青木ルーツ掲示板
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  [No.1056] Re:先祖について明確に知りたいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/23(Sat) 10:12:46

お便りありがとうございました。

お家の概要をご理解していただきました様ですね。

では、続きまして、更に深めていただく為に次ぎの事に付いて論じます。
尚、以下の事は全て研究室などの処に論じていますので、お読みください。

次ぎの事からについて論じる必要があると思いますので、忌憚なく記述していますがお読みください。

>というのも、私の祖先は明治に入った頃京都の伏見で日本酒の醸造を営むようになり、祖父の代まで続きました。
>父も技術職で親戚のほとんどがなにかしら技術系の仕事、自営業の方が多いです。私自身もデザイン系の仕事をしていたので、何か遺伝子的なものがあるのかと不思議な感じがいたしました。

恐らくは、お家の御推理はあっていると思います。
筆者の事で云えば、「伊勢青木氏」ですが、矢張り、「先祖の血筋」を引いていまして、「伊勢青木氏」には「青木氏部」と云う大職能集団を奈良期の古来から明治期35年まで持っていた事も有って、この血筋の御蔭で技術者で過ごしました。
先祖にも隔世遺伝的にこの「技術職能に優れた者」が出ている様です。
「青木氏」には、”「青木氏家訓10訓」と云うものがあって、この中にも「技術技能に関する戒め」がある程です。
物事の考え方も遺伝で「論理性」が強く、「性格や趣味」もこの領域のものです。

お家と筆者は、その出自のルーツが異なっていますが、元を質せば、平安期には母方で皇族系の藤原氏で間接的に繋がっていた事にも成ります。
ですから、その血筋を何処かで引いているのだと思います。
血液型が同じであれば、85−90%は同じ遺伝子を引き継いでいますので、あり得る事だと思います。
これらの事は、サイトに膨大に論文として掲載していますので、ゆっくりと少しづつお読みに成ってください。歴史マニアに成り得ます程に掲載されています。
ヤフーHP歴史カテゴリーに審査されて25倍の競争率で推薦認可で登録されています。
その情報量はヤフーお墨付きの”ダントツ”です。
同じ「青木氏」として、是非、本サイトを盛り上げて頂きます様に宜しくご協力お願いします。

さて、ご質問に入ります。
先ず、最初のご質問のお答えです。

>今の時点で分かるのは、菩提寺の京都伏見の清涼院(清涼庵)の過去帳から見ますと
>第三代目の戒名が『覺譽浄光信士』とあります。寛文13年と記載されております。
>第五代目の戒名が『浄閣清涼信士』とあります。寛永元年と記載されております。
>残念ながら初代の戒名がなぜか記載がされていない為、また調べる必要があります。
>菩提寺の清涼庵縁起録の中に私の先祖のことがふれておりました。内容としましては、
>『安政二年六月秋葉堂維持費寄付〜云々、年次不明なるも青木丹波守謹恋篤(祖先)と署名せる古き権現の絵像一軸奉納せられあり』という記載がありました。

そもそも、古来から宗教的慣習として、「戒名」には、特に「浄土宗の密教」は、その「戒名」に”過去の祖の先祖の経歴”を読み込む事に成っていますし、その人物とその家柄、格式等で「戒名」を換える仕組みを持っています。
現在でも、その家の過去の家柄、格式がはっきりとしていれば、格式の高い浄土宗寺では「戒名」にその先祖の事を繁栄させる慣習に成っています。
これを「院殿居士」と云います。

さて、頂きました、お二人のご先祖の「情報の戒名」につきましては、次ぎの様に成ります。
お二人の「ご先祖の方」は、この「院殿居士」の戒名に成って居ません。
「普通の戒名」で、家柄、格式を示すものは全く無く、「普通の家」の方であった事を示しています。
「丹治氏系青木氏」ではある事は、年代期から「二つの第三青木氏」と「二つの血縁青木氏」では無いことが判りますが、然し、筋目は、矢張り、本家主筋等を示す事柄は組み込まれていません。
この事から、前回お答えした通りに「分家筋の支流傍系族」(場合に依っては縁者)であった事を示しています。

