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  [No.475] 函館の青木さん
     投稿者:函館の青木さん   投稿日:2009/04/23(Thu) 00:24:01

初めまして 函館の青木です

先祖を調べていますが判りません

私の先祖は 青木四郎治

北海道茅部郡砂原町史 に 青木屋四郎治 陸奥国 阿弥陀川村の人
                                                

1780年に 函館の 廻船問屋 角屋 吉右衛門 名字を 榊 の依頼により

支配人 として 北海道茅部郡砂原町町史に載ってました

今は 浄土真宗   墓には 丸に三つ柏 の家紋があります

                                              
こんな情報でなにか判るでしょうか

よろしくお願いします
               


  [No.476] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/23(Thu) 22:22:33

始めまして 函館の青木さん

ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

このサイトは青木氏に関する事に付いて多くのレポートが用意していますので参照して下さい。

先ず、家紋掲示板の現在4Pの下から2番目に柏紋の事に付いてレポートしています。
また、青木氏氏 研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)のところに柏紋の事を書いています。
また、陸奥の国の出であるとすると青木の地名地形データーベースにも土地の事でレポートしています。

さて、お便りの情報では時代性が新しくて難しい判断と成ります。

それと、ルーツを判断出来るほかに情報をお持ちではありませんか。

先ずその前に質問させてください。
陸奥の国では何時から陸奥の国に在住していましたか。出来るだけ古い情報をお確かめください。
浄土真宗ですが、そのお寺は何処でしょうか。
お家は本家ですか。
元は武士ですか、漁民、農民、商人、ですか。1780年というと廻船問屋の支配人だとすると商人となりますが正しいですか。
浄土真宗は何時からですか、また、菩提寺(江戸中期以前のご先祖の代々のお寺)でお家のお墓でしょうか。
もし、あるとして、過去帳の一番古い人は何時頃の人でしょうか。現在のお寺に過去帳がありますか。
氏神はお持ちでしょうか。代々同じ神社ですか。

追記で、”1740年に 青森県東津軽郡蓬田村 阿弥陀川村から北海道の江差町で漁をしてもどった。”とありましたので、漁民であると云う事に成ります。
”寺での詳しい事も過去帳も判らない”ともありましたので、氏神、菩提寺は基本的無いと言うことに成ります。

230年前頃の江戸時代ですので漁民(商人)と成ります。先ずはこれを基として検証しますと、
当然、普通では、江戸時代の漁民(商人)は苗字と家紋は持っていません。
また、村の人別帳には載りますが、ルーツを確認出来る継承はしていませんのでルーツを辿ることは出来ません。また同時に、武士や特別な人(庄屋、名主、豪農、郷氏、郷士、豪商:これ等は元は武士)以外はお寺の菩提寺の過去帳には載りませんので代々のご先祖は確認出来ません。
武士や貴族以外は戸籍を遺すと云う歴史上の習慣が無かったということです。
そうすると、過去帳に載らない人々は家紋と苗字をもつ事を許されず、また、その習慣が無かったので家
紋の「丸に三つ柏紋」は当然に明治に持った事に成ります。
古来より、人は国に所属するものとして考えられ、国より自由に外に出ることは「国抜け」と云う掟があり全子孫抹殺の重罪でした。この掟は江戸末期まで続きました。

そこで、この紋は神紋です。青木氏の神官職です。そして、この神官が各地の神官と血縁をしてこの家紋が江戸末期から明治期に拡がりました。
というのは、古来奈良時代より青木氏は独自に寺と神社を持つ事を許された氏です。
一族の中で独自で神官を勤めました。柏紋の青木氏はこの一族一党と成ります。
ここで矛盾が生まれます。江戸中期にはl漁民(商人)でしたので、身分が決まっている時代では当てはまりません。
ですから、漁民(商人)と家紋から先ず普通に考えられる事は、ルーツを確認出来る基となる過去帳のようなものが無いと思いますのでルーツの確認は無理と思います。
昔は戸籍はお寺か又は神社が行いましたの過去帳が戸籍簿に成っていました。

青木氏には、皇族賜姓青木氏5家5流29氏と藤原秀郷流青木氏直系1氏、直流4氏と支流4氏 計9氏と116氏により成り立っています。
これ等の氏の宗派は浄土宗です。浄土宗の特長です。
これ以外の青木氏は過去帳に記載が無い明治3年の苗字令と江戸初期の混乱期と室町末期の戦乱期の3つ時期に発祥した青木氏です。

青木氏は上記2氏以外(真人、朝臣族、特例宿禰族)は嵯峨期の詔で使用は禁止されていました。明治3年まで上記3期を除いて原則守られました。
これ等の史実のレポートは「青木氏氏 研究室」に詳しくレポートしています。

追記内容で、以下のことは確認出来ました。

漁民(商人)、家紋、宗派、1740年の件と1780年の北海道から見て、明治3年期の青木氏であると考えられます。よって、ご先祖のルーツは物理的に確認出来ません。

追記のお尋ねの”国は何処ですか”に付いて、昔は現在と違い国を許可を得なくては勝手に出ることは重罪ですので、また農民と漁民は特にでしたので、ご先祖のお国は代々追記の通り陸奥の国です。

追記がありましたので、以下お答えから抹消し参考とします

参考
上記の確認のご質問によりお答えは変わりますが、
青木氏は上記2氏の特別な氏名でしたので、この3期には寺に金品を渡して詔に反して偽の系譜を作って青木氏を貰い役所(明治前は寺社)に届け出ました。(この氏には矛盾があります)
一度に青木氏が定住する所の各地で突然村が全部青木氏や藤原氏を名乗ると云うことが起こりました。
当然に、この陸奥の国でも藤原秀郷流青木氏が定住していましたのでこの現象が起こりました。)
上記2氏一族に付いては詳しくレポートしていますのでお読みください。
(これ等のことを確認するために上記のご質問させて頂きます。
実は、陸奥国には藤原秀郷流青木氏が発祥していますので、3期の青木氏か藤原秀郷流青木氏かの確認が取れません。しかし、柏紋は主に皇族賜姓青木氏です。宗派も違います。
矛盾がありますので上記のご質問情報を確認して検証する必要があります。)



関連するレポートをお読みになってご質問や不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしています。

ただ、次ぎの2点の可能性があります。
鎌倉初期に陸奥の国の青木氏であった可能性があります。(歴史的な事件があった。)
本家筋で神官職との関わりがご先祖にあったかです。(歴史的史実がある)

では、先ずは、上記の2点の事で判る範囲で結構ですから、ちょっとしたことでもお判りになったら、先にREでお便りください。順次、お答えして行く過程で以外に判る事が多いのです。

ではお待ちしています。

          


  [No.478] Re: 函館の青木さん
     投稿者:   《URL》   投稿日:2009/04/26(Sun) 23:20:16

函館の 青木です

読んで戴きありがとうございます パソコン初心者なものですいません

ミステリ小説を読んでいるような気分です どこまで行けるか判りませんががんばってみます

レポート読ませていただいて参考にしています

私の所は別家です  本家も私の所も古い事を記憶して居る人がいません

先日私の母が おまえの所の先祖は長野から来たと 母の母に言われたと言っていました

墓は建て直していました(本家も)    寺は浄土真宗です 寺には古い記録はありませんでした

魚場を4か所経営して呉服物の商売をしていたらしいです

今判っているのはこれ位です レポートを参考にしながら 調べてみます

阿弥陀川にいってフイ―ルドワ―クしてきます

北海道という土地のせいかもしれませんが小さい頃からどうしてここにきたのか疑問でした

よろしくお願いします
         


  [No.479] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/27(Mon) 09:00:43

函館の青木さん

今日は。
ご返事いただきましてありがとう御座います。
早速ですが、大変な情報です。

前回のレポートで明治期の青木氏であろうと九割は思っていたのですが、今回の情報で逆転しました。
つまり、家紋なのです。陸奥国に於いて「丸に三つ柏」の神紋は元々は少ないのです。
それは明治期以前は国を自由に移動する事は出来ない社会体制でした。全て役所の手形を必要として旅行程度が限度ですので、定住は出来ません。
ですから、この神紋の家紋が陸奥にある事が大きな疑問なのです。
この神紋は伊勢(三重)、近江(滋賀)、美濃(愛知)、信濃(長野)、甲斐(山梨)の5つの国が中心です。
つまり、この国に皇族賜姓青木氏がその国の守護王として配置してそこに青木氏を発祥させました。

詳しくは「青木氏氏 研究室」の「皇族賜姓族関係のレポート」を全てお読みください。
沢山ありますで、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。

概略はこの守護地の夫々の守護王は順に天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の以上5人の天皇の第6位皇子です。この皇子が上記の土地に臣下しました。
第4位までの皇子が皇位継承権を持ち第6位皇子からは臣下する仕組みを天智天皇(大化改新の中大兄皇子)が蘇我入鹿の専横に反省して大化後に作りました。
これが最初の伊勢青木氏です。
上記5人の天皇から生まれたのが青木氏です。
天皇より直接青木氏を与えられる事を「賜姓」と言います。
青木氏はこの第6番目の皇子に与える特別な氏名でした。
ですから、この5つの国には村を形成して独自の寺社を持ち大変に青木氏が多いのです。
現在でも多くこの一族が現存しています。
それと、その土地の豪族との血縁で一族が広がり5家5流29氏に拡がっています。
信濃はその最も多い土地柄です。

当然、神官職を勤める一族の青木氏が居りますが、この一族は神官として藤原秀郷流青木氏との血縁をして(養子も含む)藤原秀郷流青木氏の土地(24)に移動しました。
神官職は当時は特別職ですので、誰でも成れるという訳には行きませんでしたので各地に養子縁組などで移動したのです。
特にこの藤原秀郷流青木氏は大勢力を持っていましたので、この一族の自前の寺社を持つ事を許されていました。この藤原秀郷流青木とは代々血縁関係を結んでいるのです。
当時の慣習では身分の吊りあいを前提にしていますし、純血を保つ為に皇族賜姓青木氏との血縁も積極的に行いました。元々母方で繋がっているのです。
この様な経緯から、信濃の皇族賜姓青木氏の神官の分家筋(嫡男外)が他の土地に婿として入り神官職を継いだのです。

お家はこの信濃の皇族賜姓青木氏の神官職を勤めていた一族の青木氏で、それが陸奥国の藤原秀郷流青木氏の神職として血縁をしたのです。これは史実としてありますので問題は有りません。
藤原秀郷流青木氏は藤原一門の第2の宗家ですので、各地24地方の自前の神官には皇族賜姓佐々木氏(近江)と皇族賜姓青木氏から神官を迎えていたのです。
この神官の青木氏が三つ柏紋なのです。そこで丸付き紋ですのでその分家筋に当ります。本家筋は余り移動しませんので移動の可能性は余計に高く成ります。
当然、陸奥は藤原秀郷一門の最大の一門が多く定住する主要国でした。

そこで、では何時の時代に移動したのかと云うことですが、江戸時代には既に漁民で商人であったことですので、鎌倉後期頃までは既に商人であったことが考えられます。
そうすると、多くが武士を捨てた時期が藤原秀郷一門にはあります。
それは鎌倉幕府が出来た時です。藤原氏は鎌足から8代目が秀郷です。最大勢力を誇りました。
朝廷から任命されて各地24地方に赴任し、其処に子孫を遺しました。
朝廷がつぶれ武士の時代になり、全一族は職を失いました。
そこで幕府から土地と職を奪われた為に生きていく為に土地の利と元の職を生かして豪農、郷士、郷氏、名主、庄屋、豪商などに成りました。
陸奥であれば、当然漁民の長などになったものであろうと考えられます。
お伝えいただいた漁の商人情報はこの事に関わると思います。
この事は藤原秀郷一門の24地方の各地で起こりました。

そこで、宗派ですが、浄土真宗ですが、実はこれにも、由来があるのです。
多分、正式な神職を外れて後に、この陸奥の土地には浄土宗は藤原秀郷一門の1寺がありましたが、室町時代の下克上で藤原秀郷一門は全て焼き討ちに合い消失しました。
そこで、これ等一族は浄土宗に近い真宗に宗派変えしました。お家もその時に職を失ったものと充分に考えられます
従って、特に藤原秀郷一門の24地方では多くはこの一時、真宗に宗派変えをしたのです。
陸奥では特にこの現象がある歴史的な史実で特に起こりました。
ですから、鎌倉時代の浄土真宗なのです。

詳しくは、藤原秀郷関係のレポートをお読みください。
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究の皇族賜姓族4/10もお読みください。

さて、これ等を更に確定させてゆく為にも歴史的な史実や当時の習慣等から今回のようなちょっとした事でつながりが出て来るのです。
神職関係に繋がる何かちょっとした情報があると思います。先ずはこれからお探しになると良いと思います。
現在に於いて、個人でルーツをお探しになるには当時の習慣や歴史的史実の多くの専門的な把握が必要でなかなかむずかしものがあるのです。
ですから、同じ青木氏のサイトの歴史情報を大いにご利用ください。一つでもこの様に進みます。これで矛盾の一つが解けました。

以下をお調べください
信濃の情報を探る必要がありますね。特に神職関係で。かなりのところまでは行くと思います。
歴史の専門的な知識では信濃のどこ付近かでもかなり進みますよ。この土地でも神職と繋がります。

真宗に入られて時期は何時頃かも掴む必要があります。
というのは、「神職」ですので、「神道」と云う可能性があります。神道を止めて真宗に入ったということがあるからです。「神道」であった可能性が判れば「神職」と言う事に成ります。

又はご先祖の墓は何時建てたかも一つの要素です。

陸奥の村付近や陸奥秋田、山形などには大きい有名な神社の支社等がありませんか。お調べください。
春日、加茂、熱田、八幡、吉田神社などの神社です。

念のために三つ柏紋の柏の葉は細い葉もありますが、大きい葉ですか。これでもかなりの事は判ります。
このことは次ぎのお便りの時にご説明します。

青木ルーツ掲示板には多くの青木さんからのお便りが有りますが、ついに繋がるというとが起こりました。
例えば、有名なWBCのヤクルトの青木宣親選手の実家のご先祖も判りました。

これが、お家の由来であろうと考えられます。
ですから、珍しい陸奥での柏紋なのです。

ご質問や一寸したことなど有りましたらお伝えください。
お待ちしています


  [No.480] Re: 函館の青木さん
     投稿者:   《URL》   投稿日:2009/04/28(Tue) 01:54:08

函館の青木です

返信ありがとうございました

大きな疑問が少しずつ解けるようでわくわくしています

早速ですが 柏は大きい葉です

墓は平成に入ってから建てかえたらしいです

先日おじさんの所に先祖の事を何か覚えてないか聞きに行きましたが 何も覚えてないし 誰かに

聞いたことも無いと言ってました ただ若い頃に稲荷神社の息子と同級生なので家に遊びに行ったとき

青木の家とは親戚だと言われた事くらいだ 嫁に行った話も聞いたことないといってました

神社の名字は 小島でした     戸籍を調べたら小島の家から青木に婿さんがきていました

名字が小島の神社が 上磯町 砂原町 森町 にありました

今日はこんな事しかありません  この連休にでも青森へ調べにいってみます

何か報告できれば良いのですが 気長にやります

これからもよろしくお願いします


  [No.481] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/28(Tue) 11:10:19

函館の青木さん 今日は。

いろいろとお調べに成っているとの事ですね。
私の方でも少し調べました。
少しづつ前に進むようですね。

さて、今日のお便りで、柏紋が大きい事が判りましたので、これで疑問の半分が消えました。

もし、細い三つ柏であれば、時代性が異なりますので、現在の推測は消えますし、その家紋から来る2つのルーツの内の一つが一つが消え、妥当な家紋が残りました。
この家紋は大内、山内系と五味系とに分かれますが、消えるべき前者が消えました。
もし前者だと矛盾が起こります。時代性とその家紋を使った氏は青木氏に全く関わりが有りませんので。
そうしますと、三つ柏紋系の神紋を持つ神社が出てきます。
更に青木氏に関わる代表的な2つが出てきます。
先ず、宗像神社系です。もう一つは八幡神社系です。

つまり、この神社が都を離れて陸奥(青森、山形)の遠い地方に時代性が一致し存在するかの疑問です。
もし、お家が信濃の青木氏の神官であれば、1740年前の情報から陸奥では既に相当に生活基盤が出来ていますので、1400年頃前に寺が存在していたかの問題です。この頃は室町期の初期に当ります。
信濃から陸奥に神官職として血縁にて移動するとすれば、この時代の信濃の青木氏はいろいろな歴史的史実から無理と考えられます。
そこで、その移動し得る時期は更に遡って鎌倉期の初期1200年前後だと思います。
そして、時代的に観て、信濃青木氏の状況を観て、この頃に上の二つの神社系が未だ陸奥には珍しい時期と成りますと1100年前後と成ります。
つまり、源平の時代です。初めて、この地域に朝廷の力が及んだ時期です。そうすると源氏の時代です。
清和源氏がこの時期に信濃の青木氏に同族血縁しています。信濃青木氏に源氏の跡目を入れている時期と成ります。
(第6位皇子は光仁天皇までは青木氏を賜姓し、2代後の嵯峨天皇期に第6位皇子は源氏と変名し、青木氏は皇族者が下俗する際に使用する氏名としました)
この源氏の8代目の清和源氏が信濃青木氏に男子を跡目に入れました。(皇族賜姓青木氏関連にレポートあり)
そして、清和源氏は頼光系本家筋(長男)と頼信系分家筋(三男)とがありますが、この信濃は兄の頼光系の国司の土地でしたが、頼光は弟の出世を願ってこの信濃の役目を頼信に譲りました。
ここから、関東と北陸東北地方に勢力を伸ばしました。この分家一族が鎌倉幕府の源の頼朝、義経です。
この分家の源氏が陸奥征圧に成功します。
(関東征圧の第2の拠点は伊豆に置いた。この土地も頼光系の土地であった)
この時期が1050年前後と成ります。
丁度、この時期の少し後で一致します。
1050ー1060年代頃と観ます。

そこで、信濃青木氏の神官が陸奥に移った時期は次の通りです。

この時代は陸奥以北は未開の土地で「征夷」と呼ばれていました。当時はまだ統治官は「鎮守府将軍」(後に征夷大将軍)と呼ばれ居ました。征圧後は当時の政治手法で当地に統治の拠点として神社(寺社)を建立してそこで統治政治を行いました。
当然、そうなりますと、この遠地に神官を送る必要があります。(征圧前はロシア系日本人アテルイが統治していたので、神社寺社とそれに関連する人と物は有りません)

そこで、源氏は朝廷の命で信濃の本拠点から人と物を移動させました。

ここで、史実、清和源氏の分家の本拠地から信濃青木氏の分家筋の神官職が移動する事に成ったのです。つまり、実はこの史実がお家なのです。

そこで、陸奥にはその神社と寺社があるかの問題ですが、実はこの遠地未開の地にあるのです。
そして、国府近くにある筈ですが、丁度、その時期に建立された筈の「八幡神社」がある筈なのです。
矢張り、当時の定石どおりに「小田八幡神社」(八戸河原木)が在りました。
建立時期は1046ー1057年ころとされています。完全に一致しています。

これで驚いてはいけません。
この小田という名は、この地方の地名ですが、この地の豪族小田氏は藤原秀郷一門が藤原秀郷流青木氏を護衛役として伴ないここを鎮守府将軍として赴任した時に血縁をした相手で、一門が任期が切れて甲斐に赴任移動した時に藤原秀郷流青木氏と共に同行したのがこの小田氏です。この陸奥の小田氏が甲斐武田氏なのです。一部が常陸に移動して後に大勢力を持った「常陸の関東屋形」といわれた小田氏なのです。

( 参考 この時、信濃には矢張り、藤原秀郷一門と血縁した地元の陸奥の花房氏が移動同行しました。これが本家足利氏です。後に過大に実力をつけたこの本家足利氏を親類の藤原秀郷一門が潰して分家に一族のものを送り込み本家としてしまいました。追われた花房氏の足利氏は信濃足利系青木氏の一部と共に米子と八頭に移動して定住したのです。)

更に、調べていると更に、この八幡神社は寺も平行していたのです。「山徳城寺」と言います。
恐らく寺と城を兼ねていたと考えられます。
神社と寺社を共に持つ統治機構の拠点であったのです。この方式は古来からの方式で、明治期に入り多くの統治機構の拠点となった主な大神社は「神寺社分離令」で分離させられたのです。

完璧です。
更に、源氏はこの地に、「善知鳥神社」(うとう:青森市)もこの時期に建立しています。
この神社は「宗像三神」(むなかた)を祀る「宗像神社」系なのです。
この寺は允恭天皇と仁徳天皇を祀る天皇家の神社なのです。(遠地未開に朝廷の威光を披瀝した)
つまり、この時に八幡(応神天皇)の第6位皇子の守護神と、天皇を祭る宗像神社の守護神の二つを建立した事に成ります。これは当時の政治の仕来りです。(八幡は青木氏と源氏の朝臣賜姓族の守護神となる)
仁徳天皇なので宗像神社は北九州を拠点としています神社ですが、この遠方にも建立したのです。

そこで、お家の柏紋はこの八幡神社の神職の分家筋ですが、この宗像神社(三つ柏)との間で血縁が行われた事に成ります。陸奥では珍しいこの柏紋はここが拠点と成っている事に成ります。
(宗像神社は三つ柏紋の大元です。)
丸付き紋ですが、これは分家を意味します。

信濃青木氏の神官は綜紋の源氏と同じ笹竜胆紋が当初の信濃青木氏の綜紋です。
お家は信濃時代の昔は八幡神社系などの綜紋笹竜胆紋でしたが、この三つ柏紋の宗像氏と血縁氏となり分家しました。
つまり、お家の八幡神社の神官の青木氏には嫡男に恵まれず婿養子を天皇系の宗像神社から迎えました。(当時は身分同等による吊りあい血縁が主流)
しかし、又、更に嫡男に恵まれず、結局、女系の形になりましたので、「家紋掟」により婿側の家紋を使うことを余儀なく成りました。それが宗像神社の三つ柏紋で、その後に更に分家したので丸付き紋になった訳です。

