青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.812] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋    投稿日:2011/12/16(Fri) 00:26:21

福管理人さん、有り難うございます。
仰る通り推測し、少しづつ糸が解きほぐれ手来るたび、嬉しくなります。
これも、福管理人さんと出会う縁があったからと感謝しています。

 自分の御先祖様が、漢王朝の皇帝を輩出し、渡来し、阿智王の子、阿多倍王は茅渟王の娘と血縁を持ち、次男山木の子孫が、大蔵を賜姓し、隅広が大蔵の祖となる。その後大蔵氏は九州に定着して行き、鎌倉時代の元寇後、藤原秀郷一門の長嶋氏と血縁し、大蔵氏系長嶋氏生まれ、長嶋種武の不詳の子が肝付本家と血縁を持ち、宗家に関わってきた。
こんな凄いことはないです。
長嶋兼道が、関ヶ原の戦いで戦死後、本家は100石の藩士となったとあるが、長嶋次右衛門ー○ー○ー○ー○ー長島勘右衛門と受け継いできたとすると感動します。

その時代背景、大蔵氏としての戦略、肝付氏、島津氏の勢力争い、様々な因子を考慮すると福管理人さんの推理、なるほどと思いました。

また、ご意見を伺いたいので、宜しくお願いします。
1.高山町郷土史の肝付氏の系図を見ますと兼重の父は兼市となっていますが、福管理人さんの文を読んでいると兼重の父が兼俊と取れたのですが、兼市が変名し兼俊となったのでしょうか?

2.大蔵種秀の不詳の子が肝付兼尚ということは考えられないのでしょうか?
これについては、最初にメールした時に『城壁の前で頭を下げる家老風の上下姿の侍』といった先祖供養時の情報を記載しましたが、何の因果か、さらに遡って、大蔵氏の供養をすることとなったのです。馬鹿なと思って、聴いて頂いて良いのですが、その供養をして下さった巫女さんはこんなことを言ってました。
・楼船に乗って、黒い服を着た皇帝と呼ばれる人座っており、傍に二人の女官が扇を持ち立っている姿。
・その子孫が皇族の妾の娘と血縁を持ち、大蔵氏となり、その子孫が長嶋だよ。
と驚いてました。
色々と話して下さった中に、福管理人さんの返信して下さった文章を読んでいて、ぞぞっと寒気がしたのです。
供養をする前から言っていたのですが、お城が見え、殿様とお姫様がいて、
その中で家老衆の中、筆頭家老的存在で、その人達に指示する家老がいて、その人、長嶋さんの先祖だよ。お姫様は、その人の娘だよ。と言ってたんです。これは、返信して頂く前の話です。
そこで、筆頭家老→肝付兼尚、殿様→肝付秋兼、お姫様→兼尚の娘、そして兼尚または父兼藤が肝付氏と血縁を持った長嶋種秀の不詳の子なのでは、と推測したのです。
兼藤の『藤』もきになりまして。

3.関ヶ原の戦いで、長嶋兼道が戦死して、その後肝付本家は衰退したが、実質的に兼幸で肝付本家は終焉を迎えた。その後肝付本家は100石取りの藩士として存続した。とネットを見ていると記載されているのですが、武家商人となったためと考えたらよいのでしょうか。
そして、世の中の安定した江戸時代でも石高をみて、すべて判断されてしまうのでしょうか?

よろしくお願いします。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー