青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1067] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/13(Tue) 09:13:04

黒木さんの永島さん 今日は。
早速、お読み頂き有難う御座います。

お答えが遅れました。実は転居致しまして、この為にお便りを直ぐに出す事が出来ませんでした。
申し訳ありませんでした。

色々と、お家の御先祖の事に御推理されている事に感謝します。
このご努力そのものが「ご先祖への敬意の表れ」であり、「伝統」の基に成る行為と考えます。

「ご先祖の生き様」に思いを馳せる事は、これからの「子孫への思い」に通ずることにも成ります。
なかなか「ご先祖の生き様」を浮き上がらせる事は、情報を引き出す伝統や資料や口伝などの消滅も在って現在では難しいものと考えます。

然し、歴史観を通して少しつづでも「紐解き」をして行く事で、大まかな処は観えて来るものと思います。
これを後の子孫に「先祖のロマン」として遺してやる事も、「子孫の心」を豊かにすると思います。

さて、そこで、次ぎのお便りに付いて、筆者の考え方を披露して観ますので、現在まで判った「ご先祖の由来」について更にお考えを纏めてください。


>まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、調べて見ました。
>そこで、分かった事は、明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた”永嶋”へ戻したと考えられます。
>(墓の台座に永島と彫ってあったものは明治40年代以降のものに限られてました。)

さて、そこで、江戸期前と明治期後では社会体制は異なっていますので、「ご先祖の生き様」取り分け、「氏名の有り様」に付いては江戸期前の論理とします。
何故ならば、明治期には、「氏名の呼称」は「維新戸籍簿」以上の氏名を興す事は出来ません。
と云う事で、先ずご推理には、若干、無理が在ります。
それは、戸籍上で「永嶋氏」から「永島氏」に変わった時期を、「初めてとし、明治38年」としていますが、これは、無理です。
「明治維新の苗字令の3年」と「督促令の8年」があって、明治9年にほぼ正式に全国民の戸籍が定まりました。
この間に「維新に対する政治的な色々な関連する動乱」が起こりますが、どんなに遅くとも明治13年には確定しています。
つまり、これ以後に戸籍上、「維新戸籍簿」で戸籍が定まりましたので、新たな苗字を起こす事は出来なかったのです。
明治38年では、完全に政治が安定しています。
「除籍謄本」ですので、この明治38年には、「永島氏」が「何れかの土地」でお家の戸籍上では定まっていて、そこから、婚姻等で、初めて、ご先祖のどなたか、恐らくは、祖父に当たる方が、ご本家筋から維新戸籍法に基づいて、籍を新たに移して、別家の「永島氏」を設けた事を意味します。
それ以前、つまり江戸期には、「人別帳」の範囲では、且つ、「永嶋氏一門」の範囲では、先ず、「永島氏」であった事に成ります。

次に、”永嶋氏に明治44年に戻した”とすると、これは、戸籍法にて「永嶋氏」に「養子縁組」をして、何れかの「永嶋氏の家」の「跡目」を継承した事に法律上は成ります。
それは、「何処かの遠縁の養子縁組」か、「何処かの維新戸籍に登録された縁籍筋の永嶋氏の断絶した家」を再び「養子縁組の形」で興した事に成ります。
これ以外には明治8年以降は起こりません。
自由には家を勝手に興したり作ったりは出来なくなっているのです。
”「永嶋氏」も新たに作って”と云う事は出来なく、「維新戸籍に登記された家以外」には新たに出来ません。
全て「養子の形に依る継承」と成ります。
これは「永島氏」であろうと別の氏姓であろうと変わりません。

そうすると、「お家の系譜」には、「永嶋氏の家」と「永島氏の家」の「二流の家筋」を持ったお家と成ります。
明治期に成っても、江戸期の「秀郷一門の永嶋氏ルーツ」の中にある事に成ります。
「永嶋氏」を継承した後には、厳然と継承者がいるかどうかは別として、戸籍上は「永島氏」も遺る事に成るのです。
つまり、お家の者は、「永嶋氏」か「永島氏」の「断絶した家」を「養子縁組」の形で起こす事が出来る事に成ります。
平たく云えば、まだルーツを継承している事に成りますね。
然し、以前のお便りからすると、明治44年に永嶋氏に成ったにも拘らず、現在は永島氏の方の家を継承している事に成っていますから、永嶋氏にはお家の先祖の別の誰かがこの「永嶋氏」を養子縁組で継承していて、お家の家筋は矢張り永島氏であった事になりますね。
つまりは、”親戚に永嶋氏の人がいる”と云う事に成りますね。
依って、お家は、江戸期初期の後頃から「永島氏」を継承している事に成ります。
然し、「明治40年の墓所の彫刻の永島氏」は、「伝統ある本家筋流れを持つ永嶋氏の格式」を持つ「江戸初期の永島氏」とは違う様に読み取れます。

>この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば、明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと現在私は考えております。

さて、この件ですが、逆ではありませんか。
そもそも、上記とした通りの経緯から、「永島氏」から一族の誰かが何処かの縁籍筋の「永嶋氏の跡目」を継承している事に成る訳ですから、そもそも衰退ではこの事は出来ない筈です。
この「永嶋氏の跡目」が、”「断絶跡目」”か、単なる”「養子跡目」”かは別として、「壊滅的」とは考え難いのではありませんか。
「断絶跡目」の場合は、「養子跡目」よりは、「経済的な裕福度」は高く無ければ出来ない事です。
何はともあれ、明治44年の「永嶋氏継承」では盛り返しているのではありませんか。
多くの家族を養う事が出来た事が出来て、他家に養子に出す事が出来るレベルは衰退とは成らないのではないでしょうか。
むしろ、お家が推理する「明治期の第六段階」は、「元のルーツ」に拡げ直した期になると考えます。
さて、そこで気に成るのですが、その「明治44年の永嶋氏」ですが、”どこの地域の永嶋氏”でしょうか。
「江戸末期の永島氏」のご本家の「明治維新戸籍簿」には、出来た最初の「永島氏の戸籍簿」には、「士分の場合」は、「何処から来た者かの発祥地域の記載」があります。
除籍簿にも土地記載がありますので、何処の土地の「永嶋氏に跡目」に入ったかが判ります。
これに依って、「断絶養子の跡目」か「養子縁組の跡目」かは凡そ判別できます。

兎も角も、明治期は、江戸期と違って、社会体制は、一族で纏まる社会の「氏家制度」から、「単位家族制度」に変わりましたので、衰退の様に観える事にも成ります。
この「明治期の衰退」と観えるのは、そもそも「氏家制度」ではありませんので、「氏の衰退」ではありません。
当然の有り様です。
そこで、明治末期には「永島氏」が、「他家(永嶋氏)」(他氏では無)を興したのですから、むしろ、混乱期を押し通して頑張って、遂には、「ルーツ元の永嶋」を再興した事は「繁栄」と観るのが正しいのではありませんか。
そこに”当主が云々”は別の問題ではありませんか。
何にせよ「永島氏」から「永嶋氏」ですからね。
「分家筋」から「本家筋」を興す事はなかなか無い事ですからね。
その「繁栄」もどこの「永嶋氏」かでそのレベルが判別できますね。