その後、鎌倉幕府が出来、時代性がこの陸奥の国まで押し寄せ、藤原秀郷流一門(青木氏)と共に失職離散となった事に成ります。24地方で全国的に起こったのです。
賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏は各地で「2足の草鞋策」で豪商となり生き延びます。
伊勢商人、近江商人、美濃商人、信濃商人、摂津商人、讃岐商人、松前商人の有名な豪商は全て、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。筆者の先祖も伊勢豪商で、これ等の豪商は殆どは武士との「2足の草鞋」でした。

お家は、その後に、更に、下克上、戦国時代となり、焼き討ち、打ちこわしなどで、より衰退して、武士を捨て漁民となり、元の力を生かして漁民の長として室町期を生き抜いたと観られます。
賜姓青木氏と藤原秀郷一門は例外なくこの全てこの憂き目に合っています。
この時、元の地主、領主であったために鎌倉、室町幕府の「本領安堵令策」である程度の土地が戻されました。それを生かして庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏、郷士に成っています。
お家も、八幡社領を持っていますので、神官一族一党が生き延びられる程度の本領安堵があったと考えられます。
特に、政治的に神官職の土地(社領)は、減額はされましたが、確実に安堵されたと記録されています。その後、何らかの理由で神官職を他に譲りもう一つの職業の漁民の長に専念したものです。

この様に全国の神官職も「2足の草鞋策」で生き延びたのです。
この事は史実で、各地の大きい神社は例外なく全てこの方策を採りました。
これ等のこともこの掲示板にレポートしています。
例えば、愛知に今宮神社と云う神社がありますが、闇の中部一帯のシンジケートの長でした。
鉄砲や弾薬武器を購入する場合はこのルートを通さないと獲得できませんでした。
例えば、信長は秀吉に教えられて蜂須賀小六の紹介で3000丁の鉄砲弾薬を今宮神社から入手できたので大勢力を得たのです。
ですから、お家も封建社会の氏家制度の中ではご先祖が漁民の長となり得たと思われます。
漁民が住む一帯が安堵されたと観ています。長である事の理由はこのことから来ていると思われます。
又、その立場と力を見込まれて、後に北海道に招かれたものでしよう。

余りに驚くべきで、史実と完全一致します。
研究室にレポートもしていますが、清和源氏がこの地に征圧して何らかの統治機構を設け、信濃から送り込んでいる事は承知していましたが、その統治の神社、寺社、宗像神社と、柏紋と、お家の事で現実に研究のひとつが解決しました。信濃と柏紋の御家が存在することで研究の史実がまた解明されました。
今までは時代性や信濃とのつながり等のいろいろな条件が合わなかったので”又かな”と思いました。
ここまでたどり着きましたよ。

信濃の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利系青木氏の2氏(花房系と藤原秀郷系派)と諏訪族青木氏(2氏)の3氏があり、何れも皇族賜姓青木氏と土地の豪族との血縁の賜姓一族です。
お家はこの神官職ですので、皇族賜姓青木氏本流です。
お家の総宗本家のご先祖は信濃国府付近(県庁所在地)に青木j町を形成して今も定住しています。(レポートしていますし、地名地形データベースのところを参照してください)

もし、お家の800年前の大本の総宗本家筋をお調べになるとすれば、この国府の付近にある神社や寺社の菩提寺をお調べになると出て来ると思います。
ただ、お家では800年前の事は消失してしまっていますので、口伝以外にありませんから、難しいと思いますが。お家の祖母の方までがこの口伝を言伝えてきていた事に成ります。それが切れ掛かっていると観ます。何処でもそうですが。
今回のこの事をより口伝として残されることを期待します。(これがこの青木氏サイトの目的です)
今でも、神官の青木さんは佐々木氏と共に全国的に多いのです。
藤原秀郷一門には請われて東北北陸の神社の宮司は佐々木氏(同族)が多いのです。

この掲示板には神官の青木さんも居られますよ。このサイトの青木ルーツ掲示板にもお便りも頂いていますよ。元はご親類ですね。(賜姓青木氏と佐々木氏とは同族です。)

念のため、青森の阿弥陀川村の名の阿弥陀さまは浄土宗の守本尊です。
ですから、この陸奥に浄土宗の阿弥陀様の名がつけられている事も一つの信濃からの移動を裏付けられる証拠と成ります。

青森県東津軽郡蓬田村大字阿弥陀川 お家のルーツ在所
青森県八戸市河原木 小田八幡神社

お家は、八幡神社の社領の一部の蓬田村Iを扶持として与えられたと見られます。
当時は神社親族関係者は大変大きな社領の一部を食い扶持として所領する仕組みでした。
例えば、世界遺産の熊野神社は殆ど和歌山県全土に近い域を社領としていました。
陸奥の八幡神社も尚の事です。
この八幡神社がお家を含む賜姓青木氏と賜姓源氏の守護神です
阿弥陀川に立ち寄られたら十和田の近くのこの八幡神社にもお参りされては如何ですか。

さて、浄土宗ですが、江戸幕府が特別に「浄土宗奨励令」を出すまでは特別の身分の者しか入信できない宗派でしたので、限定された所にしか寺などは有りませんでした。一般化したのは明治に成ってからの事です。ですから、この陸奥にこの名があったと云う事は特別な事です。
現在でも、浄土寺はこの青森には新しい2寺しか有りません。
浄土宗は5家5流29氏の賜姓青木氏の宗派ですので、。この阿弥陀川の名こそお家の先祖しか使えない名であってその名残ですね。真人族と朝臣族と宿禰族の貴族と皇位侍しか入信出来ない宗派でした。
其の他の高位の身分の者は天台宗に入信しました。
それ以外の侍と民は後には真宗でしたが後の日蓮宗などが出来て主に下級武士と農民が入信しました。

現在の宗派のこの地域の真宗の寺は1500年代に建てられた3寺しか有りません。大分先に建てられたものですので、1200年代の当時では陸奥の信濃の皇族賜姓青木氏の阿弥陀様の呼称と成ります。お家のご先祖に因んで名付けた可能性も大いにあります。


(以上の事柄は「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」と他のレポートにも詳細にしています)

青木氏のサイトでは青木氏に関わる多くの研究を続けていますが、また、何かありましたら教えていただきます様にお願いします。

ちょっとしたことでも結構です。史実と照らし合わせてレポートを作り後世にその史実を残したいと考えています。信濃のことでより何かありましたらお伝えください。

信濃事の予備知識は皇族賜姓青木氏の関連レポートからお読みになってお調べください。

青木氏の研究が又進みました事感謝いたします。

以上の事に付いて、このことに付いて何かご質問が有りましたらお便りをお待ちしています。


  [No.500] Re: 函館の青木さん
     投稿者:函館の青木さん   投稿日:2009/05/25(Mon) 18:00:39

No.499] 函館の青木です
投稿者:函館の青木 《URL》 投稿日:2009/05/25(Mon) 16:24:38


函館の青木です

 楽しく読ませて戴いております

 先日 青森県津軽半島へ行き 蟹田 蓬田村 青森へと 歩いてきました

 地図と本では判らない 土地の雰囲気が感じられた きがします

 特に進展は無いのですが 青森の資料から先祖であるだろうと思われる 青木屋 を 1882年の

 変用控え(災害の記録)から見つけました また 貞享年間の地図の中からみつけ喜んでおります

 これからは 貞享年頃の青森県内の神社、寺 ( 善知鳥神社 諏訪神社 浄土宗正覚寺

 門徒宗蓮心寺 法花宗蓮華寺 毘沙門堂 弁財天 ) などがあり 青木氏との関わりを

 調べたいと思っております。


  [No.503] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/26(Tue) 07:32:12


大変楽しい旅行でしたね。

私も経験がありますので、土地の雰囲気の事は、私も充分理解が出来ます。

これからも、本サイトをお便りで盛り立ててください。

この陸奥の土地は藤原秀郷一門が「鎮守府将軍」として赴任していた土地柄で、11人の者が朝廷の命で移動しています。
そして土地の豪族、特に、小田氏、小山氏、花房氏との血縁が生まれ、後に時代を大きく左右する豪族と成っています。そして血縁一族は秀郷一門に護衛団として同行して甲斐、信濃、常陸等にも移動定住しています。その中でも、血縁族の陸奥小田氏は甲斐武田氏に、陸奥花房氏は足利氏に、小田氏の一部は「関東屋形」として有名な常陸小田氏となり夫々大豪族と成りました。

当然、主要護衛団は「第2の宗家」として働いた第3子の千国を始祖とする藤原秀郷流青木氏です。
この陸奥には、当然に、藤原秀郷流青木氏が定住しています。
殆ど全てこの一門の陸奥青木氏です。
歴史上、この陸奥は後に秀郷一門の末裔が陸奥で弱体化したところを宿敵の阿多倍一門(たいら族 平家一門含み 内蔵氏等)に背後を突かれて奪われます。
この直前に陸奥に「てこ入れ」をして、秀郷の従兄弟関係に当る共同戦線を張っていた藤原利仁一門との同族血縁をして藤原利仁流青木氏が生まれます。
鎌倉幕府樹立後、再び弱体化してしまいます。頼朝の2度の「本領安堵策」で藤原秀郷の末裔朝光が結城一帯を取り戻します。そして、その後、結城長嶋氏が「関東屋形」として呼ばれまでに勢力を持ち返し、再び「陸奥の奪還」を試みます。奪還しますが、北畠氏の合力を受けて南北朝で失敗、その後秀吉に攻め落とされます。
この時にも、藤原秀郷流青木氏が活躍します。
この土地柄はこの様な歴史的な史実を持ち阿多倍一門により衰退しますが、この藤原一門(秀郷と利仁)の青木氏が定住している所です。
ところが、前回のレポートにも書きましたが、朝廷の命で苦労して源義家がこの地を征圧した時に信濃から皇族賜姓青木氏一門の神官職の青木氏が神官として移動しています。
政治の中心の政庁(寺社)を作りそこの神官として移動しました。
この藤原の秀郷流青木氏と利仁流青木氏の中にあって、信濃青木氏が歴史的に史実として少なくとも多少なりとも現存している可能性があると見ていました。
藤原一門の116の家紋を持つ青木氏の環境下の中で、神官としての力で1割にも満たない範囲で、尚且つ、上記した”何度も宿敵との戦いの荒波にもまれても現存は可能か”との疑問もあります。
藤原秀郷流青木氏は勿論、利仁流青木氏でさえ消えて無く成っているのですから、前面に立って護衛団として、「第2の宗家」として働いた青木氏は他の土地の青木氏の隆盛とは逆の道を歩みました。

そこで、上記した乱世の中の1割にも満たない江戸時代の1670年代の信濃青木氏の神官一族が、果たしてこの「青木屋」であるのか充分検討を要する所です。
何処の賜姓青木氏、藤原秀郷流青木氏が定住する土地にも必ず「2足の草鞋策」で豪商を営んでいます。

