[青木ルーツ掲示板トップにもどる] [青木氏氏 研究室へ]
一括表示

このページのリンクURLです。張り付けてご利用ください。
 
キーワード: 条件: 表示:
 

  [No.264] Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:41:02

Who am i?
青木勇さん 2007/03/03 (土) 04:05 [ メール ]
どうも、はぢめまして! 愛知の青木勇と申します。

もともと出身が長野県で、先祖が真田雪村に仕えていた武家らしく

家紋が、「丸に〜〜〜」だそうです。

こんな少ない情報では判断しづらいと思いますが

わかる範囲で構いません!

なにかわかることがあったら教えていただけませんか?

どうか宜しくお願いします!!


  [No.265] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:42:15

Re: Who am i?
副管理人さん 2007/03/03 (土) 12:01

愛知の青木さん
今日は。はじめまして。

青木サイトにようこそ興しいただきました。
これから、同じルーツを持つ青木氏としてちょくちょくお尋ねください。

さて、お尋ねの件ですが、本当に情報が少ないので大変ですが、二つの情報から検証してみますので確定は困難ですが、そのようにご理解ください。

青木氏は大きく分けて2つのルーツで構成されています。
1つは、皇族賜姓青木氏です。
つまり、天智天皇から数えて5代の天皇の第6番目の位置する皇子が臣下して侍となり、この皇子に対して天皇自らこの第6位皇子に氏を与えました。
これが青木氏であります。
この青木氏は天智天皇の大化の改新前は蘇我氏に3権(政治経済軍事)を牛耳られて飾りでありました。自らを守る武力が無く極めて不安全でもう少しで蘇我氏に天皇の座を奪われるところまでになっていました。
そこで、中大兄皇子が蘇我入鹿をうち、この反省から、18の改革と10の活動の改新を行いました。
その中の一つに、天皇を自ら護る親衛隊を創設しました。この任務に就いたのが第6位の皇子であります。
その第6位皇子が青木氏を発祥させました。
この青木氏は5家5流24氏から成っています。
その5家5流の青木氏は初代の伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王を元祖としています。
従って、この5つの土地には笹竜胆を家紋とする青木氏が存在します。
そこから分かれて土地の豪族との血縁で発祥した5つの土地の豪族系青木氏から生まれた24氏が存在します。
研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートに詳しく書いてありますので参照して下さい。

次ぎに藤原秀郷流青木氏です。
この青木氏は藤原秀郷が平の将門の乱を鎮めた勲功で出世して貴族に取り立てられ武蔵と下野の国をあたえられました。
この時、貴族は武力をもつ事が出来ないので秀郷の第3番目の子供の千国と言う息子に皇族賜姓青木氏と同じく真似て、護衛役の任務をあたえました。これが藤原秀郷流青木氏です。

青木氏は、一般の者が名乗っては成らない氏でしたが、特別に朝廷の許可を得て名乗りました。
これが、直系1氏、直流4氏、支流4氏の主要9氏から116氏まで子孫を広げました。
(「藤原秀郷一族の生き方」等の研究室のレポートをお読みください。詳しく書いています。)

そこで、長野(信濃)の情報から、この信濃には3つの青木氏が存在します。
先ず一つは、上記の信濃王の青木氏、つまり、皇族賜姓青木氏です。
この青木氏は長野の国府のある位置に青木村を形成して定住しています。

次ぎは、この賜姓青木氏と土地の豪族の足利氏との血縁で発祥した足利系青木氏です。
この足利系青木氏は信濃の北側の北陸の県境に住み分けをして青木村を形成して定住しています。

三番目が藤原秀郷流青木氏で、この藤原秀郷の宗家からこの信濃南部を守護するために朝廷の命で赴任した時に護衛役として同行した一族の青木氏です。

この南部付近には幾つかの藤原一族が存在しますが、この中にその土地に定住した藤原秀郷の末裔が土地の名を採って真田と名乗った一族がいます。

普通は、武蔵国に役目が終わると帰りますが、藤原氏は必ず一部を土地に残す戦略を採ってきました。
これが真田氏です。後にこの真田氏は勢力分断を図る為に足利幕府は分家を高野山下の所に移動させました。本家はこの信濃南部付近が土地です。

