青木ルーツ掲示板
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  [No.1171] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/19(Fri) 14:37:07

今日は。早速のお便り有難う御座います。

さて、途中の話としては、江戸末期の事に成りますね。
そうすると、当時の武士の慣習として、「家柄の吊り合い」を前提としていましたので、「諏訪族の青木氏」とすれば、尚の事、この「吊り合い」を「女系」で採ったと考えられます。
「青木氏族」は奈良期から基本的には「四掟」で定められた「女系氏族」です。

室町幕府から「伊勢と信濃の青木氏」には、“「律宗族」”と云う立場が認められていましたので、幕末でも相当に「浄位・上位」の「武士の家」からで無くては婚姻はしないと思います。
取り分け、その中でも、これは「諏訪族全体に云える事」ですが、可成り、この「考え方・伝統」では「厳格な家柄・下記」でした。
武田氏に略奪婚で嫁いだ「夕姫」の如く、その「家柄」から「武田氏」を低く見ていた事が伝えられていますよね。
この様に、そもそも、「諏訪族」のその家柄を論じますと、奈良期の初期に中国の「後漢の国」が隋に潰され、その後漢の「阿多倍王」に引き入れられた「渡来人」が、「200万人」と成って「北九州」に上陸します。
九州全土を無戦で制圧し、その勢いは関西手前の兵庫まで制圧してきました。
66国中33国を無戦で制圧されたのです。
この無戦は、彼等の持つ進んだ技能を倭人に快く伝えた事の結果なのです。

そこで、この時、朝廷は「薩摩・隼人」に軍を向けますが、朝廷はこの「阿多倍王」と和議し「薩摩隼人と伊賀の国」を半国割譲して与え、「敏達天皇の孫」の「芽淳王の娘」を娶らせ「三人の男子」を作ります。
そして、「准大臣の立場」を王族を与えたのです。
この時、「阿多倍王」が引き連れて来た「馬部の技能集団」を「信濃」に配置し荒れていた「信濃国」を放牧で豊かな国にします。
その「功績」が認められ、「信濃王の青木氏」と共に「天皇」に謁見し、初めて「相撲」と云う競技を「天皇の前・銀杏の木」の下で見せます。
そこで、この「信濃の馬部の頭」に“望を述べさせる”と云う特例を許します。
そこで、この「馬部の頭」は“「税」を軽くしてくれ”と申出たのです。
「天皇」は「優秀な渡来人の頭」と認め「破格の位・臣族」を与えたのです。
そして、この「馬部の頭」の家と「信濃王の青木氏」のとの血縁が決まり、ここで「信濃諏訪族青木氏・朝臣族」が誕生したのです。
これが、「信濃諏訪族青木氏」です。

前のお便りの通りに明治期まで続きます。
それだけに、「信濃青木氏」と共に、その「信濃王の流れ」を持つ「諏訪族系の一族一門・立ち葵門と抱き角紋」は伝統的に歴史のある家柄意識が高いのです。
伊勢と信濃の「青木氏の血縁」には、この様に奈良期より“「四掟」”と云う「血縁の鉄則」があって、この範囲で血縁を余儀なくされていました。
この「女系の血縁の伝統」は明治期まで続きました。
遺伝子学的に「四掟の女系で一族内を何度も繋ぐ事」は「血縁障害を少なくする事」が出来る唯一の合理的な方法なのです。
従って、「明治期の血縁」に於いても、この「伝統の掟」に縛られていたのです。

故に、鎌倉期までは皇位族の純血性を保つた氏族であった事から「賜姓族・臣下族」と呼ばれ、時には桓武期には「公尊族」、室町期から幕府認定で追称され、且つ、江戸期でも世間は依然として「伊勢と信濃の青木氏一族」だけには、“「律宗族」”としても呼称され「別扱い」を受けていたのです。
明治期には、更に「得宗家の称号」でも呼ばれました。
故に、斯くの如しでお便りの通り、充分に有り得た血縁だと思います。