この江戸時代の史料ですが搾取偏纂が殆どです。
その例として、徳川氏がその代表的な搾取偏纂の系譜と史料を創り上げたのですから。
そこで一例の史実を述べますと。
それを認めさせようとして、天皇家に対して経済的圧迫と政治的圧迫を猛烈にかけて食事も侭成らず住まいが朽ちても直せないところまで追い込みました。そこで、やっと南北朝の源氏の子孫であるとの折り合いをつけたのです。
ところが、この南北朝の源氏の第6位皇子の賜姓はとっくに終わっていますし、天皇に成る人物が不足していた時に、天皇家に無い人物が突然出てきた隠し皇子の人物を源氏と据えて「朝臣族」の身分を強引に採り、幕府を開ける「征夷大将軍」を獲得しました。有名な史実です。
その隠し皇子は松平氏の三河に僧として現れ、比叡山から降りて托鉢して門前に立ったので、逗留させたが娘との間に子供が出来た。この子供が家康の父であるとしたのです。そして、その僧は比叡山から還俗した皇族者で隠し皇子であったとしたのです。
つまり、嵯峨天皇期の詔の皇族の者が朝臣族の源氏か青木氏に成れることを利用したのです。
秀吉は、天皇の湯殿女で子供をはらんだので里に帰ったのが母であるとして嘘で固めて皇族であるとして太閤職として金品を使い天皇家に認めさせた史実と同じです。

この様な事から、この時代は下克上と戦国時代で伸し上がった者らが家柄を良く見せる風潮と習慣が蔓延していた時期ですので、仕方の無い事ですが搾取偏纂が殆どです。

それを元に作くられたのが殆ど江戸期の史料です。
史実から照らし合わせて、検証をすすめられるように例を用いました。

藤原氏の青木氏の家紋116も網羅していますのでお家の家紋と参照してください。
もし、その青木屋の商紋又は家紋は賜姓族一門の家紋類か秀郷一門の家紋類かも問題です。
大抵はその商家は元は上級武士で「2足の草鞋策」を用いた豪族ですので家紋はあるはずです。
北周船の松前商人としても有名ですので、この陸奥の国に基点を置いた事は歴史上有名です。
青木屋は陸奥の藤原秀郷流青木氏の可能性も大変高いと思いますのでその辺をご確認ください。
大抵の青木氏の豪商は歴史上この陸奥に基点を置いています。

ご不明な点など有りましたら、現在では検証は大変難しいと思いますので是非お問い合わせください。
お力に成ります。


  [No.705] Re: 函館の青木さん
     投稿者:   投稿日:2010/07/10(Sat) 12:03:09

函館の青木です。 楽しくみています。
教えて戴きたい事があります。
神明社、観音堂、毘沙門堂について由来、歴史など。
簡単には無理でしょうが、お願いします。


  [No.706] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/12(Mon) 13:40:43

函館の青木さん お久しぶりです。
如何お過ごしですか。先日の青森の青木さんにもお便りを頂きました。
勉強されているようですが、頑張ってください。なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいですよね。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得される事は良い事ですね。

さて、お尋ね頂きました事はなかなか範囲が広くてご説明が難しいですし、お答えする程の知識は無いと思います。しかし、楽しみの一つとして何とか知る範囲で書いて見ようと思いました。
それで、ご了解ください。

先ず、神明社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明」とはそもそも、「天照大神」を祀る神社ですね。
この「天照大神」を祭祀したのは天皇家で、その最初に定めたのは大化改新の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この神明を伊勢国松阪の地に定めました。しかし、この時点では朝廷の皇位継承問題などで伸び伸びになり未だ正式な決定の形が取れていませんでした。その後天武天皇が正式に「伊勢神宮」を「皇祖神」として定めたのです。

(この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成りそこにこの皇祖神の支社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。)

第4世皇子族の守護地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立されました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から神明信仰を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、人民の安寧を図りました。

そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この神明信仰にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の観音信仰の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の神明信仰が始まり、後半では熊野神社の熊野信仰へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて五穀豊穣を願って多く建立されたものなのです。
神明信仰は「鶏」が「神使」で五穀豊穣の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし人の癒しを信仰対象と成っていました。

伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、観音信仰の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した既成勢力の排除で観音信仰の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで神明信仰の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその基点とする処の丸山城の建設を行います。「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
伊勢青木氏は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる観音信仰や阿弥陀信仰の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。

次ぎは「観音堂」ですね。
618年頃に後漢が滅びそのときから後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後勘の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って観音信仰が始まったのです。
神明信仰とほぼ同時期に仏教の観音信仰も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に観音信仰は広まります。そして、観音信仰と神明信仰は彼らに依って同時に伝導されたのです。

これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の神明信仰と蘇我氏の観音信仰とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしました。(聖徳太子の時)
結局、蘇我氏の観音信仰が勝ち、その観音信仰の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある神明信仰を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、観音信仰も朝廷は取り入れて神仏融合の策を取り入れて共に発展したのです。
農耕民族の所以ですね。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも農耕の神として位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

実は観音信仰の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの鞍造部止利の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの観音信仰をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る鞍造部の首魁の司馬氏に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に観音信仰の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

観音信仰の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて六堂伽藍方式として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
六堂伽藍方式には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

次は毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。

伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
「六堂伽藍方式」です。

菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世を任されます。朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事の一切を任された人物です。「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の阿弥陀如来信仰が起こり、鎌倉時代からは毘沙門天信仰(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

そこで、この後漢の渡来人の帰化人の阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。
桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子の皇子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が天皇を継承しました。伊勢青木氏は光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。

そこで、この阿多倍王の2代目後の末裔の貞盛が独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに鎮圧しました。藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。清盛は敏達天皇の末裔にして桓武天皇の末裔でもあります。
当然、阿多倍王の子孫とも成ります
桓武平氏と呼ばれ、桓武天皇より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の坂東八平氏に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルとなったのもこの一族です。

余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時にこの伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。

伊勢には松阪の神明信仰と、隣の伊賀地方には観音信仰が共存し、伊勢青木氏には神明信仰と古代密教の観音信仰(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
しかし、奇しくも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の観音信仰を推し進めた阿多倍子孫に圧迫されて一時衰退します。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の観音信仰と、古代浄土密教の阿弥陀如来信仰が対立したとも考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、観音菩薩信仰、阿弥陀如来信仰の密教の位置づけについて論争が起こりました。

桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこの桓武天皇の賜姓に対して反発して再び第6位皇子を源氏として変名して賜姓源氏として戻したのが嵯峨源氏です。これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として使用を禁じたのです。この青木氏が皇族青木氏です。

これらの青木氏が自ら神明信仰と古代密教を下に伝導の手段の少ない時代の各地に神明神社と浄土寺を建立し観音信仰等を広げた核とも云えるのです。
観音信仰の下に四天王の天神様のみを信仰する事も広がりました。大阪にある四天王寺はこの対象です。

さて、青木氏に関わる歴史的なこととして記述しましたが、学問的で仏教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。

ご質問など有りましたらまたお便りください。


  [No.707] Re: 函館の青木
     投稿者:   投稿日:2010/07/15(Thu) 18:45:03

函館の青木です。
                                              
早速の解説ありがとうございます。
こんなに、関わりがあるとはおもいませんでした。
せいぜい神明との関わり位かとおもっていました。
また、調べる楽しみがふえました。ありがとうございます。
先日、何気なく古い掲示版を見ていて、青森の青木さんが目にとまり読んだところ土地が近いせいもあるのか、同感でおもわず投稿しました。
たくさんの色々な青木さんがいるので、話をしてみたいです。
また、質問がありましたら、遠慮なくさせていただきます。
よろしくおねがいします。


  [No.708] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/07/16(Fri) 08:37:50

函館の青木さん 今日は。

お読み頂けましたか。ありがとうございます。
この関係は専門的に調べ研究したわけでは有りませんでしたし色々な青木氏に関係する雑学からのもので充分なお答えになったかは疑問でしたが、喜んで戴いてよかったです。
青木氏の研究雑学からこの様なものを見に行きますと、その経緯などのことを知っていると余計に面白くなり、当時の青木氏の人々のナマの生き様が見えてきて益々興味がわきます。

私の教訓では”調べは一つの事に拘ると周りが見えなくなり狭い範囲の答えしか出ないので、雑学を増やす程度が幅広い知識から立体的な視野が出来て目的とするものが見えてくる”というのが長年の秘訣です。
つい最近でも昔幾ら調べても判らなかったものが今判ったとする物が在りました。
嬉しかったですよ。

函館の青木さんも大いにお楽しみください。
判らない事やご相談やご質問何なりとお尋ねください。
青木さん同士や青木氏に関係する他氏の方とも楽しく検証して行きませんか。

ではまたお便りお待ちしています。

 


  [No.866] Re: 函館の青木
     投稿者:青木 昭   投稿日:2012/09/23(Sun) 15:50:17

お久しぶりです。
  長らく、送信するような発見もありませんでした。
  楽しく読ませて戴いておるだけでした。
  ただ、1648年の弘前の藩政記録と絵図の中に青木屋なる先祖らしき。
  記述を見つけたので、弘前に調べにいこうと思っております、
  話はかわりますが、
  11月の中過ぎに、郡上八幡で行われる講習会にいくのですが。仕事ですが。
  その時に、約1日京都で過ごすことが、できるので。
  あおき氏に関係する所を見たいとおもっています、
  教えてください、
  京都は修学旅行以来いっておりません。
  それと、手ごろな宿もありましたら、
  よろしくお願いします。


  [No.867] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/24(Mon) 08:50:17


 函館の青木さん 今日はお久しぶりですね。お変わりありませんか。

ご出張との事で京都に立ち寄られるとの事ですが、古の地ですね。
青木氏に取っても無関係ではありませんが、残念ながら京都は全てのルーツの青木氏の定住地でありません。左隣の滋賀には元上田氏の滋賀青木氏、南の兵庫には近江青木氏の末裔が定住しています。
この丹波、山城には青木氏はいないのです。

そもそも、京は伊勢青木氏の始祖の孫の桓武天皇による平安遷都の地ですが、青木氏の立場は特別賜姓族を含めてあくまで「3つの発祥源」を責務とする氏で、皇族賜姓族の青木氏は昔の天領地つまり当時の主要国の地を護る守護でしたし、特別賜姓族青木氏は主要国24地域の統治する官僚族でしたので、京を取り巻く周囲には定住している所です。従って、京には立場上で定住する官位ではなかったのです。
ただ、平安期には宮廷を護る官職の「北面武士」としての左衛門、右衛門、兵衛、民部等の宮廷を護る近衛軍の最高指揮官でしたので、勤めとして代々京にはいた事はあるのですが、子孫をこの地には遺す事は許されていませんでした。あくまでの出張の形で勤務していた事に成ります。

依って、残念ながら京は青木氏のルーツではありません。

ただ、強いて云うと次ぎの神社が青木氏に関わる所です。
京都  日向大神宮    山科区 東山神明社  この神明社は7大神明社の一つです。
     朝日神明社    此花区

     天照皇太神社  京都市左京区原地町
     神明皇大神宮  宇治市神明宮西

今、[青木氏と守護神(神明社)]で研究論文を投稿していますが、−20の京都のところをお読み下さい。
この京は特令地でしたので特別にこの地に我々の青木氏の守護神を建立しています。
この4社ともに全国的に特に有名です。京都の中でも有名ですよ。特に上2つの社は有名です。
全ての青木氏の祖先を祭祀する特別の京の「神明社」です。
平安期に青木氏はここに定住はしませんでしたが、平安期の先祖の青木氏が官位官職の上で建立した社です。赴任勤務期間中は青木氏は独自の「祖先神-神明社」としの守護神としてこの社にお参りしていたのです。

神明社系は天皇家の「皇祖神(伊勢神宮)」の子神として「祖先神」を持ち、伊勢の本宮を基点としてその社として「神明系5社」を青木氏に関わる関係各地に566社も建立しています。
その代表的な社が伊勢神宮に継ぎ上記の社が有名です。
この566社の主要地のところには伊勢の神宮本宮の分霊社も建立しているのです。
その一つが後の二つです。神明系社の親神です。


京は従って、宿の事は残念ながら判りませんが、この全ての青木氏のご先祖が祭られている付近に宿を探されては如何ですか。もしかすると、お彼岸ですから心穏やかにしていると何か先祖の魂がひきつけるものがあるかも知れませんよ。守護神の社に寄るとよくあると聞いています。私も経験しています。
何か一瞬ですが、気がスーとする心地よい気がしました。
有名な神社ですからマピオンなどでこの社の近くの宿を見つけられると良いのではないでしょうか。
お参りするにしても一般の普通の神社ではなく”我々青木氏の伊勢神宮の子神の誇りある守護神の神社”ですからね。
お参り見学するのであればまずは何をおいてでもここにお参りするのが一番と思います。

では、季節も秋に成り涼しく成りましたし、先祖の霊がやって来る彼岸でもあります。心に染み入る良い旅をしてください。
旅のお話でも又お聞かせ下さい。


  [No.869] Re: 函館の青木
     投稿者:青木 昭   投稿日:2012/09/25(Tue) 12:18:35


早速のご返事ありがとうございます。
  その様にしてみます。
  しかし、今年の暑さにはまいりました。
  彼岸になりましたら、あの暑さが、無かったかの様に函館に秋がきました。
  日本中、あちこちで色色な事が起こっております。
  平凡な毎日が一番なのですが、なかなか、そうはいかないですね。
  お体にきおつけて、お過ごし、ください。
  講習会は、苦痛なのですが、京都いきが、愉しみになりました。
  相談してよかったです、
  また何か、報告させていただきます。
  よろしく、おねがいします。、
  


  [No.920] Re: 函館の青木
     投稿者:函館の青木   投稿日:2013/08/25(Sun) 07:49:11

 
  ご無沙汰 しております。
  昨年の京都も愉し旅行でしたが。 人の多さわずらわしさに まいりました。
  やはり、函館がよいです。
  質問があるのですが、あおき に 関係があるかわかりませんが。

  瀬戸内の 塩飽 塩飽水軍 について教えていただけないでしょうか。
>   


  [No.921] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/08/26(Mon) 17:28:51

函館の青木さん 今日は。お久しぶりです。
京都に行かれたそうですが、静かなイメージの都の印象が与えられるかは疑問ですよね。
当然の事かもしれませんが、人を集めて利益の事ばかり考えて、過去の悠久の歴史の雰囲気を感じさせる努力に欠けていますよね。何処へ行っても同じですね。むしろ、名も無い田舎の探索の方が安らぎを感じられます。

それには、お尋ねの様な事をお調べに成り、その前知識で”塩飽”等の地域を探訪もいいのではないでしょうか。

さて、お尋ねの”塩飽”の件ですが、室町期以降の事は”塩飽水軍 ”でネットでお調べに成る事をお勧めします。何故かと云いいますと、室町期以降の事は資料としてはっきりしていますので、簡単に判ります。
ところが、鎌倉期前の事は概容は判りますが比較的研究されていません。
そこで、奈良期から平安期までの情報に付いて知る範囲でお知らせします。
既に、「青木氏の守護神(神明社)−1−22」でこの部分に付いて論じています。
”青木氏に無関係か”と云いますと、そうではないのです。
そもそも、この「塩飽水軍」のルーツは研究室で何度も論じていますが、「後漢 阿多倍王」が引き連れて来た17県民の200万人の180職能集団が「大化期の前後」から難民として上陸し、瞬く間に九州全域と関西までの32/66国を無戦制圧しました。
この200万人が後に帰化し、在来民の生活向上に大変功績を残しました。
現在の第一産業の基礎はこの進んだ後漢人の技能がもたらしたものですが、孝徳天皇−天智天皇の時にこれらの後漢の帰化人の技能集団を各地に配置しました。
この時、この中国地方に配置されたのが、陶器を作る職能集団の「陶部」と、海の産物を取りそれを水産加工する職能集団の「海部」です。陸は西域の中国地方に「陶部」が勢力を持ちます。
「海部」には、船等を操作する集団、水産物をとる集団、海産物に加工する集団に別れますが、在来民を支配下に入れて技能を養成し、後には室町期中期には日本最古と見られる「姓氏」と成って独立しこの瀬戸内を支配しました。
これらの後漢の帰化人の技能集団の首魁「阿多倍王」は、南九州の隼人大隈に拠点を構えました。
在来民を巻き込んだあまりの勢力であったので、危険を感じた朝廷は「720年代」の頃、この「帰化人の勢力」を排除しようとして、この拠点攻めますがあまりの強さに失敗します。
その後、何度が攻めますが全て失敗します。
朝廷は、結局、攻める事は無理として、今度は、この民に技能を教授して慕われている集団に対して懐柔策に出て、この隼人大隈を半国割譲して「阿多倍王」に正式に領土を与え、拠点として認め与えます。
更に、彼らの渡来人(帰化人)の力に依って政治と経済が安定した事を理由に朝廷は、この「阿多倍王」と父親の「阿智使王」と共に都に呼び出します。
そして、「伊勢北部伊賀地方」を(青木氏が守る伊勢国を)半国割譲して正式に与えます。
次には、この「阿多倍王」に「敏達天皇」の孫の「芽淳王の女」を娶らせます。
そして、最後には、朝廷の官職の「准大臣の官位」と「従五位下の官職」を与えました。
この時の朝廷の官吏の6割は、この「阿多倍王」が率いて来た職能集団の「史部」が占める事に成っていました。この官吏の「史部の集団」の首魁は「阿多倍王」の父親の「阿智使王」が率いていました。
皇族との血縁関係を持ったこの伊勢北部伊賀に住んだ「阿多倍王」には3人の男子が生まれます。
そして、この3人の息子は力を発揮して、奈良−平安期の朝廷の政治機構3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内の「大蔵」と「内蔵」を牛耳ります。(斎蔵は藤原氏)
そして、この3人の子供の長男には、「坂上氏」を賜姓し朝廷の軍隊を任せます。
次男には、「大蔵氏」を賜姓し朝廷の一切の財政を任せます。
三男には「内蔵氏」を賜姓し天皇家の財政を任せます。
更に、「阿多倍王」の他の親族には、阿多倍王の阿と倍をとり阿倍氏を賜姓し、朝廷の学問や総務の職能集団の「阿部」を任せます。
ここまでは日本書紀と遺された歴史上の史実とで経緯は構成されます。
ここから歴史上の遺された有名な史実と繋がって繋がって行きます。
ここからはネット上でも判りますのでそちらをお調べください。

さて、「塩飽水軍」までの経緯を更に続けますと、先ず、上記の長男の坂上氏は彼の有名な征夷大将軍に任じられて「阿多倍王」の軍を率いて「朝廷軍」として日本全土を制圧した坂上田村麻呂(806年)です。
兄弟の様に仲の良かった「桓武天皇」とタッグを組んで平安初期の難しい時代を乗り超えました。
(天皇を守り警護する近衛軍は「青木氏」 「桓武天皇」は「伊勢王施基皇子」の長男の「光仁天皇」と「阿多倍王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供)

次は、次男の大蔵氏は九州全土を任され「宿禰族」に任じられ、9代目の大蔵春実は瀬戸内の支配をも任されて、「藤原純友の乱」を沈めた功績で「錦の御旗」と「国刀」を授かります。
正式に九州全土の支配する別府の「太宰大監」に任じられて、「遠の朝廷」として軍事、政治、経済の自治権を獲得します。これが「春実」−「種光」−「種材」の3代で築き上げます。
(種材は仁王様のモデルにもなった豪傑で大政治家)
薩摩の島津氏を除き九州の豪族の殆どはこの大蔵氏の血筋を引いています。
この「塩飽水軍」には大いに影響のある「大蔵氏」なのです。

最後は内蔵氏ですが、東北地方6県の地域を勢力範囲に治め、その末裔には歴史上に出てくる有名な阿倍氏、安倍氏などが有ります。

1 関西以西32/66国の統括支配権を持ち伊勢北部伊賀に半国過剰の国に住む首魁の阿多倍王の宗家、
2 関西に末裔を広げ高級官僚の首魁と成った阿多倍王の親族の阿倍一族

3 九州全土自治権と中国地方の支配権と瀬戸内海域の警察権を保持し勢力圏として正式に治めた大蔵氏
4 首魁阿多倍王の支配下にあった中国地方の陸族の「陶部」と瀬戸内の海族の「海部」

5 讃岐地方を根拠地として瀬戸内の政治的支配権を保持していた「讃岐藤氏」の藤原氏と青木氏
結局、この5つが「塩飽水軍」に関わってきます。

では、先ずその関わりに付いてこの5つを繋いで概容を説明します。
ここで「阿多倍王」はかなりの高齢で没しますが、「高望王・平望王」等と「平尊王」などと呼ばれその功績から賜姓を受ける事に成ります。
関東には、天皇が変わるたびに出る「皇族の第7世族」が関東に配置されますが、この下族し平に成った「第7世族」に対して、代々平族(ひら族)を賜姓しました。
(「坂東八平氏」と呼びます)
この「第7世族」の「ひら族」に準えて、天皇家の間接的血縁を持った「阿多倍王」の子孫に対しては、同じ「平族」として「たいら族」の賜姓を桓武天皇はしました。
(「青木氏の賜姓」を止めて賜姓した。)
この「たいら族」を「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」と呼ばれました。
朝廷が名づけた「平尊王」の”平”からこの様に呼ばれました。
(阿多倍王の年齢から「後付」と観られている)
その子(孫)に当たる「国香」と云う者が「阿多倍王」の勢力を以って関東に進出して「令外官」の「押領使」(警察軍)として配置されます。
そして、同じ関東に配置された同族の「平将門」は関東に「独立国建国」の乱が起こりますが、この時に説得と鎮圧に出た叔父の「国香」を殺害します。
ところが朝廷は、この乱を鎮圧できません。関東周囲が「たいら族」の一門で抑えていた為に誰も様子を見て手を出しません。群馬付近には清和天皇の孫の「経基」らが国司として居ましたが、乱を鎮圧できなかったのです。むしろ、経基等は将門の行状を天皇に讒言して密告して罪を被せて潰そうとしていました。
結局、関東の同じ押領使で中間にあった「特別賜姓族青木氏」の元祖と成った「藤原秀郷」が、朝廷に対して貴族の身分と武蔵国と下野国を領国とする事の2つの条件を出して鎮圧に当たります。
国香の子、平貞盛は父の仇を打つ為に親族の将門を打つ事にやむなく立ち上がります。
この二人は「平将門」の建国乱を鎮めます。
この「平貞盛」はその功績から朝廷に引き戻されて重く用いられます。そして、その5代後に平清盛が太政大臣に成ります。
この過程を継続して数年の前後して、再び、「阿多倍王」の支配下であった瀬戸内の海の「海族」の「海部」らを上手く統治して勢力を得ていた「讃岐藤氏」の藤原氏の伸張を警戒して、経基や摂関家の藤原氏等は、この「讃岐藤氏」を潰しに掛かります。
(「西の讃岐藤氏 東の武蔵藤氏」と呼ばれた)
つまり、早くから力を持った「西の讃岐藤氏」を潰しに掛かったのです。
東は「将門の乱」後の関東の「たいら族」の衰退で、この事件で勢力を拡大し、逆に「東の武蔵藤氏」が伸張する事に成って、中央の「摂関家」は弱体化して、”元の木阿弥”と成った「2つの事件」であったのです。