お一人目の方は、真面目なお人柄であって、人に癒しを与える性格の方であったとしています。
お二人目の方は、清純なお人柄であって、信念を以って生きた方の様です。
人生を「寺侍」(前二つの字)として真面目に務められたご先祖であったとしています。
然し、「青木丹波守・・」の「ご先祖の肩書」と前回の「お家の家柄格式のご先祖の情報」とこの「戒名」とは全く一致していません。
この場合、普通は、「院殿居士」が付く事に成ります。
少なくとも「居士か殿」は付いている筈です。
「お便り」の江戸初期の資料とされるものの様に、お家の立場、家柄、格式は物語っていません。
お持ちの資料とはお大きく離反し矛盾しています。

この事をどの様に検証するかであります。
確かに、「寺関係者」であった。
しかし、その「ルーツ」は、「丹治氏系青木氏の本筋」とは言い難く、江戸初期であれば、未だその家柄格式の事は、「ご先祖や寺関係者」には忘れられていない筈です。
むしろ、大名に成った位ですから、「世間の大トピックス」に成っていた筈です。
従って、「二代目の方の戒名」が、この「院殿居士」での戒名でなければならないのに、「三代目の方」も同じです。
つまり、何を意味しているかですが、お便りの様にこの「お家の資料とか家柄」は、間違いなく、”「後付」”と云う手段であった事を意味しています。
では、搾取偏纂の良くある「室町期の第三氏」か、「明治期の第三氏」かと成りますが、そうでは無い様です。
それは「寺に江戸期の戒名がある事」と「浄土宗である事」と「浄土宗の寺侍」と「隅切り角に桔梗紋の名誉格の職能家紋」に依ります。
取り分け,この家紋は、江戸時代には幕府から与えられた「名誉格の家紋」ですので、類似家紋や搾取をきつく禁止されていましたので、他の者が使う事はこの縛りが解除された明治以降を除いて絶対に出来ません。
徳川氏の親族さえ類似家紋や搾取は許されず、葵紋の使用さえ2年を契機に返却を義務付けられていました。
徳川氏のある姫がある大名に嫁ぎますが、葵紋の使用は期間限定で一切禁止していたくらいなのです。
この様に、徳川氏が指定し与えた「名誉格の家紋」の使用は厳格に護られました。
現在の紫綬褒章や藍綬褒章の様なものでした。

これらに関する限りの「情報の整合性」が採れています。

二つの矛盾点
さて、「菩提寺」と表現されていますが、「檀家寺」ではありませんか。
「菩提寺」と「檀家寺」とは根本的に違いますよ。

江戸初期の家康の命に依って、全て原則は「顕教方式」と成りました。
しかし、行き成り「密教の菩提寺」は無く成る事は無かった事から、この「菩提寺」を持っている「氏族」は、その慣習を財力が続けられる限りは維持したのです。
しかし、明治以降は、この「菩提寺」は、社会が「氏家制度」が無く成り社会体制が変わり、完全に無く成りましたので、「檀家寺形式」に成っています。
この「丹治氏系青木氏」は、その「大名とする財力」と「新しい姓族」ではない「古い氏族」であった事から、確かに許可を得れば「氏の菩提寺」を建立する事は出来ました。
依って、”「菩提寺」”がある事には間違いは無いのですが、さて、この「武蔵出自の氏族」が、「[京」に菩提寺が在るかどうかは問題です。
本来は武蔵か摂津にある事に成ります。
そうでなけれは、勝手な処に建立する事は法度であって、「他の氏族との争い事」と成る事と、必要以上に社会に宗教色を強くして政治に影響を招ねかない様にとする原則から等で簡単に幕府許可は出ない事に成ります。
そもそも、奈良期より「神社仏閣の建立権」は、”特定の限られた許可を持つ氏族”にしか与えられていませんでした。
江戸時代もこれを踏襲しましたので、一氏族は、自由に建立する事は出来なかったのです。
又、それを「建立する職能集団」も、「青木氏の青木氏部」の様に「特定の氏」の「建立権を持つ氏族」に所属していましたので、尚更に不可能でした。
「青木氏」は、「青木氏部と云う大職能集団」を持っていて、「祖先神の神明社」を全国500か所に建立してきましたが、この権利を奈良期から持っていました。
奈良期から室町期まで皇位の持続の「特定の権利」でした。
お家は「丹治氏系青木氏」であるので、この権利を直接持っている事はありません。

