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  [No.755] 三つ鍬形紋のやすさん
     投稿者:やすさん   投稿日:2010/10/11(Mon) 08:51:01

家紋掲示板より代理投稿

 

三つ鍬形   やす   2010年10月10日(日) 17:56    メール 修正
私の家紋 三つ鍬形ですが、
こちら和歌山には少ないと聞かされ、
京都の侍の家紋だと、亡祖母が言っていたが、
赤穂浪士の一人に仕えていたとか。
ルーツの探し方など、何かヒントがあれば、教えて下さい。


和歌山のやすさん 今日は。始めまして。

青木さんかどうか判りませんが、ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、鍬形紋ですか。大変珍しいですね。
鍬形紋には12の文様があります。
そのうち三つ鍬形紋は4つあります。
1つは尻合わせ紋
2つは変り尻合わせ紋
3つは三つ組み合わせ紋
4っは三つ違い鍬紋
です。
普通は1の文様です。
そこで、お家のご家紋はこの内の1と観てお答えします。

この家紋の経緯は、家康が信長、秀吉と膝を合わせて談合している夢を見たとするところから、家康が「変え紋」として、鍬は農民の主道具であるところから三つの鍬を組み合わせた文様を考え使用したもので、家康の次男の紀州徳川の初代藩主頼宣がこれを引き継ぎ、紀州家の「変え紋」としたのが始まりで、家臣がこの変え紋を拝領して使用したとされるものです。
主に家臣などに与える紋として使用されます。
(一部三河松平氏も使用した経緯がある)
(主紋や副紋に対して「変え紋」と呼ばれる−臣下からは下賜紋 拝領紋と呼ぶ)

むしろ、和歌山発の家紋なのです。この家紋を貰った家臣は一部を変更して12の家紋に成ったものなのです。
従って、下賜紋なので和歌山にも少ないですが、その後、関西地方と中国地方に分布しました。
紀州徳川氏になる前の藩主は紀州と難波の和泉地方を領地とする浅野氏でありました。徳川氏に成った後この浅野氏であった家臣の土豪は紀州徳川氏に仕官しました。その浅野氏の一部も和泉地域を与えられて残りました。(浅野氏の城跡がある)
この時に三つ鍬形紋の家紋を拝領した一族が発祥したのです。
お家はこの紋を大事にしお家の前の家紋に変えて主紋としたものです。
その後、残った紀州徳川氏の家臣団と成った紀州の浅野氏一族は、浅野事件等もあり取り潰しに成り整理されて、多くは安芸の浅野氏に移動しました。安芸に分布する三つ鍬紋はこの時に移動した一族の氏です。
他に、近江、滋賀、付近にもは役目柄で赴任していた家臣もあり、それが紀州国、和泉国、滋賀国付近に分布する様に成ったものです。

つまり、お家が住まいする紀州がその発祥地なのです。

さて、そこで、お家のルーツはこの経緯からその本拠地は大阪の和泉市から和歌山市付近に分布しています。恐らくは徳川氏の家臣と成った浅野氏の家臣であったと観られ、この家紋の使用を紀州徳川氏から許されたところを観ると浅野氏の遠縁かその家臣の重臣の一族と観られます。
浅野氏は、違い鷹の羽紋が主紋ですが、お家のルーツは次の要領でお調べになる事が必要です。

紀州徳川氏が使用する「変え紋」を許可された家紋であるところから観ると、限られた少ない家紋であることは間違いないと思いますので、調査も限定されますね。
この様な家紋は、家臣が特別な功労を挙げた者に使用を許す家紋なのです。

例えば豊臣氏では、天皇家の式紋「桐紋」(五三の桐)を秀吉に許し、秀吉はその家紋の一部を変更して豊臣家の家紋(五七の桐)としました。後にこの五三の桐紋を黒田藩などの有力大名に使用を許可し、それを貰った大名はその又家臣に、更にその家臣は庶民の功のあった者に一台限りで使用を許すというような事が起こりました。これに習って徳川氏や各大名もこの様な「変え紋」の家紋を設えて家臣に使用を許すシステムが確立したのです。紀州徳川氏は桐紋のほかに独自にこの「三つ鍬紋」を与えたのです。
与えられた大名級家臣には田所氏や富氏や浅野氏など紀州藩の5つの大名格の元土地の豪族がありましたが、これらの氏等または家臣に与えました。
恐らく、全国で特に関西と中国地方以東の地域に12の文様しかないこの鍬紋が分布していますところから、紀州徳川氏の家臣に成った元の領主の浅野氏の一族一門か重臣であった可能性があります。

そこで、先ずは本家の調査をされて、その本家の「菩提寺」(氏寺)の調査をします。必ず一族一門が集まってひとつの箇所に祭られている筈です。檀家寺の場合は一番本家に近い人の墓所に成ります。
恐らくは、本家筋や菩提寺が和泉地方にあると思います。
その寺にお家のご先祖の「過去帳」がありますので、それを調べられるとルーツが詳しく出てきますよ。
分家では無理ですよ。

次に宗派の調査ですが、身分に依って宗派は異なりますので、お家の江戸期ごろの宗派ですが、当然、その宗派は菩提寺に繋がる筈です。和泉と和歌山地域内にある筈です。
宗派としては、三つ鍬紋である場合は高野山にも墓所または永代供養寺があると思いますが、浄土宗、真宗、真言宗の何れかと見られます。
真言宗の場合は高野山も考えられます。

もし、菩提寺や檀家寺が判らない場合は明治維新の戸籍簿がご本家の土地の役所にありますので、明治以降と江戸末期直前のルーツは判ります。そこから割り出せばお家の昔の土地柄が出てきます。
土地柄が判れば菩提寺も判ります。

先ずは、お家の宗家に近い江戸期のご本家または宗家をお調べください。
ところで、お家の氏名は何ですか。
この家紋を貰える氏は和歌山では歴史的に限られてきます。和歌山か和泉かも地域判別できますよ。
和歌山では武士であれば、室町期の守護に付き従って和歌山に来た信濃の氏が足利幕府が滅亡してこれ等の氏が和歌山に住み着きましたので氏がはっきりしているのです。
信濃足利氏の家臣団氏名が殆どです。
平安期は藤原氏が守護を務めていたましたので、紀伊守護守の藤原修行の家臣団の氏名とで土豪は構成されています。その上に徳川氏の家臣団となります。
この浅野氏を含む4つの土地に定住した土豪集団が徳川氏の家臣団に組み込まれました。


先ず、簡単にルーツには辿れつけませんので、ご本家の調査が判りましたら又ご指南いたします。

では又お便りをお待ちしています。


  [No.1103] Re:三つ鍬形紋のやすさん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/16(Mon) 11:32:18

本欄は エラーにより代理投稿


またまた歴史に興味がわき、ルーツが気になってきました。
和歌山のやすです。
氏は
浅井 あさい
ついでに名は……
康臣 やすとみ
やすは家康の『康』
とみは豊臣の『臣』


  [No.1104] Re:三つ鍬形紋のやすさん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/17(Tue) 11:19:37

> 本欄は エラーにより代理投稿
>
>
> またまた歴史に興味がわき、ルーツが気になってきました。
> 和歌山のやすです。
> 氏は
> 浅井 あさい
> ついでに名は……
> 康臣 やすとみ
> やすは家康の『康』
> とみは豊臣の『臣』



和歌山の浅井さん 今日は。

お久しぶりですね。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、前回お尋ね頂いた際には、御姓が判りませんでした。
その際に、お家のご家紋が、三つ鍬形紋(くわがた)との事でした。
この時のお答えは、紀州徳川氏の家臣であるとのお答えをしました。
その中で、「浅野氏系の一族」ではないかとのお答えをしました。

実は、和歌山北域には、浅井氏が多いのです。
この系列の多くは、浅野氏系の一族一門に含まれ、その血縁を一部引き継いでいる家系と成っています。
主に、山梨域と「和歌山の北紀域」に多いのです。

さて、この度のお便りの中にお家の「ルーツの所縁」が出ているのです。
実は、歴史マニアの中で「有名な逸話」が遺されているのです。

それは、家紋研究の中でも、”「家康」が夢を見たとして、信長と秀吉と家康が「三つ鍬形の兜」を被って、天下国家を論じた夢を見た”として、この事からこれを”「兜の替紋」”にしたと成っている所縁のある「有名な家紋」なのです。

そこで、「替紋(替家紋)」とは、江戸期初期から使われた「特別な慣習」で、この最初が、「紀州徳川氏」の「頼宣」なのです。
「紀州徳川氏」は「主紋」は「三葵紋」ですが、「替紋」は「兜等の武具」にも用いる「武勇を示す文様」です。
この「替紋」は「副紋扱い」の家紋なのです。
後に、大大名は幕府の徳川氏から許可を貰い「自分の家の替紋」を造り真似る事が起こりました。

そこで、この「替紋」は「誉れある武勇」を示す文様である事から、戦功を挙げた家臣にもこの主君の替紋を使う事を許されたのです。
江戸期には最大の「家の誉れ」であったのです。

そこで、これを「家康」から聞いた「紀州藩の初代頼宣」は、これを「兜の替紋」に指定し、そして、「紀州徳川家の縁続き」の「伊予西条の松平氏」もこの「替家紋」を使う事に成りました。

この「替家紋」(かえかもん)は、同時に「戦功のあった家臣」に「名誉」の為に「主君の家紋」を与える事にも使われましたが、「紀州浅野氏」や「縁続きの浅井氏」のお家とかが許された特別な数少ない「誉れの家紋」なのです。

この様に「替家紋」(鍬形文様)とは「紀州」と「伊予」にしか分布しいませんので大名が戦功のあった者に特別に与える家紋としても用いられたものなのです。

実は、「紀州徳川氏」では、「浅野氏、浅井氏」(昔は”あざい”と呼んでいました。)の家臣が多く仕官されていました。
これには「ある経緯」があって、浅野浅井氏が紀州に分布しているのです。

紀州では,この「誉れ」から、特別に”「浅野浅井氏」(あさのあざいし)”と云う言葉で特別に呼ばれていたそうです。
昔は、”あさい”では無く”あざい”と呼んでいたのです。

現在でも、浅井さんは和歌山に多いのですが、この一族と考えられます。

故に、お家の名がこの家紋の「夢の謂れ」に因んでご先祖の名誉を後世に伝える為にお説の通り”「康臣」”と名づけられた可能性が有ります。
臣は「豊臣」では無く、「兜の経緯」(名誉の三つ鍬形の替紋)から「徳川氏の臣」であった事を示している事もあります。
つまり、これはお家が、矢張り、紀州徳川氏の由緒ある初代からの家臣であった事を意味しています。

実は、上記の経緯とは、「家康」に最も愛された「紀州初代の頼宣」が、紀州伊勢に居た青木氏等の土豪の武士を全てと云って良い程に多く抱えました。
この為に、幕府から「謀反の嫌疑」が掛かり、一時、蟄居を命じられたほどの事件でした。
この時の元の「紀州浅野氏」と共に一族であった仕官した「土豪の浅井氏」と考えられます。

後に、秀吉の時代に大阪の泉市に城を構えていた「紀州浅野氏」も江戸期には「頼宣の入城」と共に「国替え」と成ります。

徳川幕府は1625年に正式に樹立させますが、「頼宣」は1619年に紀州に入城します。
夏の陣で徳川氏に命じられて「紀州浅野氏一族一門」は紀州から大阪に側面攻撃の為に攻込みますが、この時にお家らの「紀州の浅野氏一族一門の土豪」は、この時に戦功を挙げたものと考えられ、その後の混乱で紀州を平定に貢献して、「頼宣」よりこの「替紋」の「三つ鍬形紋の使用」が認められたものだと考えられます。
紀州北部の和歌山と泉との境に小さい領地を与えられたのです。

然し、紀伊国は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、「甲斐国主」であった「浅野幸長」に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が一時成立しました。
ところが、元和5年(1619年)の「福島正則改易」に伴い嫌疑を掛けられた「紀州浅野家」が「安芸国・広島藩」に移されるます。
それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・「徳川頼宣」が「浅野の旧領地」に入城し、「紀州徳川家」の治める「親藩の紀州藩」が成立しました。
この時に紀州の「浅野氏一族一門」は後に国替えと成りますが、この「浅野氏の一族」の一部の「浅井氏」等が地元に残り、「徳川氏」に改めて仕官したのです。

この事も含めて、「福島正則改易」で疑われた「紀州浅野家一族一門」の家臣を召し抱えたとして幕府から嫌疑を掛けられた事にも成ります。

ところが、然し、残ったお家は「戦功」をあげていた事から、紀州徳川氏の替紋「名誉の三つ鍬形紋」を授かっていた事から疑いが解け「仕官」が出来たのに間違いはありません。

現在も、お家の所縁の地の「泉」(泉佐野)に城跡がありますよ。
近くですから一度先祖の城跡でも見られては如何ですか。

出来ましたら、是非、この伝統を御子孫に伝えてほしいものですね。

では、判らない事や御質問がありましたら又お便りください。
お待ちしています。

お家のご先祖が仕官された時、「紀州伊勢の青木氏」等も仕官した時の事をサイトに記載しています。

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