(「讃岐藤氏」は中央の「摂関家」の云う事を聞かなかった状況にあった。「藤原氏四家」は、勢力争いで云う事の聞かない式家、南家、京家を、「北家」に依ってこの「三家」は潰された経緯がある。)

”瀬戸内を制する者は国を制する”と呼ばれていたこの海域の「経済力」と「海域軍事力」を得た者が国を制するのです。それを「讃岐藤氏」は獲得したのです。
別に云えば、瀬戸内の民のこの「海族」を得た者が国を支配すると云う事に成ります。
従って、この瀬戸内には国の権力者の利害思惑が渦巻きます。
「阿多倍王」が後漢から引き連れて来た「海部」等の海族の「経済力と海域軍事力(海賊ではない)」を味方に引き入れ得た「讃岐藤氏」(讃岐の藤原氏)を潰しにかかったのです。
同じ様に、関東の陸と海の富と民と周囲の勢力を集めた将門に対し、それを妬まれ難癖を付けられた「平将門の乱」と同じ事が同時に起こったのです。
この「2つの乱」のきっかけを起こした人物は、つまり、両方の乱を讒言で引き起こしたのが、後に、これらの「讒言」を功績と認められて、源氏の賜姓を受けた清和源氏の始祖の源経基なのです。

(元々、経基は、臣下する第6位皇子に与えられる賜姓と朝臣の身分を欲していたが、対象外の権利のない「清和天皇の孫」であって第6位皇子でもなかった。その為に何らかの功績を獲得しなければならない事情下にあった。そこで、二人に対して妬みからの讒言を天皇にした。これを知っていた清和天皇はなかなか賜姓に応じなかったのです。)

然し、ここで、これに危機を感じていた同族の2つの勢力、九州全域と中国地方の陸域を勢力圏に治めていた「大蔵氏」と、それを指揮する朝廷内に藤原氏に並ぶ勢力を保持しかけていた同族の宗家の「平氏」は間に入って邪魔をします。

(経基の讒言を利用した。その様に仕向けたと観られます。大蔵春実の行動がタイミングと準備と処理があまりにも完璧で良過ぎるし、天皇そのものがそのあまりの良さの勲功に驚いていて、その勲功もあまりにも良過ぎる。)

そして、「讃岐藤氏」を弱め、「瀬戸内の警察権」を取り戻し獲得しようと合作します。
これの発端に成ったのが「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」です。
この鎮圧に経基と摂関家も関わりますが、「大蔵春実」は、これらの朝廷派の勢力を封じ込めて、純友と元々支配下にあった「瀬戸内の海族」の切り離しに成功します。
この大蔵氏は「純友の乱」を上手く利用して処理して、朝廷よりその勲功により瀬戸内の全域の海域の警察権を獲得し取り戻します。
純友には、”「海賊」と仲間になった”として、「個人的な罪」として処罰され、「讃岐藤氏」は藤原一門である事から遺し、その経済力と海域軍事力も取り戻します。

(春美は純友個人に罪を着せて全体を救った。そうしなければ元の支配下であった海部の海族を罰しなければ成らなくなり、海族を元の支配に戻しても反発を受けて収まらなくなる事を懸念した。純友も納得した。その証拠が純友神社等の動きである。)

(「海族」の海部等は「海賊」と讒言され決め付けられた。 「海部」は「純友」を慕って後に「純友神社」を瀬戸内の各地に建立した。)
そして「大蔵氏」は歴史上唯一氏に与えられた「錦の御旗」を以って九州から中国地方を正式に、且つ、実質の大領域権とします。
この財産を引き継いで朝廷内に食い込んで行ったのが、伊勢北部伊賀に拠点を置いていた宗家平氏となった「たいら族」の5代目清盛なのです。
この清盛は播磨の国を拠点として、この瀬戸内の経済力と海域軍事力と、更には同族の大蔵氏の「太宰大監」までも上手く獲得します。伊勢の宗家がその後に「大蔵氏の支配権」(太宰大監の上司の形式を採る)を正式に獲得します。
そして、この後漢から引き連れてきた「瀬戸内の海部」らの「海族」を使って清盛は「宋貿易」をするのです。関西以西を政治、経済、軍事の3実権を握ったのです。
この「瀬戸内の海族」は、元の状態に戻して宗家の「清盛の基盤」と成ったのです。
現実に、”瀬戸内を制する者は国を制した”のです。

一方、この時、「讃岐藤氏」は何とか生き延びます。一族の経済力は低下しましたが、この時、「讃岐藤氏」一族を率いていた「讃岐青木氏」は、讃岐宗家に代わって、ここより四国西域と瀬戸内の四国側をまとめて勢力を盛り返しに掛かります。
それは、「純友」は悪者に仕立てられましたが、「純友の善政」に心底から慕っていた「瀬戸内の海族」の南域四国側に住していた一部は、後にこの「讃岐青木氏」に従い「生活の基盤」を取り戻します。

彼等は、軍事力を獲得すると海族同士の争いと成る為に、この四国側域の海族は経済力のみの範囲に留めます。
「讃岐青木氏」の保護の下で「海産物の生産」とそれの販売業をし、海族としての「讃岐青木氏」の「廻船業」を手伝います。
つまり、これが後の中国側の瀬戸内に「海部氏」、四国側の瀬戸内28島に「磯部氏」が室町期中期に発祥します。これが歴史上の日本で庶民から出た「最古の姓氏」の発祥です。
(磯部は一部は駿河沿岸部に移動定住した)
さて、平族は、清盛死後、この「瀬戸内の海族の勢力」を率いて、源平合戦の「壇ノ浦の戦い」と「三浦沖の戦い」に挑んだのです。この結果、敗戦した「瀬戸内の海族」は元の二派に分かれるのです。
これが、中国側に「村上水軍」、四国側に「塩飽水軍」になって分かれたのです。
海部の海族は、敗戦後に「海部族」と「磯部の塩飽族」に分かれるルーツは次ぎの様に成ります

阿多倍王−山本直(大蔵氏初代)−・・・−春実9代目−種光−種材(1020)−光弘−種弘−種輔−種貞−種嗣−義種

種輔−種貞−種有(大蔵姓)−種資  
種輔−種貞−種嗣(大蔵姓)→義種
種輔−種平−種直(原田姓 3人は太宰大監 岩戸少卿の系−種直は清盛の時 原田種成)

(春実より種直までの「岩戸少卿」は瀬戸内全域の警察軍事権者 )
(種貞−種嗣までは「右馬允」で補佐 義種で官職ではなく、実質の「瀬戸内族の首魁-頭」と成る)

義種−第2子−海頭弥太郎→海部族を率いる (第2子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)
義種−第3子−塩頭弥太郎→塩飽族を率いる (第3子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)

義種−義親(九州 長嶋氏の祖 鎌倉時代 「元寇の役」の後に)
(義種が「海族の統括者」であった)

(「左馬允」と「右馬允」は朝廷の官職で、本来は天皇の前の左右を警護する警備役名で、少卿を補佐する役柄 左馬允が上位 後に大蔵氏の呼称姓とした)

この「塩飽水軍」の多くは、その後、室町期後期には「讃岐青木氏」(2足の草鞋策 廻船業)と共に生き、瀬戸内の海産物の殖産業と廻船業で昭和23年まで続きます。
この間、「塩飽族」は、「讃岐青木氏」と共に、信長、秀吉、家康に味方して生き残ったのです。
現代の日本の「造船術」と「操船術」は、この瀬戸内の海族の「塩飽水軍」のものが基礎となっているのです。
第2次大戦の世界に響いていた「日本の海軍力」の操舵法は「讃岐青木氏」に守られたこの「塩飽族の水軍」のものであったのです。
何故ならば、瀬戸内のこの二つの同族の水軍の「村上水軍」と「塩飽水軍」の生き方に左右されたのです。「塩飽水軍」は政治的な勢力に傾かなかった事に有ります。
それは「讃岐青木氏」と繋がって廻船業に純粋に従事した事に依ります。
純粋に操舵技能と造船術に従事した事に因ります。
例え、足利、信長、秀吉、家康に水軍として利用されたとしても、それはあくまでも”雇われの操舵術の範囲”を超えなかった事にあるのです。
だから、鎌倉期から昭和期までその「操舵術」はどの勢力にも採用されたのです。
有名な「鉄砲の雑賀族」の様な「生き方」をしたのです。
これが出来た裏づけは、「讃岐青木氏の経済的な裏づけ」が彼等にあったからなのです。
人は「経済的な背景」が無ければどうしても政治的な背景を求めて安定しようと働くのが条理です。
「讃岐青木氏」と「讃岐塩飽氏」は、この「水軍の力」を使って広島から島根の日本海まで子孫分布を広げています。
「青木氏」から調べた「塩飽水軍」の内容ですが、「塩飽族」は庶民であった事から、磯部氏、海部氏、など海や船にまつわる姓の「姓氏」を名乗っています。
その元は日本最古の姓氏の「海部氏」に辿りつきます。
恐らくは、長い歴史を持つこの「讃岐青木氏」とこの「海部族氏」と「塩飽族」等とには血縁関係を持ったと考えられます。

上記の詳しい事は青木氏の研究室の青木氏の守護神(神明社)」などの論文に詳しく記述していますので、そちらをお読みください。
但し、投稿欄のメモリー容量の制限があって、仕方なく論文が膨大になる為に、”塩飽水軍”の固有名詞は、海族としてのみにして、使用していません。

