青木ルーツ掲示板
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  [No.1038] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/22(Sun) 16:34:53

射和の前田さん 今日は。
お便りを早速頂きましてありがとうございます。

読まして頂きました。
実は驚きました。「青木光三郎」は、筆者の祖父の弟に当たる人で、分家筋に当たります。
現在も、松阪にその末裔が住んでいます。
お便り頂きました内容は,前回は江戸初期の事でしたが、今回は明治初期の事でありますね。

実は、「青木家」は「四家」と呼ばれ、古来より、松坂殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、そして、別格の四日市殿とでルーツは形成されていまして、現在もその様に成っています。
松阪殿が筆者の宗家筋です。
この「青木光三郎」は、松坂殿の分家筋に当たります。
三人の嗣子が居て、祖父が長男で宗家跡目を継ぎ、次男がこの光三郎です。三男は作左衛門の子で作次郎と云います。我々は光三郎さん、作次さん呼んでいました。
全くお便りに頂きました通りです。
この「光三郎」は、宗家からの指示で若い時に、前回にお答えした通り江戸期の先祖の意志を継ぎ、更に伊勢に殖産を広める為に色々と働いたと聞いています。
このお話の背景には、江戸末期から燻っていた農民等の不満がありまして、「明治政府の処置」でその不満はピークに達し、明治初期に起こった農民等に依る有名な「伊勢一揆」に成ります。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」が背後で「経済的支援」をし、この「一揆」を支えた事が判っています。
明治9年に一応は、収まりが付きましたが、矢張り、伊勢は一揆の背景の後遺症で未だ立ち直るには至っていませんでした。
そこで、若い「光三郎」は「養蚕の技術」を身につける為に、「信濃青木氏」からの誘いもあり信濃青木家を頼りました。
この「信濃青木氏」とは、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」の中でも、「近江、美濃」が衰退する中でも、緊密に連携し、「信濃和紙」で互いに支え合って生き延びてきました。
明治のこの「伊勢一揆」の時も、共に経済的なバックボーンと成って、支えあった事は伝えられていて、「血縁関係」も深かったのです。
この「信濃青木氏」を頼って、「養蚕の技術」を習得して、伊勢に帰ってこれを広めようとしました。「膨大な資産投資」が必要で、且つ、「養蚕環境の適合」等の問題の苦労があって、当初はなかなか思う様には行かなかったと聞いています。

又、「早場米」(早稲光)の件ですが、これを実行するに当たり、問題が生じたと伝えられています。
それまでは、「青木の土地」は多くの農民に依って支えられていました。
しかし、明治政府の「農民解放」を狙った「地租改正」で、「農地の土地の利権」をある一定の条件に適する範囲で下げ渡す事に成りました。
この時、「地主の租の申告制」であったものから、「農民自身」が行う「租税の申告制」が採用されましたが、「収穫量」は、農民自身が算定する額方式の申告制でありました。
しかし、「実際の収穫量」はこれに見合う以上のものと成ったので、今度は政府が決める「収穫の税」としました。
これに見合う収穫が出来なかった場合には、その差額を農民が労働や金銭で補うシステムを採用したのです。
これに反発して,納まりかけていた一揆が、再び、所謂、「伊勢暴動」として起こりました。
結局は明治14年頃に何とか納まったと聞いています。
この間の「農民の生活」を「松阪青木家」と「信濃青木氏」が面倒を看たと記されていますし、口伝でも伝えられています。
「伊勢」では、この後もこの「農民の収穫」を上げる問題を抱え苦しみました。
そこで、「信濃青木氏」が古来から手掛けていた「信濃養蚕」を何とか伊勢にも持ち込んで、「養蚕」を殖産して救おうとしたのです。
これには「青木光三郎」が取り組んだと聞いています。
そして、この時は、既に「紀州藩」も解体され、援護の手が差し伸べられず、「伊勢青木氏」が独自に、元は地主として、更に収穫を上げる手段として、「早場米の研究」にも取り掛かったと聞いています。
「青木氏の四家の総力」を上げての取り組みであった事が伝えられています。

さて、「飯南町粥見の青木家」は、松坂と玉城町と共に、筆者の「松阪殿」のルーツの分家の親戚筋が住んでいる地域です。
この地域には、今でも病院など経営した親族、警察官等して多く青木家親族が住んでいます。
「飯南の光三郎」か、「玉城の作次郎」の子孫が住んでいる地域ですね。
「松阪の元吉」の「伊勢宗家青木氏」からは、明治期から「地元の郷士先」(商家)には「娘の嫁ぎ先」で繋がっています。

「筆者の家」の記録からは、残念ながら「出の娘の嫁先の記録」は凡そ判るのですが、「入りの嫁先の記録」が判らないのです。
既に、明治期に入っていますので、江戸期前の様に宗家では、記録は作成されていませんので、光三郎さんや作次郎さんの家の事が当初より判らなくなっています。
恐らくは、この親族のどちらかの家との血縁であろうと観られます。
確認したところでは、「多気丹生」からだとすると、「光三郎さんの家」ではないかとの反応でした。
そんな話を聞いたことがあるとの情報でした。
筆者の「松阪の青木家」の「宗家(幼名元吉の家)」ではありませんね。
ただ、もし、お家が多気丹生のお家で、お家の前田氏が「加納氏との血縁筋」であるとすると、筆者の曾祖父のところに嫁いだ事になり得ます。
前回のお答えで書きました様に「加納氏」の「加納屋」が「土地の郷士の商家」との血縁を盛んにした事は伝わっていますので、加納氏からの縁談持ち込みは充分にあり得る事ではと考えられます。
念の為に、筆者の本家筋では、「加納氏」筋とは、江戸末期からは何度も血縁をしています。
(筆者の祖父母のちかばあさんも加納氏)
曾祖父(幼名寅吉 三男 最終は宗家の跡目継承)も三人の兄弟が居ましたので、この三人の何れかになります。

加納氏ではない場合は、元吉の父寅吉の兄の家か、元吉の弟の光三郎さんか作次郎さんの家ではとも考えられます。
「多気丹生」のお家がはっきりすれば、松阪では作次郎さんの家が、筆者の宗家の墓所を護っていますので、確認は出来ると思います。
兎も角も、光三郎さん(元吉の二歳年下)にしても、作次郎さんにしても、その生業から周囲の元郷士商家との血縁は充分に考えられます。
宗家を継承した「松阪の元吉」までが、「過去の仕来り」に従って、京都公家の末裔(京都の叶氏 筆者の祖母 すえ)から嫁を迎えた事は判っています。
そのほかの家筋では、この「旧来の仕来り」は外れて、地元の「元郷士衆の商家」との血縁関係を積極的に進めたと伝えられています。
依って、お家の父上のお話は充分に納得出来ます。
兎も角も、お便りの親族の方の嫁ぎ先は、「伊勢青木氏」の「名張、員弁、桑名、四日市」の「伊勢の四つの青木家」では無く、筆者の「松阪の親族」との血縁である事には間違いはないと思います。

因みに、湯浅の金山寺味噌の件も、吉宗との取り組みでしたが、この味噌から醤油を取り出す事の「伊勢醤油の殖産の件」にも、「松坂の青木氏」は力を注いだ事も判っています。
「青木氏の話」の中では、明治期の「三大殖産事業」(養蚕 早場米 醤油)と位置付けられていて、松坂の莫大な資産を投資して「伊勢青木氏」が関わったと伝えられています。
明治38年頃までに達成したと伝えられています。

(明治35年に松阪宗家は失火して倒産、「松坂の宗家の元吉」は、後は光三郎や作次郎が引き継ぎ他の「伊勢青木氏」に委ねてこの事業が引き継がれたと伝えられている。)

明治期の血縁としては、血縁した「玉置氏」までは判っていますので、「醤油の玉置氏」、「早場米の・・氏」、「養蚕の・・氏」が判る事に成り、素晴らしい事だと思っています。
ご親戚はこの一つに入るのではと期待しています。

追伸 2/26
調査の結果、「伊勢郷士」の小林氏と小野田氏との血縁関係がある事が判りました。
詳細は記述出来ませんが、松坂殿系列では、玉置氏と共に、明らかに「伊勢郷士との血縁」が証明されましたので、お家の情報との血縁も証明される事が出来ると思います。
他の四家との血縁関係も青木氏の四家制度から充分に考えられると思います。

今回のお便りでは、ここに入る家が判る事に成り研究がより進んだ事になります。
是非、何か判りましたら、又お便りください。
ありがとうこざいました。



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