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  [No.825] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/01/16(Mon) 22:29:00

今日は、福管理人さん。

長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。

ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?

2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?

3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?

また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?

2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?

3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?

質問ばかりですみません。よろしく、お願いします。



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