青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1121] Re:長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/30(Tue) 19:25:03

早速、お便りありがとうございます。

「青木氏の事」の「伝統の一端」をご理解頂きましたが、これからも更に本サイトを多少なりともご理解しお読みください。

さて早速ながら、全くお説の通りで、これは前回ご説明した「青木氏」が持つ世間と乖離した「独特の慣習仕来り掟」から来る事の弊害に依ります。
然し、昔はこれが何の不思議もなく当たり前でした。

前回のご説明の立場から、これは主には「四家制度」と云う「氏」(賜姓族と云う立場)としての厳しい制度を保っていた事からの結果から起こった事であります。

取り分け、「諏訪族青木氏」に関しては「ルーツ掲示板」には72カ所、研究室には数えきれない程の事を論じていますので参照してください。

お家のご先祖の事(諏訪族青木氏)を書いた最も古い記録は、何と日本最古の書籍「日本書紀」に明記されています。
研究室に青木氏に関わる事の「日本書紀の事」が論じています。

実は、筆者がその「伊勢青木氏」の「総集本家の宗家青木氏の40代目」に当たりまして、此処に幸いにして多くの全国青木氏の事を書き示した書籍類や古遺品や口伝等がある程度遺されていまして、それを全国の青木氏の方にお伝えする目的で、管理人さんのご協力を得て投稿しています。

現在、「青木氏の子孫」にその歴史ロマンを遺す目的から、「由来書の再現」を図るべく投稿している次第です。
お説の様に、「青木氏」には「青木氏氏是」と云うのがありまして、簡単に現在用語に要約すると、世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

これが生き残る「青木氏の氏是」でありました。

前回のご説明の通り、平安初期に編纂された「新撰姓氏族」等を始めとしての「日本最古の三つの古書籍」がありますが、ここには「青木氏と同じ立場」を持つ「氏族」は、平安初期には20、そして中期には40程度、平安末期には約80氏に成りますが、鎌倉期にはこれらの「氏族」は200までに拡大はしました。
然し、「青木氏の氏族」を除いて、室町期末まで10程度以下まで落ち込み、明治期初期にはにすべて滅亡しました。
この様に室町期初期から中期に発祥始めた「姓族」(海部氏が始まり)と異なり、「氏族」(武家貴族)は、家人によるだけで大きな本格的な武力集団を持たなかった事から、「下剋上」や「戦国時代」で生き残る事は難しかったのです。

然し、「青木氏」には、この「青木氏氏是」を下に、主に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は「二足の草鞋策」を敷き「郷氏」として結束して生き残る事が出来たのです。
然し、室町期末期の信長と秀吉は、この「伊勢と信濃と甲斐の青木氏」をも容赦なく攻めたのです。
ところが、「伊勢と信濃の青木一族」は、「影のシンジケート」を使って2万の軍に対抗し勝ちます。
この為に、総指揮官の織田信雄は叱責を受けて蟄居した有名な事件が起こります。
秀吉は「長嶋の戦い」で、青木氏は「影のシンジケート」を使って「物資の買い占め策」に出て「軍需用品の調達」が出来ない様にし、余りの大金で戦いが進まないと云う事が秀吉側に起こったのです。
この「青木氏の作戦」が成功したのは、総指揮官が青木氏と縁者関係にある「藤原秀郷流蒲生氏郷」が総指揮官であった事が作戦成功の鍵であったのです。
「作戦の落としどころ」を上手操ったのです。
これで「伊勢と信濃の青木氏」は護れたのです。
ところが「甲斐青木氏」は武田氏と共に敗れますが、家康に救われて、その為に武蔵鉢形に一族定住移動させられました。
この「甲斐青木氏」の一人が、かの有名な幕府の要人の「柳沢吉保」です。

(注釈 「柳沢」と云う「甲斐の土地」に住んでいた「甲斐青木氏の分家」(三男)で、父と争い「青木氏」を継ぐことが許されなかった。)