そこで、実は、気に成る一点が在ります。
それは、「菊池氏」です。
「菊池氏」には「阿蘇神社系の菊池氏」であり、「元寇の役」の際に北九州に集まった「秀郷一門の永嶋氏」と「九州域」を制圧していた大蔵氏」と血縁し、それに「九州の大蔵氏系菊池氏」があり、この「菊池氏」と「大蔵氏系永嶋氏」が血縁をして、江戸期直前にこの「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」が江戸に移動しています。
そして、この「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」と秀郷一門と更に血縁をしています。
恐らくはこの末裔ではないかと観られます。
この時期に、北九州では多くの豪族が秀郷一門と血縁をしているのです。
例えば、佐伯氏や大竹氏は秀郷一門と血縁して、その末裔の者が関東の秀郷一門の名籍を継いで関東に移動定住しています。
特に秀郷一門主要五氏の「永嶋氏」を初め、「進藤氏」や「長谷川氏」も血縁して名乗っているのです。
そして、「調整役の進藤氏」や「護衛役の長谷川氏」を名乗ると共に、遂には、「秀郷一門の関東佐伯氏」も秀郷枝葉一門として発祥させているのです。
お家が云う「菊池氏」も同じで、その秀郷一門枝葉の「関東菊池氏」だと思います。
そして、その「永嶋氏の跡目」を継いだ「明治44年の永嶋氏」もこの「大蔵氏族菊池氏系永嶋氏」だと思います。
と云う事は、お家の「永嶋氏系の永島氏」は、「九州の永嶋氏」とも同族血縁をしている事に成ります。
お家の「明治後の永嶋氏」は、明治後では「九州の永嶋氏」であった可能性があります。
つまり、明治期には未だ「永嶋氏(永島氏)の伝統」は一族の中ではある程度に伝承されていた事に成ります。
「明治44年頃の永嶋氏」は、関東本流の格式を持つ永嶋氏では無いのではと観られます。
江戸期初期の「宗家の永嶋氏」では無く、九州の菊池氏系の永嶋氏であると観られます。
明治期には、「宗家筋の永嶋氏]は、実は「宗家本家の格式」を落としての衰退はしていないのです。

>「慣習仕来り」や「経済的背景」をキーにして、「時代背景」、及び「除籍謄本」から推測すると、嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のようなドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
>この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
>確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。
>この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。

何処の家にも、「社会的な経済的衰退」がある事でしょう。
その事に依る事件も起こるものですね。
この様な事件等の御先祖の生き様を網羅する事に依り、子孫が迷った時にこれを観て、「生きる力」や「考える力」を蘇らさせて、頑張る様に成ると伝承伝統を伝える意味も出て来るものです。
出来るだけ「金田一氏」に成り切って書く事も小説的に伝承するも良い事だと思います。
是非、推理を交えての伝承にして下さい。


>と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。(こちらの方が説明が簡単そうですので)
>お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが特定には至りませんでした。
>”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
>(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)
>こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと今更ながら後悔しております。

昔の碑文には、一定のルールが有って、その一つには一族を指し示す何かの字句を読み込むルールが有ります。
歌などの様に、「枕詞」は地名の読み込みですが、「永氏」として「永」と云う字句を「永嶋氏の想起」を呼び起こすものとして使われているのを観た事が在ります。
地名の場合は。その一族が住んていた地域の枕詞が在りますので、其れを解明すれば良い事に成ります。
つまり、「永嶋氏の定住地」の「地名」を以ってして「永嶋氏を想起させる字句」としたと云う事もあります。

”「詠」とも観える”とした場合は、「永の字句」を使ったとも考えられます。
この根拠には「永」は「永久の意味」をも持つ事に成り、「読みこみ」としての上手さが観えるとも取れます。
ただ,「藤」でも、直接に「藤の字句」を使うかは別で、その碑文の「上手さ」は、一族の誰でもが想起や連想を呼び興すものである事が「上手い碑文」とも成ります。
「総紋」の「藤の花」は「下り藤紋」ですが、これを「別の形」で云い換えて連想させる方法も採っている様です。
例えば、「藤の花」は「紫」の色の代名詞と成っています。
この「紫」は、「高位の身分の者」や「藤原氏の氏」が特別に朝廷から使う事を許された「身分を表す色」なのです。
碑文の状況に依っては総紋の「紫花」ともとする事も考えられます。
今回は「山」を読み込んで掛けていますので、「山」に”「紫の藤の花が咲き乱れる様」”を読み込む事にも成っているので、この「碑文の内容」では「花」を重ねて読み込む事は無いと考えられますので、今回は「紫花」では無いと観られます。
例えば、「僧侶の袈裟色」はこの紫の色が最上位を表します。