ご質問ありましたら、知る範囲でお答えします。
然し、青木氏外の事に成りますので、「姓氏の範囲」の奥深くまでは把握できていません。

お家は、確か「三つ柏紋」で信濃であったと記憶していますが、柏紋は「神職の青木氏」で、特に陸奥から後には、更には北海道までも「神明社の神職」として移動していますので、恐らくは「信濃青木氏」と考えられます。そのお家が、何故、「塩飽水軍」に御興味を持たれてお尋ねになったのでしょうか。
観光で知った事のお尋ねですか、
実は、この「讃岐青木氏」は昭和の戦後に一部北海道に渡ったとする記録もあります。
そちらのお尋ねでしょうか。

兎も角も、この様な歴史上の事を知って旅するのも当時の「人の葛藤や生き様」が頭の中に蘇り、楽しい旅となる秘訣ですね。歴史のドラマを見ていても奥が深くなり人より楽しいドラマとなりますよね。あぁあそこは描きが違うな、間違えているなとか、浅いなとか思いながら楽しめます。

では、又、何かありましたらお尋ねください。知る範囲でお答えします。


  [No.922] Re: 函館の青木
     投稿者:青木 昭   《URL》   投稿日:2013/09/08(Sun) 15:06:54


早速ありがとう ございます。
   今年の暑さと 雨には参りました。
   図書館は 我が家と違い涼しく快適なので。青森や弘前市史。
   郷土史の本などを読んでいたところ。 弘前市史の付録の絵図「慶安の絵図 1648年」の中に。
   青木屋 と読める記述があり気になり。
   お盆の時期に 弘前図書館にいき 本物を見せて戴きました所ありました。
   青木屋とありました。 残念ながら 青木屋00左エ門 としか読めませんでした。
   博物館の方にも見ていただいたのですが。わかりませんでした。
   弘前図書館の人の話ですと 住んでる町名が しわく町「今は 塩分町」
   ここの人達は 弘前藩が瀬戸内から船頭さんを招いて住まわせた所で。
   それで。町名をしわく町とつけたそうです。
   弘前 青森には函館にはない資料が沢山あり また行って調べてみます。
   函館では本州の事は調べずらいので。
   塩飽と北のつながりで何かありましたら。
   教えてください。


  [No.923] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/09/09(Mon) 16:50:30

函館の青木さん 今日は。
何とか秋らしくなってきましたが、今年は異常気象で大変でしたね。

そこで、余談として、筆者が関わった物理学から先ずは次の説を披露したいと思います。
ゆっくりとお読みください。
マスコミでこんな難しい事は云わないですからそのつもりでお聞きください。

300年に一度来る地軸回転による北極側の空気の動きが変化して、その動きを300年に一度修正する時期に来ていることが考えられますね。
丁度、3世紀の”邪馬台国の卑弥呼の時代”にも起こったと観られています。果物などの化石からこの事は判っています。
そもそも、卑弥呼の出現は、この異常気象から卑弥呼の「自然親−鬼道神」がその超能力によりその異常気象の気候の変化を毎日予言して、穀物の収穫を改善した事から、卑弥呼が信頼されて巫女となり、遂には、その飢饉で互いに戦っていた各地の豪族が、あまりにも当たる”卑弥呼の予言やお告げ”があたる為に、互いに争いを止めて「九州の政治連合体」の王と祭り上げられた事が所以と成っています。

そこで元に戻りますが、普通は地球のマッハ2くらい速さの自転に依って、地軸に沿ってその周りの空気が回転しています。この回転が北極側の周囲で本来は3つの空気のウエーブを作るのですが、それが次第に乱れて、そのウエーブは位置連れを起こしながら最終は5つのウエーブを起こします。
このままではその空気のよどみのウエーブは際限なく増えて行こうとしますが、そうすると北極側にある空気の層は破壊します。
そこで、それを元の3つのウエーブに戻そうとして、エネルギー保存の法則に従って、その空気の層の入れ替えが起こるのです。北半球側でそのウエーブの5つになった一つが南側に大きくせり出して空気の回転にブレーキを掛けるのです。
このために押されて南半球側の空気の層がひずみ、亜熱帯の気候が押されて一部北半球側にせり出す事に成ります。
これが海流や亜熱帯の空気層に影響を与えますが日本付近に淀む結果となって異常気象が起こるのです。
当然にこの現象は300年から400年前に比べると、地軸の傾き23.4から23.8に変化していると云われていますので、その影響も大きく受けてこの現象が加速される事に成ります。
この地軸が0.5度傾くと太陽の周りの円運動の公転は楕円形になり、その為に中心の太陽に対して通常の円運動より太陽に近いところが出来、又遠いところが出来ることで、更に暑さと寒さの寒暖差は大きくなる事に成ります。これが夏はAVE32℃から35度へと変化しているのです。
冬も同じで−約3度差の変化が起こっているのです。
この変化は地球が軽くならない限り戻せません。突き詰めると1650年頃から比べると、地球には唯一無から有を生じさせている人間の量が10倍以上に成っていますので、地球は重くなり加速度が大きく働きます。それに見合った地軸が傾いているのです。
この現象は”こまの回転原理”と同じです。
そうする、この地球重量の増加現象から唯一増えるものがあります。それは生物が吐き出す作り出す炭酸ガスです。文明が高くなれば当然にこの炭酸ガスが増える仕組みです。
普通、地球に対して適度の炭酸ガスであれば、地球の8割は海ですから、空気より2倍程度重い炭酸ガスは海に流れ込んで加湿されて吸収されてしまいます。
(空気28.8 炭酸ガス系42程度 Co Co2 Co3 H2Co3 H2Co4と変化して行く)
ところが、この吸収される速度以上に炭酸ガスを這い出すために余ったものは地球の表面に滞留する事になります。空気より重いのですから、人間が作り出す余計な炭酸ガスは傘の形になって太陽の熱を地表にとどめてしまいます。そして、熱は地表と海面を暖めて滞留する事に成ります。
これが、更に、上記の現象に熱の影響を与えて余計に亜熱帯化しているのです。
地軸が0.5度傾くと傾いた分だけ赤道上にある熱気の塊はより北上する事に成りますから、空気中の水分や海水温で蒸発した水分が北側にせり出してくる事になります。
この相乗結果から、夏冬の寒暖さ、季節の地表と上空の寒暖差が大きくなる事に成ります。
普通は、エネルギー計算から35度程度が限界とされていますが、これが40度差と成っているのです。
上記の自然現象のこの3度を修正することは増えた地球重量を減らす事に成りますので無理でしょう。

(計算では85億から95億位までが第1の標準限界値と見られます。ここからは標準を超える値となりますのでいろいろな異常な自然現象が起こる事が予想できるのです。現在はこの第1の標準限界に達しつつあると観られます。異常現象が起こり始めるポイント域と云えます。)

そうすると、炭酸ガスによる熱の影響の2度を減らす事で何とか成るのですが、これが難しいのです。
文明の近代化の為に、その増えた人間の量の食料分を賄える事になっているからです。
しかし、これも人間の重量を減らす事は出来ないことから無理と成ります。結局、無理なのです。
恐らくは、最終は、温度上昇に依って低空気中の”水分の不足”から、最後は人口が減る自然現象が起こると考えられています。そうでなければ地球重量が増え続けると、地球の加速度が増し、その遠心力で地球上の人間を含む物質は、引力<遠心力の関係から地軸の回転で制空圏の方に空気中通してに飛ばされて行く事に成ります。まさに人間ロケットです。
その前に軽いものから飛ばされますので、先ずは地球の一番外側にあるものから飛ばされます。先ず空気や水分です。次第に重いものへと繋がって行きますが、その前に、水分の枯渇から益々地球上は過熱化して行き、ついには生きて行くことは生物にとって不可能となります。
この時点で、再び地球の重量は戻り次第に自然の環境は取り戻されてゆく事に成ります。
この時、海の水分が残っていれば再び地球を冷やす事に成りますし、海水中に含まれる空気が地球の表面に湧き出てきます。しかし、この時には人間が恐竜の様に絶滅する事に成るかもしれません。
恐竜の絶滅原因は隕石と成っていますが、隕石の衝突の影響で直接死んだ訳ではありません。
(火星もそこの経過を辿ったとする説があり、この時に飛び出した水分と火星の生物が地球に届いたとする説があるのです。最近の火星の研究から判明説)
筆者はこの説ではないかと観ています。
隕石が地球に当たる事に依って上記の様な現象が起こったと考えられています。

(そもそも、大隕石が地球に当たると回転している地球には耐えられない大ひずみが起こり、亀裂してそれに地球の加速度の影響が加わり、それが亀裂は走り続け地球を分解させてしまう筈です。
又、この隕石に含まれていたとされる「地球の水分量」が何処から来たのかの説明もつかないのです。
最近の間研究で、この水分量は上記した原理により火星から届いたのではないかとする説が生まれて来たのです。生物が火星から来たとする説はこの事を意味しています。故に隕石に含まれていたとする水分が隕石より多くなると言う原理が成立たないからです)

この様に隕石だけでは説明がつかないことが多いからですが、上記の説では全ての現象が説明できるのです。
兎も角も、後は、地球の気候変動は300年周期の時期を越えるのを待つだけです。
北極には、炭酸ガスの影響は少なく、極点にはエアーポケットが出来るくらいですから、この重い炭酸ガスは集まりません。自然周期300年期の自然上昇熱で北極−南極の氷も解けるのもこの現象から来ています。
付け加えれば、自転の変化で地球に働く遠心力の影響で遠心力が強く、海底の地殻にひずみが大きくなり地震もこの周期に沿っているのです。そして、地震の場合もこの300年の間に矢張り3から5回の大中地震が起こるのです。
そうすると、卑弥呼の3世紀前から起こったとすると、2013年頃は7回目の直前の年を過ぎた時期に入ります。異常気象現象が各地で起こる事に成ります。
この理論から観ると、ウエーブのよどみが修正されはじめてくるのはもう少し期間を見る必要がありますね。

さて、これを論じていると際限がありませんので本題に入ります。
歴史も上記の現象と同じで、小さい周期性を持っています。人間の生き様も同じです。
室町期中期までの事は前回お答えしました様に、大蔵氏の義種の末裔がこの塩飽族の頭に成りますが、この後は、その操船技術を買われ、足利幕府、信長、秀吉、家康の支配下に入ります。
明治期には、日本帝国海軍の操船術は、この末裔が引き継いだ操船術が基本になっているのです。
日露戦争の海戦での讃岐の秋山真之の事でも有名ですね。
瀬戸内海の海流の速さと同じ朝鮮半島との間の海流の早いところでの決戦としたのもこの塩飽族らの操船術があったからなのです。
この様に海洋族の日本の操船術は優れていたために、侮っていたロシアに日露戦争の海戦で大国の海軍術に勝てたのです。この塩飽族や海部族の海族がもたらしたものですが、その後、末裔は幾つかに枝分かれしますが、天正時代から明治初期の時点では、塩飽族は次の「4つの姓氏」によって構成されています。
宮本、吉田、真木、入江氏の4氏です。

(この4つの姓には共通の由来を持っています。それは「神社」です。宮本氏は神社の氏子代表が用いた姓です。吉田氏は朝廷の神職の官職の奈良期からの氏名で神職に大変多い氏です。真木氏は神社が用いる神木の真木の木で神職系の姓です。入江氏は古来より神が好む宿る場所として神社が創建される場所は入り江の丘に建てられたのですが、神職系の姓です。何れも神職系の氏姓名です。
何故この様な神職系の氏姓名を使ったのかは不明ですが、塩飽族は前回のレポートでお答えした様に彼等の首魁であった「藤原純友」を慕って建立した「純友神社」の下に姓を求めたのではないかと推測されます。)

この中でも、宮本氏が最大勢力を持っていたそうで「頭目役」を務めていたとされます。
つまり、「氏子総代」、又は「禰宜」、「権禰宜」を勤めていた事が判ります。奈良期古来からの日本最古の由緒ある神職氏の吉田氏を名乗っている事に注目しています。
その「頭目」となると、この宮本氏が当然に大蔵氏の義種の末裔の”塩頭の弥太郎”の末裔と考えられます。この4氏は全て血縁関係にあった事が判ります。
従って、海部氏と同じく少しあとでの1560年代に姓氏の宮本氏を名乗っています。
この塩飽族の4氏の系譜の末梢族と見られますがその繋がりは判っていません。
これら4氏の枝葉末裔が、その術を買われて最も各地に広げています。その一つが陸奥の国にもあるのです。これは讃岐青木氏の行動範囲からの末裔分布で判るのです。つまり、行動範囲を伴にしていたことを意味します。讃岐青木氏が行くところには彼等の4氏の何れかが同伴した事に成ります。
その都度、4氏の中からその末裔が選ばれて行く掟の様なものがあったと観られます。
讃岐青木氏と4氏から観たものでは、備前備中地域や、越前越中越後陸奥域までの記録があります。
この中でも、記録で観ると、讃岐の筆頭の本家の宮本氏が江戸初期前後に養子を迎えてますが、この頭目と成った養子が一時、東北の方に移動したことが書かれています。
そして、当初3年の予定であったらしく、結局は戻らなかったとされ、”退転”と云う言葉で表現されています。更に、因って、結局、”本家は分家の者が引き継いだ”と記されています。
この”退転”したとされる頭目の跡継ぎの者が、この弘前藩に操船術で召抱えられたのではないかと考えられます。
それがお便りの「塩分町」(塩飽族の宮本氏)で、「青木屋・・左衛門」(讃岐青木氏)となると考えられます。

実は、この事を補足証明する事があるのです。その迎えられた理由に付いては、先ずは、弘前藩の記録には、最北の小藩の津軽氏の弘前藩は、この1648年前後の時期には、2度の「藩政改革」を実行して、その為に利権を争う勢力争いが起こり、その前に家臣がお家乗っ取り事件も2度も起こしています。
これらの一連の有名な事件に加え、この時期に幕府が出てきて裁定を下すほどの更に2度の大事件を起こしています。
この結果、その2度の事件に関わった者は、喧嘩両成敗の裁定で、中心人物は一時、山口の毛利氏や伊予讃岐の松平氏にお預けの身となります。
この藩政改革の中で、その利権争いの原因となったもので、幕府に対して、”弘前藩の廻船業”と、江戸などへの定期航路の”運航許可”を申請し、それが幕府から認可されています。
争いを起こしている北の小藩に対して、況して何度も事件を起こしていながら極めて重要な申請を受け入れているのです。先ず、この時代の幕府は大名を抑え締め付け減らす裁定を下している環境下です。
大いに疑問です。
この時期を挟んで、小国の津軽氏の弘前藩は、この事に依って莫大な利益を上げて、幕府に対する献金も増えるだけでは無く、その為に所領も増えているのです。
この事から莫大な利権争いの事件が続けて起こったのです。何かが藩政改革の中で決定的な事があった筈です。
この時に、お預けの身になっていた津軽氏のこの藩政改革実行派の中心人物が、地元伊予讃岐の松平氏の許可を得て、弘前藩に藩政改革の切り札を送り込んだと観られます。
その一環として上記の弘前藩が「2速の草鞋策」で行った藩政改革の切り札、即ち「廻船操船術」の為に招かれて、塩飽族の宮本氏の上記の退転者が本家の一族を率いて弘前に移住したと考えられます。
当初は3年の計画で基礎を構築して後に戻る計画であった様ですが、結局、何らかの理由で定住してしまった事に成ります。
そもそも、津軽氏はもとより宮本氏だけではこの様な利益を上げる事は当時の社会慣習から不可能です。
大物が率いていた筈です。疑問です。

しかし、その前にここで更に疑問が残ります。
本来、お家騒動は掟として「廃藩の憂き目」にあう筈ですが、”御咎め無し”の喧嘩両成敗で済んでいます。北の小藩で、且つ、大広間にも出られない「家の格式」の低い藩ですが、”廃藩”がなかったのです。
むしろ、後に所領を増やすという事が起こっているのです。
何かそれに見合う利得が幕府側にあり、それを執り成した大物者が居た筈です。
これは、後に判ることなのですが、実はこの”廻船業の利益の献納”があったからなのです。
これは当時の身分制度と社会構造からして、到底に宮本氏の操船術だけでは成しえません。
その操船術には何かの廻船業の莫大な利益を生み出す「ノウハウと組織」が付いていたからこそ成しえた筈です。
その証拠にはこの事件以前にはこの歴史の浅い小藩の弘前藩の経歴の中に、この廻船問屋の履歴はありません。
このことはお預けの身になった藩政改革の中心人物に、伊予讃岐の「松平氏」の仲介を得て、瀬戸内を牛耳っていた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」の廻船問屋の紹介があったのです。
そして、この讃岐青木氏の力を使って、弘前に廻船業とその産物を商う2速の草鞋策を敷いたのです。
そして、問題と成るお家の藩政改革にこの「2足の草鞋策」を改革の中心に据えたのです。
其処から生まれる利益の一部を幕府に献納する事に依ってお家の安泰を図ったのです。
幕府にしてみれば赤子の手を握る程度の小藩ですが、この献納金の魅力が大きく、伊予讃岐の松平氏の口添えもあり、利権争いから来るお家騒動の2度もの事件に目を瞑った事になります。
讃岐青木氏と行動を伴にしていた宮本氏の移動は、この時のこの中の一連の手順の一つであったと観られます。
故に、喧嘩両成敗の裁定で終わったのです。
小藩の津軽氏が単独でこの様な商売で莫大な利益を上げ献納できることはあらゆる面で不可能です。
讃岐青木氏の全体のノウハウと組織があったからこそ成しえたのです。
昔は何度も研究室の投稿で論じている様に、彼等の豪商の支配下にあるシンジケートがなくては物を動かす事はこの時代は無理なのです。
産物の仕入れや梃子の調達などあらゆる商いに伴う準備は塩飽族の宮本氏には無理であります。
これに讃岐青木氏が伊予讃岐の松平氏の2氏の仲介で関わったのです。
讃岐青木氏、伊予讃岐松平氏、津軽氏の3者共にどちらに執っても利のある話であったのです。
其れも、事件後すぐではなく、この裁定の時期が2つの事件終了後の2年後なのです。
津軽氏と讃岐青木氏との廻船業と殖産業と運行業の3つが上手く行くかの様子を幕府は見た事を意味します。

それだけに幕府にとっては献納金は魅力であったのです。恐らくは、この青木氏らの結果を見てからの裁定と成った事に成ります。
治世を司る伊予讃岐の松平氏と、地元瀬戸内を支配する最大豪族讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係を保つ事は両者に執っても最大の眼目であり、地元の廻船問屋の北への拡大は伊予讃岐松平氏にも利が大きかったのです。
現存する讃岐青木氏はこの廻船問屋を昭和20年まで続いたとされていますし、この間に陸奥と北海道にも廻船業の支店として移動定住した末裔があったことが判っています。
この時、讃岐青木氏は塩飽族を抱えて廻船問屋を営み、瀬戸内全域はもとより、島根の宍道湖のところまで末裔を移して定住させて、松前船で知られる様に、日本海側周りの海産物も取り扱う廻船問屋をも拡大して手広く北海道までも運航していた事が記録されています。
明治期の北海道開拓には勢力を注いだ事が判っています。
筆者の総合商社を営なんでいた伊勢青木氏とは、明治中期までの商いでの付き合いがあり、その廻船問屋の行動は赤穂浪士の城明け渡しの時にも出てくる2速草鞋の豪商です。
恐らくは、この讃岐青木氏は秀郷流の同族の陸奥青木氏をも頼り、陸奥青木氏ともこの陸奥に伴に移動した宮本氏の塩飽族との関わりをも持っていた事と考えています。
何れしても讃岐青木氏には、その配下にあった塩飽族の宮本氏も本家−分家で讃岐−陸奥で繋がっていたと観られます。恐らくは、この「青木屋・・左衛門」は讃岐藤氏の讃岐青木氏の末裔と見られます。
現在調べていますが人名の確定が出来ません。
左衛門は賜姓族青木氏の奈良期からの官職ですので、この江戸中期からはだれでもが名乗ってしまった名となっしまいましたが、この江戸初期をぎりぎりには未だ何とか嵯峨期の詔勅の禁令を守っていたことが判りますので、「・・部分」のところを見つける事が必要ですので讃岐青木氏の系譜の中で調べています。
恐らくは、陸奥での新たな証拠は見つけるのは難しいと思いますが、判りませんが、陸奥の塩分町には、この讃岐青木氏の末裔と宮本氏や他の3氏の姓がある程度残されているのではないかとも考えられます。その財力から観て菩提寺を建立している筈ですので、お寺や付近の神明社の神社関係で資料が残されているのではと考えます。
恐らくは、付近にあれば陸奥の讃岐青木氏の一族とその一門とその郎党を祭祀する菩提寺名は「西光寺」ではとも考えられます。
其処には宮本氏の塩飽族の郎党も永眠して祭祀されているのではと考えられます。
しかし、ここまでが青木氏から観た塩飽族の由来です。ここからは判りません。

陸奥青木氏は藤原秀郷流青木氏です。青木氏の大変多い地域で、青木の地名もあるくらいです。
現在は弘前には青樹と変化していますが、元は青木です。変化した理由が明確ではありませんが資料から明治期になってからと考えられます。
左メニューの「地名地形データ」にも記載していますのでそちらもお読みください。

陸奥域から北海道に移動した青木さんは4つのルーツがあり、時代も異なっていますが、おそらくはこのひとつでしょうが、函館の青木さんのルーツがある程度読めてきているのではないかとも思っています。
青森県には次の五氏の青木氏があります。

藤原秀郷流の陸奥青木氏(総紋 下がり藤紋)、越後青木氏(総紋 下がり藤紋)、讃岐青木氏(下がり藤に雁金紋)、陸奥青木氏から出た関氏系青木氏

皇族賜姓族の神職の信濃青木氏(柏紋類)、住職の信濃青木氏(笹竜胆紋)、
北海道に渡った青木氏で記録があるのは関氏系青木氏を除く4氏です。

(関政家を祖とする関氏系青木氏は秀郷流一族に与えられた特別賜姓族の特権を使って後に青木氏を名乗った。賜姓青木氏ではない青木氏で、その末裔は関東に移動経路を採っている)

又、ご質問がありましたらお尋ねください。青木氏からの情報でお答えします。