その前には、既に「近江と美濃の青木氏」は氏是を破り源平合戦で宗家本家筋は滅亡しました。

そもそも、「青木氏」は前回のご説明の通り、「伊勢と信濃」は「家人制度」をベースとする為に「武力集団」を持っていません。
但し、これでは生き残るとこは到底出来ません。
そこで「二足の草鞋策」で、戦国時代で潰された周囲の小さい土豪の集団と経済的な結びつきを持ち、「膨大なシンジケート」を創設したのです。
無暗に攻めると、この山の中に住む「影のシンジケート」が動き相手を殲滅する憂き目を負います。
例えば、食料の路を絶ちこの「影のシンジケート」で足利氏の2万の軍を餓死させました記録もあります。
つまり、江戸時代の忍者集団がその一つです。
「伊勢と信濃」には、「伊勢−信濃シンジケート」がありました。
その中の一つが、元は伊賀、甲賀、雑賀、根来、河内などがあります。

この様に、氏は総宗本家(宗家筋の本家)、宗家(分家筋の本家)、分家(支流族と縁者族)とあり、夫々が「子孫の枝葉」を拡げている事に成ります。
これを一つに束ねているのが、「氏家制度」と「封建制度」に基づいた「総宗本家」です。
この「総宗本家」が、前回ご説明した「氏の菩提」と「氏の守護神」を護っていたのです。
ここに上記する全ての「氏の者」(達親制度)は、氏から独自に住職や神主を出して葬られたり祀られたりしていたのです。
当然に、氏全ての記録等は、この住職や神主に依って書記を務め、ここに記録される事に成ります。
従って、総宗本家、宗家、本家以外には詳しい伝統も記録も口伝も遺り難いのです。
取り分け、分家筋はお説の通り、お家の事をお調べに成るには、この「氏の菩提寺」(檀家寺ではありません。)か「氏の守護神」(神明社か諏訪大社)に頼る以外にはありませんので、そこで分家が「勝手な事」を伝える訳にはいかないのです。
又、勝手な行動をする事が出来なかったのです。
血縁等全て宗家本家の許可を必要としたのです。
勝手にすればたちどころに潰されます。

さて、話を戻して、ところが江戸時代には、家康から”伊勢の事お構いなし”と云う有名な「お墨付き」を受け、保護を受けて生き残る事が出来たのです。
奈良時代には、「日本書紀」にも書かれている様に、「天智天皇」より「不入不倫の権」と云う「伊勢神宮」あるい伊勢を護る為にもこの「大権」を受けていた事もありました事からも、より生き残る事が出来ました。

当然に、前回のご説明の通り、多くの記録にも遺されている様に、この「伊勢青木氏」と「信濃信濃青木氏」は「深い親族関係」にあった事からもに、同じ共通する「習慣仕来り掟」で生きて来ていた事からも生き残る事が出来たのです。

この「伊勢や信濃青木氏」は、前回のご説明の様に、「日本書紀」にも書かれ、「新撰姓氏録」にも書かれ、「青木氏の始祖」と成る立場にあり、何とか1400年の荒波を経て生き残る事が出来ました。
それ故に、実は固く身を護る事からも開放的では無くお説の様な事が起こっていたのです。
従って、分家筋には「四家制度」に基づく「掟」から「家筋の情報」が伝わらなかった事だと思います。
恐らくは、「室町期初期の下剋上」と足元を見られては困る「戦国時代の影響」ではと思います。

「伊勢と信濃」には幸いにして、「500万石にも上る財力」を背景に記録に遺る程の「大豪商の紙問屋 伊勢屋長兵衛」として「二足の草鞋策」を敷いていた事からも、多くの記録を遺す財力と戦闘の抑止力が備わっていたのです。(歴史上に出て来る)

故に、先ずは「信濃の神明社」か「諏訪大社」の守護神をお調べに成ると昔の事が次第に解ると思います。
それには、次の「四つの神明社」で、松本市、北安曇野、北佐久群、大町市が「信濃青木氏の関係する神明社」でありますが、取り分け、お家の場合は「諏訪大社」との「両方の神」を祭祀する「松本市の神明社の御乳社」が気に成ります。
お便りの仕来りなどから先ず間違いは無いと考えます。

又、「氏の菩提寺」は、「寺名」を明記する事は混乱を招く為に公には控えますが、お家等の「信濃の青木氏の菩提寺」は、「長坂町」にありますので、参考にして下さい。
江戸初期に出された「顕教令」等で、今では「氏の菩提寺や神明社」ではありませんが、一度は、お参りになさると良いのではありませんか。

これ等の事は研究室などにも論じています。ゆっくりとお読みください。

では、又、何か判りましたらお便りください。お待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー