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  [No.635] 青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:伊早坂 正美   投稿日:2009/10/17(Sat) 01:23:10

青木姓ではありませんがお尋ねいたします。

 はじめまして、群馬県高崎市の「伊早坂(イハヤサカ)」と申します。私の苗字は希少姓とされ、他界した父はルーツを知りたいと云いながらも病魔に倒れ、願いを果たすことなく死去いたしました。私自身還暦を迎え、子孫のためにも今の内にルーツを探しておこうと祖先探しを始めてみたのですが、未だにルーツも何も分からず寂しい思いをしています。
 
代々の生家は現在の富岡市一ノ宮町字本町(旧 北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮甲)に在り、上野国一ノ宮貫前神社の鎮座する蓬が丘の斜面下に位置し、上州と信濃を結ぶ姫街道(現在の国道245号旧道)に面しています。
 
現在、遡って取得出来る閉鎖謄本には高祖父にあたる前戸主、長五郎と書かれ、隣村・宮崎村の伊早坂家より嘉永元年に長女(天保3年6月出生)が嫁してきており、その頃の住所は北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮町213番地、現在の上州一ノ宮駅附近にあたるところです。
 
曾祖父、鉄五郎(慶應元年11月生)、祖父、初太郎(明治24年10月生)共にこの住所に生まれ、家督相続をしています。
 
曾祖父、鉄五郎の代、明治期に鉄道(現在の上信電鉄)の駅舎が敷設されたため、所有地内の現在地(一ノ宮町大字一ノ宮甲)に移転したものと聞いています。
 ここが、父と私の生家、姫街道(信州街道)に面した庭先には寛永年間に建立されたと伝わる「勲五等抜鉾大明神」「八宮大明神」と刻まれた高さ3m程の富士形の石積の上に三段の基壇があり、その上に1mほどの石祠が乗っており、基壇は五両と十両とに分けられ、それぞれ無数の名が刻まれていますが、風化が進み判読は出来ません。この石祠は現在も生家の庭先に立っています。
 
生家の古い母屋の入口の上には木剣が掛けられ、その下にはしめ縄、横には柊と鰯で組み合わされた鬼祓いが刺してあり、裏庭の奥には沢山の石祠が並んでおりました。
 
使用家紋は定紋に「丸に隅立て四つ目」、替紋に「丸に花菱」と「丸に違い鷹の羽」が伝わっています。
 
生家の仏壇の前には三つの家紋が並んでおり、納屋の奥には黒い木箱の中に朽ち果てた甲冑とボロボロの刀があり、私と弟が抜こうとしても抜けず、甲冑は触ると糸がグズグスに切れてしまいました。兜の前立は丸型のものがついていたと記憶しています。
祖父他界の折、大叔父が持ち帰ったと聞いていますが、現在の所在は不明です。

代々の墓地は一ノ宮貫前神社東参道大鳥居の近く、交差点角に位置し、お寺は富岡市宇田にあります曹洞宗宇田山神守寺。
 
この神守寺は慶長2年(1597)、宮崎城の奥平信昌により建立され、檀家の多くは古い時代に貫前神社の神官をしていた方々の子孫と聞いています。
 
なお、この奥平氏は甘楽郡吉井町奥平の発祥で、甘楽郡甘楽町小幡発祥の小幡氏と同族とされています。
 
文書類については、天明の大火災で一ノ宮全体の記録を失い、神守寺は江戸期と昭和初期の二度の火災で過去帳も失い、我が家の記録も昭和初期の貫前神社の丘麓の土砂崩れにより離屋数棟と母屋の半分以上を失い、すべて流失してしまっています。
 
この変わった姓のルーツを探ろうと、多くの姓氏家系に関する書籍を買い集め、またWebにて様々の検索をして参りましたが、ほとんどの場合、群馬県富岡市発祥か?姓氏未詳とあります。
 
太田亨博士の「姓氏家系大辞典」には「信濃にみえる」とあり、また、郷土史家の萩原進氏の著「上州の苗字と家紋」には、群馬の難姓・希少姓のひとつとして富岡市発祥の苗字であると書かれています。
 
子供の頃、大叔母より貫前神社に縁が深く、一ノ宮から西へ1キロ程の所、富岡市七日市にあります七日市前田藩とも縁があったと聞いていましたが、「難しいから大人になったら教えてあげるよ」と云われながらも、教えてもらうことなく他界されてしまいました。
 
群馬大学名誉教授 山田武磨氏の著「上州の諸藩」上巻の中で七日市前田藩についての記録が書かれており、元和2年(1616)前田利家の五男利孝が入封し藩祖となりますが、初代利孝の初代家老職四名と書かれ、齋藤権兵衛、藤井作右衛門、伊坂荘兵衛、大里半右衛門 が記されていますが、二代利意の時より、保坂庄兵衛、保坂茂左衛門、野尻彦右衛門(のち内藤)、鳥居金平の四名となり、これ以後の家老職は同じ家から出ている。と書かれています。
 
郷土史家 今井幹夫氏も同じ内容を用いて七日市藩の説明をしています。
 
ですが、初代の伊坂荘兵衛と伊早坂の間に関係があるのかどうかは分かりませんし、貫前神社との関係も分からなくなっています。
 
ただ、前述しましたように貫前神社の旧名である抜鉾神社の神を祀る祠が生家の庭にあるのは事実で、江戸時代には、祭祀が行われていたことが群馬県古文書目録の記録に見えます。
 
上野国甘楽郡一ノ宮周辺の歴史を見てみますと、
古い時代、信濃・上野・下野・常陸あたりには出雲神族・物部族・渡来族が多く移り住み中臣氏・藤原氏などの氏族も栄えていました。
 
たとえば上野国物部氏の分布を見てみますと、
物部君万呂 木簡学会『木簡研究』4-14頁-3(10)(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』15-24上(136))
上野国甘楽郡 物部蜷淵 続日本紀天平神護元年十一月戊午
上野国甘楽郡 磯部牛麻呂等四人…賜姓物部公 続日本紀天平神護二年五月甲戌
上野国群馬郡下賛郷 物部君午足、蹄刀自、乙蹄刀自 金井沢碑(神亀三年二月高田里知識碑)
上野国緑野郡小野郷 物部鳥麻呂 奈良国立文化財研究所『平城宮木簡』2-2781(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』3-10下(185))
と記録があり上野国甘楽郡一帯は渡来系氏族、物部姓磯部氏族、物部姓石上氏族の多い地域でした。
 
一ノ宮貫前神社には、俵藤太が平将門を討伐する際、手植えをしたと伝わる神木が残されています。

【貫前神社御由緒】社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
 奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。
 醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。旧社格は国幣中社。と書かれ
 
【鷺宮・咲前神社御由緒】(さぎのみや・さきさきじんじゃ)社伝には、当鎮座地は神代、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地であると伝わる。
 安閑天皇元年(534)6月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神「健経津主命」をお祀りし、社を建てられた。
 それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。敏達天皇元年(572)、第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。
 白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘綾女谷(一ノ宮の古称)に御遷座する。
 供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田(宇多)で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。
 磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。この時改めて香取神宮より経津主大神を勧請し大己貴命(おおなむちのみこと)、保食命(うけもちのみこと)が祀られた。以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る。
 平安朝後期に成立したと思われる『上野国神名帳』には、「碓氷郡 従五位上咲前明神」と記され、ご分霊として「片岡郡従五位上咲前明神」が見える。
 室町期には、応永8年(1401)1月7日、足利満兼により新田庄平塚郷一町が寄進されている。 とあり、
 
6世紀後半、仏教受容をめぐって新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに古神道を掲げる物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗し敗北、その物部氏の東方移住に伴い咲前神社と貫前神社が創建されたとあります。
 
群馬大学名誉教授 尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと蓬ケ丘には抜鉾神より先に貫前神が祀られており、その後、同地綾女谷に鷺宮から遷宮をされた抜鉾神が北向きに祀られ、後に二社二神を祀る貫前神社となるとあります。
 
明治以降、貫前神社は御祭神を「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)の二社二神としています。
 
神社名も平安期は貫前神社、それ以降江戸末期までは抜鉾神社、明治に入り貫前神社とされてきています。
 
鷺宮・咲前神社と一ノ宮貫前神社は4Km程しか離れていなく、物部姓磯部氏が抜鉾大神をお祀りし、後に近江・宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男、佐々木三郎盛綱(加地盛綱)が磯部・鷺宮に居城を定め、子孫は、磯部佐々木氏・加地佐々木氏・小崎(尾崎)佐々木氏を名乗り、祭司にあたるとあり、その家紋は三ツ目結・四ツ目結。

石部(磯部)氏は、天智天皇が近江に遷都する際、その世話をした功績で「沙々貴・ささき」の姓を賜ったと「沙々貴神社」の社伝は伝えている。これが後に宇多源氏佐々木氏を名乗ることになると、家紋は、ともに「三つ目結」「四つ目結」。
 佐々木盛綱の子孫は富岡市高瀬(一ノ宮大字高瀬)に代々住んでいます。
 
貫前神社宮司家の子孫、尾崎忠男家文書を見ますと、
貫前神社の主な神官の変遷について、江戸初期は正神官に磯部物部姓尾崎氏、権神主に小幡姓一宮氏、その下に社家があります。元禄4年以降の朱印地の時代、大宮司に一宮氏、大社家に尾崎氏。明治に入り大宮司に一宮氏、神主に尾崎氏その下に禰宜・杜家が多数おります。
 
また、新田義貞の二男、新田義興の母は抜鉾神社神主の天野時宣(禰宜時宣)の娘、義興は二男でありながら身分低き者の子として嫡流とされず、三男の義宗が嫡子として扱われ、義興は新田の歴史から消され、子孫については不明とあります。
 
尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと、和名抄には貫前郷、抜鉾郷、酒甘郷、丹生郷、那非郷、湍上郷、宗伎郷、有旦郷、那射郷、額部郷、新屋郷、小野郷の12郷が記載されており、一ノ宮の生家は抜鉾郷に位置し、北甘楽郡宮崎邑は貫前郷に位置します。

中世期以降は、抜鉾神社が一宮として崇拝されてきたが、明治に入り、貫前郷の貫前神社と抜鉾郷の抜鉾神社が二社二神の貫前神社として上野一ノ宮貫前神社となったとあります。
 
また、甘楽郡の章には、外来人たちは鏑川の谷口付近の山名から吉井のあたりに住み着いた。吉井を中心としてだんだんに谷の奥へと発展していったが、この上毛野の地の支配者(上毛野氏)は自分は中央にいて、武力のある物部を碓氷川の谷に配し、織物の生産者である渡来人を鏑川の谷に配したが、やがて七世紀のはじめ物部は勢力を拡大して鏑川の谷に進出し、渡来系の人々は、東の方に追いやられ、その後、この地の物部は南の山脈を越えて、神流川の谷に発展した。江戸時代には山中領と云われた地域である。この地に抜鉾神社(貫前神社)を祀った人々が移ってきて定住したものである。
「神流川」と書いて「かんながわ」と読む、「かんな」はもともと「かんら」であったのである。
 江戸時代に山中領といった村落には貫前(抜鉾)神社の分社が諸所に見えている。と書かれています。
 また、神川町の歴史を見ますと、近代、群馬県と隣接する神川町が、埼玉県の管轄下となったのは明治9年のことでした。昭和29年には丹荘村と青柳村が合併して神川村が誕生しました。とあります。
 
