青木ルーツ掲示板
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  [No.1160] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/19(Thu) 12:12:48

今日は。早速のお便り有難う御座いました。

いえいえ、驚いたのは私の方ですよ。
この様な過去の史実が、400年頃の後に突然に、又出て来ると云う事は稀な事で、由緒ある「青木氏の歴史」を研究している者としてはこの上ない喜びです。

恐らくは、サイト本論の「伊賀の処」を論じた部分からお読みに成って、次第に他の論に入って行くと「伊賀の青木さんの事」が更にご理解が深まって行くものと考えます。
例えば、「伝統シリーズ」の論の所に「検索メニュー」が有りますので、「伊賀の内容」で出て来ます。
それに、この「伊賀」がどの様に絡んで行くのかを想像して行くと、「お家の御先祖の生き様」が具に見えてきます。
その時は今回の様に「想像を膨らました事」への疑問等やご意見などをお便りくださればありがたい事で、筆者の知る限り情報を吐き出す事が出来ます。
それが、また本サイトの目的です。

”この史実と今の青木家との明確な接点がありません。”・・・の御意見のお答えに成る事では無いかと思います。
ここが欠けているからですね。当然の事かと思います。
明治3年、又は8年以降は、社会の全ての「政治体制」が全く替わり、「家の格式等の伝統の事」が霧消した事も大きく影響している事でしょう。
「お家の伊賀青木氏」を含む「伊勢青木氏の氏族」が源と成って広がった「二つの青木氏・秀郷流青木氏」のこれの「伝統の事」をロマンとして、サイトは後世に遺そうとしている所以でもあります。

”屋号【山上】と明神社の接点を見つけ出せるよう努力します”・・・のお話は、先ず、「神明社と云う事」を知る必要がありますね。
サイトに、この「神明社」は、そもそも「奈良期の事」からの事ですので、大変に経緯を持っていて、その意味する処も大きいです。
先ず、本サイトの検索から情報を集められて、その上で「神明社」を訪れると何か引き付けられるものが有りますよ。
何せ、「伊勢青木氏の氏族」を構成する一族の「伊賀青木氏」です。
歴史は奈良期に遡るのです。
サイトから得られたお家の情報を後世に遺す事のロマンも良いのではと考えます。
「伝統の形」は違いますが、人は過去に対する興味を持つ動物であると考えます。
従って、「皇祖神の子神の祖先神」の「神明社」は、「皇位族の青木氏の守護神・国幣社」であった事が大きく関わっていると考えます。

ご質問ですが、”(香具屋)という字は歴史書に”・・・と云う事ですが、「香具師か香具屋」で明確に記載されていますし、遺された「青木氏の資料」にもありますし、その「活動具合」も明確に遺されています。

室町期では、「伊賀だけの活動」でしたが、従って、余り社会に知られていなかったのですが、前の説明で記述しましたが、江戸時代では「享保期の江戸の活動」で一変に有名に成りました。
「甲賀との熾烈な競い合い」も歴史研究家の中では有名な事なのです。
其の後、「伊賀の活動」のみならず、「享保期の活動」でも有名に成り、江戸中期以降は一般的な呼称に成りました。

“明治時代の京都の戸籍の住所が仏具屋町(文字通り佛具の町)で東本願寺のすぐ前で油問屋 を営んでいたか疑問で、”・・・の件ですが、前述しました様に、「屋号」が「山上」とすれば「大津山上」が妥当な事かと思います。
唯、明治期の移動定住は「自由の原則」にあり、お答えを導き出すには問題が有り無理だと思います。
然し、唯、「檀家寺」が遠いと云う事には、生活上の問題が生まれますので、“檀家寺の近く”と云う事に成るでしょうし、「香具屋と云う事」に成れば、商売をする以上は「仏具屋町」と云う事にもなりますね。
又、「油問屋」も「燭台の油と云う事」であれば、「仏具屋町」もあり得ますね。
「真宗大谷派」であるとしても、室町期末期の「西の門徒潰しの戦い」では無い限りは、「東本願寺」は無いと思いますね。
「大津山上」から西に9.5kに「東本願寺」、其処から同線上に0.5kの位置に「仏具屋町」があり、少し西に逸れて10kの位置に「厳龍寺・火縄銃」があるとすると、当時の「1日の動線距離」としては全て四里内にあり、「約2里」ですので、この距離は戸籍の云々の範囲内に充分にあります。
明治の頃の当時は、「戸籍の在所」は「居住地と云う概念」では必ずしもなかったのです。
江戸時代と異なり「移動」は自由で、大きく離れる事はありませんでしたが、“「所縁の地」”や『方位・方角」や「檀家寺の宗教」などにも左右されて全然違う処に戸籍位置を置く事もありました。

況して、当時は大きいスペースを一か所に採る事は無く、商人とも成れば「店や住まい」とは異なる事も慣習としてあったのです。
慣習が異なる社会なので「戸籍と云う事に拘る事」は間違いを起こします。
大まかな判断には有効ですが、その前に「当時の慣習仕来り」を知る事です。
それには、「江戸期の歴史観」と「室町期の歴史観」と「平安期の歴史観」と「奈良期の歴史観」が異なつていて、ルーツを正しく探る場合はこの「歴史観を把握する事」が必要なのです。
それには本論をお読みいただける事が必要と成り、明治期以降はその意味で社会体制が異なりましたので、ルーツには何の意味も持ちません。
何せ「青木氏一族」は「奈良期からの歴史」を持っているのです。
その意味でこの歴史観から総合的に「大津山上」は納得できる位置でしょう。

それには「江戸期末期頃」の「伊賀青木氏」の「香具師・香具屋」の「活動内容」に依るのではないかと思います。
前述しました様に、「江戸末期の伊賀青木氏」は「伊勢」に於いて「殖産」に邁進していて、其れなのにお家が何故に「伊賀」に戻らずに「近江」でどの様な役割を果たしていたかの問題に成るのではと考えます。
それには「近江」での「歴史の絡み」が「決めて」と成るでしょう。

前述しました様に、「伊賀青木氏」は江戸期中期以降は、その「伊賀の役割・香具師・忍者組織」を生かして「伊勢屋の運搬業」にも従事していたのです。
それ故に、お家は「伊賀」に戻らずに「近江の支店」として活躍をしていたと考えます。
それは何故かと云うと、「伊勢屋」には「摂津にも大きな支店」を持っていたのです。
そして、平安期と室町期に二度滅亡した「近江青木氏」を摂津域に匿い、「兵庫、京都域の商い」を大船三艘を持ち、また、「貿易」もして「青木一族」を統括していました。

恐らくは、この事から考察すれば、「江戸期の近江」のお家は「伊勢屋の商いの拠点」と成っていた可能性が有ります。
何故ならば、「日本海の物産」をこの「摂津」まで先ず運びする拠点が必要であったのです。
そこには、日本海側に定住していた「信濃青木氏の裔系」の「鳥取の米子・八頭青木氏」が定住していたのです。
又、「敦賀」にも「越前青木氏」が西に延びて「伊勢との深い関係・本論参照」を持っていましたので、「大津山上」は「琵琶湖」を通じて丁度よい位置関係にありました。
約2時間程度で荷を運び込む事が出来る良い位置にあったのです。
従って、「米子や越前との連携」には欠かす事の出来ない拠点と成り得ていたのです。
要するに、此処との「中継点」が必要で、明治35年までこの関係が続いたとされていますし、瀬戸内水軍の「讃岐青木氏」が日本海と瀬戸内を繋いでいました。
この関係も昭和20年まで続いていたのです。

ですからこの関係からこの「近江」には現実に「拠点」が必要であった筈なのです。
唯、この「近江」を誰が務めていたかは判っていなかったのです。
この事は、「商記録」にもありますがそれが判らななかったのです。
「近江」に“伊勢系の伊賀青木氏が存在していた”とは考えもつかなかったのです。
考えれば、成るほどという事なのですが、「殖産の伊賀意識」が強かったのです。
「伊賀の運搬業」と「日本海物産」と「敦賀青木氏(越前青木氏系)」と「米子青木氏」や「讃岐青木氏」を考え合わせれば、「近江の事」は正しく導き出せる筈なのですが、「摂津青木氏」が務めていたであろうと云う「固定観念」があった事が否定できません。
その点でも上記した様に「歴史的な成り行き」が符号一致して驚いているのです。
確かに、この「近江」や「京の皇居」に「献納品や殖産品」の一般の運搬も含めては行っていた事は資料より充分に判っていたのですが、「伊賀青木氏」が遺っていた事は驚きなのです。

この「殖産の事」は本論でも詳しく論じていますが、「近江」に具体的に繋がる「青木氏の発見」でした。
先ず間違いは無いと思います。

ところが、「明治35年」に「松阪の伊勢屋本店」が「火元」で消失して「四家の福家」は財産を全てはたいて賠償し敢えて倒産させて、この「摂津」に本店を移しました。
「伊勢松阪・伊賀含む」は米と酒と和紙の殖産のみとしたのです。
この時は「伊賀青木氏」は運輸と和紙殖産に従事しました。

恐らくは、お家はこの時期に、お便りの通りに通称油屋を閉店した可能性が有ります。

お便りから、この様に「青木氏の事」が本論に説明されていますが、読み取る事が出来るのです。
何せ、歴史は長い経緯を持つ「唯一の氏族の青木氏」である事をご理解ください。
お便りに、全てをお答えするには物理的に問題が有りますので、本論をお読みに成りながらご質問にお答えして行くしかありません。

では又、お便りを楽しみにお待ちしています。



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