青木ルーツ掲示板
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  [No.1162] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/13(Wed) 07:36:35

今日は。お久しぶりですね。
ルーツ研究を続けられていて同じ研究者がいる事は心強いです。
今後も頑張って続けましょう。


「瀧埜貞良」の件ですね。
余談と成りますが、次の事を説明して置きます。

確かにこの姓は研究者の間でお家の云われる通り「三重県伊賀の人」と知られています。
そのルーツは私の知る範囲では滝の多い地域に根付いた姓で、その伊賀の北西部に住していた事が私どもの資料の中に記されています。
そして、そのルーツは「伊勢青木氏一族・伊勢衆」の「天智天皇の孫」の「光仁天皇」の「子」の「山部王・桓武天皇」の「四人の子供・平城天皇・嵯峨天皇・仁明天皇・淳仁天皇」の内の長男の「平城天皇のルーツの子孫・裔」と成っています。
「平城天皇」と「嵯峨天皇」との戦いで、この「平城天皇側の裔」は減少したと成っています。

要するに、「伊賀青木氏」には、ルーツ的に大まかに何とか分けるとすると「四つの地域」に分けられ、その「伊賀青木氏」の中でも「元ルーツ」が少し異なる「伊賀青木氏裔系」と成っています。
その中の「伊賀青木氏」の一つが明治期に地域名を採って「瀧埜」とも名乗ったと成っています。
ところで、では何故に「青木氏」を名乗らなかったかと云えば、それにはある歴史的経緯がありました。
「平城天皇の子供・皇子」までには、つまり「天皇」に成れなかった皇子には、「賜姓」をして「青木氏」と成らせました。
この「天皇」に成れず「賜姓の青木氏・皇親族」にも外れた者等は、「皇族」を離れ「朝臣族」と成りますが、その時、諡号の姓をその「裔の出自の地名」を採って名乗る仕来りに成っていました。

恐らくは、「当時の仕来り」から観て、この「瀧埜」は出自元を名乗った元は「皇位族の裔の者」で、且つ、この「尊属」では無く「卑属」の「分家族」では無いかと云えます。
つまり、「伊賀青木氏」から観れば「縁者族」であったかと考えられるのです。
故に、「伊勢王」の「施基皇子の曾孫」の「平城天皇の裔」としてその系を世間に示したと考えられます。

「伊賀青木氏」は「施基皇子の子の春日王の裔系」との「子と孫の裔系の差」と云う事に成ります。
「平城天皇と嵯峨天皇との路線争い」で「平城天皇の裔系」は敗退し殆ど滅びたと云われています。
要するに「桓武路線派」と「嵯峨路線派」の争いです。
「伊勢と信濃の青木氏」は「桓武路線派」で、源氏が嵯峨路線派と成りました。

この「青木氏の賜姓」の「奈良期から続いた伝統ある青木氏の賜姓仕来り」を、「戦い」に勝った次男の「嵯峨天皇」が表向き「財政難」を理由に「詔勅」に依ってこれを中止し、その代わりに争いを避ける為に中和策を執り「天皇家」が「財力・内蔵」を保証しない「名ばかりの権威の無い賜姓」を”「源氏」”として「仕来り」を替えました。
「青木氏」は「皇親族」で、「源氏」は単なる「朝臣族」と成ります。

この事は「日本書紀と新撰姓氏禄と三つの歴史書」に詳細に区分けて記載されています。
その代わり、「詔勅」とは別に「嵯峨天皇」は「新撰姓氏禄」を発して「全ての族・910」を三段階に分け、更に、「上位の朝臣族」には「青木氏を最高として高位族・5氏」とし、「通常の上位の朝臣族・48氏」にして、その他の族と分けて、この「源氏の朝臣族」には「9つの縛り・掟」を命じました。
ところが、全くこの「9つの縛り・掟」は全く護られなかったのです。
この「9つの縛り・掟」を護ったのは他でもない「高位族五氏」の内の「伊勢青木氏・伊勢王」と「信濃青木氏・信濃王」の二氏でした。
「11家の源氏・1221年滅ぶ」も「高位族の3氏・近江美濃甲斐・1192年滅ぶ」も護らず源氏化して「源氏」と共に滅びます。

以後、平安末期までは「嵯峨天皇系の11代の天皇」に依ってこの「源氏の象徴仕来り・源氏」が引き継がれました。
本来の「皇親族の賜姓青木氏・五家五流」に対しては、保護の為に詔勅に合わせて「禁令」を発して「青木氏の名乗り」とその「一切の習慣と類似習慣」をしては成らないとし全国民に対して発しました。
原則、「明治3年・名字令」まで護られました。

従って、我々、「桓武期までの青木氏」と「瀧埜氏」との間には、「伊賀青木氏等を含む伊勢青木氏族」とは、「施基皇子の四男の光仁天皇の裔」と、「長男と次男と三男と五男と六男の直裔」とは裔系が異なりました。
そして、この子孫の半数が「伊勢青木氏」の「伊賀青木氏の子孫」の一部と成っていると云われています。
この「瀧埜」の姓は、他に二か所に分布し、一つは「近江」で、もう一つは「関東・伊豆北部域の限られた一部」と成っています。

この様に「瀧埜氏」とは「伊賀青木氏」の一部とその裔系の出自元は奈良期で系が合う事に成る可能性を持っている理窟と成ります。

では、又、お便りください。



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