依って、朝廷の許可を得て「摂津域か、武蔵域」に「氏の菩提寺」があったのです。
あちらこちらに菩提寺を建立する事は許可が出ませんでしたから、「京の菩提寺」はあり得ません。
「京]にそれほど「丹治氏系青木氏」が「菩提寺」を建立する程に子孫拡大はあったかは極めて疑問です。
その財力を本家筋では無い「お家のご先祖筋」が持ち得ていたかは疑問です。
それは、お示しに成った「普通の戒名」からも判ります。
「菩提寺」とは、「丹治氏系青木氏」と云う氏族全員のご先祖を一括して独善で祭祀し,一族からその祭祀の僧侶を置き維持する寺の事です。
従って、既に古い歴史を持つ「丹治氏系青木氏」には,ご本家があるのですから、武蔵大宮に菩提寺があり,摂津に分寺を建立していたのです。
現在も、ご本家筋のご子孫が大宮とその近郊に多く住んで居られます。
この事から、「京」に菩提寺は絶対にありません。
菩提寺が、武蔵大宮域か、分寺の摂津域に菩提寺が在るのですから、当然に過去帳も武蔵大宮域の菩提寺に在って京では無い事に成ります。
依って、時代が,末裔が,枝葉化が起これば、「忘却と錯誤」が起こるは「当然の事」に成ります。
ある程度の期間は武蔵か摂津かの菩提寺に届けられていた事は確実ですが、枝葉化で判らなくなった事に成ります。
「過去帳」をお調べに成る時は普通は「出自先の菩提寺」にお調べに成るのが普通です。

ここにも、お家の行動の忘却が起こっている事に成ります。
既に、お家も忘却を起こしているのですから、この様な事が、当然にお家の御先祖にもあった事を証明していますね。


前回のお答えの通り、「筆者の資料」からも、無かった筈です。
恐らくは、「江戸初期の令」からも「顕教」と成った「浄土宗」の「一般の寺」であった事に成ります。
「丹治氏系青木氏」の「独自独善の寺」では無かった筈です。

この「京の寺」に「過去帳」が在る事に疑問は残ります。
江戸初期は未だ、絶対的な「氏家制度」の中にあって、むしろ、「慣習仕来り掟」を重んじた「武家諸法度」や[公家諸法度」の「封建社会」を敷いてこれを強化していたのです。
お家のお説と資料成るものの価値に疑問が大きく残ります。
大きな矛盾点です。

況してや、前回にもお答えした通り、「お家の一族」は殆どは武蔵に戻っています。
この事は、武蔵に菩提寺が在った事を意味していて、「氏の寺」があちらこちらにある事は100%ありません。
「菩提寺」である限りは、上記した様に、要するに、”菩提寺」”なのですから、「院殿居士」に成っている筈です。
「普通の戒名」である事は100%あり得ません。

調べたところでは、この「寺の歴史」には、本尊を阿弥陀三尊を本尊とする「棲霞寺」と、釈迦如来を本尊とする「清凉寺」から出来ています。
その更に前身は浄土宗では無い「華厳寺」です。
ところが、更には、この寺は[釈迦如来」を本尊とするは「顕教」です。
依って、「清涼寺」は「顕教」で、その時に寺名も平安期中頃に変更されたものです。
ところが、「浄土宗」は「阿弥陀仏」では無く、元は、宇宙仏は「大日如来」ですので、”浄土宗らしい顕教の浄土宗”と云う不思議な事に成ります。
「顕教」は、「盧舎那仏、曼荼羅仏」を「宇宙仏」として、その間に「釈迦如来」を置いた宗派です。
この寺は、元は浄土宗ではありません。その更に元は「華厳宗」です。
この寺は有名で「由緒ある寺」なのですが、「密教方式」と「顕教方式」のミックスした様な形の寺と成っています。
ですから、このややこし事に成っているのです。
従って、この寺に「過去帳・・云々」のお説は、結局、これらの知識未了の「後のご先祖 明治期頃」が起こした明らかな「後付行為」を意味しています。
この「後付行為」は殆どと云って良い位に大変に多かったのです。

つまり、この寺は、遍歴のある「江戸期の寺」と云う事に成り、お家の「菩提寺」では決してありません。
従って、お布施を基として運営される「特定多数の檀家」を中心とする「顕教方式」に変化した明確な「檀家寺」です。
「檀家寺」には「過去帳」は決してありません。「人別帳 任別帳」です。

と云う事に成りますと、現在、前回お便りに依る「お家の過去帳」としているものは、「お家の過去帳」であるかは大いなる疑問と成ります。
「顕教」には「過去帳」は無く、「人別帳」成るものが有って、それは「系統的性質]を持ったものでは無かったのです。
「税」や「所在」などに使われる戸籍簿に相当するもので「ルーツと成る系統性」は無かったのです。
中には、庄屋でこの役目を担い、この「人別帳」の無い「檀家寺」もありました。
依って、その後の枝葉末裔のご先祖の人が、「人別帳」を「過去帳」と思い込んでいた形跡があります。

況して、その前身と成る寺の建立元は、源氏族の「源融」です。(源氏は11氏ある)
お家の藤原氏系の「丹治彦王」とその息子の「島左大臣」とは、左大臣「源融」とは「氏」がそもそも異なっています。
大きな矛盾で、「お家の過去帳」であるかは大いなる疑問です。

上記の「戒名」から来る「後付の問題」の「矛盾点1」と、「菩提寺の問題」の「矛盾点2」を解決しなくてはなりません。
つまり、この現象は歴史性が無いのですから、後から付けた事に成りますので、「矛盾点2」も「後付」です。

この事が、「寺侍と丹治氏系青木氏」は、上記した様に確かですが、江戸初期に「弟系ルーツ」の一族の傍系支流か縁者か徳川氏から命じられて、「寺管理」で赴任した事に成ります。
ところが、時代が経つに連れてお家のそのご先祖の「伝統の継承」が枝葉化で薄れ、忘却した事から何れかの代の人物が、”「お家のルーツ」を作り上げた。”と云う事に成ります。
その時、「寺」にあった「他の青木氏の過去帳」等を参考に利用して、「お家の過去帳」成るものを作り上げた。と云う事に成ります。
それを「後付の事」を書き消す為に必要以上に誇示する余りに、其処に、この「大きな矛盾」が生まれた事に成ります。
それを裏付けようとして恣意的に資料を遺して証明書の落書としたと観られます。
これは「寺関係者」であった事からは容易に出来る事です。

では、この寺の「他の青木氏」とは、”「京のどの青木氏か」”と云う事に成ります。

この「嵯峨天皇」に関係する「青木氏」と成りますが、「棲霞寺」に関係した「青木氏」を探し出せばよい事に成ります。
その答は簡単です。
前回お答えした「京」に定住した青木氏を記述しましたが、この内の「嵯峨天皇」の息子の左大臣の「源融」に関係した「青木氏」を選べは良い事に成ります。
お答えは、「近江青木氏」です。
前回にもお答えした様に、元は近江に居て、朝廷の仕事をしていた「近江青木氏」は大きな遍歴を持つています。

そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子の子供」の「白壁王」(後の光仁天皇)の子供の「山部王(桓武天皇 孫)」の子供が「嵯峨天皇(曾孫)」であります。
この「嵯峨天皇」が「青木氏」を再び、「親兄弟で政権闘争」をした位に「第二期皇親政治」の「皇親族」に戻そうとした人です。
この子供が「嵯峨源氏」の「源融(曾孫)」で「左大臣」であったのです。
この時、一族の「近江青木氏」は京にあって精力的に働いていていました。
「五家五流賜姓族の青木氏」の中では、「皇親族」として「京」で”「賜姓五役」”として働いたのは、この「近江青木氏」だけでその役目にあったのです。
この「近江青木氏」には、京に長くいて「職能族の官僚」として活躍した同族系の「佐々木氏系青木氏」があります。
この「佐々木氏系青木氏」は「寺社関係の御師頭」であったのです。
故に、「佐々木氏系」には、現在でも「神職と住職」が全国的に子孫に実に多いのはこの事から来ています。
恐らくは、「青木氏の一族一門」の「源融の寺」である事から、この京の「清涼院の前身」の「棲霞寺の住職」をしていたと事に成ります。
江戸初期に於いて、お家の御先祖は、「始祖」を「丹治彦王」に持つ「丹治氏系青木氏」として武蔵から出て来て、その由緒を基に「寺侍」に成った事に成ります。

お家は、”何で、この」棲霞寺(清流院)の寺侍」に成ったのか”と云う疑問の答えは、ここで繋がっているのであります。
それは、「氏家制度の社会」であって、「全ての組織]を一族一門で固め、一族で護り合うと云う社会であったからです。

中々この「縁」が無い限りは、「寺侍などの権威」があり、「由緒ある寺」などには食い込めない社会であったのです。
恐らくは、徳川氏はこのルーツを知っていて、この事で選んで麻田藩に赴任を命じた事に成ります。

さて、更に、この関係は、実は、次ぎの事でも「縁の証明」が出来るのです。
それは、お家が今回ご質問成されている「寺侍」にあるのです。
良いところに発想と推理が届きました。驚きましたね。
その通りなのです。
鍵は、「寺侍」なのです。

次ぎの二つのご質問に関わっているのです。

先ずは、そもそも、”「侍」”と云う字を観てください。
「寺」に「人」と書いて,「侍」(さむらい)と書きます。
元は「さむらい」は「寺を護る役目をする者」としての役目でした。
この「寺」(仏)に「さぶろう」と云う古代言葉から来ていて 「さぶろう」は「沿い付き従う」の古代言葉でした。
そこから、「沿い付き従う者」を「侍」の字句を当て”(さむらい)”と呼ばれる様に成ったのです。

さて、”この役目を最も最初に務めた氏は誰なのか”と云う事に成ります。
それは、「天智天皇」が、「大化の改新」で[蘇我氏」から圧迫を受けて、「天皇権威」までも奪われる程に弱体化し、「身の危険」を感じたところから、「中大兄皇子」(天智天皇)が「神職の官僚」だった「中臣鎌足 賜姓藤原氏 斎蔵」を誘って反撃に出て、「蘇我氏」を討ったのです。
この反省から「改新]が起こります。
この時、「天皇の身の危険を護る親衛隊」が無い事から、「身内の者」をこの親衛隊にする事を定めたのです。
この為に、「王位継承者」を「第四世族内の第四位皇子迄」とし、後の「第四世族内の第六位皇子」に臣下させてこの役目を与えたのです。
後は、全て「下族」(民に返す事)させて、坂東に配置しました。
これが鎌倉幕府を作った「坂東八平氏」です。
この「臣下族」には、「青木氏」と云う「氏名」を賜姓して、「充分な武器と権力と身分と格式と保護」を与えて「皇族、皇居を護る役目」を与えました。
これが、「天皇」に「沿い付き従う者」として、「侍」と名付けて役目を与えました。
この時、天皇のみならず天皇家に関わる寺をも護る役目があった事から、この「さぶろう」から「侍として字句を作り「侍」としたのです。

この他にも、この「皇族賜姓族の青木氏」には、”「賜姓五役」”と云う言葉の「五つの役目」が与えられました。
この一つが「侍」です。
この「賜姓五役」の中には、”「三つの発祥源」”と呼ばれる他氏が成れない「名誉な役目」が与えられたのです。
(詳しくは是非に研究室をお読みください。全てを記述しています。)
この一つが「侍」で、これを務める「氏の家」を「公家」に対して「武家」と呼ばせたのです。
「青木氏」が、この「侍」で「武家」の始まりなのです。
鎌倉時代から江戸時代に成って呼ばれている「武士の武家」とは違うのです。
「侍の武家」は「青木氏」からの発祥なのです。
江戸時代には、幕府は「侍」も「武士」も同じくして「家」を構成する”「武家」”と呼ばせたのです。
元は、「貴族の公家」に対しての「侍の武家」でした。
奈良期からは「公家」と「武家」を同扱いにしたのです。

従って、「皇族に関わる寺社」には、「侍」が必ずいて、「侍」はこの「身分や家柄や格式」でもあり「役目」でもあったのです。
そもそも、平安期から室町期まで、「寺の目的」は「本来の宗教的意味合いの務め」だけでは無く、「軍事的、政治的な重要な拠点の役目」も担っていたのです。
場合に依っては、「経済的な役目」を担う寺もあった位で、その為に「防御の役目」も必要であった事から、「侍」を置いたのです。
これが「侍の起源」なのです。

つまり、「江戸期の武士」の「さむらい」は、この「侍」から来ているのです。
「寺侍」としている事は、江戸期の習慣で、本来は、「寺」は不要で「侍」で良い事に成ります。

徳川家康はこの事を知った上で、京の皇族に関わる由緒ある寺に対して、その「保護と管理」を「皇族に先祖を持つ氏族」にこの純粋な本来の「侍の役目」を職能集団として命じたのです。
これが、同時に「隅切り角桔梗紋の由来」です。
その任に命じられたのが、「丹治彦王」を始祖に持つ「源融」に関わる「寺の保護」を目的として、お家に「侍」として命じられたのです。
他氏には絶対に任じられない本当の意味の「侍の役目」なのです。
お家がこの「侍の屋仕事」をしていた事は、「丹治氏系青木氏」である明らかな証拠と成るのです。

始めは、”「近江青木氏」かな”とも思いましたが、前回に述べました「家紋判別」からはもう一つの氏の「丹治氏系青木氏」である事が判別できたのです。

お家は、上記した矛盾が在りますが、この事から、絶対に「丹治氏系青木氏」である事は間違いは無いのです。
結局は、時代が過ぎて、良く見られる「伝統の忘却」からの「後付の錯誤」に依る事なのです。

その「後付けの錯誤」は、「住職の近江青木氏」の「佐々木氏系青木氏の所縁」を利用した事に成ります。
と云うよりは、「青木氏」なので知識が無く皆同じと観て、この「氏の違いの判別」が出来なかった間違いからの事であろうと観られます。
然し、近江には、前回に述べました「青木氏」が他にも在ったのです。

そこで、念を押して、「青木氏や佐々木氏」等の「氏族」と、室町期から庶民から興った「姓族」の違いがある事を承知ください。
この”「姓族」”はこの様な仕事役目には絶対に着けません。
この朝廷が認めた”「氏族」”は、現在では、「8000の族」の中の1%にも成らない「20程度の氏族」しか残っていません。

お家はその中の一つの「氏族」です。
通称の「寺侍」であった事は、この「数少ない氏族」であることをも証明しているのです。
その中の「青木氏」であるのです。

この「氏族」には、佐々木氏も同族として同じ家柄格式官職官位名との一切の権威を持っていますが、家康はこれを政治的に保護した事は判っており、お家の嵯峨期詔勅に基づく「皇族青木氏」に命じたのです。
他に、この「皇族賜姓族」を補完する目的から、「円融天皇」に依って「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」と、「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」とはこの立場にあります。

「近江佐々木氏」は、「天智天皇の第七位皇子」で近江の佐々木の地名を採って特別に賜姓して「佐々木氏」を命じたのです。


>父方(青木家)の曾祖母の家が女官(公家または宮家に代々使えた家)の出身だそうです。
>なので、やはり朝廷との繋がりが昔からあるのかなと思いました。
>私の母方の祖母も女官の家の出身で母(立入家)の先祖は立入宗継という戦国時代に官吏として活躍した人物だそうです。

「氏家制度」と云う社会体制から、今と違って、自由に何でもの職業に就けると云う社会ではありませんでした。
全て「氏」の括りで社会が統制されていて、「氏」が責任を以って成し、「氏」の本家の意志の判断に従って、分家もその家に関わる全ての民は支配されていました。
故に、大きい社会の構造もこの氏の家柄、格式、官職、官位の位置での判断が働いた社会でした。
結婚や仕事も役目も何もかもこの「氏家制度」の「慣習仕来り掟」の範囲で動いたのです。
従って、この「慣習仕来り掟」からはみ出す様な事をしますと、生きる範囲の「氏」から追放の憂き目を受ける事に成ります。
然し、反面、経済的な保護も受ける事も起こりますので、安定し、本家が何もかも助けてくれる事も起こります。
婚姻や仕事はご本家からの指示に基づき行動する制度であったのです。
お家の事もこの中で起こった事から、「武士として名誉ある寺侍」に着けたのです。
ですから、「麻田藩との深い関係」があった事に成るのです。
従って、お家が、「麻田藩との関係」を示す事は正しい事なのです。

そして、この「母方の女官」などの事も、この「氏家制度」の中での当然の事で、婚姻は本家のとの関係から起こる事ですので、一族の名誉や家柄や格式にあった家柄からの婚姻と成ります。
従って、「女官」と成るルーツが起こる事に成ります。要するに俗に云う「つり合いの婚」です。
婚姻に関わらず、何事もこの「氏家制度」の中では、「つり合いの概念」の中で処置されました。
仮に、この処置から外れた様な事を起こすと、「氏の組織」から排除される等の非難や排斥などの罰が起こるのです。
先ずは生きて行くことは不可能に成る社会でした。
従って、この「吊り合いの社会」は母方にも適用され、むしろ、お家を証明する一つの証拠と成り得るのです。
こうでなくてはお家を証明できないのです。
極めて、「吊り合い」の取れた順当なお家の証拠です。
それは矢張り、「隅切り角桔梗紋の家紋を持つ名誉ある寺侍」であった事に依ります。
この事をも証明しています。

次ぎのご質問です。
>一点質問がありまして、基本的に寺侍は寺院から給を貰っていたのでしょうか?私の祖先は幕府から所領を与えられて生計を立てていたのでしょうか?
>藩士なら藩領から、旗本御家人なら天領からだと思うのですが、素朴な疑問がありました。
>寺侍とはどういった存在であったか?

「寺侍」は寺侍です。お家がどの様な形でこの上記した意味の持つ寺の侍と成って、どうしてこの「隅切り角桔梗紋紋」の家紋を持つてたかに関わります。
お家は、幕府から氏に命じられ一族の者に氏からこの役目を担ったのですから、「氏の宗家の摂津麻田藩」から「知行」を受けている事に成ります。
そして、そこから、それは4000石を与えた弟の分家に負担させている事に成ります。
この為に知行を与えている訳です。
命じるのは「氏の本家からの命」で、その名を受けた分家が「知行」を別に受けていれば、この「知行分」から支払われる事に成ります。
この原理に氏家制度は成り立っています。
「知行」と云う言葉には、”知って行う”のこの様な意味を持つているのです。
「命じる事」と「知行の事」とはこの関係にあるのです。
弟が知行を受けていなければ本家の知行から支払われ、本家が知行が無ければ最初に命じた幕府にある事に成ります。
しかし、現実には「麻田藩」の藩なのですから「知行」を受けている訳ですから、藩に成り、そして弟も知行を特例で受けているのですから,弟からの支払いと成ります。
その間に、知行者が居ればその者から受ける事に成りますが、無い事ですので、お家は知行を受けている弟の家臣と成ります。
徳川氏、又は、幕府は命じただけの事です。
幕府は、この”「命じる事」”で謀反を起こさない様に「藩の財政」をコントロールしているのです。
「藩の石高の知行]も幕府から受けているのです。
故に、幕府は藩に単に命じる事が出来る仕組みです。
現在は、最初に命じた者がその報酬義務を負いますが、氏家制度では最終に命じた団体がその報酬の支払い義務を負うのです。
中には寺そのものが雇った寺侍もありますが、その場合は寺からに成ります。
寺からは、礼金や小遣いの様な「賄料程度」のものは受けている事に成ります。
お家はこの家紋からそうでは無い事を証明しています。
ですから、必要以上の幕府との関係の有無を論じる事はお家を否定する事の意味を持ちます。
何故ならば幕府であれば、旗本か御家人かの事に成るからです。
この家紋はその様な意味合いを持っていません。
家紋が証明していますので幕府との関係は矛盾する事に成ります。
もし、幕府を前提に置くことは、分家も本家の摂津麻田藩をも飛び越えての侍と成る事に成ります。
これは旗本です。
人又は全ての民は、「氏」と「家」の関係を強調維持する事を基本に置いた社会の「氏家制度」の社会です。
「青木氏」、その上の、更には、「丹治氏」から離れる事はありません。
当然に、幕府、朝廷の範囲には到底にお家は及びません。

「寺侍」とは上記した通りです。
お家が「侍」、或は、「武士」の「丹治氏系青木氏」である限りは、単なる”「役目」”です。
「職業」ではありません。
ただ、”「名誉ある職能集団の侍」”、或は、「武士」である事を意味します。
従って、ここで、幕府、朝廷などとの関係があったとする説は、上記の様な「二つの矛盾」を孕む様な事に成ります。
「御資料の内容」は正確には判りませんが、上記する二つの矛盾から未だある様な気がします。
何とか家柄をよく見せようとする余りに矛盾する事を書きこむ結果と成り得ます。
「戒名の矛盾」や「菩提寺」等のものは、”「誇張のミス」”による当にその良い例です。
恐らくは、「氏家制度の習慣仕来り掟」に依って、摂津、又は、武蔵の菩提寺には、「誇張」は受け付けられませんので、正確に伝わっていると思います。

では、ご質問やご不明な点がありましたら、更にお尋ねください。



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