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  [No.801] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2011/11/12(Sat) 23:58:30

福管理人さん、お久しぶりです。
地道ですが、ご先祖探し継続しています。

9月中旬鹿児島に足を運び、旅行を兼ね調べてきました。
3日間ということで、肝付町、鹿児島市、姶良市と訪ねることとしました。
菩提寺は浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)を当たることとしました。
鹿児島県は廃仏毀釈が激しく、殆ど浄土宗の寺は、廃寺となっていましたが、ほとんどが不断光寺の末寺で運誉上人により、1590年代に創建されており、廃仏毀釈の時、不断光寺に集められたのではと考えたからです。
しかし、玄忠寺は、住職不在の代行で、不断光寺は空襲等で市内の資料は残ってないとのことでした。

結局、収穫としては、
1.鹿児島市史3の寛永13年 薩州鹿児嶋衆中屋敷御検地帳より、長嶋次右衛門が新堀より上に住ん  でいたこと。
2.鹿児島御城下明細図 文政4年(1821)より、長島勘右衛門が西田橋通りの南に住んでいたこと。
3.鹿児島絵図(文政前後) 天保13年(1842)より、長島姓はなく、勘右衛門が
4.旧薩藩御城下絵図 安政6年(1859)より、長島姓は存在しなかった。
ということでした。

ここから、長嶌太吉は妻りわが1815年生まれであることから、1800から181数年の生まれと推測でき、天保12年にりわと結婚しているため、3.のときはすでに愛知県新城市川路にきている。
このようなことから父親が20歳で太吉が生まれたとすると3.のときは年齢は50〜60代、4.のときは70〜80となり、この流れから、もしかしたら長島勘右衛門が父の可能性があるかもしれない。
ということで何も進んでない状態です。でも、これが積分変化であり、この繰り返しで何か変化が起きてくるかもと前向きに考えています。

ところで、阿多倍と敏達天皇のひ孫(芽渟王の娘)が結婚して、長男筋が坂上、次男筋が大蔵、三男筋が内蔵ということでしたが、
1.阿多倍の妻の具体名は、判っているのでしょうか?
 続群書類従第5上の皇胤系図で芽渟王から繋がる娘は皇極(齋明)天皇で、他にはないのですが、阿多 倍王と結婚したのは、系図に出てこない娘なのでしょうか?

2.阿多倍の3兄弟のことも色々書かれていて、志努(坂上)、爾波伎(大蔵)、山木(山猪)(続群書類従第7の大蔵氏系図には山本)これらについてもご存じでしたら教えていただけますか?

 よろしくお願いします。



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