NHKの大河ドラマの風林火山で先週この真田氏が出てきました。
この真田氏の家臣であったので有れば、この藤原秀郷一門の真田氏を護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏であると見られます。

家紋と土地と宗派と菩提寺が確認出来れば確定は可能ですが、一度、この藤原秀郷流青木氏を基準に
お調べになると本家真田氏ははっきりとしていて江戸まで続きましたので青木氏は必ず出て来ると思います。
分家は徳川氏に滅ぼされましたので一寸わかりませんが。

信濃の真田郷には御家の本家筋のお墓と菩提寺が必ずあると思いますので、比較的も簡単にルーツの元を判明させる事は可能と思います。

左のメニューの「地名地形データーベース」にも信濃地域のところをクリックすると詳しく書いています。
家紋が判れば、「家紋掲示板」にも御家の家紋のところをクリックすると更に詳しく説明しています。
研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」でも家紋が判れば詳しく書いています。

研究室の各地の青木さんからのお問い合わせのレポートも家紋がわかれば沢山の親類の方が投稿してきていますので参照して下さい。

青木氏のブログも参考に参照して下さい。

先ずは信濃の真田郷のところから青木村を形成しているはずですからスタートされると良いと思います。
御家は先ずは、真田という氏の現状の情報ではこの藤原秀郷流青木氏の末裔と思います。

お判り頂けたでしょうか。
ご質問とご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
ではお便りお待ちしています。


  [No.266] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:43:05

Re: Who am i?
愛知の青木さん 2007/03/06 (火) 10:30
数少ない情報にもかかわらず
どうもありがとうございました。

一つ新しくわかったことがあるんですが
うちの宗教はしんとうらしいです!

これでまた何かわかったらお願いします。


  [No.267] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:46:52

Re: Who am i?
副管理人さん 2007/03/06 (火) 18:20

愛知の青木さん 今日は。

宗派が神道ですか。

一つこれで判ってきました。
氏家制度の中では皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏のような高位の一族には独自で菩提寺や神社をもっていました。
特にこの青木氏は現代でも神社や寺社の神主や住職に青木氏が多いのはこの理由なのです。

そこで、御家は、信濃の真田氏の家臣であり、藤原秀郷流青木氏である事はほぼ確実と思いますが、尚、この神道の情報でも確実になりました。

御家のご先祖の本家筋のルーツのところではこの一族の神主をしていた事が判ります。神主であるので神道を宗としていたのです。

そうなると、藤原秀郷流青木氏で神主のご先祖を持つ家紋に成ります。且つ、その神主が信濃の藤原秀郷流青木氏と成りますと、二つの家紋が出てきます。

一つは三つ柏紋(4P)です。もうひとつは立ち葵紋(1P)です。この本家か分家かと言う事に成ります。
つまり、この家紋に丸が付くか、付かないかのどちらかです。
この2家紋は家紋掲示板に掲示していますので調べてお読みください。

さて、ではこの2つのうちのどちらかという事に成ります。
現状では、確かなことが判りません。
ご先祖の古いところがどの時代のところまでにあるかと言う事に成ります。

さて、そこで藤原秀郷一門の真田氏は幾多の危機を乗り越えて鎌倉期から存在しますので時代性から考えて前者の「三つ柏紋」と見られますが、藤原秀郷流青木氏なので疑問が残ります。

藤原秀郷流青木氏であると立ち葵紋と成りますが、時代性と真田氏の徳川氏との関わりからで疑問が残ります。この家紋は比較的に新しく江戸期ですので時代性から見て当てはまりませんので、この間で信濃の地元で皇族賜姓青木氏の三つ柏紋の氏との血縁があったことも考えられます。

つまり、御家のご先祖のどこかで男系での跡目が叶わず、この6つの柏紋(特に三つ柏紋)の一族から養子を取り再び男子が生まれず女系となり、結局、男系跡目の仕来りですので、家紋掟により養子先の家紋と宗とに変更を余儀なくされた事が覗えます。

次ぎに、丸付き紋であるかどうかですが、現在まで神道を維持されてきたとなると大方本家筋のルーツであると見られます。
つまり、丸付きは無いと云う事に成ります。神道と云う情報で検証すると三つ柏紋の青木氏です。

真田という情報だけからすると、藤原秀郷流青木氏と見られましたが、神道の情報からすると皇族賜姓青木氏の24氏のひとつと見られます。ですの家紋が決めてに成ります。

三つ柏紋か、別の家紋かという事に成りますが、つまり、真田氏と神道との情報から、美濃、信濃付近の皇族賜姓青木氏である事は確実になってきました。

この情報でここまでは推測が付きますが、他に何でも結構ですから、有りましたらお知らせください。
お待ちしています。


  [No.268] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:47:39

Re: Who am i?
愛知の青木勇さん 2007/04/07 (土) 20:47
お久しぶりです!
家紋がわかりました!
先日、亡くなった父の墓参りに行った際に
家紋を発見しました!
丸に木瓜紋でした!
これでまた何かわかりますか?
お願いします!


  [No.269] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:48:53

Re: Who am i?
副管理人さん 2007/04/08 (日) 09:23

愛知の青木さん 今日は。お久しぶりですね。

お墓参りされたという事ですが、よかつたですね。
これもご先祖の何かのお導きでしよう。
ルーツが判る様に家紋を示してくれたのでしょう。

さて、御家のルーツ情報は次の三つですが、
1番目は真田氏の家臣であった事。
この推測から藤原秀郷流青木氏と見ていましたが、次の情報から違う事がわかりましたね。

2番目は神道である事。
この神道で真田氏の定住地からみて青木氏を名乗る氏は二つですが、その内の三つ柏紋と見ていましたし、皇族賜姓青木氏である事が推測されました。

3番目は古い真田氏ルーツでその家臣からみて、美濃、信濃付近定住の一族の皇族賜姓青木氏であることが判ってきました。
そこで、決め手になるのは家紋であるとお答えしたと思います。

第4番目はこの度「丸に木瓜紋」である事が判りました。
家紋がルーツ解明のおおきな決め手になる事は事実ですので、神道で三つ柏では無かったとすると、先ずは、皇族賜姓青木氏である事は先ず間違いないことでしょう。

そこで、では次に、この「丸に木瓜紋」であった事から、大変古い皇族賜姓青木氏の24氏の一つである事が確定しました。

この家紋は研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」のところの「木瓜紋」のところのレポートをお読みください。詳しくレポートしています。
又、家紋掲示板のところの「木瓜紋」のところのレポートもお読みください。更に、青木氏の地名地形データーベースの所の美濃国の所を選択してください。ここにもレポートしています。

さて、検証のまず結論ですが、木瓜紋は信長などの時代小説などでも有名なことはご承知と思いますが、美濃の大豪族の土岐氏系青木氏であります。

このことから、美濃、信濃地域の条件は一致し、大変由緒ある古い御家であり、地理的にも真田氏の家臣であったことも頷けますし一致します。

皇族賜姓青木氏の5家5流24氏の一つで、美濃王して赴任した聖武天皇の第6位皇子を始祖とする一族で、概ね、1000年頃に土地の豪族の土岐氏と血縁した美濃の賜姓青木氏であります。

この美濃の賜姓青木氏の一族が2代続きで男系継承が出来ずに、女系となり家紋掟により変紋を余儀なくされたもので、養子先の家紋となったものです。

ただ、この間には変紋がどのようになったかは確定は困難ですが、1000年という長い年月ですので、2度程度の変紋を余儀なくされた事は充分に考えられます。
というのはこの間には、高位の青木氏や藤原氏を中心に攻撃された下級武士が起こした反乱の「下克上」で殆どの青木氏の男子の子孫を失う事がありました。
又、室町末期からはじまった戦国時代もこの二つの氏は大きな氏一族の衰退を意味する苦難を受けてきました。

従って、大抵のこの二つの青木氏は変紋を余儀なくされたのです。
ですから、特に藤原秀郷流青木氏は元は9家9流氏から116氏にも家紋に広がると言う事にもなりました。
賜姓青木氏も24まで広がったのです。元は5家5流でした。

ですから、御家の「神道」という特殊で、皇族系が持つ古いな仕来りを現在もお持ちですので、私はこの情報を軽く見ることが出来ないのです。

この仕来りを1000年に及ぶ長く維持してきたことは大変な事ですので、神官の家柄一族が持つ仕来りは重いものがあります。

多分、推測の域が出ませんが、「木瓜紋」の前は一時期に皇族賜姓青木氏の神職の「三つ柏紋」を持つ氏であつて、その後に土岐氏系の一族との血縁を結んで再び変紋となり、「木瓜紋」になったと見ます。
それだけにこの神道、特に高位の皇族賜姓青木氏だけが持つ自前の神社の情報には重点をおいています。

1200年以上の長い古い家柄をお持ちであるが故に言えることで、室町江戸ではこの説は無理でしょうが。

これに関する何かの情報があるといいのですが。例えば御家は丸付き紋ですのでその分家筋ですので
本家筋の一部では、この三つ柏紋の青木氏の家紋を保持している可能性がありますし、地理的には同じ域の家紋類ですので充分にありうる事と思います。

キーポイントは本家筋の一部にこの三つ柏紋もあることかと思います。
これが確認出来ればルーツ検証は確定です。

兎も角も、綜紋は「笹竜胆紋」です。筆者とともに変紋前は皇族賜姓青木氏の総宗本家の笹竜胆の家紋と成ります。
現在まで男系で続いてきた伊勢青木氏が皇族賜姓すべての青木氏の元に成りますので、元は「笹竜胆紋」であります。賜姓源氏も青木氏の綜紋の笹竜胆紋を同族ですので保持しています。
賜姓源氏一族の全て総宗本家は完全に絶えましたので伊勢青木氏を始めとする5家5流の24氏の一族が綜紋笹竜胆紋を繋いでいること成ります。

つまり、その24氏の青木氏の御家は、「笹竜胆紋」から「三つ柏紋」へそして「木瓜紋」と移り分筋となっことから「丸付き紋」となったといえます。

以上ですが、何か他にちょっとしてた事でも有りましたらお便りください。意外にこの様なことから判明することが出来るのです。今と仕来りが異なるので。

又、お判りであったら是非にお便りください。お待ちしています。


  [No.270] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:49:53

Re: Who am i?
愛知の青木勇さん 2007/04/08 (日) 13:36
いろいろとありがとうございます。
一点、丸に木瓜紋の家紋と言ったのですが
紋の中の花のような模様の先が
木瓜紋は三つに開いているのですが
よく見ると当家の家紋は三つに開いてないんですよね

何かの間違いでしょうか?


  [No.271] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:50:55

Re: Who am i?
副管理人さん 2007/04/08 (日) 20:36

愛知の青木さん 今日は。

木瓜紋は全て花の先端がとんがって突になっています。
もし、これでないとすると、土岐氏の宗家の家紋ではありませんか。

土岐桔梗紋です。これに丸付き紋と成っている家紋では有りませんか。
一度家紋掲示板の2Pのところを見て下さい。

それであれば前回のレポートは変わることはありません。

土岐氏の支流一族ではなくて土岐氏と皇族賜姓青木氏との血縁族での直系です。

歴史は古いですが木瓜紋では土岐氏の血筋を持つ一族との血縁と成ります。

一度確認してお便りください。


  [No.1068] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:青木   投稿日:2015/10/20(Tue) 11:42:16

副管理人さん

大変、お久しぶりです。

新たにわかったことが有ります!

祖父の実家が長野の善光寺であることがわかりました!
  
