青木ルーツ掲示板
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  [No.1123] Re:長野の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/17(Sat) 16:26:17

長野の諏訪の青木さん 今日は。

お便り頂きました。有難う御座います。

さて、早速ですが、この「神明社」と「諏訪社」には、歴史的な独特の経緯が在りましてこの事を知って置く必要があります。

それは先ず、「神明社」から述べますと、「神明社」は「神社」ではありません。
奈良期の「高位の真人氏族」として特別に認められた「青木氏の守護神」として祭祀を許されたものであると云う事てす。
そして、それは単なる「神社」では無くて、元より「皇祖神の子神」の”「祖先神」”と云う「特別の神」を祀る「社殿」であり、この「社殿」は、「神」と後に伝わる仏教の「仏」を融合する「自然神」に近い「神仏を祭祀する社」であったのです。
ですから、「神明神社」とは云っていないのです。

後に、これを真似て江戸期には「神明神社」と云う神のみを祀るものは出て来ますが、これは「神明社」ではありません。
平安期初期から存在する由緒正しい「諏訪社」も同じです。

前回に述べました様に「諏訪族」は奈良期に渡来しますが、この時には、「神明造」と云う「独特の社」に合わせて、「渡来人」として「諏訪造」と云う「独特の社」を造り、既に一族の守護神を祭祀していたとされています。
この奈良期のこの世は、仏教伝来時前はこの世は「神(神も仏も融合の世界観)」でした。
そこへ、「仏教」と云う「救世主」を分離させた「独特の世界観」が中国を経由して伝来します。
この時は、この「救世主」はあくまでも初期は「密教」として捉えられていました。
従って、「密教」である以上、その「密教」として扱う以上は、その「氏族の民」の下で「独特の仏教観」を作り上げたのです。

これに対応して「青木氏一族」は、”「祖先神の神明社」”を祭祀していた事からも、尚の事、「融合の世界観」を作り上げました。
これが「古代浄土密教観」です。
そこで、平安期に入り「法然上人」などに依り「三代密教論争」が興り、「法然上人」により「青木氏等」の「浄土密教」を一般の密教観に確立させたのです。
然し、「青木氏」は「古代密教性」を強く「慣習仕来り掟」等に維持しました。

それは、独特の「祖先神」と云う「神」を祭祀する「神明社」と云う「偶像」があった事に依ります。
「青木氏」以外には「祖先神」と云う様な「神」を持つ氏族は、11流の源氏の「八幡神」、藤原氏の「春日神」などがあります。
「青木氏一族」は、そこで、平安期に入り、この「神道性」を一部で排除して、「独自の氏族の菩提寺」(達親制度)を分離させました。
この「菩提寺」とは、江戸期から起こった「密教」では無い「顕教の檀家寺」とは異なります。

これが、江戸初期に家康によって「密教制」が禁止され、全て「顕教制」にし、神社や仏舎は幕府(国)の管轄下に置かれました。
「青木氏の神明社」は、全国青木氏が定住する地域には約500社弱にも上りましたが、一切管理外と成ったのです。
諏訪社も菩提寺(寺名は匿名)も同様です。

江戸期では「社」は一切は信仰は自由とし、「顕教の寺」は自由性を排除し「家柄と身分」で決められる事に成ったのです
この為、「青木氏一族」は「二足の草鞋策」でこれらを「氏」で維持していたのですが、幕府は財政難から維持出来なく成り殆ど荒廃して仕舞います。
それで室町期末期頃までは何とか形をこの500の神明社を保っていたのですが、この「顕教令」等で殆どは江戸初期以降は”「祠程度」”に成ったのです。
この経緯は「諏訪大社」も同じです。

そこで、困った「青木氏」は、何とか本来の「神明社」を維持せんとして密かに山の中などの別の所に”「祠」”を造り祀って来ました。
本来は、「卑弥呼」などから引き継がれた「自然神」から「皇祖神」、そして「子神の祖先神」と成り、自然の象徴の山を神としてその山裾に社殿を設けて祀るという形式をとりました。
ところが、江戸期の「令」により、密かに「小山の山中」にこの「神明社の祠」を「青木氏の民」が祀りました。
これが、お説の様な現象を江戸期に起こしたのです。
ですから、青木氏の記録とは多少ズレる事が起こりお家がお調べに成った様な事に成ります。

しかし、治政から各地の領主はこれを黙認しました。(「信濃青木氏系の一族」は「郷氏」)
それは家康の”伊勢の事お構いなし”の「御定め書」の「お墨付き」に従ったのです。
「伊勢の事」とは、江戸期では伊勢と信濃と甲斐の青木氏一族の事を意味しました。