「藤原氏の守護神」は「春日神社」ですので、「春」を使った事も考えられます。
この短文の碑文作成の要領からしても「紫の字句」とも考えられます。
もう一度、お調べに成って考えてください。


>この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方がいらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか調べてみました。
>測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの極めて簡単な方法です。
>お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまっているからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように思います。


良いところに気ずかれたと思います。
これは、藤原族の主要五氏の永嶋氏は春日神社ですので、この「唐沢山神社」が「春日神社系の分社」であるかをお調べに成る必要があります。
違えば関係は無い様に思えますが、お家は分家筋ですので「分社」である事は、充分に有り得ますので推理は当たっていると考えます。
確認してください。
昔はその様な線上に並べると云う「方位学」と云うものがありましたので、あり得る事でしょう。
コンパスと云う完全な方位では無くても良い習慣ですので、概しての範囲で良かったのです。

>もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が沸いてきます。
>もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは筋が通るように思います。
>もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうとしたのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)

墓の向きは、浄土宗仏教の慣習で、「墓」は、原則は北向きが好ましいのですが、或は「武蔵のルーツ元」の「入間」に向けて建てると云う事もあります。
昔より北は「仏の路]と云われ、「高位の方向」と云われて「天皇が坐す位置」として崇められてきました。
これには根拠があって、北はN極で、南はS極です。
北には「強力な磁場」が存在し、この地球上にある物全てはこの磁場に引き付けられています。
そもそも人間もこの磁場の御蔭で脳幹が働き、脳がシナパスを通じて反応し動く仕組みに成っています。
従って、頭を北に向けて寝ると、この「SNの地場」に引き付けられて、脳は磁場に強く影響を受けて体の機能に影響を受ける事に成ります。主に自律神経に働きます。
この様に、SNに対しては、取り分け、S極に対しては”「仏の路」”として定められていて、この道を邪魔にするとかは不浄にするとかは法度でした。
依って正常に保つ事が必要なのです。
当然に「墓所」はこの方向に向けて建てて、「仏の路」を作るのです。
従って、この概しての方向が、「北向き」か「入間」の方向に向いているかを確認ください。
この慣習に従っていると思います。
つまり、字句にしても「仏の路」ですので、一族一門を代表する何かの字句や文様を刻む事に成ります。
この方向に合って居れば、「藤の字句」に相当するものが刻まれている事に成ります。
「永嶋氏]の場合は、「常陸の方向」に成ります。
永嶋氏は関東屋形として室町期末期まで勢力を高め、江戸期でも御家人として格式を張っていましたので、仏の路は護った筈です。

>また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
>この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
>従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。

原則は、「刻む」と云う事に成りますが、本来であれば、「永嶋氏」では「燈篭」になるものが傍に在って、それに”刻む”と云う藤原氏の様な「高位の氏の習慣」でもあります。
これは、根拠が有りまして、最初、奈良期の初期の「墓という慣習」が始まった時には、当時は現在の様な「仏壇」と云う形式では無く、又、「仏壇」と云う言葉と何がしかの物を以って弔う慣習は在りませんでした。
最初は、”「仏舎」(仏舎)、又は「荘倉」(みくら)と云う方式で、奈良期の古くから藤原一族はこの慣習に従っていましたから、後に、これを「燈篭の形」にしていたと観られます。
「墓所の傍」に「仏の路」を照らす目的から昔の「墓の形の名残り」として建てたものです。
現在でも、何処でも「家の庭」に建てる習慣も、”お盆の仏の祭祀には道を照らし導く”と云う目的から庭に建てられたものです。
それが、「仏舎と燈篭と仏説」を組み合わせて一つの形にしのが「仏壇の形」に変化したものなのです。
従って、「燈篭」の様なものが「永島氏の墓所」にはあったと考えられます。
江戸末期にはこの「墓所の燈篭」を庭に持って来て据えてしまうと云う現象が起こりました。
もしかすると、ご本家の庭にはこの「墓所の燈篭」を持ち込んでいる事も考えられます。
ゴルフ場に成った事から、この燈篭を放置する訳には行かないので庭に持ち込んだ事は充分に考えられます。
恐らくは、「永島氏」ですから、この慣習を江戸期末期まで引き継いできていますので、近くにこれに当たる何かあるのかも知れませんよ。
そもそも、その総合的なその一つの「先祖墓」の様に慣習を護っているのですから、この「仏舎」や「燈篭」の様なものがあった可能性があります。
これは高位の藤原一門の浄土宗の密教の慣習ですから、確実に在ったと考えられますので一度お探しください。
「伝統シリーズ」の1から7までの論文に詳細が書いていますのでそれをお読みに成って参考にして下さい。


>そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
>やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。
>この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山お墓が在ったと聞いております。
>本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に移したと聞いております。
>これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。
>また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
>私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも10以上は一所に収めているようでした。

そもそも,戒名には、一定の戒律があって、夜とか的とか自虐的な文字を使う事は禁じ手です。
極楽で名乗る戒名ですのです、考え難い事です。
恐らくは、お墓の建立は前回のお答え通り「江戸初期の直ぐ後」と云うことであると思いますので、墓石は多かったと考えられます。
何故ならば、永嶋氏と永島氏は室町期末期に秀吉と互角の戦いをしました。
永嶋氏の結城氏は、「陸奥白河の戦い」で秀吉の最大の敗戦歴を作った一族です。
3000人と云う死者を出して、大阪に逃げ帰った事でも有名です。
伊勢の永嶋氏や伊勢の青木氏らが、秀吉の背後を突いた為に、白河では無理攻めをして最終は落城させましたが、敗戦の形は拭えませんでした。
この敗戦の始末処理如何では、豊臣家は無かった事にも成り得たのです。
元々は、この「白河」を陥落させた後に、下総の永嶋一族一門を攻め落とす計画でした。
ところが,一門の助っ人が各地から秀吉の背後を突いた事から、中止した戦歴を持っています。
従って、この煩い秀郷一門の処に家康を送り込んで衰退させようと関東に転封させた背景がある位です。
この事でも判る様に、江戸初期も大いに永嶋氏一族一門は栄え、直ぐこの地で家康に依って御家人旗本と成って栄えたのですから、確実に墓所は多かった事が云えます。


>お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
>この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。

「永島氏」に執っては重要な事ですが、「伝統」は可成り消えている様ですので、相当に研究しなくてはならない事に成るでしょう。
取り分け、多くの伝統を維持する役目にあったにも関わらず、ご本家もこの動きに無いのですから難しことだと思います。
お家が、概要でも良いですから、推理を含めて遺す事も意味が在りますね。
「青木氏の同族である近江佐々木氏」は、「青木氏族の永嶋氏」の観点からルーツに付いても研究しています。
筆者は基本的な事はこの佐々木氏からの永嶋氏に付いて学んだ経験を持っています。
お家は、この青木氏の研究論を参考にして歴史観を高めて頂き、これからの見学時の判断の基礎要素を高めて頂ければ、ルーツ探訪の際にはこの歴史観で観る事が出来ますから、より多くの情報を獲得する事が出来る様に成ると思います。
筆者もこの経験から多くを学び獲得しました。
「ルーツを知る歴史マニア」と云うのはそういうものでは無いでしょうか。

是非、慌てずにゆっくりとお読みに成って推理力を高めて置いて、後に資料や記録や先祖の遺産を観た時に、この時の推理が当たっていたか、何処がずれていたかは判って来るものです。
推理は大いに必要です。高めれば高める程に正確度は増します。

この為にも、「青木氏サイト」は青木氏族としてご協力させていただきます。

では、ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー