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  [No.1066] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/10/03(Sat) 16:23:29

こんにちわ。
連投申し訳ございません。
私の考える、『明治中期の第六段階』
について、述べて行きたいと思います。
事前に言い訳ではございませんが、あくまで
私の推論ですので、後から間違いと判明する事も
ありますので、ご容赦下さい。
ご参考までにご報告致したいと思います。

まづ登場人物は、以下の3名です。

永嶋佐兵衛(先代)
永嶋治郎次(二代目)
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)

佐兵衛の爺さまは、天保拾弐年(1841年)生まれで
幕末〜維新〜明治の日本が180度ひっくり返った
時代を生きました。有名な事件に関与したかは不明ですが、
19歳の時に桜田門外の変。23歳の時に禁門の変。
26歳で大政奉還。27歳の時は、江戸城無血開城、
会津戦争、明治元年と20代の多感な時代を幕末の
動乱の中で過ごしました。断髪脱刀令は30歳の時です。
ちょん髷を切る時にはどんな想いだったのか?とたまに
想像したります。

その間に、佐兵衛(先代)爺さんは、嫡男に恵まれず、婿養子を貰います。
貰い先は、柴崎家で、佐兵衛(先代)の奥さんの実家です。
佐兵衛(先代)爺さんにとって、奥さんが柴崎家からきて、婿養子も
柴崎家からと言うと、永嶋家と柴崎家は、
かなり血縁の深い間柄だった事が分かります。

その婿養子が、永嶋治郎次(二代目)です。除籍謄本には出生日の
記載が無いので当時何歳かは推測でしか分かりません。
永嶋家に来たのは20〜25歳頃では無いかと私は考えています。
そして、多分この頃に家督も継いだのでは無いか?と考えております。

この永嶋治郎次(二代目)は、現在の親族に大変評判が悪いです。
それは、この爺さまが博打に手を出し、財産を失ったと
されている人物だからです。
最初、私も「そうなのだろうなぁ」と思っていましたが、この時代を
調べてみると、そうとも言えない深刻な事実がある事に気づきました。

この時の日本の経済環境は最悪の事態で、所謂、松方デフレが深刻化し、
農民を中心に貧困に苦しんだ時期でもあります。

特に米の価格が値下がり、1884年は、米価は3分の1に、
自作農は21万軒が破産。100万人が没落し、1885年、自殺者は 7282人
に上ったとされています。

計算上ですが、この時、治郎次(二代目)爺さまは24〜29歳です。
お家の経済事情はかなり逼迫していたと考えられます。
そんな中、”博打=ムチャな投資”をしてしまったのでは無いか?
と言うのが私の推論です。デフレ期に大規模投資はリスクが大きすぎます。
多分家族の反対を押し切って無理な投資を行い、失敗し、多大な負債
を抱えた結果、全財産を失ったのだと思います。
この失敗が事実上、永嶋家の破滅を引き起こしたのだと考えました。

最初は、遊び人で丁半博打かなにかに、のめり込んだのかと
思っていましたが、時代背景からするとそんなお気楽な時代では
無いのではないか?と思うのです。(あくまで憶測ですが・・・)
私は、この二代目の治郎次(二代目)爺さんは、米価低下する不況の
中、何とか苦境を脱しようと必死に考えた結果の大博打(投資)に
敗れてしまい、結果、家を潰すまでになってしまった事を随分悔やんだと思います。
その心情は多分、苦悩して、くやしくて、くやしくて、悔やみきれない
心持だったのでは無いかと思うのです。
そして、私は、この治郎次(二代目)爺さんが、今の親族に未だに恨まれている
事について、少し不憫に思うのです。

そして、治郎次(二代目)爺さんは責任を感じ、心労が祟ったのか、
明治35年(1902年)この世を去りました。
歳にして、42〜47歳の比較的若い死だったと思います。

このような大ピンチの経済状況で家督を継いだのが、23歳の
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)です。
私は、この時家督を継ぐのが誰か、ひと悶着あったと考えております。
その理由は、永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)の2つ年下の
『叔父』がいたからです。この時、実は永嶋佐兵衛(先代)の成人した
次男坊がいたのです。長女(永嶋治郎次(二代目)の奥さん)との
歳の差が18歳!
永嶋家の経済状況をどん底に叩き込んだ、永嶋治郎次(二代目)の息子
に家督を継がして良いのか?それよりは、先代の次男坊に
家督を譲るのが正統ではないか?と言う論争は当然でたと思います。

しかし、永嶋佐兵衛(先代)が最終的に判断し、
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)に家督を譲る事に
したのだと思います。

永嶋佐兵衛(先代)は、家督相続も見据えて幾つか手を打ちました。
まづ、先代は永嶋家の苦境を何とか脱する為に、菊池家に助けを求めました。
明治34年(1901年)菊池家の息女を三代目の忠治爺さんの嫁にもらってます。
そして、明治38年(1905年)先代の永嶋佐兵衛はこの世を去ってます。
同年、永嶋佐兵衛の次男も分家届けを出し、永嶋家から除籍しています。

先代の佐兵衛爺さまは、菊池家への縁組を成功させて、家の家督相続問題のゴタゴタを
治めてから、それを見届けてからこの世を去りました。天保の幕末生まれの
男とは、かくも死に際が見事なものかと思わざるを得ません。

永嶋忠治(三代目)は、菊池家から経済的な支援も受けていたのでは
無いかと私は考えてます。その理由は、忠治(三代目)爺さまが、
菊池家に大変感謝をしているように思えるからです。
その根拠は、忠治(三代目)の長男に、菊池家の”菊”の字を取って
名前を付けている事、さらに次男坊の”伊の八”は義父の”伊八”から取って
いる事。(私の祖父が伊の八です。)もっとも祖父は”伊の八”と言う名前が
かっこ悪いと言って嫌っていたようですが。

そして、忠治(三代目)爺さまは、さらにお家安泰を狙い、永島家(永島郷土館)に助けを
求めたのでは無いか?と私は考えております。実家から郷土館まで約40km。
頼れる近所の親戚筋だったと言えなくも無いと思います。そして、この時期から、除籍謄本上で
記載される名が”永嶋”から”永島”に変わっています。
経緯は分かりませんが、郷土館の永島家の保護下に入ったのでは無いかと言うのが
”永嶋”から”永島”へ変わった名前変更の理由だと私は考えております。

その後、忠治(三代目)爺さまの、菊の文字を持つ長男は、近所の永嶌新蔵の
孫娘と結婚をします。この永嶌家は、住所が実家とほぼ同じである事から
『九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、
「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。』とお返事頂いた
九州のような他の地より移動してきた一族の者では無いかと思います。

この時、菊の文字の付く長男に娘(長女)が生まれました。しかし、理由は
分かりませんが、この娘が6歳になった頃、別の菊池家へ養子へ出し、永嶌新蔵の
孫娘とは離縁をしたようです。その次に結婚した相手が、前回、本家の親戚で
お会いした90歳の大叔母になります。

この後に、日本は第二次世界大戦に突入し、人も国土も大きく損なわれて
過去の系譜が分からなくなってしまい、今に至っているのだと私は
考えております。
ですので、忠治(三代目)爺さんが何故、明治44年から永島から永嶋へ
名を戻したのか、もはや確認する方法がなくなってしまってます。
(もしかしたら90歳の大叔母はご存知だろうか?・・・)

長々と書きましたが、これが、私が理解した
直近の千葉の永島家?永嶋家?に幕末から昭和、平成に
かけて起こった出来事です。(多分に憶測を含みますが・・・)

しかし、多かれ少なかれ事実に基づくとこのような話なのだと思います。

直近の系譜だけも、その時、その時で懸命に生きるご先祖さまが蘇るように思います。
きっと、もっと過去のご先祖さまも、何時の時代であっても
懸命に生きてこられたのだろうなと
思います。そういった系譜が重なり幾つもの家族とつながり、
ひいては、この掲示板に集う多数の家族を結びつけているのだと思うと、
ご先祖さまに心から感謝したい気持ちで一杯です。

随分と長い文章で、しかも、かなりパーソナルな内容ですので
なんらご参考にはならないかとも思いましたが、青木氏とも縁のある
一族の生き様をご紹介するのも少しは意味がある事なのかもしれないと
思い、投稿する事に致しました。

まだまだ、永嶋佐兵衛(先代)から先の流れが分からないので
これからも色々と調べて行きたいと思います。

また、調査して疑問が出て来ましたらお教え頂けましたら
大変嬉しく思います。

内容が個人的な部分も含んでおりまして、感情的な物言いになり
お見苦しい所が有りましたらご容赦頂けたらと思います。

今後とも宜しくお願い申し上げます。



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