青木ルーツ掲示板
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  [No.1094] Re:先祖研究
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/06/20(Mon) 11:41:04

青木茂さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

>まず、我が家の家紋は抱き茗荷で、祖父の出身地は福岡とのことです。
>関西方面に出てくるときにいろいろあったらしく、今は地元の浄土真宗本願寺派となっていますが、もともとの宗教は恐らく浄土真宗か何か、浄土系であったようです。
>曽祖父、曽々祖父くらいまでは確実な家系図もあり、またそこそこの資産家でもあったので映像をはじめ様々な記録もあるのですが、問題はその前になにをしていたか。
>そして、起源となる祖はだれか

さて、お尋ねですが、ルーツを確定させるには、明治後のルーツの情報は参考に成りません。
明治3年と8年の督促令で武士以外の99%の庶民が苗字を持つ事を義務付けられました。
従って、曽祖父(曽々祖父)くらいまでの情報では探る事は先ずは難しいので出来ません。

先ず、そこで、次ぎの事を確認されると良いと思います。
お家の「檀家寺」と成っている「浄土真宗のお寺」には、「人別帳」と云うものが有りますので、江戸期の先祖の名前が確認出来ます。
もし、確認できなければ、お家は「明治期の青木さん」です。
仮に確認出来たとして、浄土真宗には過去に内部の問題があって、明治政府がこの争い問題を解決する為に一時、浄土真宗の一部を「真宗」と呼ぶ事にして仲裁をしました。
お寺にはその証拠と成るものが在ります。
一時でも「真宗」であったと成れば「檀家寺」でもあり、ルーツを持たない「明治期の青木さん」です。

実は、明治3年の苗字令が進まないので、明治8年に政府は令で周囲の氏族の名を苗字にする様に半強制で指導しました。
全国に確定した「青木村」が在りますが、この明治8年の「政府の指導」に依って発祥したこの青木村付近には江戸期以前のルーツをもたない「青木さん」が多く存在します。
(「青木村」はサイトに記載ししています。実は福岡には取り分け多いのです。)

それは、家紋分析(青木氏が持たない家紋)と宗派(青木氏が入信しない宗派)と過去帳(過去帳がの有無の確認)と寺名(特定の寺名以外の菩提寺を持ちません)と守護神の有無で大方ルーツは判ります。

実は、九州には、長崎と福岡と鹿児島の三か所に「青木村」が在ります。
この「青木村」の近くに住んでいた村人達は明治8年に青木を名乗る事になりました。
従って、この「青木さん」にはルーツはありません。

そもそも、村の「青木村」は、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏以外」には氏名を村名としてはならないとする禁令があって明治期まで使えなかったのです。
殆どは地名かその土地の所縁で付けられていました。

お家は、消去法で少なくとも「浄土真宗」であるとすると「五家五流の青木氏 25氏」ではありません。
尚、青木氏の浄土宗は、密教で、室町期はある特定の身分家筋のみが氏の一族一門で入信出来る宗派で、江戸期に浄土宗も顕教に成り、高級武士のみが入信できる宗派でした。
ころころと宗派を宗派換え出来る社会ではありませんでした。
江戸期以前は、宗派でその家筋の大方がわかる社会でした。階級分けした社会でした。
明治期に成ってもある程度財力を持つ庶民が入信出来る宗派でした。

「明治期の青木さん」で無ければ、「秀郷流青木氏の支流族」か、「丹治氏系青木氏」と成りますが、お家は「家紋と福岡」と云う要素からどうもそうではありません。

とすると、どの青木さんかと云う事に成りますが、次ぎにそれを提示します。

そして、先ずは、家紋が「抱き茗荷紋」だとすると、「伊勢の秀郷流青木氏」が、江戸初期に伊勢の小大名と成った稲垣氏か、その縁籍の鳥羽氏と血縁し、二代続きで男系跡目に恵まれず、変紋を余儀なくされた「秀郷流青木氏の支流傍系族」と分析されます。

この「稲垣氏」は、近江二宮氏(関東二宮氏とは異なる)の支流末裔の血縁族とされていますが、その元は農民から這い上がって周囲の農民や浮浪者や野武士や庶民をかき集めて「請け負い集団」を造り、江戸初期に家康に味方して見いだされ、鳥羽を与えられました。

然し乍ら、この稲垣氏と血縁した「伊勢の秀郷流青木氏」の一族一門の全ては頼宣の「紀州藩の家臣団」と成っています。
依って、江戸期以前の時代に九州地域には定住していないのです。