しかしながら善光寺ですと家紋が立ち葵であること、我が家の家紋は丸に五瓜?でして宗教も神道です。

なにがなんだかわからなくなってきてしまいましたが宜しくお願い致します。


  [No.1069] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/21(Wed) 19:36:55

今日は。お久しぶりです。

さて、早速ですが,御質問のお答えに入ります。

御質問は次ぎの通りですが、以前のご質問でお答えした内容は、以下の通りです。

今回のご質問には、知っておかなければならない歴史観が在ります。
先ずは、祖父の方は明治の方と見受けれられます。
これは、江戸期と明治期では社会体制が全く異なっています。
氏家制度の江戸期には家紋などの伝統でルーツを確認できましたが、明治期はこの身分制度の「封建制度」と「氏家制度」で纏まる社会体制ではありません。
従って、明治期ではルーツを追う事は出来ません。

次に、善光寺の件ですが、この善光寺は、密教と顕教を併せ持つ中立的な大変に珍しい寺で、平安期から、比叡山の僧侶が集まる天台宗派と、皇族系の宗派の浄土宗派とが、二つの派で構成されていた珍しい寺に成ります。
平安期の当時は,社会は主体が未だ「密教」を前提とする宗教でしたから、一般の者、つまり、民衆を含む官僚や侍(当時はこれらの身分の人々を「百姓]と云った。)が信心できる寺として大いに広がりました。特に、民衆は「古代稲荷信仰」を主体として信心出来る宗教体制でした。

そもそもその「密教の天台宗」は、平安期は密教系を前提に貴族や公家衆等の出身者が僧侶と成り、この系列でこの寺に僧侶と成って入りました。
ところが、教義は「顕教」の「盧舎那仏」を「宇宙仏」として「釈迦」を「如来像」として説く宗派であり、明らかに「顕教」でした。
然し、体制では、つまり、「密教の大日如来を宇宙仏」とする説を唱える宗派でしたが、教義は「顕教の説法」を採用していました。
少し矛盾する宗派でした。
これが、「密教の在り方」について平安期の有名な[宗教論議」となり、挙句は「宗教戦争」と成った原因です。
比叡山系は、多くは「皇族の門跡院の者」と「公家や貴族」が僧侶と成った宗派でした。

ところが、これに反して「浄土宗」は「皇位で高位の氏族」が入信し、その「氏族の者」が「氏内から僧侶」と成り説法する「密教」だけを前提としていました。
「達親」と云う「仕来り」を敷いて布教する「独善の宗派]でした。
(研究室の「伝統シリーズ」で論じています。)
そこで、この「善光寺」は、この「二つの態勢の宗派」の僧侶を招き入れての寺の構成を採った事で、「特殊な善光寺」が生まれました。
当然に、内部は、二派に分かれる事に成ります。

この「密教」であって「密教」で無い、「顕教」で有って「顕教」で無い不思議な寺が出来上がったのです。
従って、後には民衆も含めて、江戸期には誰でもが信心出来て、且つ、「高位格式を持つ氏族」も信心できる「高い格式のある寺」が出来上がったのです。

この体制を持つ「善光寺」は、江戸初期には家康に依って「密教」を全て禁止した為に、全て「顕教」に統一しましたので、当時としては「身分の高い、格式のある僧侶」から成る「格式のある寺」が出来上がり、この為に家康は、特別に、この徳川氏が定める「葵紋」の他に、権威を更に高める為に特別に、「格式紋・権威紋」として、「立葵紋」を作りました。結果的にこの葵紋の使用を認められたのは、「二つ出自」にこの「立葵紋」を与えました。
一つは、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏の融合族」に「徳川氏の勝姫」を嫁がせてこの「立葵紋の使用」を認めました。
そして、他に一切の使用を禁じました。
これらの上記の事は「伝統シリーズ」で論じていますので参照してください。

つまり、同じルーツの皇族系の持つ格式の高い氏や寺社に使用を認めたのです。
これが、「善光寺の格式紋・権威紋の立葵紋」の経緯由来です。
幕府は、この善光寺に「立葵紋の使用」を認めて「寺紋」として使わさせて「徳川氏の権威」を高める事に利用しましたし、且つ、保護したのです。
従って、この特別の神紋と成った「立葵紋」に付いてはお家とは家紋ではありませんので無関係です。

