青木ルーツ掲示板
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  [No.826] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/01/17(Tue) 13:52:47

>長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
>本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。

一つ判りました。それはお家の杉浦源吉さんの御先祖は武士であった事です。
それは明治の始め頃に戒名が「院殿居士・大姉」である事です。普通の武士でもこの「院殿居士」の戒名はなかなか付けられませんし相当に金を積まないと付けて貰えません。
特に女性の戒名が大姉と成っていますのでご先祖を読み取る事が出来ます。
戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。
墓石ですが御影石は明治後の風習で使われる様に成りました。
それまでは泥岩か砂岩の墓石でしたので立てられた方が大分後に成って立てられたことが判ります。
家紋が刻まれていないとの事ですが、普通は「院殿居士」を刻んでいるので家紋は刻みますが既に明治半ばには家紋の伝統が忘れられていた事が判りますね。
杉浦氏のご本家の家紋を調べられると良いと思います。源吉さんはご本家ではない様ですので。
ご本家の墓石の先祖累代の墓石の下に刻まれている筈です。

>ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
>1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?

この辺が難しいのですが、武家社会の本家筋では実子が子供と云う事にはならない場合が多いのです。本家を継ぐと云う事では実子が無ければ縁者や妾子から迎えて跡目を作ると云う努力が最大の勤めです。別の氏から養子を迎えれば家紋も変わりますからなんとしてもあの手この手を使って縁者遠縁から迎える努力をします。場合に依っては本家に子供を出しても分家に跡目が無く成ってでも本家筋を保ちます。ですから場合に依っては本家筋の跡目の問題では父親が2人も3人も居る事が起こります。現に兼重の時にはその現象が起こっています。嫡子が妾子では妾子の汚名を消す為に色々な細工もしますので父親が多く出てくる事に成ります。中には兄弟が親の位置に来る事もあります。
名籍であれば有るほどこの現象が起こります。永嶋氏−長嶋氏−長島氏−肝付氏と渡っていますから父親とする者が複数で出てくる事は充分に起こります。「兼連」なる人物がどの父親なのかを特定すると更にルーツが紐解けてきます。ルーツを探る場合は父親は一人と云う考え方は捨てるべきですね。出てきた父親を探る事でルーツは開けて行くのです。
従って、「兼連」をお調べに成る価値はありますね。

>2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?

上記の通り、「断絶」の定義を何とするかですが、肝付氏は元々永嶋氏−長嶋氏から跡目を入れての物ですから、その後も幕末後も肝付氏は養子を取り継承されていますから「血筋」で絶えたする定義は名籍では難しいと考えます。そんな定義でくくれば全ての家は絶えていますよ。そのネットは現代感覚で過去を評価すると云う間違いを起していますね。過去の評価は過去の感覚で評価する必要があります。それが「歴史」なのです。ネットの評価はこの間違いを良く起しているのです。今から観た評価が殆どです。明治以降の契約社会と氏家制度の社会とは評価する基準がもともとが違うのです。
「過去の感覚」はそれなりの雑学勉強が必要ですそれで評価するべきです。
もう一つのネットの「歴史」の間違いは、”ある範囲の全体の「時系列の流れ」の中でその「事象」を観ていない”と云う間違いです。3つ目の間違いは「通説」を正として論評している所です。通説は常に正しいとする前提ではありません。この3つの事を念頭に「ネットの論評」を読む必要が有ります。

>3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?

2の通り名籍は何処で途絶えたとするかは難しい判断です。長い間でこの様な跡目のやり取りをしているのですから完全に純潔を保って来たとする家は無いと考えます。天皇家でも平安中期まではこの「純潔方式」を採用してきましたが、結局は名籍の最高位でもやりくりで跡目を継承して来ています。
幕末の肝付氏は娘に長嶋氏外の縁者遠縁から養子を取って継承していますから血筋や実子で名籍を完全に繋いでいると云う感覚は違うと思います。名籍宗家では以外の子供であっても実子であるかは別の問題です。

>また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
>1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?

種資と種秀は兄弟ですが、種資に子供が居なく弟の種秀が跡目を継承し息子の頼種が先ず跡目を継承します。しかし頼種も僧侶と成った事から伯父の孫の種親に跡目を譲ったのです。
種親の父親の義種は塩頭氏に養子に入っています。その養子先から長嶋氏の跡目に入ったのです。
この場合系譜上からは父親は義種、頼種、種秀もいる事に成ります。
女系ではありません。

>2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
>『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?

少し違います
兄の「行重」が永嶋氏 弟の「重行」が長嶋氏 しかし「重行」はその後に秋山氏に養子に入ります。依って長嶋氏は兄の次男の「吉清」が継承します。その後に「豊重」(永嶋氏)−「重行」−「豊行」(長嶋氏)−「行勝」−「豊兼」−「豊信」(長嶋氏)
この「豊信」の弟が永嶋氏を継承します。・・・
「重」が通名ではありません。「豊」です。
長嶋氏の前に長島氏があります。長島氏を最初に名乗ったのは「行重」の父の「行長」です。

>3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?

伊勢の長嶋氏は元は長島氏で後に長嶋氏に戻します。
最初の「長島氏」は始祖は「・行長」です。・・その後、各地の同族から跡目に入っています。
長島弥五郎重正の子の重国−重宗が長嶋氏を名乗り、弟の「行重」が伊勢長島を継承します。
そもそも伊勢は秀郷第7世孫 「・成行」−家綱−有綱−有房(広高)−有長−有家−家高(・永嶋氏)−寛安−寛利−利武−・・
「成行」が始祖です。九州に長島と長嶋と永嶋の3つの名乗りがあるのは此処から来ています。
長島は伊勢から発祥しているのです。故に南九州では3つの長島氏の跡目の呼称があるのです。

以前にも記述しましたが、ご本家に遡ってお調べにならないと応えは出て来ません。杉浦氏はご本家の家紋です。戒名が見付かっていますからご本家に到達できる筈ですのでお調べください。伊勢の長島氏とは直接のつながりは無理だと思いますが何かある筈です。

ここからが推理を働かせて頑張ってください。家紋変更、氏名変更、何故静岡の土地の3つですね。



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