青木ルーツ掲示板
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  [No.503] Re: 函館の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/26(Tue) 07:32:12


大変楽しい旅行でしたね。

私も経験がありますので、土地の雰囲気の事は、私も充分理解が出来ます。

これからも、本サイトをお便りで盛り立ててください。

この陸奥の土地は藤原秀郷一門が「鎮守府将軍」として赴任していた土地柄で、11人の者が朝廷の命で移動しています。
そして土地の豪族、特に、小田氏、小山氏、花房氏との血縁が生まれ、後に時代を大きく左右する豪族と成っています。そして血縁一族は秀郷一門に護衛団として同行して甲斐、信濃、常陸等にも移動定住しています。その中でも、血縁族の陸奥小田氏は甲斐武田氏に、陸奥花房氏は足利氏に、小田氏の一部は「関東屋形」として有名な常陸小田氏となり夫々大豪族と成りました。

当然、主要護衛団は「第2の宗家」として働いた第3子の千国を始祖とする藤原秀郷流青木氏です。
この陸奥には、当然に、藤原秀郷流青木氏が定住しています。
殆ど全てこの一門の陸奥青木氏です。
歴史上、この陸奥は後に秀郷一門の末裔が陸奥で弱体化したところを宿敵の阿多倍一門(たいら族 平家一門含み 内蔵氏等)に背後を突かれて奪われます。
この直前に陸奥に「てこ入れ」をして、秀郷の従兄弟関係に当る共同戦線を張っていた藤原利仁一門との同族血縁をして藤原利仁流青木氏が生まれます。
鎌倉幕府樹立後、再び弱体化してしまいます。頼朝の2度の「本領安堵策」で藤原秀郷の末裔朝光が結城一帯を取り戻します。そして、その後、結城長嶋氏が「関東屋形」として呼ばれまでに勢力を持ち返し、再び「陸奥の奪還」を試みます。奪還しますが、北畠氏の合力を受けて南北朝で失敗、その後秀吉に攻め落とされます。
この時にも、藤原秀郷流青木氏が活躍します。
この土地柄はこの様な歴史的な史実を持ち阿多倍一門により衰退しますが、この藤原一門(秀郷と利仁)の青木氏が定住している所です。
ところが、前回のレポートにも書きましたが、朝廷の命で苦労して源義家がこの地を征圧した時に信濃から皇族賜姓青木氏一門の神官職の青木氏が神官として移動しています。
政治の中心の政庁(寺社)を作りそこの神官として移動しました。
この藤原の秀郷流青木氏と利仁流青木氏の中にあって、信濃青木氏が歴史的に史実として少なくとも多少なりとも現存している可能性があると見ていました。
藤原一門の116の家紋を持つ青木氏の環境下の中で、神官としての力で1割にも満たない範囲で、尚且つ、上記した”何度も宿敵との戦いの荒波にもまれても現存は可能か”との疑問もあります。
藤原秀郷流青木氏は勿論、利仁流青木氏でさえ消えて無く成っているのですから、前面に立って護衛団として、「第2の宗家」として働いた青木氏は他の土地の青木氏の隆盛とは逆の道を歩みました。

そこで、上記した乱世の中の1割にも満たない江戸時代の1670年代の信濃青木氏の神官一族が、果たしてこの「青木屋」であるのか充分検討を要する所です。
何処の賜姓青木氏、藤原秀郷流青木氏が定住する土地にも必ず「2足の草鞋策」で豪商を営んでいます。

この江戸時代の史料ですが搾取偏纂が殆どです。
その例として、徳川氏がその代表的な搾取偏纂の系譜と史料を創り上げたのですから。
そこで一例の史実を述べますと。
それを認めさせようとして、天皇家に対して経済的圧迫と政治的圧迫を猛烈にかけて食事も侭成らず住まいが朽ちても直せないところまで追い込みました。そこで、やっと南北朝の源氏の子孫であるとの折り合いをつけたのです。
ところが、この南北朝の源氏の第6位皇子の賜姓はとっくに終わっていますし、天皇に成る人物が不足していた時に、天皇家に無い人物が突然出てきた隠し皇子の人物を源氏と据えて「朝臣族」の身分を強引に採り、幕府を開ける「征夷大将軍」を獲得しました。有名な史実です。
その隠し皇子は松平氏の三河に僧として現れ、比叡山から降りて托鉢して門前に立ったので、逗留させたが娘との間に子供が出来た。この子供が家康の父であるとしたのです。そして、その僧は比叡山から還俗した皇族者で隠し皇子であったとしたのです。
つまり、嵯峨天皇期の詔の皇族の者が朝臣族の源氏か青木氏に成れることを利用したのです。
秀吉は、天皇の湯殿女で子供をはらんだので里に帰ったのが母であるとして嘘で固めて皇族であるとして太閤職として金品を使い天皇家に認めさせた史実と同じです。

この様な事から、この時代は下克上と戦国時代で伸し上がった者らが家柄を良く見せる風潮と習慣が蔓延していた時期ですので、仕方の無い事ですが搾取偏纂が殆どです。

それを元に作くられたのが殆ど江戸期の史料です。
史実から照らし合わせて、検証をすすめられるように例を用いました。

藤原氏の青木氏の家紋116も網羅していますのでお家の家紋と参照してください。
もし、その青木屋の商紋又は家紋は賜姓族一門の家紋類か秀郷一門の家紋類かも問題です。
大抵はその商家は元は上級武士で「2足の草鞋策」を用いた豪族ですので家紋はあるはずです。
北周船の松前商人としても有名ですので、この陸奥の国に基点を置いた事は歴史上有名です。
青木屋は陸奥の藤原秀郷流青木氏の可能性も大変高いと思いますのでその辺をご確認ください。
大抵の青木氏の豪商は歴史上この陸奥に基点を置いています。

ご不明な点など有りましたら、現在では検証は大変難しいと思いますので是非お問い合わせください。
お力に成ります。



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