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  [No.221] 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:29:45

小田氏について。
稲垣雅子さん 2006/12/15 (金) 00:11 [ メール ]
初めて投稿させていただきます。

私の曾祖母は旧姓が「小田」といって、九州対馬の峰村という所の生まれです。
母の話によると、曾祖母はお歯黒をしていて眉をそり落としていたらしいです。私も小さい頃から母に「うちは代々お武家さんでね」と聞いていたのでそこまでは納得していました。
でも先日母と曾祖母の話をしていたときに、どうも「?」な話を聞きました。
曾祖母は峰村の実家では、家の人から"おたたさま"と呼ばれていたそうなのです。そして、その峰村では曾祖母が歩いているとその姿を見るなり村の人が地面に平伏していたらしいのです。
普通お武家さんは「父上」「母上」と呼ぶと思っていたので何だか首を傾げてしまいます。そして大正末〜昭和初期にかけての時代になっても、村人に平伏されていたという曾祖母がとても気になります。

・家紋は左三つ巴(おそらく小田家のものだと思いますが、もしかすると曾祖母の母方の紋かもしれません)
・お墓は対馬の「いずはら」というところにある

・曾祖母の父は郵便局を作り、郵便局長をしていた

・曾祖母の叔母は自分の夫のことを「殿」と呼んでいた

・当時、対馬ではお歯黒をしていた人は少なく、峰村とその周辺では曾祖母と親戚関係のある家の人しかしていなかった


このぐらいのことしかわかりませんが、曾祖母の家はどんな家なのか知りたいです。
どうぞよろしくお願いします。


  [No.222] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:31:06

Re: 小田氏について。
青木研究員 さん 2006/12/15 (金) 19:48

稲垣さん 今日は 始めまして。
ようこそ青木氏のサイトにお越しくださいました。

このサイトは青木氏のことに付いて研究しているところですので、小田氏のことはなかな難しい事です。

しかし、折角ですので判る範囲でお答えをします。
先ず、お歯黒とそり眉 武家であつた事 おたたさま 平伏か土下座 家紋は小田氏で左三つ巴紋
の情報ですが、

これ等から判る事は大正の始め頃まで武家の仕来りで結婚すると古い仕来りの家ではお歯黒にし眉そりをしました。
”おたたさま”の呼び名は”おもうさま””おたあさま””おひいさま”と呼んでいました。

この場合は武家でも用人を何人か雇える少し高位の武家の家柄の家でした。
例えば、江戸末期以降に武家の出であり村の名主や庄屋や豪農や郷氏や大郷士や大豪商の先祖を持つ家柄であった氏などがあります。又は土地の大名などが当ります。
特に、青木氏や藤原氏などの先祖を持つ家では家の中の仕来り全体が古来からの仕来りを守っていましたので上記の様なことが周囲でもありました。

次に、「左三つ巴紋」ですが、この家紋の家は武家の出です。
この家紋の種類は91もありますがこの中で左三つ巴紋を家紋としているのには特長があります。

宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏などがこの家紋を使用しています。
特長いうのはこの家紋を持っている氏は藤原秀郷の一門の関東での武家の家柄です。

藤原秀郷と言うのは大化改新で有名な藤原鎌足の8代目のもので勲功を立てて武蔵の国や下野の国を領国として関東一帯に最大勢力を誇った藤原北家一族です。この一族の末裔は全国に朝廷の命で国司として24地方に赴任した一族です。

平安末期から室町期にかけて宇都宮氏、小山氏、竹中氏、結城氏は関東で大勢力を誇りました。
この一団の事を当時は、「関東屋形」呼んでいました。

特にこの中の小山氏に付いては、平安中期から後期にかけて藤原秀郷一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任した時しましたが、この時、土地の豪族との血縁をしました。
この代表的な氏が小山氏でこの流を汲む小田氏等があります。
藤原秀郷一門が赴任地を甲斐や信濃に変わったときにこれ等の小山氏等の血縁族が護衛群として同行しました。そして、甲斐に定着してそこで勢力を広げたのが甲斐の武田氏です。
又、陸奥の花山氏等は信濃に定住して足利氏となりました。
この時、小山氏の一部は秀郷の領国の武蔵、下野、上野、常陸の付近に移動して定住しました。
特に常陸の小山氏は上記の通り関東屋形と呼ばれるくらいに大勢力を築きました。

秀郷一門のこの関東屋形の結城氏からは永嶋氏が出ました。
これが結城永嶋氏です。佐野永嶋氏結城氏との同属血縁で結城永嶋氏が出たのです。

この一族の末裔は主要5氏(永嶋氏、長沼氏、青木氏、長谷川氏、進藤氏)を中心に24氏の氏が出来ました。この中には上記の5つの氏があります。

そこで、この藤原秀郷の一門が肥前国に国司として赴任しました。その時に小山氏の支流が護衛軍の一部として付き従いました。

この時、この赴任した藤原秀郷の末裔の一族が鎌倉幕府の樹立で失職し土地に定住して土地の名主や庄屋や郷士などになり、又、元の立場を生かして豪商となりました。

この時に、付き従った武家の家臣群やその一族縁者も肥前付近に配置されていましたからこれ等も鎌倉期以降も同じく村の力の持つた武家として存在しました。

多分、藤原秀郷一門の中に見られるこの支流の左三つ巴紋の小田氏もこの時に肥前付近の土地に残留したのではないかと推測します。此れが御家の元祖ではないかと思います。

このような高位の武家では父上や母上の言葉は使いません。上記の言葉の様に少し違っています。
天皇家のように。

参考としてこのサイトの青木氏は皇族賜姓青木氏ですし、藤原秀郷流青木氏はですのでこの様な仕来りの中にあります。

平伏土下座も明治大正期には土下座はすくなかつたと思いますが、立ち止まり横に道を譲り腰を低く下げて平伏の慣習が残っていました。

参考に、筆者の先祖は江戸初期から大正末期までの紀州徳川の殿様がわが家の先祖と会うときは徳川の殿様が座る上座を譲り下座し座布団も敷くことはなかつたとた伝えられています。
伊勢青木氏は皇族賜姓青木氏であるので徳川氏より身分家柄が格別に上位である事から起こる慣習でありました。
伊勢の豪商の紙屋長兵衛として2足の草鞋策で伊勢の青木氏としての武家と片方では商いを営む豪商でした。
この様に青木氏と同じ様に、元の勢力を生かして殆どの各地の藤原秀郷氏の一門の末裔も残留した土地ではこの様な立場を保っていました。

名主や庄屋や大豪農や大豪商などは殆ど元は高い身分の武士でした。

一度、御家のご先祖のその娘さんの呼び名は”おひいさま”と呼んでいませんでしたかお調べになるとよいと思います。食事などは上げ膳、据え膳では無かったかもお調べになるとよいと思います。
お盆の仕来りなども異なっていましたが付近と違って居ませんでしたか。

もしこのようなことがあれば間違いありません。

推測できる事は専門ではありませんので上記の通りですがご質問が有りましたらお尋ねください。


  [No.223] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:31:58

Re: 小田氏について。
稲垣雅子さん 2006/12/16 (土) 19:38 [ メール ]
回答ありがとうございました。
とても詳しく書いていただいて、母と二人喜んでおります。
本当にありがとうございました。

早速今日叔父に電話で色々と尋ねてみたところ、上げ膳据え膳などのことはもうほとんど覚えていないと言っていましたが、お盆については何か思い当たることがあったようです。曾祖母の家はお盆のとき、仏間の入り口から仏壇までずらっと天井から飾りがつるされていたそうで、これは近所でも見たことがなかったと言っていました。お武家の古い仕来りとはこのことかもしれません。
話は変わるのですが以前「小田」と調べていたところ、「肥前小田家」というのを見たことがあります。宇都宮氏ー常陸小田氏ー肥前小田氏、というルートのようで、その肥前小田氏の一族は一度敵に滅ぼされています。その後小田家から養子に出ていた人の子により肥前小田氏は復活したらしいのですが、うちの家もその生き残りの筋の可能性はありますか?肥前小田氏の家紋は不詳ということになっているので同じ家紋かどうかもわかりません。

・・・何か本当に質問ばかりでスミマセン;
よろしくお願いします。


  [No.224] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:33:42

Re: 小田氏について。
青木研究員 さん 2006/12/17 (日) 09:22
稲垣さん 今日は。

さて、お便りの事ですが、仏間に飾りつけをするという習慣は公家(藤原氏含む)や皇族賜姓族(青木氏や源氏)やこの血筋を受ける青木氏24氏と藤原秀郷本家筋24氏や藤原秀郷流青木氏など116氏等の家柄ではこの仕来りが行われていました。

特に浄土宗系列(上記の氏が入信する限定宗派)天台宗や真言宗では寺なども今でもこの様な飾りつけ事を行っています。上記の支流一族の家柄が入信した浄土真宗もこの風習が行われていました。
江戸期になってすたれていつた様です。

他に、お盆の時に迎え火や送り火などの行事をしますし、この時は3代前の先祖の数だけお線香を炊き般若心経を一族が集まって上げるという習慣が昭和初期までありました。
後にこの行事が一般化して焚き火をして盆踊りの行事と変化してゆきました。
仏前のお供えも周囲とちがって居た筈です。

多分、この習慣は間違いなく藤原秀郷一族の支流一門の肥前の小田氏にはあつたと考えます。
筆者の家も今でもこの伝統を大分はなくなりましたがまだ続けています。

次に、宇都宮氏や結城氏や小山氏や小田氏などの藤原秀郷一門の末裔24氏は武蔵国(埼玉)や下野国(茨城栃木群馬)等の関東武士(関東尾形という)は総宗本家の国司赴任地に官僚として24国(全66国)に赴任し一部が藤原氏の勢力拡大の戦略としてその土地に定住しその土地の土豪と血縁を必ずしました。
(青木氏は藤原秀郷の主要5氏の一つですが護衛役を担っていました。)
したがって、常陸国は藤原秀郷一門末裔の領国ですので此処には当然小田氏が存在します。
藤原秀郷24氏の一つの結城氏が常陸一族のその元祖です。

次に、稲垣さんのおうちのことですが、肥前小田氏の詳細ルーツのことに付いては不詳ですが、
一族と考えます。

藤原秀郷の一門の小田氏と稲垣氏とどのように繋がっているのかは判りませんが、小田氏が生残るためには土地の大小の豪族と繋がる意外には有りません。
当然に稲垣氏とは血縁関係を結んだ事が考えられます。
又は、小田氏の一門の末裔が男系跡目が出来ずに娘に養子を稲垣氏から取り跡目を次がせてたが、再び女系となり止む無く稲垣氏を名乗ったことも考えられます。
この時に家紋を稲垣氏の家紋にするか家紋だけは元のままにするかが決断のことです。

稲垣氏を辿れば必ずこの小田氏に繋がり、宇都宮氏か結城氏か小山氏かに到達するはずです。
何れににせよ、この宇都宮氏と小山氏の先祖は長崎奉行を務めています。常陸は小田氏は結城氏
と、肥前小田氏は宇都宮氏か小山氏かのいずれかと繋がっていると考えます。

そして、このいずれかの藤原秀郷一門と稲垣氏とが繋がっていると考えます。このところの確証は専門外なので取れません。いずれにせよ血縁一族であると観られます。

何れの日にかこの稲垣氏の多少のルーツがわかりましたらこのサイトで又お便りします。


  [No.225] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:34:49

Re: 小田氏について。
稲垣雅子さん 2006/12/17 (日) 12:16 [ メール ]
こんにちは。
今回も詳しい回答ありがとうございました。

昔の公家や武家はそんな仕来りがあったんですね〜。うちは今はもう全然仏間を飾ったりはしなくなったので、来年のお盆には手作りで作って飾ろうかなと考えています(^^)
でも稲垣と小田が少なからず関係があったというのは驚きです。人間どこで繋がっているかわからないものですね。。笑


今回は色々とありがとうございました。先祖のルーツも知ることができ、とても感謝しています。
ありがとうございました。


余談ですが私の旧姓も青木です。家紋は揚羽蝶ですが、間違いなくただの農家です(笑)
こうして青木氏を研究するサイトでお世話になったのも何かご縁かもしれませんね!(笑)

ではここら辺で失礼します。


  [No.226] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:36:52

Re: 小田氏について。
青木研究員 さん 2006/12/17 (日) 17:55

今日は。稲垣さん。
旧姓青木さん。

ちょとすごい事が判りましたのでお便りします。

その前にお盆の飾りの件ですが、七夕はこの仕来りのなごりです。

さて、肝心な事ですが、旧姓の青木氏のことです。
この青木氏は家紋が揚羽蝶紋であるとの事ですが、実はこの揚羽蝶の家紋は平家の綜紋です。
この平氏の青木氏は藤原秀郷流青木氏の主要9氏の一つです。この支流4氏の一つです。
この揚羽蝶の家紋の青木氏は元は嶋崎と名乗っていました。又一部の縁者は岡田と名乗っていました。この嶋崎氏は藤原秀郷流青木氏の元祖の初代の秀郷の第3子で千国というものが居ました。
この元祖の千国の母は平氏のこの嶋崎氏の出です。
そのことからいくつかの姻戚によりこの嶋崎は後に藤原氏一門となり、青木氏元祖の千国の後の青木氏を名乗りました。

兵右衛門利澄の時に青木氏となりました。この初代元祖の利澄の子供の長男の正命がこれを引き継ぎました。
藤原秀郷流青木氏の青木正命が2代目の元祖です
藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の9氏からなり、116氏に拡がっています。
研究室の「藤原秀郷一族の生き方」のレポート参照して下さい

この支流4氏の一つです。そして、鎌倉幕府樹立により平安期の朝廷が衰退し藤原一族は全て失職し他の豪族に仕官となり農業や商いをしたりして生き延びました。

この青木氏です。したがつて嫁ぎさきの藤原秀郷の支流の稲垣氏末裔と旧姓の藤原秀郷流青木氏は同族でどちらかと言うと身分は上位です。

次に、藤原秀郷一族の小田氏に付いては家紋掲示板の3Pの真ん中あたりに家紋の州浜紋を掲示していますので参照して下さい。
研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートの州浜紋のところを参照して下さい。

小田氏は武蔵の小田氏と陸奥の小田氏と常陸の小田氏と肥前の小田氏とがありこの小田氏の元は総宗本家は武蔵で次に陸奥から常陸から肥前からと成ります。

家紋は州浜紋です。


つまり小田氏、青木氏、稲垣氏の3つの藤原秀郷の一門同士の血縁で藤原氏の血筋の濃い稲垣氏と成ります。世の中とは不思議ですね。こんな事は珍しいですね。元祖の宇都宮氏か小山氏などを入れると5つくらいの藤原秀郷一門の血筋で出来た御家といえます。藤原氏そのものでしょう。

では又サイトにお便りください。


  [No.227] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:37:55

Re: 小田氏について。
稲垣雅子さん 2006/12/18 (月) 17:16 [ メール ]
こんにちは(^^)

今回の「青木氏」の話には心底驚きました・・・!!
「え?まさか平家ってあの平家!?」と読んだあとも少し呆然としていました(苦笑)まさか父方が藤原氏と縁がある家だったとは・・・。考えもしませんでした。父方の先祖のことは父から「うちはどうせただの農家やろー」としか聞いたことが無かったので全然興味もありませんでした。

それで今日驚いて父に電話してみたところ、何やらお盆だけは母方の家と似たようなことをしていたらしいです。父の家は仏間を飾ったりはしていなかったらしいのですが、父の父(私の祖父)の兄の家は仏間を少し飾ったりしていたらしいです。父も幼いときの記憶なのでもうあやふやだと言っていましたが、ひもの先に三角や丸の形をした綿をつめた飾りがつるしてあったらしいですよ。実家付近ではそんな飾りをする地域性は無いので、これはもしかすると何かのなごりでしょうか??

もしも父方の家が本当に藤原氏の血を汲んでいるのだとしたら、本当にうちの家は面白い縁になりますね。血のつながりもない他人だと思っていたら遥か昔に実は同じ先祖から始まった人だったとは・・・。ルーツ調べは奥が深いです。(笑)


  [No.228] Re: 小田氏について。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:38:56

Re: 小田氏について。
青木研究員 さん 2006/12/18 (月) 19:41
稲垣さん 今日は。

書き忘れましたので追記します。
揚羽蝶紋の藤原秀郷流青木氏のことは家紋掲示板の3Pの上から3番目にレポートしています。
又、研究室の青木氏と血縁族(家紋)の揚羽蝶紋のところのレポートをお読みください。

詳しくレポートしています。