青木ルーツ掲示板
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  [No.802] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/13(Sun) 15:34:22

長嶋さん 今日は

さて、鹿児島にご訪問されたのですね。
鹿児島はなかなか歴史資料が見つからないですよね。
でも大変な情報を掴みましたよ。

私の妻の実家の調査の時にも感じました。恐らく江戸初期前後と末期の薩摩藩に対する軋轢が強くあって歴史的な物に対する資料文献を隠蔽抹殺したと考えられます。言葉までも変えたくらいですからね。
そこで次ぎの事の推理は私も賛成です。
浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)
廃仏毀釈で浄土宗寺は廃寺、不断光寺の末寺
運誉上人により、1590年代に創建、
不断光寺に集められた。
そして、1234の事から「長島勘右衛門」がルーツ源であろうとする説も納得します。

と言うのは、長嶋氏(長島氏)は他氏と異なり中部以北では「関東屋形」と呼ばれ、秀郷一門の中でも最も勢力を高めた藤原一門361氏の中でも名門中の名門で江戸末期まで名籍族でした。
従って、九州大蔵氏系肝付氏族長島氏は薩摩に於いても別格の名籍であった事は間違いありません。
本家分家で構成されていて江戸末期まではある程度はっきりしていたと観られます。
ですから、あちらこちらに未勘氏族や第3氏族の長島氏が居たとは考えられません。特に奈良期から保守性の強い国で護られて来たのですから、先ずこの環境は存在したと見られます。
また薩摩には、保守環境からこの名籍を勝手に名乗る未勘氏族と第3氏族が生まれない環境でもあった事から極めて少ないのです。
依って本家分家は別としても、ルーツの可能性は極めて高いと考えられ、先ずご先祖であったと観られます。年代的にも納得できます。次ぎの長嶋氏の経緯からも納得できます。

九州長嶋氏の経緯
薩摩の長島氏の位置付けから考えて、寛永13年(1637年頃)の新堀の長嶋次右衛門、文政4年(1821)の西田橋通の長島勘右衛門は本家分家は別としてもルーツ源である考えます。

そもそも関東の長嶋氏は”「元寇の役後」”と記されているので1285年頃に九州大蔵氏と血縁し、大蔵氏系永嶋氏が発祥しています。
その後、青木氏の資料と家紋分析からこの永嶋氏が南九州を統括していた大蔵氏系肝付氏と室町期中期頃1400年前頃に血縁していて九州薩摩大隈の長嶋氏(長島氏)が誕生したとされています。
そして永正3年1507年頃に勢力を高めてきた島津氏と先ず長嶋氏が前線の高山城で先ず戦い始め、天正8年1581年頃に545年間を通した肝付氏と共に南九州を支配していたが敗退します。
この後、肝付氏と永嶋氏の長嶋氏はその直後に始祖の故郷の薩摩国阿多に移動し、阿多地方と大隈地方を与えられ島津氏の家臣となります。
尚、その後の慶長5年1600年の関が原の戦いで本家筋は戦死し衰退したと記されています。その後に末裔を承襲するとありますので、分家筋が残ったことを意味します。
「1590年代に創建」は島津氏の家臣と成った直後に建立した事に成りますので浄土宗の菩提寺を統一した事に成ります。その後に関が原が起こって本家筋が衰退し、1637年の分家筋の長嶋次右衛門が宗家を引き継いだことに成ります。
つまり、恐らくは長嶋氏は国を阿多と大隈に成った事から改めて肝付氏とは別に菩提寺を建立したことに成ります。そして新堀の長嶋次右衛門の分家筋が本家と成った事に成ります。
そこで1637年から1821年の間、つまり1と2の間の期間(184年間)の検証が必要に成ります。

この年数は長嶋氏の代数から考えて4乃至6代と成りますが、この時代は江戸末期までですから戦いもありませんので4代と観ますと、長嶋次右衛門から長島勘右衛門までの間には本家を継いだ分家筋に大きな変化は無かったと観られます。
又、一門の「右衛門」の「襲名」が継承されているところを見ると当時の慣習から同家と見られます。
分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋と成ります。
更に長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。例えば本家の嫡子の長男が亡くなり次男などが本家の後を襲名した時に使われるものです。
筆者の家も本家筋の嫡子が亡くなり本家を次男が継いだのですが、”作次左衛門”名乗っています。これは当時の慣習です。”次男”の意味も長男が無く成った時に継ぐ者の意味なのです。
最近は本家分家の仕来りが無くなったために”二男”と書きますが本来は”次男”なのです。
関が原の戦いで本家の嫡子嗣子が亡くなり、結局、次ぎの分家の者が本家筋を継いだ時に使われる襲名形式の武家の法掟です。
この形式を使っている事から相当な武家の名籍の家柄を意味します。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります、
例えば「勘介」と云う名は「介」は「長官」に対して次に継ぐ者で「次官」を意味します。
平安時代の官僚の官位4段階(守、介、擾、目)のトップの「国司」の次ぎの代行して実際に政治を執り行う者を「・・介」と云います。国司の上が守護王ですが、守護は朝廷の仕事がある為に領国の管理を国司に委ねるのです。国司は2乃至4年程度で別のところに赴任するので不在時の実務はこの「・・介」が執り行う仕組みです。その官僚組織の呼び名のひとつです。現在でも同じ意味で使われていますね。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。
当時の武家筋の慣習雑学からこの様に判断が付きます。

さて、長嶋氏または長島氏は南九州を支配していた肝付氏一族の出自を分類すると3つに分けられます。
1 出自は明らかで本宗から排出した氏族 17氏
2 支流庶流に属しているがその出自は明確ではない氏族 5氏
3 同族の出自である氏族 12氏
4 不明な氏族 8氏
お家の長島氏または長嶋氏は3の12氏のトップに位置しています。
通名は一般に「兼・・」を使う慣習に成っています。室町期
この通名の「兼」は平安時代の5大官僚の一つ「伴氏」の通名で伴兼貞の子供の兼俊が大隈国肝属郡の「弁済使」(税などの管理管轄を取り扱う高級官僚)となって赴任し大蔵氏と肝付氏とも血縁をした事から、この一族は「通名」として兼を使う様に成ったのです。
家紋は三雁金紋が多い。

解明を進めなければ成らない問題は1842年から1859年までの長島氏の記録がない事に付いてどのように観るかと成りますね。
幕末ですが、これはお家の静岡の移動と関連するのではないでしょうか。
幕末に商いをしていたが静岡の移動は前回の推理に一致するのではないでしょうか。
静岡の移動で長嶋氏の記録は商いを中心とした家系になったことから消えているのではないでしょうか。九州長島氏は筆者の資料からは永承していると成っています。
この研究した資料は大正の初期の頃ですので大正時代までは現存している事を証明します。明治期には鹿児島には維新戸籍簿から確認出来ていたのではと考えます。維新戸籍簿は長島勘右衛門の本家筋のものに成ります。
と云う事は静岡の移動は本家筋の誰かが移動したことを意味します。
幕末の薩摩藩の事情を考えた場合は前回の筆者の推理になるのではないでしょうか。
このことを物語る何かの情報を掴む事で解決するのではないでしょうか。
一寸した事でも意外に繋がりますよ。雑学で。

次ぎのご質問ですが、
奈良時代から大化期に掛けて天皇家には「純血」を前提として現在から観ると「近親婚血縁」を繰り返していました。当時は天皇家の中では異母兄弟は姉妹は他人として考えられていました。
従って、この範囲での近親婚は当時の慣習としては当り前でした。
ただ、近親婚には遺伝的な「免疫性低下」とか「劣亜子」「優子」が隔世遺伝で産まれ子孫を遺す事には問題がありました。その為に、妻を4段階に分けて上位2位(后:きさき、妃:ひめ)までは近親婚とし、良い子孫を遺す事ができなかった場合に備え、同族の第3位の妻(嬪:みめ)の子供から皇族身分を継承させる仕来りです。更に、駄目な場合は別枠の第4位の「采女」(うねめ)つまり、妾子ですが、この子供から皇子順位を上げて行く仕組みです。
妥女は地方小豪族の娘を人質に女官隷として取りますので近親婚の弊害は無く成ります。
同族の第3位の妻(嬪:みめ)は大豪族の娘を第3位妻として取り入れますので同族ながらも血縁性では低く成ります。
そして、この上位3位までの子供は天皇家から外れてその母方にて育てられます。
妥女の子供も母方にて育てられますが、男子の場合は一定年齢に成ると天皇家に引き取られて皇子として育てられます。そこで皇子順位は母の身分の順にて決められます。
皇子順位が第4世内で第6位皇子に成った場合は臣下するか門跡の僧侶と成ります。第5世以下の皇子となった場合は侍として関東の守護警護として配置されます。第4世内の皇子は天領地の守護王として配置されます。
女子の場合は母方に預けられますが、上位2位までは皇女として扱われ天皇家外に血縁する事はできません。近親婚乃至は同族婚と成ります。血縁出来ない場合は斎王に成ります。
第3位と第4位と成った女娘は皇女が無い場合は皇女の列に加えられますが、そうでない場合は皇女外として扱われ皇族外と成ります。
この様に皇女と決められた以上は皇族外の者との血縁は純血範囲を守る為に皇族外の者との血縁は出来ません。
依って、ご質問は阿多倍一族は帰化人ですので、皇女との血縁は出来ないです。
ですから、”芽淳王の「女」”と成っているのです。「・・の皇女」とは記されていないのです。
つまり、第4位の妥女の子供を娶った事になり系譜上に現れない皇女では無い事を意味します。

次ぎに阿多倍に付いての事ですが、ご説明すると本一冊文にもなると思います。
そこで青木ルーツ掲示板や青木氏氏研究室の検索を使ってお調べください。
詳しくレポートしていますので、そちらをお読みください。
そこで 長男の「忘?直」(?は奴の下に手の漢字)で坂上氏で「阪上田村麻呂」が初代で朝廷軍の長官です。後漢から引き連れてきた阿多倍の職能武装集団の(漢氏や東漢氏の)自前の軍を持って陸奥を征討した初代の征夷大将軍です。これに対して天皇の親衛軍の六衛府軍を指揮していたのが青木氏です。皇族賜姓青木氏5家5流と秀郷一門の特別賜姓青木氏116氏がこれを務めました。
(「・・直」の直:”あたい”は官位身分です。)
次男の大蔵氏は「山本直」で朝廷の財政を担当していたもので九州の大蔵氏です。
三男が「波木直」で内蔵氏で天皇家の財政を担当していたのです。この一族は東北北陸奥州一帯に定住した豪族で末裔には阿倍氏や安部氏や清原氏等が末裔として有名です。
この阿多倍の子孫には「たいら族」で平清盛の太政大臣があります。
この阿多倍は伊勢国北部伊賀地方を伊勢青木氏(筆者の祖)より半国割譲して住んでいた。
ここが「たいら族」の故郷です。この阿多倍の孫娘の「高野新人」が伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長男の光仁天皇の妻で桓武天皇の母親です。
阿多倍の事で読まれて判らないところはお尋ねください。

以上がご質問のお答えですが、お便りの情報は大変にルーツ解明が進んだと思います。
ルーツ解明はちょっとした事が当時の慣習などの雑学で判明します。



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