青木ルーツ掲示板
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  [No.1084] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/01/05(Tue) 16:21:47

新年、あけましておめでとう御座います。

本年も宜しくお願いします。

さて、「年始のお墓詣り」に出かけられたとの事ですが、最近は、「年始のお墓参り」も少なく成りました。地方に依っては年末にする習慣もあります。
青木氏は、古来より年始ですね。年末は「墓掃除」で行きますが、一族家族そろっての「本参詣り」は「年始」です。

>児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
>皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
>他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。


お家は、以前お答えいたしました様に、元は「伊勢青木氏」の「祖先神の神明社」の「神職の家柄」で、その「分家筋」ですから、「ご本家の柏紋」から出自し、「支流の丸付き紋の柏紋」と成って栄えました。

従って、元は、伊勢松阪にある「青木氏菩提寺」が「柏紋の青木氏の元寺」と成ります。
歴史ある「深谷神明社」を護り続けた事から深谷に定住した「伊勢青木氏の末裔」です。

従って、お家一族のその後の「青木氏の分家墓所」は、「柏紋神職の青木氏」が持つ「神明社の社領の地権」の範囲の中で、別ら墓所を設けて深谷から分離している可能性が有ります。
「ご本家筋の墓所」は「神道の原則」を護っていますから、「深谷の神明社」の直ぐ近くの社領内にある筈です。

「深谷神明社」の「神道」ですので、その後、「普通の墓所」と異なり「本家の神道墓所」は、その性質上から、恐らくは手狭であったと観られます。
依って、本来は「丸付き紋」を用いない慣習に従っている「青木氏」ですから、慣習に従わず敢えて「丸付き紋」を付けて「分家支流族」を形成している「大きな子孫力」を持っている以上は、「神道の墓所」では到底狭い事に成りますので、「墓所」を別にする事が起こったと考えられます。
この時、当然に「神明社4社」が、深谷から児玉郡等に十数社に分社していますので、本家だけの墓所では手狭に成り、分社のある地域にも、その「分家の土地」(児玉郡美里域)として分け与えられた場所に一族が住める「居住地]と「分家墓所」を敢えて設けたと観られます。

しかし、その後、「神道」ですので住職では無くて「一族の代表の方]が管理していた事に成るのですが、その多く成った墓所には、何時しか維持管理の為に「小寺」を建立し住職を招いたと成ります。
其処から、お家一族の栄枯盛衰の変化で以て、その寺の維持管理も大変と成り無住職の寺の墓所と成った経緯を辿って現在の勝輪寺の檀家寺として権利を譲ったものと成ったと観られます。
依って、殆どは「柏紋の青木氏」の「一族で占める墓所」に成った事と成ります。

お家の「柏紋の神道」もこれに沿った経緯を持っている事に成ると思います。
500社に上る全国の「青木氏に関わる神明社」は、[青木氏の定住地」に建立しましたが、江戸初期に徳川幕府に全て引き渡しました。
この時、各地にある「神明社の神道の墓所」(柏紋)はそのままに成りました。
それまでは、「伊勢青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏」が「二足の草鞋策」に依って得られた財力で、この全国の500社の神明社を「独自の職能集団」の「青木氏部」が修理保全を担ってきました。

依って、その後は、この徳川幕府の管理に移行しましたので、一部はこの「神明社の神職」として残りました。
従って、その神職は「神明社の歴史の遍歴」に沿っていると思います。
この時、「柏紋の神職の青木氏」は、多くは伊勢か信濃か甲斐に戻りました。
他の一部は、「青木村」を形成する村に「独自の祠」を維持する神職として残りました。
お家は、恐らくは残留組と観られます。

その後、「幕府の財政難」と「神明社の人気の低下」で、大変、「神明社」は,例外なく荒廃し、衰退し、遂には、各藩に修理令が出る始末に成りましたが全く進みませんでした。
この時、「荒廃した神明社の神職」を離れた「柏紋の青木氏」が「各藩の家臣」等に成った経緯を持っています。