元は、上記しました様に、「皇族系の笹竜胆紋」と「神職で神道系の柏紋類」と「高位の格式を持つ木瓜紋類」(平家揚羽蝶紋を総紋としての織田氏も木瓜紋の由来を持つ)の「氏族の寺」として唯一の最高の格式高い寺が平安期に出来上がり、それが江戸期に「立葵紋の使用」をこの「善光寺」にだけが認められたのです。
当然にその僧侶の多くはこの紋類を持つもので構成されていたのです。

本来は、「柏紋類」は「青木氏の皇族賜姓族の神職系の家紋」で特別に朝廷より認められたものです。
依って、この善光寺にもこの「神職系の柏紋の者」が僧侶と成る事も起こったのです。

>祖父の実家が「長野の善光寺」であることがわかりました!
>しかしながら「善光寺」ですと家紋が立ち葵であること、我が家の家紋は丸に五瓜?でして宗教も神道です。

実家が「善光寺」と云う事は、どの様な経緯と裏付けで判明したかは判りませんが、考えられる事は、その「浄土宗派の僧侶の青木氏系」の者が、還俗して子孫を遺したとすればあり得る事です。
平安期では無い事であったのですが、江戸期中期頃からこの「善光寺の僧侶」が妻帯する事も起こり、善光寺内にも、還俗した者にも妻帯した子孫を遺した事は記録として遺されています。

ですから、元は「神職の神道」でありながらも、「善光寺の僧侶」であって還俗した者が、この還俗後に「元の家紋」を使ったとする事もあったとも考えられます。
依って、「柏紋類、木瓜紋類の青木氏」が、還俗して次ぎの経緯の中で子孫を増やした事も起こり得ます。

「立葵紋」は上記した経緯から家紋としては全く関係がありません。
「立葵紋」は江戸初期から家紋化する事は厳しく禁じられていましたし、江戸期の事ですので、関係はありません。
本来の家紋は、室町期中期頃以降では「五瓜紋」では無かったと観られます。
恐らくは、元は「柏紋の青木氏」であった事に成ると思います。
この事は不思議な事では無いと考えられます。
但し、還俗の所運が付いていて、下記の様な「跡目の家紋掟の経緯」から幾つかの家紋が江戸期には起こったと観られます。

ただ、明治期では、社会体制が異なっていますので、どんな家紋にも広がった事が云えます。
お家の祖父の事は、明治期ですから、「丸に五瓜紋」に成ったとも考えられます。

下記の様に、以前のお便りにも書きましたが、次ぎの様に成ります。

以前のお答え内容
>多分、推測の域が出ませんが、「木瓜紋」の前は一時期に「皇族賜姓青木氏の神職」の「三つ柏紋」を持つ氏であって、その後に、「土岐氏系の一族」との血縁を結んで男系跡目が叶わずに再び変紋を余儀なくされる事と成り、「家紋掟」に依り「木瓜紋」に成ったと見ます。
>それだけにこの神道、特に「高位の皇族賜姓青木氏」だけが持つ「自前の神社」の情報には重点をおいています。
>1200年以上の長い古い家柄をお持ちであるが故に言えることで、室町期や江戸期ではこの説は無理でしょうが。
>これに関する何かの情報があるといいのですが。例えば、御家は丸付き紋ですのでその分家筋ですので、本家筋の一部では、この「三つ柏紋の青木氏」の家紋を保持している可能性がありますし、地理的には同じ域の家紋類ですので充分にあり得る事と思います。
>キーポイントはお家が分家の「丸に五瓜紋の青木氏」であったとしても、本家筋の一部にこの「三つ柏紋」もあることかと思います。
>これが確認出来ればルーツ検証は確定です。
>兎も角も、綜紋は「笹竜胆紋」です。
>筆者とともに変紋前は「皇族賜姓青木氏の総宗本家の笹竜胆の家紋」と成ります。
>現在まで男系で続いてきた「伊勢青木氏」が皇族賜姓すべての青木氏の元に成りますので、元は「笹竜胆紋」であります。
>賜姓源氏も青木氏の綜紋の笹竜胆紋を同族ですので保持しています。
>賜姓源氏一族の全て総宗本家は完全に絶えましたので、現在では「伊勢青木氏」を始めとする5家5流の24氏の一族が「綜紋の笹竜胆紋」を繋いでいること成ります。
>(ただ、土岐氏系と近江系は源平合戦で滅亡しています。)
>つまり、その「24氏の青木氏」の一つの分家筋の御家は、「笹竜胆紋」から「三つ柏紋」へ、そして「木瓜紋」と移り分筋となっことから「丸付き紋」となったとも云えます。

さて、そこで歴史的に「ある変遷」があって、「木瓜紋」は、そもそも、上記した様に「高位で皇族系の氏族」であった事から、そもそも、「丸付き紋」は、本来は慣習として用いていなかったのです。
然し、この慣習も江戸期に成ると緩みましたので、「丸付き紋の木瓜紋の青木氏」もある事は認められます。
但し、特にこの場合、その中でも「五瓜紋」は、織田氏等の「平家の支流族」が用いた家紋類です。
その「五瓜紋」の真ん中にその「支流族の紋」、つまり、「副紋」を組み入れた文様の習慣を持っています。
その中に組み込むこの「副紋」は一般的に「唐花紋の変紋した文様」を用いました。
依って、お家のこの家紋に真ん中にある文様があるかどうか、無いかどうか、在ったとしてその文様がどんな文様であったかで、お家のルーツ先がどこの氏姓であったかは判ります。
この上に、本来は上記した様に「高位の純血性を護る為に「氏族」からすると無い「丸付き紋」ですが、唯一つ「丸に五瓜に唐花紋」使用した「姓族]があり、この「姓族」は唯一「江戸期の渋江氏」が認められます。
恐らくは、時期は何時かははっきりとは云えませんが、恐らくは「渋江氏の由来事」から江戸の中期頃から明治期初め頃の事では無いかと云えます。
つまり、二つ目の説は、この渋江氏の系列と養子血縁した青木氏である事が云えます。
「柏紋の青木氏」が男系跡目が出来ず、養子を渋江氏から迎えたが、この養子にも男系が認められずに、女系となり、家紋は「養子先の家紋」に変紋せざるを得なく成り、渋江氏の男系の系列に入り「五瓜紋の青木氏」と成った事に成ります。
だから、「神道神職の柏紋の青木氏」であったが「神道の五瓜紋の青木氏」が発祥したのです。

明治期の祖父の実家先のルーツは、江戸期に入っていますから、そのルーツの元は、辿れば善光寺の僧侶で有って、還俗して、妻帯して、子孫を拡げたが、その後の江戸末期頃に[渋江氏」と血縁して、上記の経過を辿った事が云えます。

問題は、”お家の実家先が善光寺”とする凄い発見は、どの様に見付けられたのかが問題です。
その事に興味が湧きます。
そもそも、上記の様に「善光寺の構成経緯」からは、本来ならば「実家先」とは出来ない筈ですし、更に、仏門の者の還俗の経緯は本来は伏せる事が慣習でした。
「還俗」と云っても簡単には「還俗」は起こりません。
例え還俗しても元の青木氏の下に戻る事に成ります。
依って、実家先とは成ら無い筈です。

況して、善光寺です。
これは、実家先とするそれが判る判断資料が滅多に観られない「凄い歴史的価値」を持ちます。
この事が判る事は、家紋云々等の「ルーツ事]は充分に判る筈です。
「善光寺実家」とは、果たしてどの様な意味なのでしょうか。
一応は、”「善光寺実家先」”としての資料から観られる範囲で考察をしましたが、少ない事ですので、「善光寺の地名」の事を云っているのですか。
そうだとすると、「立葵紋」のご質問の無意味が何を意味しているのですか。

では、お便りをお待ちしています。


お答え頂ければ幸いで改めてお答えし直します。