仮に、お家の家紋が「諏訪社」の「立ち葵紋」だとすると、「諏訪族」の中でも上位の「神官族の宗家筋の家柄」と云えます。
長篠後、「秀吉」に諏訪社の神域を犯されここに高島城を築かれ、其の後に徳川氏の藩城と成ります。
「一部・頼忠」は徳川氏家臣として諏訪の神官を務めま繋ぎ留めます。
ところが「神域・聖域」も犯され、神奈川の「秀郷流青木氏」を頼っていましたが、そこからの支援も滞り糧を無くし困り果てていました。
それが「伊勢秀郷流青木氏の誘い」に従い紀州藩の媒臣と成ったと考えられますので、その後のお家は、「諏訪族神官族の裔・青木氏」であったからこそ、「お家の格式」を利用して高める為に「真田藩の重臣との血縁」が進んだ事と考えられます。

唯、当時の「女系の慣習」は、「一族の中の娘・孫か曾孫か玄孫」を「「女(むすめ)」と観て嫁がせ、その見返りに「相手の一族」からも娘を貰うと云う「家柄を引き上げる伝統的な習慣」があったのです。
当然にこの逆もありました。
これを伊勢と信濃の青木氏一族だけが持つ「伝統」の「妻嫁制度と嫁家制度」と云いました。
ですから、お調べに成ると一族の中にその銃身の一族に嫁いだとするこの逆の慣習があったと思います。

此処で、気に成る一点があります。
それは「松代藩の相手の重臣のお家」というのは「信濃青木氏の一族」では無かったかと云う推測が成り立ちます。
何故ならば、「吉宗」が「信濃青木氏の聖域」を「殖産」で奪いますが、この時、「信濃青木氏」の一部が「真田藩」と「上田藩」には、この「殖産の技術」を維持させる為に高い身分で、「幕府の命」で多くを強制的にでも仕官させました。
「青木氏の四掟」からこの「信濃青木氏の末裔」では無いかと考えられます。

この様に、一寸した「伝統の情報」でも「ルーツ」が判って来るのです。

「信濃青木氏系の諏訪族系青木氏」である可能性は高まりましたね。
「諏訪族の地」から真北90kの所に「松代藩・真田」があり、そのすぐ南には「信濃青木村」が現在もあります。
「青木村」から北に「20kの位置」に「松代」があります。

この「千曲川の南北の領域」と「東は佐久域まで」は「信濃青木氏の神明社聖域・国幣社」と「諏訪族青木氏」の「諏訪社聖域・国幣社格」として奈良期から永代に「不入不倫の領域」として認められていた「聖域」です。
ここは「養蚕の殖産の地」でもあったし、「二つの領域の大半」は「幕領地・殖産地」として没収されます。
これを吉宗が奪い取ったのです。

「武田氏滅亡」とその後の江戸期に成っても「信濃青木氏」と「諏訪族青木氏」は既存の大きな糧を失い、更に飛散する事に成ったのです。

恐らくは、経緯は「武田氏の事件」でも諏訪を失い、其の後の支援の元と成っていた聖域からの糧も失い、その後、紀州藩の陪臣と成っていた「吉宗の事件」でも失いました。
この二つが覆い被り、遂には支援の元と成っていたこの「信濃の諏訪社の聖域の糧」をも失う窮地から逃れる為に頼っていた「神奈川の秀郷流青木氏の助言」もあり、「伊勢の秀郷流青木氏の媒臣案の誘い」に従って江戸初期に「紀州藩の媒臣」と成ったと考えられます。
その幕末に、上記の近い故郷の縁続きの「信濃」から嫁を「青木氏だけに課せられた四掟」に基づき貰ったと云う「流れ」と成ったという事に成りますね。

これ等の事は本論の「伝統シリーズ」で詳しく論じておりますし、「日本書紀」を始めとして「3つの歴史古書」でも記されていますよ。

では何か判りましたらお便りください。



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