青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.481] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/04/28(Tue) 11:10:19

函館の青木さん 今日は。

いろいろとお調べに成っているとの事ですね。
私の方でも少し調べました。
少しづつ前に進むようですね。

さて、今日のお便りで、柏紋が大きい事が判りましたので、これで疑問の半分が消えました。

もし、細い三つ柏であれば、時代性が異なりますので、現在の推測は消えますし、その家紋から来る2つのルーツの内の一つが一つが消え、妥当な家紋が残りました。
この家紋は大内、山内系と五味系とに分かれますが、消えるべき前者が消えました。
もし前者だと矛盾が起こります。時代性とその家紋を使った氏は青木氏に全く関わりが有りませんので。
そうしますと、三つ柏紋系の神紋を持つ神社が出てきます。
更に青木氏に関わる代表的な2つが出てきます。
先ず、宗像神社系です。もう一つは八幡神社系です。

つまり、この神社が都を離れて陸奥(青森、山形)の遠い地方に時代性が一致し存在するかの疑問です。
もし、お家が信濃の青木氏の神官であれば、1740年前の情報から陸奥では既に相当に生活基盤が出来ていますので、1400年頃前に寺が存在していたかの問題です。この頃は室町期の初期に当ります。
信濃から陸奥に神官職として血縁にて移動するとすれば、この時代の信濃の青木氏はいろいろな歴史的史実から無理と考えられます。
そこで、その移動し得る時期は更に遡って鎌倉期の初期1200年前後だと思います。
そして、時代的に観て、信濃青木氏の状況を観て、この頃に上の二つの神社系が未だ陸奥には珍しい時期と成りますと1100年前後と成ります。
つまり、源平の時代です。初めて、この地域に朝廷の力が及んだ時期です。そうすると源氏の時代です。
清和源氏がこの時期に信濃の青木氏に同族血縁しています。信濃青木氏に源氏の跡目を入れている時期と成ります。
(第6位皇子は光仁天皇までは青木氏を賜姓し、2代後の嵯峨天皇期に第6位皇子は源氏と変名し、青木氏は皇族者が下俗する際に使用する氏名としました)
この源氏の8代目の清和源氏が信濃青木氏に男子を跡目に入れました。(皇族賜姓青木氏関連にレポートあり)
そして、清和源氏は頼光系本家筋(長男)と頼信系分家筋(三男)とがありますが、この信濃は兄の頼光系の国司の土地でしたが、頼光は弟の出世を願ってこの信濃の役目を頼信に譲りました。
ここから、関東と北陸東北地方に勢力を伸ばしました。この分家一族が鎌倉幕府の源の頼朝、義経です。
この分家の源氏が陸奥征圧に成功します。
(関東征圧の第2の拠点は伊豆に置いた。この土地も頼光系の土地であった)
この時期が1050年前後と成ります。
丁度、この時期の少し後で一致します。
1050ー1060年代頃と観ます。

そこで、信濃青木氏の神官が陸奥に移った時期は次の通りです。

この時代は陸奥以北は未開の土地で「征夷」と呼ばれていました。当時はまだ統治官は「鎮守府将軍」(後に征夷大将軍)と呼ばれ居ました。征圧後は当時の政治手法で当地に統治の拠点として神社(寺社)を建立してそこで統治政治を行いました。
当然、そうなりますと、この遠地に神官を送る必要があります。(征圧前はロシア系日本人アテルイが統治していたので、神社寺社とそれに関連する人と物は有りません)

そこで、源氏は朝廷の命で信濃の本拠点から人と物を移動させました。

ここで、史実、清和源氏の分家の本拠地から信濃青木氏の分家筋の神官職が移動する事に成ったのです。つまり、実はこの史実がお家なのです。

そこで、陸奥にはその神社と寺社があるかの問題ですが、実はこの遠地未開の地にあるのです。
そして、国府近くにある筈ですが、丁度、その時期に建立された筈の「八幡神社」がある筈なのです。
矢張り、当時の定石どおりに「小田八幡神社」(八戸河原木)が在りました。
建立時期は1046ー1057年ころとされています。完全に一致しています。

これで驚いてはいけません。
この小田という名は、この地方の地名ですが、この地の豪族小田氏は藤原秀郷一門が藤原秀郷流青木氏を護衛役として伴ないここを鎮守府将軍として赴任した時に血縁をした相手で、一門が任期が切れて甲斐に赴任移動した時に藤原秀郷流青木氏と共に同行したのがこの小田氏です。この陸奥の小田氏が甲斐武田氏なのです。一部が常陸に移動して後に大勢力を持った「常陸の関東屋形」といわれた小田氏なのです。

( 参考 この時、信濃には矢張り、藤原秀郷一門と血縁した地元の陸奥の花房氏が移動同行しました。これが本家足利氏です。後に過大に実力をつけたこの本家足利氏を親類の藤原秀郷一門が潰して分家に一族のものを送り込み本家としてしまいました。追われた花房氏の足利氏は信濃足利系青木氏の一部と共に米子と八頭に移動して定住したのです。)

更に、調べていると更に、この八幡神社は寺も平行していたのです。「山徳城寺」と言います。
恐らく寺と城を兼ねていたと考えられます。
神社と寺社を共に持つ統治機構の拠点であったのです。この方式は古来からの方式で、明治期に入り多くの統治機構の拠点となった主な大神社は「神寺社分離令」で分離させられたのです。

完璧です。
更に、源氏はこの地に、「善知鳥神社」(うとう:青森市)もこの時期に建立しています。
この神社は「宗像三神」(むなかた)を祀る「宗像神社」系なのです。
この寺は允恭天皇と仁徳天皇を祀る天皇家の神社なのです。(遠地未開に朝廷の威光を披瀝した)
つまり、この時に八幡(応神天皇)の第6位皇子の守護神と、天皇を祭る宗像神社の守護神の二つを建立した事に成ります。これは当時の政治の仕来りです。(八幡は青木氏と源氏の朝臣賜姓族の守護神となる)
仁徳天皇なので宗像神社は北九州を拠点としています神社ですが、この遠方にも建立したのです。

そこで、お家の柏紋はこの八幡神社の神職の分家筋ですが、この宗像神社(三つ柏)との間で血縁が行われた事に成ります。陸奥では珍しいこの柏紋はここが拠点と成っている事に成ります。
(宗像神社は三つ柏紋の大元です。)
丸付き紋ですが、これは分家を意味します。

信濃青木氏の神官は綜紋の源氏と同じ笹竜胆紋が当初の信濃青木氏の綜紋です。
お家は信濃時代の昔は八幡神社系などの綜紋笹竜胆紋でしたが、この三つ柏紋の宗像氏と血縁氏となり分家しました。
つまり、お家の八幡神社の神官の青木氏には嫡男に恵まれず婿養子を天皇系の宗像神社から迎えました。(当時は身分同等による吊りあい血縁が主流)
しかし、又、更に嫡男に恵まれず、結局、女系の形になりましたので、「家紋掟」により婿側の家紋を使うことを余儀なく成りました。それが宗像神社の三つ柏紋で、その後に更に分家したので丸付き紋になった訳です。

その後、鎌倉幕府が出来、時代性がこの陸奥の国まで押し寄せ、藤原秀郷流一門(青木氏)と共に失職離散となった事に成ります。24地方で全国的に起こったのです。
賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏は各地で「2足の草鞋策」で豪商となり生き延びます。
伊勢商人、近江商人、美濃商人、信濃商人、摂津商人、讃岐商人、松前商人の有名な豪商は全て、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。筆者の先祖も伊勢豪商で、これ等の豪商は殆どは武士との「2足の草鞋」でした。

お家は、その後に、更に、下克上、戦国時代となり、焼き討ち、打ちこわしなどで、より衰退して、武士を捨て漁民となり、元の力を生かして漁民の長として室町期を生き抜いたと観られます。
賜姓青木氏と藤原秀郷一門は例外なくこの全てこの憂き目に合っています。
この時、元の地主、領主であったために鎌倉、室町幕府の「本領安堵令策」である程度の土地が戻されました。それを生かして庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏、郷士に成っています。
お家も、八幡社領を持っていますので、神官一族一党が生き延びられる程度の本領安堵があったと考えられます。
特に、政治的に神官職の土地(社領)は、減額はされましたが、確実に安堵されたと記録されています。その後、何らかの理由で神官職を他に譲りもう一つの職業の漁民の長に専念したものです。

この様に全国の神官職も「2足の草鞋策」で生き延びたのです。
この事は史実で、各地の大きい神社は例外なく全てこの方策を採りました。
これ等のこともこの掲示板にレポートしています。
例えば、愛知に今宮神社と云う神社がありますが、闇の中部一帯のシンジケートの長でした。
鉄砲や弾薬武器を購入する場合はこのルートを通さないと獲得できませんでした。
例えば、信長は秀吉に教えられて蜂須賀小六の紹介で3000丁の鉄砲弾薬を今宮神社から入手できたので大勢力を得たのです。
ですから、お家も封建社会の氏家制度の中ではご先祖が漁民の長となり得たと思われます。
漁民が住む一帯が安堵されたと観ています。長である事の理由はこのことから来ていると思われます。
又、その立場と力を見込まれて、後に北海道に招かれたものでしよう。

余りに驚くべきで、史実と完全一致します。
研究室にレポートもしていますが、清和源氏がこの地に征圧して何らかの統治機構を設け、信濃から送り込んでいる事は承知していましたが、その統治の神社、寺社、宗像神社と、柏紋と、お家の事で現実に研究のひとつが解決しました。信濃と柏紋の御家が存在することで研究の史実がまた解明されました。
今までは時代性や信濃とのつながり等のいろいろな条件が合わなかったので”又かな”と思いました。
ここまでたどり着きましたよ。

信濃の青木氏は皇族賜姓青木氏と足利系青木氏の2氏(花房系と藤原秀郷系派)と諏訪族青木氏(2氏)の3氏があり、何れも皇族賜姓青木氏と土地の豪族との血縁の賜姓一族です。
お家はこの神官職ですので、皇族賜姓青木氏本流です。
お家の総宗本家のご先祖は信濃国府付近(県庁所在地)に青木j町を形成して今も定住しています。(レポートしていますし、地名地形データベースのところを参照してください)

もし、お家の800年前の大本の総宗本家筋をお調べになるとすれば、この国府の付近にある神社や寺社の菩提寺をお調べになると出て来ると思います。
ただ、お家では800年前の事は消失してしまっていますので、口伝以外にありませんから、難しいと思いますが。お家の祖母の方までがこの口伝を言伝えてきていた事に成ります。それが切れ掛かっていると観ます。何処でもそうですが。
今回のこの事をより口伝として残されることを期待します。(これがこの青木氏サイトの目的です)
今でも、神官の青木さんは佐々木氏と共に全国的に多いのです。
藤原秀郷一門には請われて東北北陸の神社の宮司は佐々木氏(同族)が多いのです。

この掲示板には神官の青木さんも居られますよ。このサイトの青木ルーツ掲示板にもお便りも頂いていますよ。元はご親類ですね。(賜姓青木氏と佐々木氏とは同族です。)

念のため、青森の阿弥陀川村の名の阿弥陀さまは浄土宗の守本尊です。
ですから、この陸奥に浄土宗の阿弥陀様の名がつけられている事も一つの信濃からの移動を裏付けられる証拠と成ります。

青森県東津軽郡蓬田村大字阿弥陀川 お家のルーツ在所
青森県八戸市河原木 小田八幡神社

お家は、八幡神社の社領の一部の蓬田村Iを扶持として与えられたと見られます。
当時は神社親族関係者は大変大きな社領の一部を食い扶持として所領する仕組みでした。
例えば、世界遺産の熊野神社は殆ど和歌山県全土に近い域を社領としていました。
陸奥の八幡神社も尚の事です。
この八幡神社がお家を含む賜姓青木氏と賜姓源氏の守護神です
阿弥陀川に立ち寄られたら十和田の近くのこの八幡神社にもお参りされては如何ですか。

さて、浄土宗ですが、江戸幕府が特別に「浄土宗奨励令」を出すまでは特別の身分の者しか入信できない宗派でしたので、限定された所にしか寺などは有りませんでした。一般化したのは明治に成ってからの事です。ですから、この陸奥にこの名があったと云う事は特別な事です。
現在でも、浄土寺はこの青森には新しい2寺しか有りません。
浄土宗は5家5流29氏の賜姓青木氏の宗派ですので、。この阿弥陀川の名こそお家の先祖しか使えない名であってその名残ですね。真人族と朝臣族と宿禰族の貴族と皇位侍しか入信出来ない宗派でした。
其の他の高位の身分の者は天台宗に入信しました。
それ以外の侍と民は後には真宗でしたが後の日蓮宗などが出来て主に下級武士と農民が入信しました。

現在の宗派のこの地域の真宗の寺は1500年代に建てられた3寺しか有りません。大分先に建てられたものですので、1200年代の当時では陸奥の信濃の皇族賜姓青木氏の阿弥陀様の呼称と成ります。お家のご先祖に因んで名付けた可能性も大いにあります。


(以上の事柄は「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」と他のレポートにも詳細にしています)

青木氏のサイトでは青木氏に関わる多くの研究を続けていますが、また、何かありましたら教えていただきます様にお願いします。

ちょっとしたことでも結構です。史実と照らし合わせてレポートを作り後世にその史実を残したいと考えています。信濃のことでより何かありましたらお伝えください。

信濃事の予備知識は皇族賜姓青木氏の関連レポートからお読みになってお調べください。

青木氏の研究が又進みました事感謝いたします。

以上の事に付いて、このことに付いて何かご質問が有りましたらお便りをお待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー