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  [No.823] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2011/12/27(Tue) 00:48:33

福管理人さん、ありがとうございます。

種武の不詳の子が兼俊の推測の件、100石が扶持米である件よくわかりました。

『三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。』の提供情報ですが、調べてみました。

結論から言いますと私の家とは関わりなさそうです。
高祖父長嶌太吉の墓には、太吉、りわ、もう一人、戒名:玅雲如用禅定尼という女性が一つの墓跡に入っていて、その方は、天保13年12月21日卒であるためです。このときには、三河国南設楽郡信楽村川路(愛知県新城市川路)に住んでいることになります。

三河国碧海郡渡村は愛知県岡崎市渡町であり、渡城趾に長島氏家譜という石碑があります。
ネットで渡城を調べると
※「仁安二年に熊野新宮別富十九代行範は平氏を拝領し、鳥居法眼と呼ばれた。行忠の代に故あって三河に移り、名を渡里傳内忠氏と改めた。八世忠景は渡利新左衛門と称して新田義貞に仕えるも、新田氏衰運の後、渡利村に戻り、鳥居藤左衛門と名を改めた。忠景七世の重央には男子が無く、伊勢長島城主福島家の弟の忠則を養子とし、後、長島姓を名乗る」とありました。

※1167年「承久の乱」の後、平氏を祖とする鳥居中務が紀州熊野を追われ、移住して城を築いたことに始まる。天文年間(1532〜1554年)、17代忠吉は松平宗家7代清康、8代広忠に仕え、その子元忠は家康に仕え、1590年家康関東移封に伴い、下総国矢作城4万石へ移った。その後、鳥居氏は代々当地に残り、本家は〔途中、嫡子が無く、養子姓を名乗り〕長嶋氏に改め、分家〔隣宅〕は鳥居氏を名乗った。現在は長嶋氏宅に土塁が残り、入口に城址碑、隣宅には鳥居氏発祥地の石碑が立つ。

とありました。実際、その場所に行ってみましたが、家譜の内容は前者の通りでした。

ついでに岡崎図書館で、長嶋家に養嗣子に入った、長嶋源吉(旧姓杉浦)について調べていたところ、長嶋家御用日記という岡崎藩御用達の長嶋藤八という人物が見えましたが、文政の時に帯刀と名前を授かったとの記載があったためこれも関わりないことがわかりました。

源吉については岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』との記載がありました。また、明治9年鍛埜村に杉浦源兵衛がいて源吉の兄と推測しています。子孫らしき方も定住しているような様子です。
もし、明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと考えられないでしょうか?高祖父太吉は明治5年に亡くなっています。
そのためには、杉浦の家紋が根笹であればですが..





『肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大』とのことですが、種武の不詳の子であろうと推測される兼俊の筋、大蔵氏系長嶋氏と血縁した兼成の筋、もう一筋は何方になるのですか?



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