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  [No.1036] 茨城の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/19(Thu) 07:03:18

「来場記帳」よりこちらに移動させました。

>初めてこのサイトをみておどろきました。
>私の青木一族の家紋は「つるひいらぎ」ですが、なかなか葬儀屋さんさらに家紋の詳しい方に聞いてもでてきません。
>集落行政区に青木一家が10数戸親戚付き合いしており蔓柊です。菩提寺は真言宗豊山派の万蔵院で現在の住職は74世を名乗っています。お墓も青木一家だけ万蔵院のなかに墓石、埋葬地は集落内の2墓制となっています。
>さらには、坂東市内(岩井市と猿島町合併)には 青木が100戸ほどほとんど青木という集落もあります。さらに各地区に数戸まとまっているものを見ると旧猿島町管内で150戸はあると思いますが、家紋は調べておりません。
>定年退職をしたものの、行政関係機関の役柄会合が多いためこれから話題作りをしたいとおもっています。

茨城の青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
本サイトには、青木氏に関する事柄を研究して投稿しています。
青木氏に関することを何とか網羅して、「将来の末裔のロマン」として遺したいと考えて管理人さんのご理解を得て運営しています。

青木氏には、未だ、多くの伝統的な事が遺されていて、それを掘り起こしています。
全国の青木氏さんのみならず、今や、青木氏族の方々、青木氏外の方々、青木氏に関わった方々のご子孫からも頻繁にご質問が多くあります。
「ヤフーHPの歴史カテゴリー」では、折り紙付きのダントツの情報量です。
日本8000もの氏姓の中では、これほどの情報量を持っている氏族は無いと思います。

これからもよろしくご協力の程をよろしくお願いします。

さて、お家は「蔓柊紋」の青木さんですね。
「研究室の青木氏の家紋」の論文に、「蔓柊紋の青木さん」の事を記載しています。
「柊文様」は確かに少ない家紋群です。
中でも、「蔓柊紋」は、「特定の青木氏一族」が用いていた家紋ですので、知らない人はいると考えられますね。
でも、青木氏の中では、そうではありませんよ。
研究室の論文やルーツ掲示板などお便りをお読みに成れば判りますが、「青木氏」は、他とは異なり、「特定の立場」を持ち得ていた氏族ですので、世間では知らない人もいるかも知れませんね。

「家紋掲示板」などにも論じていますので、詳細はそちらを先ずお読みください。
お住まいの茨城には、「藤原秀郷流青木氏116氏」の内の昔、”「関東屋形」”と呼ばれた「秀郷一門の氏族」と、「秀郷一門」の”「第二の宗家」”と呼ばれた「秀郷流青木氏」が「青木村」を形成して定住していたところです。

「柊紋」は「丹治氏系青木氏」が最初に用いた家紋類ですので、「秀郷一門青木氏」とは出自は異なっています。

そもそも、茨城は「秀郷一門の青木氏」が住んでいた地域です。
そこに、”「武蔵七党」”と呼ばれた「柊紋の丹治氏系青木氏」の家紋群がある事は、昔の「棲み分けの慣習」から考えると、お家が先ずどちらの「青木氏」であるかを検証する必要がありますね。

本来は、”「武蔵七党」”は、埼玉県の「児玉、秩父、比企、入間」の四地域に分布しています。
現在の坂東市は、茨城県の西域ですから、国境を隔てています。
特に、この「武蔵の国」の北側に住んでいた「柊紋」の「丹治氏系青木氏」は、立身出世を夢見て、一族郎党をそっくり移動させて「見込のある豪族」に味方して、その地に移動して行く”「国衆」”と呼ばれた集団であったのです。
この「柊紋の丹治氏系青木氏」は、その「信濃」「甲斐」「美濃域」に伸長した一族で、最終的には「関西の摂津域」にその一族の多くを移しました。
つまり、「関ヶ原の戦い」で家康に味方した事から、遂に、「摂津麻田藩1万石」を与えられ、そこに武蔵の国に居た一族も最終的に移り住み居住し住み着きました。

昔は、ルーツ毎に「棲み分け」を原則としていましたので、同じ所にルーツの違う青木氏は住んでいません。
では、何故、東隣の国境沿いに「柊紋の青木氏]が定住していたのかと云う疑問が出ます。

お便りでは、150戸と可成り大きい集落を形成し、その宗派は「真言宗」で、「墓所が二墓制」であったとする情報から考えますと、次ぎの様に成ります。
「秀郷流青木氏」は「関東屋形」の宇都宮から南側の地域から埼玉の入間まで、及び東よりの水戸域までに定住していた事を合わせて考えると、「重なる地域」は、”「入間の北域」”と成ります。

そこで、「棲み分け」を前提としますので、次ぎの事が考えられます。
「秀郷流青木氏」は、「秀郷宗家一門」が武蔵入間に住み、そこを中心に螺旋状にして神奈川、横浜まで半径として、護衛団として宗家を護り、中心の本家筋から外環の分家筋へと取り巻き、宗家を護ると云う形式を採っていました。

特に、上記しました様に、「丹治氏系青木氏」は、室町期末期から移動していますので、血縁が興る事は先ずあり得ません。

とすると、室町期中期頃に入間の北域側に居た「秀郷流青木氏」の分家筋が男系の嫡子に恵まれず、「棲み分け」の入間の隣に居た「丹治氏系青木氏」から何とか「婿養子」を迎えて血縁したことが起こった事になります。
ところが、その「養子」にも「嫡子」に恵まれずに、結局、女系と成った事から、「家紋掟」に依り、「青木氏の本来の家紋」が「養子の男系側」の「柊紋」に変紋してしまった事に成ります。
この経過を辿った「秀郷流青木氏」ではないかと考えられます。

そこで、この「秀郷流青木氏」の「元の家紋」は何なのかと云う事が問題と成ります。

お家の「真言宗」(イ)と、「墓所二墓制を採用していた事」(ロ)と、「ある程度の集団である事」(ハ)が、この事を物語っているのです。

実は、本来、「秀郷流青木氏」には、高位で母方で皇族と血筋で繋がる権威のある「特別賜姓」である事が左右しています。
この家柄である事から、家柄の違う「丹治氏系青木氏」と血縁しますと、「青木氏宗家」から「宗派」や「住所」や「墓所」等を外される罰を受けます。
これは「氏家制度の社会」ですから、当然の結果です。

「秀郷流青木氏」では、「下り藤紋」を総紋として、「116氏の家紋」の中にあり、「浄土宗」(A)で、「青木村」(C)を形成して住んでいました。
墓所は、「自らの氏」だけを祭祀する「浄土宗菩提寺」を創建し、そこに墓所を設ける仕来り(B)です。

恐らくは、宗家からこの処置(イ)(ロ)(ハ)を受けた事を物語っています。
この処置程度で許されて、依然として「青木氏を名乗る事」を認められたことを物語っています。

依って、上記しました様にある範囲で集団で住んでいる筈であるのに、そこよりわずか離れた西地域にご先祖のお住まいがあると云う事は、この事を物語っています。
現在の「坂東市」は、本来住んでいる筈の「水戸域」より「西域の国境沿い」にある事が何かあった事を物語る事になるのです。

つまり、イ−A ロ−B ハ−Cの事が本来あるべき姿と異なっている差なのです。

「柊紋」は木犀科の樹で、昔から、疫病を払う木として用いられてきました。固い木ですよね。
花は白い小さな極めて良い匂いがしますね。木犀と同じで、庭先の玄関の処に良く植えていた木ですね。剪定が難しい木ですね。

この家紋にも、お家のこの事件が起こった事が、「柊文様に蔓付紋」にも出ています。
普通は、「秀郷一門の青木氏」は、「下り藤紋の宗家」から116の家紋に枝葉が広がっていますが、本来の家紋の「柊紋」に、「蔓付」にする事は、「一門の仕来り」としては採用していないのです。
「副紋方式」と云う方式を採用しています。
ですから、お家に何かが起こった事から、この処置を採ったのです。
ですから、「蔓付紋」は珍しいのです。
その何かとは、家柄で云えば藤原氏から観ると、格下の「武蔵の土豪集団 武蔵七党」の「丹治氏系青木氏との血縁」で、「由緒ある名跡の男系の家筋」を継承出来なかった事が原因しているのです。
柊紋そのものでは、仕来りに大きく反する事に成り、一門に対して申し訳がない事から、「柊に蔓付紋」として、新たな家紋にして凌いだと云う事を物語っていると観られます。
と云う事は、最初入間付近に居たお家のご先祖は、「116氏の中でも「本家筋の枝葉一族」という事に成ります。
故に、敢えて「蔓付紋」の処置としたと考えられます。
そして、処置として、「宗家」より「住まい」を「茨城の西境界の地域」に移る事を命じられたと観られます。
とすると、「元の家紋」は、「主要八家紋」の一つであった事に成る可能性を秘めています。
何か墓所に刻んだ文様とか、周囲の青木氏さんにこの家紋を持っている青木さんが居るかも知れませんよ。

秀郷一門青木氏の事は、膨大なサイト資料ですので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
お読みに成って判らない時は、何なりとご質問ください。
「話題作り」にご協力いたします。
どんなことでもお答えしたいと思っています。人生相談でも、時事放談でも、庭の手入れ方や写真の事や絵の事でも何でも結構ですよ。

では、これからもよろしくお願いします。