青木ルーツ掲示板
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  [No.784] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/27(Fri) 13:34:57

長嶋さん 今日は。

さて、だんだんとルーツのご理解が進んできましたね。
研究室のレポートをお読みいただけると更に深く専門的な雑学が得られてテレビのドキュメントやドラマ等に対して又違った興味が湧いてきますよ。”いやこの時代考証や設定に矛盾があるな”とか”嘘だな”とか観えて来ます。”この時代考証よく描けているな”とか違った面白みが出てきます。
是非お読みください。今回のご質問もより深くご理解頂けると思います。
そうする事で今回のご質問もお判りになると思います。

前回にもお答えしましたが、お家の大元は大蔵氏ですが、この「大蔵」平安期の政治機構「三蔵」の一つで朝廷の財政全般を取り仕切る役職です。だから日本政府の10年ほど前までは「大蔵省」といいましたね。これはこの「大蔵」から来ているのです。
この大蔵の氏は後漢の阿多倍王の次男が務めていた役職で、それで「大蔵」と云う氏名を天皇から賜姓を受けた氏です。参考に三男は「内蔵氏」の賜姓を受けましたが、「内蔵」とは天皇家の財政全般の運営を任された役職です。
念の為に「斎蔵」とは朝廷と天皇家の祭祀全般を司る役職で藤原氏が務めます。「斎蔵」は政治もその一つとして、だから摂関家は藤原氏なのです。政治とは”正しい形に取りまとめ納める”と云う語源があり、これを「政所」(まんどころ)と云い、家庭の台所の細々した色々な「しがらみ」のある中で、より正しい姿に取りまとめる事が家庭の仕事で女房が勤めていたところから「政治」と云う言葉が生まれたのです。
「斎蔵」はその様な事から「祭り事」と云われるようになったのです。

この語源の意味からすると、常識として「正しい」とするのが「政治」ではなく、「しがらみ」を「解きほぐす事」が政治なので、それが常識とする事と違っていても政治の場では正しいのですがね、現在の政治家は少し違っている気がしますよね。
現実の世の中、常識的に正しい事ばかりでは納まりませんよね。そうあっては欲しいですが、そう甘くありませんよね。

さて、余談は別として、この「財政運営知識」を持つ「大蔵氏」は後漢から連れてきた17県民の配下の職能集団200万人(180の部)の中の「経済知識」に強い専門的な人材の集団を抱えていて、この「後漢の民」が「朝廷の経済運営全般域」を専門家としてこれを担当していたのです。
当時の官僚の6割以上はこの帰化した「後漢の民」の専門職能技能集団でした。
この「部制度」といいますが職能技能集団を180のグループに分かれていてこれを「・・部」と呼んだのです。総称して民部・部曲(かきべ)と呼びます。
ですから、朝廷の経済運営を取り仕切っている大蔵氏は前回のお答え通り九州の「太宰大監」として全ての「自治政治」を任されたのです。
任された初代で「大蔵種材」と云う人物がいましたが、「仁王さま」のモデルにもなった人物で、「武術全般」にも長じ、「政治と経済知識」にも長じ、「学問」にも長じ、人間的にも「錦の御旗」を天皇から受けるくらいの人物で、九州全域からの民にも慕われた超実在人物でした。この配下に代々経済的な専門職脳集団の「済部」と「史部」等が控えていたのです。
大蔵氏の氏上の首魁本人がそうでなくても家臣配下に専門家集団を控えていたのです。
奈良時代から平安時代の「経済運営」は全てこの大蔵氏支配下の帰化人の「後漢の民」が行っていたのです。他の職能集団180部も日本の第1次産業を起こしたのはこの「後漢の民」なのです。
特に北九州は最初の上陸地でもあり、この第1次産業の「鉄や陶器」などが多いのはこの事から来ているのです。「鍛冶部」「陶部」と呼ばれます。(部制度については研究室にレポートしています。)
つまり、「大蔵氏の本拠地」にです。ですから、お家は「後漢の民」の首魁の血筋が流れているのです。
中国民族の中で、中国の文化・経済を作り上げた最も「優秀な漢民族」の血が流れているのですよ。
そして、その末裔の宗家大蔵氏から中部から南九州を任された一族の「肝付氏」は同じく大蔵の中の実務の一つ「弁済使」が専門なのです。
「弁済使」とは朝廷の「税」の実務全般を担う役職で「大蔵」の根幹を占めているのです。
現在では商務担当ですね。
「税」とは「農税、商税」の管理運営です。真に商業です。商業の振興を図る仕事です。
その大蔵氏と肝付氏の居た永嶋氏と長嶋氏なのです。お家の先祖はその氏名の通りその商税のプロ集団なのです。この経済商務専門家を多く家臣に抱えていたのです。
そもそもこの「大蔵」は財政全域の意味を成し、「肝付」とは「肝」は人間を構成する工場を指しますが、国で云えば「税」は国の運営の工場域ですし、「付」の語源はその位置や役目を指しますから語源からもその職務を意味しているのです。
「大蔵」の中の「税」の氏からその氏名としたのです。後にこれが地名にもなったのです。真に肝付氏の氏名がそのものが体を現しているのです。40の末裔の多くは主家の下にこの税に関する仕事をしていました。