これが現在もその雰囲気を遺されているのですが、江戸期には中には自ら財源の提供をして土地の領主に再建や建造の許可をもらったものが有ります。

例えば、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、勿論の事、有名なものはその権力を利用して「甲斐青木氏の一族」の「柳沢吉保」やその一族は、何とか維持せんとして自らの財源で由緒ある「武蔵深谷(埼玉)の神明社」や「美濃や伊勢の神明社」等の古い社を再建しました。
従って、「祠」もあり立派な「神明社」もある事に成り、「歴史的な場所」には無い事が起こっているのです。

「菩提寺」については、数多くの「分寺」(多くは土地の豪族の別の寺名に成るものもある)などは荒廃しましたが、「本寺」などは「献納金」等で幸いに遺されています。
伊勢は「紀州徳川氏の菩提寺」にも成ったのです。

この経緯から観ても、「神明社」の「御柱祭の記録」からでもお家のご先祖の懸命に生きた懐かしい「生き様のロマン」が観えますね。
それの表れの一つとして次の事が挙げられます。

追伸
「御乳社」について、この読み方に疑問をお持ちの様であったので追記しておきます。
神明社等の古い社(天照大神祭祀社)は現代風の読み方はしていなかったのです。
「韻読み」でした。
つまり、当時は「神主」は祝詞等を読むとき、又は関係者の呼称する時は、母韻のアオウエの四音、父韻のチイキミシリヒニの八音から成り立ち、母韻を中心に発声する習慣でした。
例えば、「青木」の「あおき」であれば,”ウォーキェ”と呼称していたのです。

これはそもそも、「日本の言葉」の発祥は、先ず人間が最初に発した言葉は、この母韻からの組み合わせでの言葉から作られて行きました。
そして、次第にこの「四母韻の言葉の組み合わせ」に、「八父韻」を付けて「韻読み」で作り上げて行きました。
この為に、大化期の奈良期の神明社関係はこの慣習に従っているのです。
お調べに成った様に、”玉依毘売命、神武天皇を産んだ方”、つまり「天照大神」とされ「皇祖神」の「神」、子神の「祖先神の神明社」の祭祀する神です。
その為に「母音言の慣習」から、この「乳」は「母」を意味し、その韻の発生源は「ウ」と云う事に成ります。

従って、この「御乳」が古来からあるとして、四韻の「母の意味」が込められていて、呼称は「御」はその意味に沿って先ず母韻の「オ」、又は「ミ」、父韻のィに、「ウの母韻」に「チの父韻」を添えて発生していたと考えられます。
オミーウエに成るのでしょう。
この様に「古来の言葉」では、この母韻言から「母」には、母音の四韻の他にカミ、ウ、ウミ等の言葉があって、後に女将さんとか、乳母、海母とかして残っています。
「大神」(オオウミ おおみかみ)はこの意味を持つています。

つまり、しかし、「御乳」の「おち」の発音は、「ち」の父韻が強くなった頃の相当の後に出来た言葉で、「後付」であることが判ります。
恐らくは、この地域に信濃の青木氏の中で、お家の青木氏の勢力が衰退した時期にこの地域に入った「姓族 豪族」の付けた社名と考えられます。
「神明社」以外の呼称は、「祖先神」では「皇祖神の子神」である事から使えませんから、明らかに「後付の社名」と成ります。
筆者の説は、室町期の足利氏の宗家の信濃足利氏の斯波氏の影響かと考えられます。
「斯波氏」であれば、その信濃源氏の家柄身分からも「氏族」と見做され、その多少なりとも資格はあった事に成ります。
又、韻語からも「キィハ」で成り立ちます。

「皇祖神」は、「祖先神の青木氏」以外に祭祀する事は出来ませんから、これを「姓族」が祭祀出来る時期は江戸期初期からと成り、当然に神明社の社名は使えません。
従って、室町期に入り確固たる「武力集団」を持たない「郷氏」の為に「青木氏」は衰退します。
諏訪族や武田氏系の血筋を持つ分家筋に至る程に「郷氏」としては何とか生き残りはしましたがその影響は大きかったのです。
この青木氏衰退後の後に入った豪族が「大御神(大神)」の名前をかえて,「御乳大社」(現在風におち大社)としたとも考えられます。

この様に「社」を調べる事でも、ここでもお家の当時のご先祖のロマンが観えてきますね。
いい旅でしたね。

この「古来の言葉」、「韻語の言葉」、「言の葉」の源は、「青木氏」が継承する言葉ですので研究室に論じています。
これらの経緯は「伝統シリーズ」などで論じていますので参照してください。



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