜には、女系の嫁ぎ先の事は「添書」にしか書かれていませんので、単純に確証が採れないのです。
「青木氏」には、「四家制度」と云う組織が在りまして、この組織に依って血縁などが決められていました。
この「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この家には一族の者が配置され、それを支える「伊勢シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」には、「青木氏の嗣子」が立場を「家人」に移して、「跡目に入る組織」を古来より確立していました。
上記した「殖産」の「職能集団」に、「伊勢シンジケート」の「郷士集団」に、この「家人(家臣)」の形で入っているのです。
更には、上記した様に、「女系の形でも入るシステム」に成っていましたから、間違いなく繋がっている事は判っているのです。
「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、「18程度の郷士」の名が遺されています。
個人情報に関わるので匿名としますが、提供されました姓名は確認できています。
ただ、どの様に「譜」を持っているかは確定できないのです。

ただ、この内の郷士の4氏が、”伊勢青木氏の末裔郷士だ”と公的にも主張しています。
恐らくは、「伊勢衆の郷士」であると観られます。
その内の2氏は、玉城地区周辺と櫛田川沿い北域の住んでいたようです。
この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は「射和の商人」ではと考えられます。
後の2氏は南紀地区ですので、「職能集団の郷士」ではと考えられます。

この事から、「青木氏族」だとを名乗っている郷士が居ることから、間違いなく繋がっていたと考えられます。

つまり、「伊勢青木氏」には、「血縁による二つの青木氏」と「絆に依る二つの青木氏」(玉城)が在ります。
この「絆に依る二つの青木氏」の譜の「郷士部」の方で関わっていた事に成り、「青木氏」を名乗っていなかった組織(主に女系)であったと観られます。

さて、「伊賀の乱」に付いてですが、この「伊賀氏」には、「二つの族」から成り立っていて複雑なのです。
一つは、家臣団の多くは、奈良期から住んでいた「後漢の帰化人(618年頃)」の「首魁阿多倍」に付き従って来た「職能集団の家臣団」の「郷士集団一部11氏(A)」

(「阿多倍王」の末裔の「平清盛」の里で、平安末期にこの伊賀地方を朝廷に返却して播磨に移動します。この時に、その家臣の一部が遺った職能集団の末裔で構成した家臣団の「忍者集団 A」がある。)

後から入った「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもある)が、鎌倉期に伊賀守を務めるが、この朝光の末裔が「伊賀氏」を名乗り、鎌倉幕府と血縁して、晩年伊賀に住み着きます。

この各地の「秀郷一門から編成した家臣団B」があり、奈良期から残った「伊賀氏の家臣団A」とは、この様に二重構造に成っていました。

結局、織田氏に味方するか(家臣B)、独自路線(郷士A)を貫くかの内部分裂が起こります。
「伊勢衆」の内「11の郷士」が参戦しました。
結局は、味方する者(下山、山下)が織田側に通じて、これを知った「郷士家臣団A」と戦いに発展して行きます。

この中の「11郷士」の中にお家が云う「郷士」が入っていました。

「青木氏との繋がり」は、「伊賀の乱」に関わらず、奈良期からの「和紙の殖産」でこの「元の伊賀の郷士集団」とは繋がっていました。
因みに、この「元の伊賀」の「清盛の郷里の親許」に、「源平の戦い」の初戦の「以仁王の乱」が起こった時に、「清和源氏頼光系宗家四家」は負けますが、この時に「青木氏の跡目」に入っていた「源の頼光の孫の京綱」が、兄の宗綱と高綱と叔父有綱の助命嘆願をこの「伊賀の郷」にします。
清盛は、「親許の郷里」の「口添え」を聞き入れ、三人を日向廻村に配流する事に成りました。
この様に、「隣人」として「殖産の仲間」として「嘆願」を聞き入れてもらえる位に親交が古来からあったのです。
(伊賀は「青木氏の元本領地」で、朝廷が「半国割譲」して「平清盛の始祖」の「阿多倍王」に与えた。)

天正の「伊賀の乱」の時は、このお返しとして、「伊勢青木氏」は、中立を保っていましたが、「伊賀滅亡の寸前」で、「青木氏の居城」の「清蓮寺城」から「織田軍の側面」を不意に突いて、一夜で「11の郷士集団のA」を助け出したのです。
「11の郷士集団」を助け出したその後、土地を失った彼等を青木氏は「伊勢シンジケート」に入れて保護します。
この様な関係にありました。

つまり、この「経緯の延長」凡そ25年後に、この伊勢衆の「郷士集団A」を含む「伊勢シンジケートの内部改革」が起こり、この上記する「射和の事」(殖産)が起こったのです。

この時、「殖産」をより高める為に、興業にも拡大し、「運輸業」や「警備保障業」もこの「伊勢シンジケート」を形成している「郷士集団」に依って形成されたのです。
「総合商社」を営む「青木氏」は、この「伊勢シンジケート」の一員であった「郷士集団の殖産と興業」と共に当に「総合商社」は拡大して発展を遂げたのです。

では、もう一つ、参考に成る事が在ります。
それは、「元禄の赤穂浪士」の「浅野家取潰しの事件」です。

実は、この「浅野家取潰し」の際に、「浅野家の財産処分」をして家臣にそれを分ける必要が出ました。
この時、幕府から依頼されて、「伊勢青木氏の紙屋総合商社」が請け負ったのです。
「家財の値付け」と「支払い」と「金銭分配」等の一切の処理を請け負い、それを瀬戸内海から船で運搬して、伊勢に持ち込み、更に、それを売り捌き、買い主に搬送する「一連の商い」を請け負ったのです。
この時に、この城から運び出し等の手続き作業の一切を「伊勢シンジケート」のこの「郷士集団」が担いました。
この時に、「陸送の運輸」や「搬送中の警備」等が取り分け必要に成り、「青木氏」が商いの持つ能力を超えていたのです。
それをこの「郷士集団」の「伊勢シンジケート」が補ったのです。

この伊勢シンジケートは、室町期までは「氏」を護る「武力に対抗する防御の抑止力」で合ったものが、江戸期初期からは、今度は、「商いに対する協力体制」へと変化して行ったのです。
そり以後、「青木氏」に執っても「総合商社としての商い」を安定して拡大させられるし、「青木氏」の「後押し」で、これを「商い」にする「郷士達(郷士11氏含む)」が徐々に出てきました。
現在で云う「グループ化」が起こったのです。
つまり、「青木ホールディング」の「グループ商社」で、歴史上探しても、「シンジケート」を持つ氏と商家は他にはありません。これは日本で最初だと思います。
「射和組」とは、この一員で、この事を指していると考えています。

今回お家の情報の郷士もこの「11の郷士集団A」の中の郷士です。
(青木氏の資料にある18氏と、この11氏は許可を得ていない事と現地に現存する為に個人情報に依り匿名にする。)

この事等は他の「青木氏の論文」には詳しく既に論じていますが、この様な関わりの「歴史的な事」もあった事を参考にしてください。



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