そもそも、江戸時代には、国を勝手に移動する事は”「国抜け」”と成って、一族斬罪の厳罰で、自由移動は認められていませんので、江戸初期以降には九州域や福岡に移動定住する事はありません
そもそも、武士は親族のいる地元でいる事が最も安定して子孫を拡大させられる条件です。
単独でいる事は其れは武士を捨てること以外にはありませんでした。

取り分け、九州と福岡と云う事はこの域を超える事は難しい社会でした。
況して、死んでも葬ってくれる寺も無い処では生きて行けません。
移動説は無理です。従って、このルーツの説は消えます。

>賜姓青木氏は何かあって九州に移動した場合を除き、場所的に自分の研究上違う確率が高いのですが、藤原秀郷流青木氏、日向青木氏、摂津青木氏とどれも可能性の面では捨てきれないものばかり。
>福岡、九州には青木という地名もいくらかあり、かつて博多区には青木村という地区があったともあります。

実は、「賜姓青木氏」は、他氏と異なり神明社の柏紋の神職の青木氏以外には、「賜姓臣下族」ですので、平安期初期から移動定住していないのです。
依って、これらの定住地は限定されています。
賜姓族に関しては賜姓族の役務柄で特別と云う事はありません。
「慣習仕来り掟」が決められていたのです。
この族は家紋分析と宗派と菩提寺で簡単に判明します。

この件ですが、「賜姓青木氏」には、「鹿児島の日向青木氏」を除いて「慣習仕来り掟」に縛られて移動はありません。
(青木氏サイトの献策で確認ください)

又、宗派は「浄土密教以外」には宗派を持ちませんし移動はしません。
その様に定められていたのです。
「日向青木氏」は、ある特別な事情で「日向廻村」と「薩摩大口村」と「一部福岡」に館を定めて子孫を拡大させました。
賜姓族系ですので家紋は定まりますし、一族は四家制度と云って分散しませんで「青木村」に発祥しています。
詳しくはサイトの献策でお調べください。

賜姓族系の「日向青木氏」と「摂津青木氏」は、この「抱き茗荷紋」の家紋と「浄土真宗の宗派」は持ちませんのでお家のルーツではありません。

>また、運よく空港近くの福岡市博多区青木には隣接して浄土真宗の寺もあり、ここが出身地なら単に地名からとっただけの明治以降の苗字なのかなという思いもあります。
>いくら地元指折りの資産家と言えど、地名にまでなることは無いでしょうし。
>また、その博多の青木村も、青木氏が集まってできたものなのか、長野の青木村のように自然からついたのか不明です。

「青木村」は「氏名」で出来た村で朝廷の認可を受けた村名です。
実は、唯一、日本で氏名が村名に成っているのは青木村だけなのです。
これ以外にはありません。全て地名です。
氏名と人名を村名にする事が明治3年まで禁じられていたのです。
「青木村」は「地名」からの「村名」ではありません。
明治3年まで、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、勝手に「青木」と云う呼称を使う事を禁じられていたのです。
「青木村」が存在する処には、「皇族性賜姓臣下族」の「五家五流の青木氏25氏の9地域」と、「賜姓秀郷流青木氏116氏」が「全国各地24地域」に赴任して、そこに現地子孫を遺した事から「青木村」を造る事を許された地域なのです。

>調べれば調べるほど、諸説出てきており、何がなんだかわからない次第。
>苗字も家紋も有名どころで確定困難。

サイトにはこれらの上記の事が全て記載していますので、検索で調べてお読みください。

>おまけにずっとそこにいたのかも良くわからず、あるのはちょっとした兄弟間のお家騒動を脱して復興したと言われている口承に伴う大正か明治かからの記録のみ。

「自由移動」は江戸期以前には出来ません。上記した様に「国抜け」と呼ばれ「一族斬罪の極刑」に晒されます。明治3年までは民は藩主の下に存在するとする社会でした。
原則4年か5年とし過ぎれば一度国に戻り再び許可をとって移動すると云う社会でした。
赴任が終われば国に戻ると云う以外には定住は出来ません。
現地孫以外には、現地孫でも原則は組に戻る事が義務付けられていたのですが、選択が出来ました。
但し、許可を得て誰かの臣下に成り現地で独自の「家」を興す必要があります。

恐らくは、この残された”明治と大正の記録のみ”とする事からも、先ず「明治期の青木さん」と考えられます。

そこで、本題に入ります。
ただ、一点、江戸初期に、多くの農民が、武士に成り、旗本等に成った時に苗字を持っていませんでしたので、全国各地で一斉に「青木氏」を名乗った事が起こりました。

水戸藩が編集した室町期からの「姓名の歴史記録書」として書いた本に、「第三の青木氏」として「青木氏」を名乗ったと記録されています。
この「青木氏」は、「嵯峨期の禁令」に反するとして、後に「青木氏の権威」を保つ為に幕府から別名にする様に令が出ます。
その時に、青城等の変名にする様に令が出されます。

この「あおきさん」が最も多かったのが、実は福岡なのです。
つまり、農民から下級武士に成ったものがこの福岡の地域に多かったと云う事なのです。
何故かと云う事です。
九州は農民から勃興した豪族が多く、そこで豪族に成った限りは、江戸期に成って一定の定められた範囲で家臣団を作らねばなりませんが、元から武士の者は、「下剋上と戦国乱世」とで消滅し、この九州地区には少なく、新たに農民から武士と成った者は、「武士」である事を認められ黒印状を得る為に何がしかの「伝統ある苗字と家紋」を持つ事を義務付けられました。
元々、持っていないのですから、搾取で「伝統ある苗字と家紋」を持ったのです。
当然に幕府も黙認しました。

この時、「青木村」から出て来た農民から身を興したので「青木氏」と「抱き茗荷紋」としたのです。
幕府は、武士は「下士」までを武士として認めましたが、殆どは兵は農民の半農半士が多く、この者らを「準下士」として幕府は仕方なく特別に認めました。
これが、農民からの下級武士なのです。
この準下士と下士が福岡に多かったと云う事なのです。
播磨に居た黒田藩が福岡に移動し、九州の大藩に成った事と、付近の土豪もこれに従い家臣に成った事から、その家臣の数の義務が課せられた為に、この現象が起った事なのです。

それが、この地域では室町期中頃までは「秀郷流青木氏の赴任地」であって、現地孫が「青木村」にいた事からその周囲で農民準下士等から「青木氏」の呼称と成ったのであって、江戸初期に幕府から変更する様に令で、命じられました。

この時に青城や葵木や青樹等に代えて名乗ったのです。

明治3年に成って再び苗字令で青木に戻したと云う現象が起こりました。


家紋では、秀郷流青木氏の総紋は下り藤紋で、116氏の家紋はある一定の格式ある家紋群に成っています。
「抱き茗荷紋」は上記の稲垣氏の事情も合ってこの家紋格式が低いのです。
秀郷流青木氏は格式は従四位ですから、武士では最高の家柄です。
当時は吊りあいの採れた家柄血縁でしたので、「抱き茗荷」との血縁は基本的にはありません。
唯、江戸末期頃には伊勢の秀郷流青木氏の支流傍系が女系で一度血縁した事が判っています。

それだけに「抱き茗荷紋」に丸付き紋が多いのはこの事から遠慮して丸を付けたのです。
家紋にはこの様に色々と「丸の意味」が在るのです。

何故、この青木さんが「抱き茗荷紋」かと云いますと、元は伊勢に来た稲垣氏が農民から身を興し家康に特に気に入られ頑張って近江の二宮氏と血縁して遂には伊勢の小大名と成った有名な人物でした。
従って、この家紋を二宮氏の茗荷紋を、奈良期からの名門の信濃諏訪氏青木氏の抱き角紋に真似て、「抱き茗荷紋」としたことから、この家紋を農民が武士に成った者が使う事に、同じ身の上の稲垣氏は文句を云わなかったのです。
従って、農民から勃興した下級武士が使う家紋として用いられたものなのです。
この青木さんのルーツが長くても江戸期の中期までしかありません。
殆どは、この家紋は幕末前後か、殆どは、明治期初期後です。
山口県にも多いのです。

そして、明治期の3年と8年にあわせて、これらのアオキさんは「青木さん」に戻しているのです。
この「あおきさん」は、現在では関西の手前近くまで分布しています。

実は、このアオキさんは福岡に家紋と宗派がお家のものと一致するお家が多いのです。
それには江戸初期の「浄土真宗の由来」とこの家紋の「抱き茗荷の家紋の由来」に大きく関わっている事から来ているのです。

依って、結論は、「第三の福岡の青木さん」です。
ルーツを探っても古くても江戸中期以降、殆どは明治初期に成ると思います。

但し、福岡には、「抱き茗荷紋類」では無い別の「元寇の役」に移動定住した「秀郷流青木氏が持つ家紋群」と「浄土宗の宗派の秀郷流青木氏」が「浄土宗の菩提寺」と「守護神の春日神社」を持って存在して居ます。

一度、檀家寺の明治初期前後の人別帳を確認ください。

ご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。



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