青木ルーツ掲示板
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  [No.1060] Re:兵庫の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/08/17(Mon) 14:59:13

兵庫の青木さん 今日は。
お家の御先祖の地の信濃旅行されましたか。
青木氏の多いところに行くと不思議に何かなつかしさが感じられる気がします。
信濃には「青木の地名と所縁」の多いところですが、中でも「青木村」を形成していたのは「小県郡の青木村」ですね。

筆者も3年前に信濃旅行を体験しました。
確かに、「墓石の笹竜胆紋」や「信濃青木氏系の所縁の地」が少なく成っていますね。

この時は、「伊勢青木氏」と深い親交が明治期までありましたので、この事前に準備した資料を頼りに信濃代々の先祖が祭祀されている寺にもお参りしました。(菩提寺では無く成って居ました。)
このお寺は、「信濃青木氏の菩提寺」が消失し、その焼跡の別の檀家寺が建てられ、寺名も同じに名づけられていました。
その後に、一般の「知恩院系の浄土宗寺」と成りました。
然し、良く調べると、一画は「古い墓形式」のものばかりで、「平安期の青木氏の女墓の慣習」も一部に遺されていました。
「青木氏の四家一族の墓」も一画に与えられていて、僅かに「古来からの伝統」は護られて現在に至っていました。
「青木氏の墓石」(福家筋)には「笹竜胆の家紋」も刻まれていました。
果たして、この「伝統」もどれだけ続けられるものでしょうか。大いに疑問を持ちます。

信濃では、ところが”「西諏訪」”に今でも「青木氏」が多く定住していました。
全て「諏訪族青木氏」でした。
伊勢の記録に遺された「信濃青木氏の定住地(長野市の円域 小県郡の円域 諏訪郡の円域 白馬村の円域)」とするところには、「青木氏」は、最早、残念ながら少なく、お尋ねしたところでは、商いの影響で福家筋は信濃の別の処にお住いに成って居られました。
一族の殆どは、明治35年頃を境に関東や東京に移住していました。

この信濃も「甲斐武田氏滅亡の影響」を受けて、「甲斐青木氏」が家康の命で武蔵の鉢形に移住、「信濃青木氏」の一部も伊豆に移住、「諏訪族系青木氏の三氏」が「秀郷流青木氏」を頼って神奈川、横浜、栃木に移住、一部は越後に「秀郷流青木氏」を頼って移動しました。

勿論、お家の「信濃青木氏系の御先祖」の「信濃足利氏系青木氏」は、前回のお答えで述べましたが、別の理由で「米子ー八頭」に移動しています。
お家は,現地で子孫拡大を大いに図ったその「三階松文様の青木氏」ですね。
「米子ー八頭」の「三階松文様の青木氏」は、「二足の草鞋策」で生き延びて「米子商人」として有名です。
その「生き様」は、鳥取域を二つに分けて、西側は商業域、東側は屋敷域として一族が互いに助け合いながら「組織的な生活」をしていた事が判って居ます。
ですから、互いの親族の結束は固く、この特徴は室町期の戦乱期にも表れていました。

仮に、現在もお家の御先祖筋が未だ信濃に住んでいるとすれば、「旧北陸道沿い」の「信濃北の国境」で、「飛騨の北の国境」で,「越中の南国境」の三つに囲まれた凹んだ「三角州の地域」に定住して居た事が記録されています。
つまり、「足利氏系青木氏」は、「棲み分け」により、現在で云えば、「長野市」の西の「小川村」から「白馬村付近」に定住していた事に成ります。
(「青木湖」がある地域です。 左メニュウーの「青木と云う地名の地図」を参照)

伊豆は、平安期から「源の頼光頼政」の領国であった事から、護衛団として「信濃青木氏」も赴任し「伊勢青木氏」と共にお家の親族であった「信濃青木氏の定住地 伊豆青木村」でしたので、ここを頼って武田氏滅亡期の混乱で「信濃青木氏」も多く移動しています。

この様なことから、信濃に遺されたお家の一族の「信濃青木氏」は、この事から確認する処では、現在では「笹竜胆紋の福家(本家筋)」の末裔だけでしたので、少なく成っているとみられます。

「諏訪族青木氏」が、神奈川、横浜、栃木、越後、越前に移動していますが、西諏訪にはまだ大変多く「諏訪族青木氏」が定住していて、当時の西諏訪市長も青木氏でした。
西諏訪には「笹竜胆紋の青木氏」が未だ遺されています。
(「抱き角紋の青木氏」が多い。)
然し、「伊勢青木氏」と明治期まで関係の深かった「信濃青木氏の福家筋」が明治後に大きく分散している様です。

然し、総紋は「笹竜胆紋」ですので、墓所には「総紋」を刻む筈ですが、「四家制度」が崩れて「青木氏の伝統」は途切れている様です。

家紋は「笹竜胆紋」で本来は一族は変紋しないのですが、「諏訪族青木氏系」も「信濃青木氏系」も家筋に依っては「四家制度」が長く続けられなかった事から、江戸期には調べたところでは移動組は可成り変紋しています。
然し、伊豆には「青木氏の伝統」が遺されていた事から,「笹竜胆紋」が未だ一番多く遺されている地域です。

筆者もいろいろな「マニアの組織」に依頼して懸命にフォローしていますが、現在では、信濃は伊勢と関係があった事から「信濃青木氏の福家筋」だけが掴めている状況です。
この様に、「青木氏の伝統」が消えゆく中で、何とか「先祖の生き様」を遺そうとして「伝統シリーズ」で論じています。
この「伝統シリーズ」では、「青木氏の事」は、「青木氏の持つ資料」の中でが論じる以外にはありませんので、全ての「青木氏に関わる慣習仕来り掟」を論じています。
青木氏には、発祥期に興された「青木氏の氏是」が在りまして、これを頑なに護る事に依って生き延びる事が出来ました。
従って、公的に「青木氏の資料」が外に出る事は古来からの禁じ手でした。
この為に、依って、”「青木氏の事」”は、「青木氏」が論じる以外には無く成っているのです。

お家も、平安期末期頃の出来事ですから、米子八頭に移動したとしても、この「青木氏の氏是」類は伝承されていたと考えます。
「五家五流の青木氏」の中でも、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には、この「青木氏の伝承」が頑なに護られていました。

上記しました様に、苦しい中でも武士を貫き、且つ、一族を護る為にも「商い」(米子商人)もし、この「米子青木氏」は「特徴ある生き方」をしました。
この事では、鳥取を東西に分ける等の事もして生き延びました。

青木氏の共通する慣習の「伝統シリーズ」をお読みください。

何か判りました、是非教えてください。



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