中世の貫前神社の周辺を見渡すと、ここを取り囲むように多くの中世城郭が配置され、これらの主な城主・藩主の変遷を見ていくと、丹生城(城主:新田氏、小幡氏)、宮崎城(城主:小幡氏、奥平氏)、宇田城(城主:新田氏、小幡氏)、国峰城(小幡氏)、前田藩(藩主:前田家)、小幡藩(藩主:奥平家、水野家、永井家、織田宗家、奥平松平家)となっています。
 
前田藩・小幡織田藩の両藩には織田信長に敗れ、下臣となった紀姓桓武平氏を名乗る大井氏の後裔、春日部姓伊坂氏もみえ、奥平氏が宇都宮藩主だった頃の紀姓桓武平氏族、井坂氏の名も見えますが、伊早坂との関係は分かりません。私の家系の古い親戚筋に伊坂氏・井坂氏を名乗る方々もおり、祖父の葬儀に参列していたと聞いていますが、その関係も分かりません。

 
伊早坂の全国分布を(2009.5現在)の電子電話帳より検索してみますと、
現在の電話帳に登録されている「伊早坂」は、計60件、その内訳を見ると群馬県富岡市の分布が12で最多となっています。

北海道 9 ( 小樽市 1 函館市 7 北斗市 1 )
埼玉県 7( 草加市 1 秩父市 3 所沢市 1 本庄市 1 児玉郡神川町 1 )
東京都 5( 荒川区 1 江戸川区 1 江東区 1 世田谷区 1 調布市 1)
愛知県 1( 北設楽郡東栄町 1 )
滋賀県 1( 大津市 1 )
大阪府 2( 寝屋川市 1 守口市 1 )
奈良県 1( 香芝市 1 )
茨城県 8 ( 稲敷市 1 つくば市 2 牛久市 1 ひたちなか市 1 水戸市 3 )
群馬県 18 ( 太田市 1 勢多郡富士見村 1 高崎市 2 富岡市 12 佐波郡玉村町 1 )
長野県 6 ( 岡谷市 1 南佐久郡佐久穂町 1 佐久市 3 )

また、類似の姓氏として以下の分布を見てみますと
伊早阪 1名 群馬県富岡市
伊佐坂 6名 熊本県中心
井早 16名 三重県中心
伊坂 397名 東京・埼玉・千葉・茨城・神奈川・三重・兵庫中心、全国に分布
井坂 2,220名 茨城中心
井阪 374名 大阪府中心
早坂   6,771名 宮城・秋田県中心
早阪 12名 京都・大阪府中心

手始めに同姓の方々に30通程の手紙を差し上げ、7家の伊早坂氏と連絡がとれました。

1.前橋市の伊早坂(イハヤサカ)氏
ご実家は、富岡市富岡、ご本家は、富岡市大字宮崎、家紋は「丸に花菱」
富岡市宮崎の伊早坂家には、富岡市一ノ宮の伊早坂とは流れが異なり、
宮崎の伊早坂の方がより歴史が古く、発祥は常陸国新治郡、藤原系伊達氏族、伊坂から伊早坂に変化したものであるとの伝承が伝わると、また、発音の難しさを嫌い、別姓とされたご親族もあるとのこと。

2.東京都江東区の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
 
3.東京都調布市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
ご親族の中には「イハヤサカ」ではなく「イソサカ」と発音される方々も多くおられるとのこと。
 
4.埼玉県八潮市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、茨城県牛久市、ご本家は富岡市一ノ宮、家紋は、「丸に違い鷹羽」50年ほど前に一ノ宮から牛久に移られたのこと。また、戦後には、一ノ宮から北海道に移住されたご親戚もあるとのこと。
 
5.茨城県ひたちなか市の伊早坂(イハヤサカ)様より
ご実家は、長野県佐久市、ご本家は代々、佐久の庄屋、使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」、 戦国時代は上杉氏に属し、川中島の合戦では戦功のあったことが記録されているとのこと。茨城県に分布する伊早坂の殆どは、ご親戚とのこと。
 また、昔は佐久・諏訪には多くの伊早坂姓が存在していたが発音の難しさを嫌い、別姓に変えた家が多いと、親族にも改姓が多いと伺いました。
 
6.長野県佐久市佐久穂町の伊早坂(イハヤサカ)様より
詳しいことは何もわからないし、墓所の紋についても覚えていないとのこと。
 
7.大阪市寝屋川市の伊早坂(イソサカ)様より
ご実家は、北海道函館市、ご本家筋は、富岡市一ノ宮と聞いている、函館の伊早坂は、ほとんどはこちらのご親戚とのこと。
 家紋については、確認したことがないので不明。愛知県の伊早坂(イソサカ)さんもご親戚であるとのこと。親戚の中には伊早坂(イサカ)と読む方もいるとのこと。
 