筆者の妻の先祖はこの税の取り立て役をしていたのですが、その地には必ず、「別府」、「別所」と云う地名があります。この「別府」、「別所」はこの「現地の事務所」があったところなのです。
北九州の別府温泉はこの朝廷の税等の管理事務所があったところで九州各地にこの名が残っています。
現在で云うと大蔵省-財務省の各地の税務署の事です。
当然に「税」だけでは成り立ちませんからそれをより効率よく捌かなくては意味を成しません。
ですから、片方で「税の管理運営」ともう片方では「商の管理運営」が必要です。
これには簡単には行きませんね、上記した「政所のしがらみ」がありますからね。
商ともなれば「経済の知識」も必要ですし、「横の繋がり」、・・等専門家で無くては到底無理ですね。
ですから、島津氏は肝付氏がこの貴重な知識の「有能な集団」を抱えていた事を見逃さなかったのです。
肝付氏は帰化から1000年以上も繁栄して生き延びてきたのですから、島津氏は国を富ますには「武力」より肝付氏の「商力」を重視していたのです。
その後、島津氏は明治期までのこの伝統的な方針に切り替えたのです。ですから、幕末まで幕府を倒す力があったのです。工場を立て、密貿易をしていたくらいですよ。
これ全て肝付氏の「商」、「弁済使」の職能集団によって支えられていたのです。
だから敵であった肝付氏一族を家老職のトップにしたのですよ。本来常識なら有り得ない事ですがこれも「政治の政所」です。

前記しました様に朝廷の藤原氏が行う「斎蔵」の「経済運営」と、「経済の政治政策運営」に反対して8世紀前半頃に朝廷軍と大隈で戦うくらいの肝付氏の根っこからの経済専門家集団なのですよ。
その肝付氏40の姓の中で長嶋氏は私の持つ研究資料から肝付氏の商業分野(交渉役・営業役)を担っていたとされています。その中の建築業関係の総合商社を担っていたのです。

実は種を明かしますと、この事について何故建築業関係の商いを担っていたかと言う事ですが、その元はお家の片方のルーツの常陸下総の秀郷一門永嶋氏にあるのです。
血縁した秀郷一門の永嶋氏は元は「結城氏」を名乗っていたのです。もうお判りに成ると思いますが、秀郷一門の中で永嶋氏の官職の役目は「土木建設業役」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)なのです。名は体を現すの如くです。
その専門的な知識をもった指揮官のお家の家柄なのです。
昔は今のように民間がそのノウハウを持っていて工事をすると云うのではなく、その様な特徴を持ったノウハウの持った家臣団の氏がいてその氏主がその配下家臣の指揮をすると云う社会形態でした。
例えば、大化期に天智天皇は大土木工事(例えば道路)を行いましたが、そのノウハウは現在でも驚くべき技術が駆使されているのです。これはそれを行う役職の氏が継承し研究していたのです。
恐らく血縁の際に家臣団の中にこの集団の末裔が付き従ったのです。だから最後まで「2足の草鞋策」を採るほどに「こけら屋」(土木建築関係の総合商社)さんの「家の伝統」を護ったのです。

お家は根っこからの700年くらい続いた伝統と由緒ある「土木建築業」の家柄なのですよ。
島津氏の家臣の範囲ではないのです。氏家制度の中では家柄からすると両方の氏からも島津氏より数段上です。大蔵氏、肝付氏、永嶋氏どちらも上で永嶋氏は第2番目朝臣族、大蔵氏と肝付氏は第4番目の連族です。島津氏は姓氏族ですのでありません。

では"何故伝統ある「結城氏」を名乗り続けなかったのか"です。
下総結城は「たいら族」に奪い取られてしまったのです。平清盛の5代前に奪われたので地名とも成っていた由緒ある家柄を示す「結城」を名乗る事が出来なくなったのです。そこで移動先の地名から永嶋と名乗ったのです。何としても結城を遺したいとして常陸にも「常陸結城」の地名を残したのです。
しかし、この「結城」を1192年に鎌倉幕府の時に藤原秀郷の宗家筋の朝光は頼朝に合力した勲功で先祖伝来の「下総結城」を本領安堵され取り戻したのです。
そして永嶋氏の宗家から「結城氏」を再び立てて名乗ります。この結城氏は永嶋氏と共に勢力を拡大し陸奥にも結城氏の末裔を送り陸奥の結城氏となり室町期の大豪族に成ります。

肝付氏の40の中でも常陸の藤原秀郷一門の主要5氏の一つで「関東屋形」と呼ばれた大豪族ですから、長嶋氏は肝付氏の中でも上位の位置にいた事は判りますし、天下の大蔵氏の永嶋氏と親族でもありますから、推して知るべしで肝付氏=長嶋氏の経済専門集団と建築専門集団とが結び付き「2足の草鞋策」をを営んだのです。むしろこの二つが結びつけば「商い」をしない方がおかしいのです。「こけら屋」はこの事を意味していたと考えます。氏家制度の中ですから。
上記した由来などのこれらの事は他にも多くの資料から読み取れるのです。

もそも、「氏家制度」の社会の中ではこの様にその「氏」にはそれぞれの特徴を持っていたのです。
平安期末期では「氏」、つまり、「融合氏」は80程度から200程度へと広がりましたが、その「氏」の発祥はその特徴の基に生まれているのです。大蔵氏も上記しました様に「大蔵」という特徴を持っています。
この「大蔵氏」は元は「民族氏」なのです。そしてその信じる神は「産土神」(うぶすなかみ)です。
青木氏や藤原一門は「融合氏」で「祖先神」が神なのです。これは「氏」です。

しかし、日本には「姓氏」という「氏家制度」の社会の中では一段氏より下の集団なのです。
平安時代に「氏」として認められた「融合氏」「民族氏」の配下・家臣であった者が室町期の下克上や戦国時代に立身出世して主家の「氏」を倒して発祥した一族を「姓族」と称し集団を「姓氏」と称したのです。
(研究室にレポートしています。)そしてこの奈良期-平安期に承認された「氏」は全て職能域を保持していて、承認されていない「姓氏」にはその特徴を持っていません。
藤原秀郷一門の361氏は全てその「氏名」と「永代襲名」と「永代官職名」でその「氏」の職能の判断が付くのです。例えば氏名では斎藤氏は斎蔵つまり祭祀を専門とする家柄、右衛門佐と官職が付けば天皇家を護る近衛軍(六衛府軍)の長官、「民部」と付けば職能集団を管理監督する民の警察軍という風にわかるのです。しかし、1000もの姓族には当然に主家ではありませんのでこの特徴を持ちません。
「大蔵氏」や「肝付氏」の一族一門はこの「氏」に当たり、その氏でも「民族氏」の集団に属します。
藤原氏は「融合氏」です。
お家は「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」なのでこの両方の氏の立場を持っている事に成ります。

日本には「氏」は200程度(下克上で80程度に)、「姓氏」は1000程度以上もあるのです。他7000は明治期の苗字例に基づく姓の人々です。
「氏名」と「姓名」とがあるのはこの事から来ています。
肝付氏は「民族氏」ですが「融合氏」の永嶋氏が血縁しています。「姓氏」ではないのです。全ての事柄に特徴を持っているのです。
「氏家制度」の中での「氏」の集団で上記した特徴を持っていて後から付けたものではないのです。
後付は「姓氏」と成りますが、ご質問は現在思考の姓氏からの発想思考であり、「氏家制度」を理解する発想思考では無いのです。大蔵氏族肝付氏系長嶋氏は「氏」なのですから元からそのその才を特徴としていて専門家臣団を控えているのです。記録有無の話ではないのです。

氏家制度では「氏」は8つの身分に分けられ、姓氏は1つ、これ以外に庶民は4つに分けられ、庶民ではない賎民も4つに分けられます。1023年以降は賎民は無くなります。
この中で社会が構成されます。
今論じているのは上位から2から3つ目位のところの氏の事を論じています。

「2足の草鞋策」の「こけら屋」の意味もここにもあると思います。
その一つとして前回のお答えした日本書紀にもその肝付氏の行動が記述されています。江戸末期、幕末の薩摩藩の活動の中にも読み取れます。
前回書きましたが一度あつ姫の小説をお読みください。活躍ぶりから読み取れますよ。
藩主に肝付氏が経済のことで進言した事などが書かれています。
島津藩については専門外ですので詳しくは分かりませんし、その資料は前々回にお答えしたとおり少なく研究は進んでいないと思いますが。
しかし、肝付氏の長嶋氏までの範囲は大蔵氏に関係する資料から判ります。
少なくとも長嶋氏までは商業の専門集団であったことは判っています。だから何度も云いますが、「こけら屋」なのですよ。さすがにあらわに「商業屋」とは云えませんね。
ご先祖の屋号の「こけら屋」の意味がまだご理解されていないようですね。
筆者の先祖は「紙屋」ですが、「紙屋」であって「紙屋」ではないのです。
前回にお答えしましたが、商業には政治つまり政所が関わっているのです。
小売業ではいざ知らず国の財政を動かす政治・政所商業なのです。だから「こけら屋」だと思いますよ。「氏家制度」の「武家社会」の中での「商いの位置づけ等」を思考される必要が「こけら屋」にはあると考えます。
「こけら屋」でのキーワードはこの場合は島津氏或いは肝付氏の中の資料に成ります。あるかどうか判りません。

念の為に、肝付氏の主人が何も経済の専門家でなくても家臣団にその様な多くの専門家がいれば肝付氏はそのプロ集団なのです。「氏家制度」の社会です。現在の様な「自由契約社会」ではありません。
つい現在社会の思考で氏家制度の社会の「有り様」を思考してしまいがちですが、明治前の社会機構の「有り様」は「氏家制度」の歴史雑学で観察思考する必要があります。

さて、家紋の件ですが、研究室のレポートをお読み頂けると「歴史雑学の観察思考」が深まり恐らくはご判断が付くと思います。室町以降の「家紋の位置づけ」はその「氏の伝統」を意味するものです。ですから簡単に変えるなどの事は先ず簡単に起こりません。
そうすると現実に変わっているのですから、氏家制度の中では掟があったのですから、その歴史雑学の思考の範囲で考察する必要がありますね。
8つある事に成りますから、お家の場合はこの8つの事の内どれかが江戸末期60年前に何かが起こっている筈なのです。絶対に当時の慣習の中で。
それは、絶対に桜井氏-仁木氏に関わる筈だという事です。
杉浦氏が江戸末期の60年の氏なのですか。
前回末尾で書きましたお家の伝統に関する過去帳や明治維新の戸籍簿や戒名などから変紋に関わったことが出てきますよ。”養子を迎えれば氏の中はどの様に変わるか”を雑学として読み取りそれを一つ一つ潰す事で観えて来ますよ。要するに「政所」なのですよ。
例えば、ご先祖の戒名などは大きく変わりますよ。「政所の仕来り」がありますので。例えば更に杉浦氏が根笹紋でなくても8つのうちの一つ養子に継承させてくる事もありますよ。家の釣り合いとかで。
一度その伝統の可能性の中でお調べください。

その際に雑学でもご質問がありましたらお尋ねください。
(ただ島津氏の中の事は青木氏外ですので)



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