青木ルーツ掲示板
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  [No.1114] 佐賀の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/17(Fri) 14:51:29

青木善祐さん 
来場記帳の欄よりに記載

代理投稿

>本籍は佐賀県唐津市です。
>家紋は丸に剣片喰です。
>先祖の墓は、唐津の唐人町にある龍源寺です。

善祐さん 今日は。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

お家の青木氏のルーツが何処だったのかを調べました。
先ずは、「片喰紋」ですね。
愛知から静岡に掛けてこの文様を持つ「青木氏」が分布しています。
それは「藤原秀郷流青木氏」です。

この一族は、四国や北九州にかけても「赴任地」として分布しています。
取り分け、「長崎」に拠点を置き、そこから「青木氏」は「佐賀域」までにも伸びています。
この「長崎の拠点」が「青木村」として呼称されました。
この結果、佐賀の肥前国は、黒田藩に成る前は、「肥前国青木村」が現在の「今宿付近」から「唐津域」までにあって、黒田藩の時に、この「青木村」が「谷村」とに分断されました。

恐らくは、経緯としては、歴史的には「長崎の青木村」が先ですから、この北に延びた「肥前の青木村」はその後に形成した「青木村」だと考えられています。

実は、肥前の長崎の「青木村」には一つの経緯があって、この「青木村」は北に向かって伸びたのには、この「青木村」がいっぱいに成り、枝葉の分家筋が村には入れずに、どんどん北に村域を拡げて江戸期初期には佐賀唐津域まで広がって行った経緯があるのです。

普通は、「氏名」を「村名」にする事が「嵯峨期の詔勅」に依って出来ませんが、「青木氏」だけは認められていました。

普通は、五年毎に本領の愛知からから静岡に戻り交代する事に成るのですが、現地で現地土豪との間で子供が生まれると、「現地孫」として原則はその地に遺る事に成ります。
そして、その「現地孫の男子」は、本領より現地の「土豪の姓」では無く、「氏名の青木氏」を名乗る事を許されます。
そして、氏家制度に依って本領にある「宗家」に「現地孫」として認められますと、「片喰紋に丸付き紋」の使用が認められます。

「青木氏」には、朝廷より認められた特別の「青木氏の慣習仕来り掟」が有って、「青木氏」に成るとこの「慣習仕来り掟」に従う事に成ります。

藤原氏の「総紋」は「下がり藤紋」で、この「24の地域の青木氏」には夫々の家紋があって、お家の場合は「副紋」を「片喰紋」とします。

「武蔵の宗家本流」(24地域別)に近いと、「副紋」は、「下り藤紋」の「藤と藤花の間」に、この「副紋」を組入れて、「組み入れ家紋」とします。
宗家、本家、分家、傍家、支流と116氏が「組み分け」されますが、本家筋がこの「組み入れ紋」を使います。

お家は、丸付き紋ですので、「片喰紋の本家筋」の「分家筋」に当たる事に成ります。
それは次ぎの事で判ります。

江戸期初期の顕教令が出るまでは、唐津域にある「青木村の龍源寺」が、お家の「青木氏の菩提寺」(檀家寺ではありません)であった可能性があります。
この「青木村」の中にあった「唐津の龍源寺」は、別氏に依って1600年頃に移築されたものですが、その元は「龍泉寺」と云います。
更に、その前は「2つの寺」から変名しています。
1550年頃は、お家の『肥前青木氏」から離れて浄土宗の流れの「禅宗の派」で、移築者の宗派の「曹洞宗」と成っています。
移築時に別氏に依って寺がそっくりと移築されましたので、「宗派換え」と成ったと考えられます。
その後には黒田藩の管理下に置かれます。

(恐らくは、平安期から室町期中期頃までは、元は「青木村」の中にある「お家の菩提寺」で「浄土宗」か「浄土真宗」では無かったかと考えます。)

「秀郷流青木氏」は「浄土宗」が本宗としていますが、各地に赴任すると、取り分け、九州には浄土宗は土地柄より無く、浄土真宗でも良いとする定めがありました。
本領などに戻る際は、元の「宗派換え」をしますが、「現地孫」の場合の本領に戻らなかった子孫は、「浄土真宗」か「浄土宗系」に入信する事も許されました。

お家の「現地の始祖」は、鎌倉期を発祥期と観られますので、土地柄より、「禅宗」(鎌倉中期)は、取り分け、座禅を基とする為に「武士」が多く入信しました事から納得できるところかと考えられます。

「藤原秀郷一門」は361氏あり、この中で「青木氏」は116氏と成ります。
この「青木氏」は「24地域」に分布しています。その内の一つです。
この「藤原秀郷流青木氏」は、「秀郷一門の第二の宗家」と呼ばれ、秀郷一門の全体を取り仕切っていました。

恐らくは、鎌倉期にはこの地域の長崎(佐賀)に赴任していますので、この時にお家が発祥したと考えられます。

この地域には、秀郷一門が二度に渡り来ています。
もう一つは「元寇の役」の時で、この時も秀郷一門は、「青木氏」と共に「青木氏族主要五氏」と呼ばれる一門の「永嶋氏」や「進藤氏」や「長谷川氏」が現地孫を遺していますが、この時には「青木氏」と「長沼氏」は現地孫を大きく遺せなかったのです。
最も大きく遺したのが永嶋氏です。

「家紋」からと、青木村のあった「唐津の分布」から観て、鎌倉期の秀郷流青木氏に間違いはありません。
恐らくは、その「九州の始祖」は、「長崎青木村」で、その「本領元祖」は愛知か静岡で、「一族一門元祖」は「武蔵入間」です。

一族の中でも「片喰族」は大変に大きな「青木氏の一族」です。

では又、何か判りましたらお尋ねください。お待ちしています。



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