前回お答えしました様に、甲斐青木氏系柳沢吉保が所沢に神明社を建てたのもこの事から来ています。
「柏紋の青木氏」も吉保の家臣に成った者も居まして、その後、柳沢氏は奈良に移封しましたが、この時に付き従ったお家の一族の方が「柏紋の青木氏」が奈良に分布しています。

そこで、先ず「家紋掟」で家紋は長い間には変化するものですから、お家の分家が「柏紋や巴紋」に所縁があるとすると、「分家の位置づけ」はご本家にそう遠くない分家であった事に成ります。
現在の墓所が児玉郡とし、周囲にはお家の家紋を中心に別家紋と別氏があるとすると、「神道の墓所」ですから「二番目の墓所」であったと考えられます。
「分家筋の墓所」としたところではないかと考えられます。

「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

そのお家の「分家筋の墓所」であった「氏の家紋」から観て、寺に他氏の墓所がある件ですが、他のものは明治期ものでは無いでしょうか
>内田家の丸に十字の家紋
>代々木家の八ツ矢車の家紋
>丸に鷹の羽

先ず、この家紋の主家は、「丸に十字」は島津氏、「八矢車紋」は佐藤氏、「丸に鷹羽」は白須氏ですが、江戸期前にこの「姓族の墓所」が、此の寺処にある事は、「国元の墓所に埋葬する事」を前提としていますので、有るとすると「国抜け」と成りますので、江戸期までは「棲み分け」を原則としていますので明治期で無ければ先ずはあり得ません。
ただ、実は、この「矢車紋」には、「神職」が多いのです。
その事から、そもそも、この佐藤氏は、秀郷流一門で同門で、「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏」とは「同紋の縁籍関係」にあり、且つ、武蔵はその本領ですから、何かお家との所縁があると観られます。
考えられる事として、「神職関係」から養子縁組等が起こり、実家先の断絶家を嗣子に興して、その墓所をここに設けたとの見方も出来ます。

可能性として、普通は「家紋掟」に依り男子跡目が出来ず、先ず「養子先の家紋」に変化して行くものですが、全て「三つ柏紋]であったとすると、可成り後にまで「神職」を続けられていた事に成りますね。
普通なら、悠久の歴史を持つ「深谷神明社」からの時期から考えると、更に、その後に、「完全女系」が続き、「姓」まで変化した可能性も否定できない事も起こり得ますので、この血縁で家紋と墓所が同じに成るには、原則として普通は明治期以降の事に成ります。
然し、家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

場合に依っては、これ程長く家紋を変えずに居られる事は珍しく、「神職」であった出自先の「伊勢青木氏の四家制度」を採用していた可能性が有りますね。

他氏の左程墓所が多く無い所から観て、「檀家寺」に成った時点はそう昔の事では無く、明治初期と考えられます。

依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その菩提氏の経営等が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。


さて、昔は「柏紋の青木氏」で「伊勢神宮の神職の御師様」と呼称される立場にあったので、一度、その大元に成る「伊勢神宮」をお参りされると良いと思います。

「神明社の神職(柏紋青木氏)」は、「自然神」の「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」の神職です。その中でも古い「深谷神明社」系ですのでお勧めします。

その際には、合わせて、JR松阪駅下車の駅前広場の前の大通りを隔てた右手一画の中ほどにある本寺があります。
ここは元は、「青木氏の菩提寺」でした。
二度、松阪大火で消失して、その後に「紀州藩の菩提寺」を経て現在は知恩院派の浄土宗檀家寺と成っています。
「寺名」は匿名としますが、御訪問になると良いと思います。必要な場合はメールで連絡します。
ここが「お家の本宮」であり「出自寺」と成ります。

中々、「伝統」は伝わりにくいものですね。
筆者も同じです。
親族が聞く耳を持つかは別にして、先ずはこの世に生を得た以上は”「伝える役目」”だけは果たしたいと考えています。
筆者がそうでした様に、何時か、必ず一族の中に「伝統や歴史」を重んじる者が必ず出てきます。

ではまた何かありましたらお便りください。お待ちしています。



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