8.当家の墓所に埋葬されており、生家の回りにある伊早坂家4家の使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」。なぜ本家筋だけ「丸に隅立て四ツ目」なのかと聞かれて困っています。
 現在、親戚付き合いはありませんが、明治の初めに当家から分かれた伊早坂の一家だと聞いています。
 
このように明確な資料の残された家もなく、家紋も異なりますが、富岡市在住の伊早坂の使用家紋は、すべて生家に伝わっています。しかし、これが何を意味するものなのか、知るすべもありません。
 
10年ほど以前、父が税理士をしていた関係で面識のありました方で、神社を研究している国税庁の税務官は、公務員は副業で、本業は古神道・神社の研究と豪語し、「伊早坂」についてお尋ねしてみましたところ、しばらくして、「出雲系の神を奉る神官の末裔であろう」と、「イハヤサカ」を古神道にあてはめると、「イハ」は「伊波」につうじ、「イハヤ」は「伊波夜・磐屋」につうじる。また「ヤサカ」は「八坂・弥栄」につうじ、「サカ」は「咲・作・佐久・崎・前」とも書き「ヨミノヒラサカ・イフヤサカ」にもつうじ、いずれも神を奉る者であろう。と。
 また、「イソサカ・イサカ」と読めば「五十坂・磯坂・石上・伊勢・石坂」とも書き「五十」は「イソ・イ・イハヤ」と発音し、海洋民族石族の末裔ではないか。
と云われ驚いたことがあります。
 
「伊早坂」の苗字はどこから発生したのか知りたく、各伊早坂氏使用の家紋を添えて日本家紋研究会に照会したところ、「伊早坂氏は、我が国では希少名字の部類に入り、富岡市に集中している。ルーツを調査するにも歴史上の文書がなく、近隣諸藩の家臣にも存在しない。土着の土豪または神官であるかも。ただ提出された他家の家紋を見るとその殆どが清和源氏族に関係深い家紋であるので、新田氏に関係があるのかもしれない。」との回答をいただきました。
 
さらに、古代姓氏の研究家、新免幸男氏に紹介しましたところ、東京大学史料編纂データベース検索では、「地名・人名・由来」は発見できず。国立国会図書館デジタルライブラリーでも「由来」は発見できず。ただ、「巖屋坂(イハヤサカ)・磯坂(イソサカ)」の地名は見える。

『古代に文字はなかったが「いはやさか」「いそさか」「いささか」と発音すると「石・巖」は「いし・いさ・いそ・いはや」とも読めるので、現在の漢字にすると伊早坂・伊早阪・五十坂・磯坂・伊佐坂・石作・石坂」と表せる。
「イサカ」と発音すれば「伊香・伊我・伊賀・石上・石河・五十川・石代・沙田・伊波田」とも表せる。
「イソカ」とすれば「石上・石川・石田五十河・石代・大春日」などとなる。
「イハヤサカ・イソサカ・イサカ」は古代姓に相違ない。との回答をいただきました。

「青木氏のルーツ&雑学研究」を拝見し、もしかしたら諏訪族と関係があるかも知れないと思い投稿させていただきました。よろしくお願いいたします


  [No.637] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:伊早坂 正美   投稿日:2009/10/17(Sat) 14:13:22

下記の部分について誤謬がありましたので訂正申し上げます。

【誤】
8.当家の墓所に埋葬されており、生家の回りにある伊早坂家4家の使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」。

【正】
8.当家と同一の墓所に埋葬されている、近隣の伊早坂氏4家の使用家紋はすべて「丸に鷹の羽」。  
  なぜ、本家筋のお宅だけが「丸に隅立て四ツ目」なのかと聞かれて困っています。


  [No.638] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/18(Sun) 08:35:56

群馬の伊早坂さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。

大変珍しいお名前ですね。
長年色々とお家のルーツをお調べに成っていられる様ですね。
そのご努力には敬服いたします。

さて、折角、青木サイトにお越し頂きましたので、そのご努力に何もお応えする事が出来ないのも残念です。はっきりと申し上げまして全く判りません。
ただ、長年青木氏に付いて研究してきました事から、その歴史的な史実とかで参考になることがあるかも知れません。
そこで、提供されました情報から幾つか感じるところがありますので、それを参考になればと思い書き記します。

ルーツを調べる時に必要とする事は次ぎの事ではないかと思います。
先ず、「時系列」、つまり、時代性を揃える事、
次ぎに、「地域性又は地理性」をまとめる事、
3番目には、「人又は氏系列」を仕分けする事、
この3つが出来れば、次ぎの事を把握する事です。
これ等に伴なった「歴史的な史実」を集める事、
時代に応じた当時の「社会習慣」を把握する事、
この2つ知識が情報を正しく判断させてくれます。

特に、室町末期から明治初期に掛けての各種にある系譜や伝説や口伝には搾取偏纂や間違いが多いので2つの知識がその正否の判別をしてくれます。
ここが重要だと考えます。
この2つの知識の把握は当然に信頼できる学術的歴史書籍を読みあさり深く広くする事以外にありません。幾ら多くの史料を求めてもこの2つの知識が無ければ違った答えを出してしまいます。
青木氏を調べた2つの知識から観ても、伊早坂さんが提供された中にも、史料そのものに幾つかの間違いが見当たります。これでは正しい答えは見つかりません。

家紋、宗派、菩提寺、氏姓、地理、などには奈良時代からの時代ごとの「氏家制度」の習慣があります。しかし、兎角、人は現代感覚で見てしまう癖を持っています。それを防ぐ事が必要です。

そこで本題に入ります。
お尋ねは信濃の諏訪族との関わりのことですが、この事に付いて「時代性の問題」から入ります。
先ず、奈良時代孝徳天皇の前後に2次に渡り後漢の21代献帝の子供「石秋王」の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が後漢滅亡後に17県民(200万人)の技能集団を引き連れて北九州に上陸しました。この一団は瞬く間に九州全土を無戦の状態で制圧しました。これは彼等の進んだ技能を日本人に伝え生活程度が向上させたので進んで民は配下に入りました。
その後、中国地方から関西の手前まで征圧しました。
当時は66国中32国を征圧しました。
この時、集団の首魁の阿多倍王は大隈地方に定住していました。そこで朝廷と和解し帰化をします。
どんどんと彼等の集団は入国してきます。
朝廷は、この技能集団の国内の貢献で第1次産業は著しく発展させので(現在の第1次産業は彼等の持ち込んだ生産技能です)、薩摩大隈地方を半国割譲し阿多倍王に与えます。
更に、朝廷は伊勢国の北部伊賀地方を割譲して阿多倍王を呼び寄せます。
そして、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶ります。阿多倍は王は准大臣に任じられます。
そして、3男を産み長男は朝廷軍の征夷大将軍の坂上氏を賜姓されます。次男は朝廷の政治機構の3蔵の一つ大蔵を担当し大蔵氏を賜姓を受けます。三男は内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受けます。(斎蔵は中臣氏:藤原氏)
朝廷の官僚機構の6割は彼等の政治集団です。日本書紀は大半は彼等の仕事でした。天武天皇は一般から優秀な者を採用して彼等の指導を受けさせたほどです。この事は日本書紀に書かれています。
桓武天皇は律令国家を完成させた天皇ですが、殆どは彼等の進んだ政治知識による貢献です。
安倍氏、阿倍氏は阿多倍王のその分家支流末裔です。
彼等の民は「・・部」と着いた氏ですが全て彼等の民の末裔です。
陶氏(陶部)、秦氏(秦部)、司馬氏(司馬部)等 室町期の中国地方を全征圧していた陶氏はこの末裔です。瀬戸内海の村上水軍(平氏)等もこの陶氏の末裔です。
その後、阿多倍王の孫娘と光仁天皇の間に生まれた桓武天皇はこの一族を引き上げます。
そして、この一族に「たいら族」(桓武平氏)を賜姓します。
それまでは、賜姓は天智天皇から光仁天皇まで5代の第6位皇子が臣下して青木氏を賜姓して各地の天領地の守護王と成りました。これが5家5流青木氏の発祥です。
しかし、これを桓武天皇は中止しは母方を引き上げたのです。最後は太政大臣の5代目「平清盛」です。

さて、諏訪族は天智天皇の時、蘇我氏の専横で軍事政治経済ともに弱体していましたので大化改新の一つとして未開地であった信濃、甲斐、上野の山間部を開墾する為に、これらの後漢の渡来人の帰化人をこれ等の地に廻して、その専門的な技能で開墾をさせました。
ところが瞬く間に開墾が進み朝廷は経済的に潤いました。この開墾地の守護王として第6位皇子の賜姓青木氏を廻したのです。日本書紀にその貢献から都に呼び寄せて褒美を与えた事が書かれています。
この時、信濃や甲斐には外来大馬の「馬部」を廻して開墾をしたのです。
この子孫が信濃の諏訪族です。
この諏訪族と信濃守護王の青木氏とが血縁して諏訪族青木氏が発祥したのです。
この山間部の諏訪族は海産物を尾張や遠江や駿河から入手したのです。
この海産物の加工していた技能集団が「磯部」の磯部氏です。
海産物の加工技能の磯部氏が信濃、甲斐、上野に運搬して売さばいたのです。
これ等の地にも末裔を置いて商いをしたのです。

(「・・部」は平安時代の経済システムで「部制度」と呼ばれ、全ての第1次産業の物品を加工する職人集団を朝廷に所属させ、彼等を「海部」「服部」「物部」等と呼びます。
生産したものは一度朝廷に納めてそれから市場に払い下げるシステムです。「物部」は第1次に入国した軍事を担当する部(べ)です。この事柄について青木サイトに詳しくレポートしています。その後彼等の技能集団はその「部」を氏姓としました)
そこで、この磯部氏の末裔は馬部達の諏訪族に混じって信濃、甲斐、上野にも分布するのです。
奈良時代から平安初期までは、お家は上野の民であったとすると、原住民か或いは後漢の渡来人の末裔と言う事が考えられます。磯部氏であったかは史料が有りませんので奈良時代のものは確認出来ません。
諏訪族青木一門は後に信長に滅ぼされて藤原秀郷一門の青木氏を便りに保護されて神奈川から更に栃木まで逃げ延びました。その後、少ないですが福島域までの北に向かって末裔は広がります。
この諏訪族が諏訪氏と皇族賜姓族の青木氏と武田氏以外に名乗っていることは有りません。
宗派も異なっていますので諏訪族一門では有りません。

平安中期からは、この地は「平将門の乱」を平定した藤原秀郷が武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする範囲を領し下野、上野にはこの一門主要24氏が多く分布しました。
この藤原秀郷一門には詳細が判っていますがお家のご先祖であるかは史料から確認出来ません。
しかし、恐らくはその藤原氏の特長から高い確率で違うと思われます
この地域には、この時期には「桓武平氏」が1185年まで末裔は定住していました。
しかし、この「桓武平氏」は最終は西国に一門が移動していますのでこの末裔の可能性は無いと思います。
また、この地域には天智天皇の大化の改革により皇族第7世族が平安期まで代々の天皇が代わる度に発祥しこの地域に配置されました。これが「坂東八平氏」(ひら族)です。この平氏の末裔の可能性が否定できません。しかし、史料は当然有りませんが八平氏の内容から低いと見られます。
平安末期にはこの地域に藤原一門24氏の末裔が大勢力を伸ばして定住しています。しかし、この一族24氏が拡大して351氏に成っていますが、この一族には氏の特別な判別方法を持ち採用して居る為に一族である事か判る様に成っています。伊早坂氏はその判別方法に適合しません。
鎌倉期から室町期には下克上、戦国時代となり氏を確定する事は困難なのですが、坂東八平氏か源氏3氏末裔かは家紋でも判別できますので適合しないと見られます。

室町末期から江戸初期まではこの地域に氏滅亡で移動して来た氏としては、武田氏の一門の武田氏系青木氏や武田氏系諏訪族青木氏や諏訪族青木氏が逃亡して来ています。しかし家紋から見た場合もこの末裔では有りません。
(鎌倉期からは家紋でも氏判別できます。平安期は家紋は未だ一部の氏しか使用していないので判断できます。)
次ぎに確かに、武田氏滅亡で江戸初期にこの末裔の花菱紋が武蔵鉢形に一族強制移動してきていますが、丸付き紋にはある種の問題がありまして、江戸中期以降にはこの地域に分布している可能性があります。
しかし、花菱紋の丸付き紋一族(特に青木氏)は本多氏(信濃)に仕えましたのでこの地域に分布の可能性があります。(花菱紋は徳川氏の旗本と成る。)しかし、それが青木氏から伊早坂氏に氏名を変えた経緯が全くありません。ただ宗派の曹洞宗は一致しています。

よく間違われている事として、国の自由移動が出来るとして書いた本などが見当たりますし、また現代感覚として間違えやすい事です。
しかし、元々は奈良時代から平安時代にかけては原則特別な国換え以外には民の移動は禁止です。
民は国に所属するものとして初期江戸初期以降は特別な場合を除いて国を自由に移動する事は厳しく取り締まりました。「国抜け」は一族打ち首の重罪です。

これ等時代性、由来、宗派の資料から観ると幾つかの氏末裔と観られますが、伊早坂氏は上野の土着民か土豪であった可能性が専門的立場から観て高いと見られます。
そこで、更に家紋から観てみますと(室町期には氏家制度の中で「家紋」が成育してその氏の由来を表すことが出来るシステムが構築されていた)、目結紋の内の「隅立て4つ目結紋」に丸付き紋ですので、旗本「矢島氏」の家紋です。丸付きですのでその支流とも見られます。
そこで佐々木氏等と書かれていましたが、目結紋は81の文様がありますので、佐々木氏の目結紋の家紋では本来は有りません。
そもそも、佐々木氏に付いては投稿内容に多く間違いがありますので、念のために、多くの資料でも間違いを起こしていますが、近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が特別に天智天皇から賜姓を受けて土地の地名から佐々木氏を名乗った氏です。これが近江佐々木氏です。この事は日本世記や日本書紀や他の史料にも、また、5人の歴史家小説家の本にも書かれています。(他にもありました)
正式には皇族賜姓近江佐々木氏と呼びますが、青木氏と同じく家紋はもとより天智天皇より氏名、ステイタス仏像、氏木、賜物の5つのものを与えられています。
奈良時代(647年伊勢青木氏と5家5流)から皇族賜姓青木氏と同じく皇族賜姓源氏族は笹竜胆紋と成っています。鎌倉期前は家紋は皇族一門と大豪族だけが使える象徴紋として許されていましたので、現代感覚で観たものでは有りません(家紋経緯から故に新しい目結紋の佐々木氏は未勘氏と成るのです)
ずっと後の宇多天皇の賜姓佐々木氏は近江とされていますが、近江と滋賀は当時一体として観られていた事から近江佐々木氏と成っているのですが、本当は滋賀佐々木氏が正しいのです。
当時の氏家制度の習慣から皇族方末裔は同地域に同姓で定住する事は有りません。宇多天皇の佐々木氏は滋賀佐々木氏です。
近江佐々木氏と伊勢青木氏を始めとする5家5流の青木氏とは長い間同族として親族付き合いがあった事が記録されています。1185年の以仁王の乱の時はともに平氏と戦いをしました。
賜姓近江佐々木氏や賜姓青木氏には神官職が多いのもこのことから来ています。

宇多源氏、近江源氏が目結紋であるとするのは「未勘氏」です。近江賜姓佐々木氏は異なります。
そもそも宇多源氏の目結紋も家紋の時代性と家紋経緯からが明らかに異なります。
源氏は天智天皇の第6位皇子の伊勢王の青木氏を始めとして5家5流と同族の皇族賜姓族であり、その家紋は奈良時代からの特別象徴紋として天智天皇から使用を許された伊勢青木氏をはじめとする笹竜胆紋です。
(未勘氏とは源氏と勝手に名乗る氏で根拠の確認が取れない氏の事、豪族は家柄身分を良く見せるために源氏と名乗りましたが全てと云って良いほど搾取偏纂の未勘氏です。源氏は花山天皇まで11代続きました。青木氏とあわせて16代の第6位皇子の末裔です。しかし、源氏は最終3氏が遺しこの3氏も信長に完全滅亡させられてしまいました。最終3氏ともに信長の時代に滅ぼされて完全滅亡しています。
未勘氏が出るほどに彼等の皇族系はそんなに子孫を多く遺すほどに婚姻を広くしていません。また、そのその様な婚姻関係の慣習があり、氏家制度の中では皇族系は特に純血を守る為に同族血縁が主体でそんなに子孫を多く伸ばせるほどに血縁が出来なかったのです。
これは氏家制度の社会慣習を考慮していないもので、氏家制度ではこれ等の皇族系の氏は純血を守る為に血縁は全て皇族系との同族血縁が平安から江戸初期まで主でした。
この様に室町末期から起こった未勘氏である事を見分けるには家紋と宗派と地理と菩提寺で完全に判別できるのです。搾取偏纂しても社会慣習から偏纂出来ない事があるのです。

桓武天皇は第7世族の「ひら族」に習って「たいら族」を賜姓しましたが、子供の嵯峨天皇は天智天皇から始めた賜姓は皇族第6位皇子に戻して、それまでの賜姓青木氏から賜姓源氏と変名したのです。そして、青木氏は皇族の者が下族する際に名乗る氏名として他の者が名乗る事を嵯峨期の詔で禁止したのです。原則明治まで守られました。

さて、よって隅立て4つ目結紋に更に丸付き紋ですから、全く佐々木氏では有りません。
江戸初期の頃の矢島氏が使用した家紋ですが、家紋から観ると丸付き紋ですのでその分家か支流か、第3氏かです。つまり、矢島氏との何らかの関係を持つ氏でその分家と成ります。
矢島氏は江戸初期の旗本です。ただ、家紋から観たこの矢島氏と伊早坂氏との関係はわかりませんが先ず専門的に観て無いと考えます。

次ぎは宗派から見た検証です。
曹洞宗ですので、先ずは土豪か土着民であったことが覗えます。それ以上の氏では無いと観られます。
氏家制度の中では当時の宗派に依ってその氏の家柄身分などが判別できるのです。
江戸初期前までは氏家制度の慣習の中での宗派でしたので、厳しい宗教的慣習で縛られていました。
曹洞宗の宗派の特長から足軽などの下級武士や土豪、土着民の範囲です。
この様に氏の判別は江戸中期前での学術的史料で正しく少なくとも江戸初期の状況からの検証を必要とします。

恐らくは、古くは磯部氏か馬部氏かの後漢渡来人であって、平安期では上野の土着民であったと考えられます、室町期の戦国時代では立身出世して武士となり、土地の土豪と成り、江戸初期では一般武士としての家紋を持った事を意味します。
家紋、宗派、地理性、由来から判断してこの域を超える事は氏家制度慣習からは考え難いと観られます。
提供された情報の中でお調べに成った氏の各専門家の答えとほぼ一致します。
提供された調査結果からは正確にはお応えしていないようですね。
忌憚無く申し上げますと、第3氏か江戸初期前では土豪武士である事を意味しているところは一致します。
家紋から、特に丸に隅立て4つ目結紋と鷹の羽紋も一族の中にある事を考えますと、時代性では江戸初期前の両者ともに比較的新しいものですので、この家紋を使用した菊池氏、浅野氏から観ると、これ以前に家紋を持たない者と成ります。上記の検証となると思います。
丸に花菱紋に付いては花菱紋の経緯から疑問が大きい事なのです。花菱紋には特別な経緯があり青木氏以外には考え難いのです。それを副紋的に使用されているとなると、むしろ逆に第3氏の可能性を強くします。まして丸付き紋ですので確率は低く成ります。

中国地方に分布する丸に鷹の羽紋が関東にある事では、藤原秀郷一門の主要5氏との関係からしか有りませんので、この家紋を使用している事から観て、これも第3氏か未勘氏である事も考えられます。
この第3氏か未勘氏はそれなりの由来性を色々と創り上げて家柄を良く見せたことがブームとして3期の混乱期に起こりました。(室町末期、江戸初期、明治初期の3期です)
その時期は家紋から観て江戸初期と成ります。ただお家は限定した地域で且つ極めて小さい氏としますと、以上の他の専門家のお応えと同じく旧来より土豪か土着民を超えることは考え難いのではと考察します。よってルーツを採ることは出来ない事が大変に難しい事に成ります。
と云いますのは、当時は戸籍簿は特定の身分(中級武士以上)の氏の菩提寺が受け持つシステムでした。氏家制度では一部を除く土豪、土着民は戸籍簿が有りませんのでルーツを採ることは物理的に出来ません。個人に近い氏の史料が遺されていない事を意味します。
(江戸初期以降は庄屋、名主、豪農、豪商、郷士、郷氏等は苗字帯刀家紋を持つ事を許された)

第2信でのお尋ねですが、家紋が変わる理由として、氏家制度には「家紋掟」と云うものがありましてこれに従っていました。
先ず家紋が変化する理由として、男系跡目が出来ずに跡目養子か婿養子をとり、その養子にも男系が恵まれず、2代続きと成りましたので女系と成り養子先の家紋を使うことに成ります。
もし、養子に男系嫡子が出来れば家紋は元に戻す事が出来ます。
この時は養子はとりあえず養子先の家紋を使うことに成りますが、嫡子が出来なければ養子先の家紋のままで変紋する事に成ります。養子に嫡子が出来ればその子供は元の家紋を使うことになり戻る事に成ります。
他の四家が丸に鷹の羽紋を使われているとすると、先ずお家が変紋したことを意味するか、分家が男系跡目が出来ずに家紋掟により丸に鷹の羽紋に成った事を意味します。四家ともと云うのはありえないことですね。
もし、この分家は氏家制度では正妻子で分家が出来て同家紋を引き継ぐ事が宗家本家の許可を得て成立します。妾子では原則引き継げません。ただし正妻子が無く妾子を嫡子とした場合はこれを許可される仕組みです。分家と見られる丸に鷹の羽紋と成りますので、この何れかの分家と成ります。
もとより、ご本家が丸に隅立て4つ目結紋と成りますと、本来は縁者遠縁から養子婿を取り何とかして家紋を護るのが氏家制度の本家の掟です。そこをルーズにしたのか、護ったのか、女系となり変紋したのかは提供されている情報ではわかりません。
兎も角も、家紋掟の仕来りはありますが本来の分家と家紋が違う事が大きな疑問です。
とすると、第3氏か未勘氏である事を意味します。
鷹の羽紋は北九州から中国地方、関西以西に多く分布する事から観て、上野で何時から鷹の羽紋に成ったのかも問題です。(江戸では移動は禁止です。許可制です。)
更に問題は目結紋の丸付き紋です。主に丸付き紋は分家支流が本家に遠慮して丸付き紋とする、妾子であるので丸付き紋にした、未勘氏、第3氏が遠慮して丸付き紋にしたなどが考えられます。
この2つの家紋は江戸初期前後の事ですので、矢島氏か菊池氏か浅野氏の家紋時期と共に一致します。
どの様に矢島氏と菊池、浅野氏と繋がっているかは家紋、地理、由来等からは判別が困難です。
ところで、鷹の羽紋ですが、百以上もありますが、一つ羽根ですか、二つ羽根紋ですか。
この百以上の家紋のどれかによりルーツも大まかに判別できます。
「丸に一つ鷹の羽」ですか。ご確認ください。
最初の投稿には丸に違い鷹の羽紋とされていますがどちらですか。
第1信では「丸に違い鷹の羽」と書かれていますがこちらであれば又話も少しは変わることを意味します。

参考に伊早坂の氏名ですが、日本の国民が氏名をつけた専門的な知識がありますが、それから観ると地名タイプと観られ「早坂」の地名に対して「伊」に関係する物を附帯した最も多いタイプ方式に拠ります。
伊勢、伊達、伊豆、伊藤、伊東などの地名等を加えて室町期に氏名とした事も充分に考えられます。
この点からも調べられる事もお勧めします。伊と矢島氏、菊地氏、浅野氏との繋がりも見逃せません。
ただ室町期からの発祥にしては氏の拡大は余りにも地域限定しすぎている事が専門的に考えられます。

以上、青木氏を調べた経験からその情報判断の如何を参考にお答えとしました。
先ずは、2つの知識の習得から進められる事をお勧めします。
「氏家制度」の中での知識として、家紋、宗派、地理性、経緯(由来)等を判断史料として取り入れなければ、史料だけを集めるだけでは(史料を判別する能力を持たなければ)、エラーポケットに入り決して正しい答えは絶対に出ません。敢えて、アドバイスします。

参考として、早坂は福島を中心にして岩手、宮城、山形に多い地名であり氏名も多くあります。
群馬のお家は、この福島の早坂村から戦国時代に立身出世を夢見て戦乱で上野に移動して岩代の伊達から来たので、伊達の早坂として「伊早坂」と氏名をつけたとも考えられます。
立身出世した当時の者は地名からこの様な氏名をよくつける事をしました。
特に、8000ほどある氏名の内殆どは明治期の苗字令によるもので、その時の氏名の付け方はこの方式が多いのです。また周囲地域の豪族の氏名を使うなどの第3氏性が多いのです。

では、お答えに関しての不明点や何かのご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。


  [No.640] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
     投稿者:   投稿日:2009/10/18(Sun) 15:54:41

管理人様

懇切丁寧な解説とご指摘に感謝申し上げます。
誠に有り難うございました。

なお、鷹の羽紋につきましては第1信の「丸に違い鷹の羽」が正しく、第2信の書き込みは再度の誤謬につき謹んで訂正申し上げます。

伊早坂という希少姓の起こりを知りたくて投稿させていただいた訳でありますが、源平藤橘の中世の四大姓に結びつけようなどとは考えてもおりません。

四大氏姓を称する氏族のほとんどが仮冒で、本来は土着の古族であることも承知しております、また佐々木氏姓についても本来の沙沙貴山氏とその流れが複雑で判然としないなことも存じています。

本来、四目結紋は九条家の有紋冠の文様であり、四目結紋九条家の家礼であった定綱以来の佐々木氏が、四つ目結紋の冠を被って朝廷に出仕していたことも存じています。
現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは、、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたからといわれています。
六角氏が隅立て四つ目結紋、有力庶子家の京極氏は平四つ目結紋を使用していたのですが、四つ目結紋は隅立てが正しいことも分かっています。

伊早坂は、もともと、土着の古族であろうことは予測しておりましたが、藤原系と称する家や日本家紋研究会「家紋でわかるあなたの先祖」群馬県(高崎・富岡・藤岡)地域の冊子に「伊早坂、丸に平四ツ目、清和源氏族」と掲載されていることも知っていましたが、それについて疑問を抱いておりました。
むしろ土着の古族とされたことで、落ち着いた気持ちになれます。
それと、「伊早坂」と「伊坂」「早坂」との間に関連性があるのかどうかも長い間疑問に思っていましたが、今となっては知るすべもないことも分かりました。

色々と有り難うございました。
これからも賜姓青木氏のご繁栄をお祈り申し上げます。