お返事を拝読いたしました。いつもながら鋭いご指摘に冷や汗の有様です。
前々回のお返事で『大洲・喜多地域』という新しい視点が加わったため、あわてて飛びついた挙句に出来上がった投稿でしたので、いつにも増して拙い部分も多かったと反省しております。当家の四国における移動経路、及び家紋については十分に納得いたしましたので、どうぞご寛恕いただければ幸いです。
ところでお返事をいただいた後、すぐにお礼とお詫びの書き込みをするのが筋と心得ておりましたが、今日まで遅れてしまったのには理由があります。
実は、故郷において現地調査を続けている父から、三間の『曽根庄屋青木家』付近において全く新しい情報を掴んだ、という連絡があり、その調査報告を待っておりました。
以下、ご報告させていただきます。
以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。
三間町曽根の近郊には、我が家が明治期に縁組した親戚(こちらは青木氏族系の歴史的背景等のない縁組と考えております)がありますので、さっそく紹介していただき、父が訪問して参りました。
その結果、当家のルーツに直接つながる、非常に興味深い事実が数多く判明しました。
新たな『青木家』は、旧庄屋青木家跡から歩いて数分という距離にあり、父も当初は『曽根青木家の末裔であろう』と考えていたのですが、現地でお尋ねすると意外にも『違う』というご返事。
驚いて詳しお話をお聞きしたところ、古い伝承などはほとんど残っていないものの、まず次の事実が判明しました。
1.現在残っている家は分家で、本家はすぐ近くにあったものの家系が絶えている。
2.かつての本家は非常に勢いのあった家で、家の裏山など広大な土地を所有していた。
3.近くに『曽根旧庄屋青木家』が存在していたことは知っているが、あちらとは『別の家』と認識している。
4.『立間青木家』のことは全く知らなかったし、伝承もない。
そして最も注目すべき証言が次のものです。
4.家紋は『左三つ巴』。
これには父も仰天したそうですが、無理もありません。我が家と同じ『左三つ巴』を持つ青木家が、山一つ越えた三間町曽根に存在していたのです。しかも『曽根旧庄屋青木家』のごく近くというのですから、驚きも当然でしょう。
以降、こちらのお家を仮に『三間左三つ巴青木家』と呼称させていただきます。
父がこれまでの調査結果等をお伝えしたところ、先方は驚くと同時に『今になってそんな歴史が判明するとは』と非常に喜ばれ、現在も裏山にあるという本家・分家の墓地を見せていただくことになりました。草を刈ったり、文字が読みやすいように墓石を磨いたりと、大変なご協力をいただいたそうです。
以下は墓地の調査結果となります。
1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。
以下、墓石が点在しているのですが、並びの順があちこち飛んだり、あるいは無くなっていたりするものもあり、完全な復元は未だできておりません。
ただし一点、これまでの調査と合わせて非常に興味深いことが確認できました。
3代目と推定される墓には『釋』の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。
以前ご報告した通り、現在は宗光寺が無住であるため、『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです。(実際には医王寺も跡継ぎが修行中のため、さらに遠い宇和町の寺にお世話になっている、とのこと)。
墓地については以上ですが、あともう一点『昔この裏山に神社があった』そうです。残念ながら『何神社』かは不明で、実は近年、お家を改装した際、神社の納め札と思われる文書が大量に見つかったのですが、調べずに焼却してしまったと。
あるいは『神明神社』ではなかったかと思われますが確証は得られず、非常に残念です。
現在のところ判明している客観的事実は以上です。ここからは推論となりますので、また分析・批判をお願いできれば幸いです。
まずは何よりも『家紋が左三つ巴』であること。
また我が『立間青木家』の初代が亡くなったのが寛文7年(1667)ですから、『三間左三つ巴青木家』の丸石の残った墓を初代、年号のある最も古い墓を2代目(天和二年(1682))と推定しますと、『最初に伊予南域へ移動してきたのが初代、その後、2代目の時に分家した』と考えて矛盾はありません。
すなわち、この『三間左三つ巴青木家』こそ、伊予南域における我が家の本家筋、と考えられるのです。
また墓とお寺の情報から、この『三間左三つ巴青木家』が『曽根旧庄屋青木家』と非常に近い関係を結んでいたことは明白とみられ、おそらく3代目当主の妻で天台宗の墓に葬られた女性は『曽根旧庄屋青木家』の方と思われます。そこから一家を挙げて天台宗に改宗していることからも、その関係の近さがうかがえます。
『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。
そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。
あくまでも推定の段階ですが、こんな四国の片田舎でも、波乱の歴史の中でそれぞれに独自の道を選びつつ、長い長い命脈をつないできた足跡がたどれることは驚きであり、感動です。また『曽根旧庄屋青木家』と『天台宗』については、さらなる広がりも予想されておりますので、そちらをご報告できる日も楽しみでなりません。
報告は以上となります。あるいは見当はずれの点もあろうかと思われますが、これまで通り厳しいご指摘を頂ければ幸いです。