青木ルーツ掲示板
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  [No.1065] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/10/02(Fri) 14:05:22

福管理人様

詳しいご説明有難うございました!
お返事の内容を読みながら、
何点か思い当たる事がありましたので、ご報告致したく思います。
(今回のお返事で、私の中に、膨大な、疑問・推論・新事実が湧き出し
整理するのが大変な状態になってます。)

まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、
調べて見ました。そこで、分かった事は、
明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた
”永嶋”へ戻したと考えられます。(墓の台座に永島と彫ってあったものは
明治40年代以降のものに限られてました。)
この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば
『明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと
現在私は考えております。

「慣習仕来り」や{経済的背景」をキーにして、時代背景及び除籍謄本から推測すると、
嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のような
ドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を
通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった
「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。

この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の
大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い
上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。

と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。
(こちらの方が説明が簡単そうですので)
お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか
写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で
彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが
特定には至りませんでした。
”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば
”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)

こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと
今更ながら後悔しております。
山の中と言う事もあり、薮蚊が多く、10分程度で逃げ帰ってきて
しまった事が悔やまれてなりません。

この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方が
いらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか
調べてみました。測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、
お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの
極めて簡単な方法です。

お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに
調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、
唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし
、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまって
いるからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように
思います。もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の
祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が
沸いてきます。もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、
”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは
筋が通るように思います。
もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうと
したのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)

また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り
私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。

そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
これも、写真を添付致します。(←添付できませんでした。)
やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。

この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山
お墓が在ったと聞いております。現在は、この土地を手放してしまった為、少し行った
所がゴルフ場になっております。このゴルフ場の開業が平成2年
となってましたので、取り壊しがあったのは最近のようです。

本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に
移したと聞いております。
これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。

また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも
10以上は一所に収めているようでした。

お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで
竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。

ここまで書いて随分な量になってしまいました。
また、改めて”明治中期の第六段階”についてはご説明致したいと思います。

拙い文章で、分かりづらく申し訳ございません。



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