青木ルーツ掲示板
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  [No.840] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/11(Sun) 10:25:59


静岡の長嶋さん 今日は。

お忙しい中でルーツの探求を熱心にされている事に敬服します。

さて、早速ですが、次ぎのお尋ねに付いてお答えします。

>源吉さんの父親:杉浦幾次郎(紫金院釋清光淨智居士)が、仁木氏か桜井氏からの養子で『丸に根笹』に変紋したと云う可能性もあるのかなと考えていました

この件に付いては以前のお便りで推測としてお答えしましたが、この可能性が非常に高いと観ています。

実は、先日、筆者の地域の寺の住職が代わり新しい住職が浄土宗知恩院から赴任してきました。
この方は、元はサラリーマンでリタイヤーして僧侶となり郷土の愛知と静岡の寺を担当して経験があり、70歳くらいの方で、この方の話によると愛知と静岡共に檀家の中に杉浦氏と云う方が大変多く家紋が根笹紋類の杉浦さんであったと云う事でした。
実はこの住職も家の家紋も「丸に根笹紋」で某氏と云う方なのですが、桜井氏の末裔に当たるとの事で印象に残っていて杉浦氏と親しくお話した事があるとの事でした。
その杉浦氏は旧家で森林を所有する土地の地主で大きな門構えのお家で元は庄屋で武士であったとの事でした。恐らくは住職に詳しく聞きましたところではこの杉浦氏は郷士であったと思います。
住職のご先祖も三河松平氏系桜井氏に辿り着くとの事で杉浦氏も同じ先祖ではとのお話でした。
源吉さんの父親杉浦幾次郎さんのルーツの祖先に当たると観られます。
戒名の「紫金院釋清光淨智居士」は相当な家柄でないと江戸期末期頃では付けて貰えない筈で又一般の人が付ける習慣が未だ無かったし相当な金額を積まないとこの戒名は持てません。
特に、住職にもお聞きしたところ同じ意見で、紫、金、清光、浄智は仏教的な位置づけが高く最高の家柄の者でないと使わないとの事で、紫は色では最高位で家柄・立場が上位であった事、金は主に経済的に恵まれていた事、清光は仏教では最高位の清廉潔白を意味し優れた人物や家筋に成る事、浄智は平安時代にはこの浄は「八色の姓制度」では最高位の品位を示しますので、上記の愛知の根笹紋の杉浦氏の立場に相当する位の戒名です。
恐らくはこの愛知の杉浦氏は丸付き紋ではない根笹紋であるところから宗家かどうかはわかりませんが本家筋の枝葉の杉浦氏であると観られます。
幾次郎さんは丸付き紋の根笹紋ですので分家筋の系列に成る杉浦氏であると思います。
住職も丸に根笹紋でしたので、同じルーツの杉浦氏の枝葉に当たるのでしょう。

太吉さんの婿の源吉さんは実家先の家紋の根笹紋に跡目の男系嫡子が生まれなかったことから家紋の変紋を余儀なくされ「地元の根笹紋」にした事に成るのでしょう。
しかし、氏名は長嶋氏に明治の苗字令を利用して長嶋に変名届けをした事を意味すると観られます。
ここには、三雁金紋と長嶌氏の2つを消し去った何かの経緯が潜んで居るようです。
松平氏系桜井氏と島津氏系長嶋氏、雁金紋と根笹紋、薩摩と地元美濃、の中で源吉さんは選択を迫られたと観られます。何れも家紋200選に選ばれる程の家筋です。難しい選択です。
明治維新、跡目問題から養子でもあり源吉さん親族の多い地域の選択をしたのでしょう。
故に新たに作った墓所には家紋を刻まなかったです。普通武家では刻みますが敢えて避けたのです。
その為には周囲に多い伊勢長嶋氏の長嶋姓(元々は太吉さんは伊勢長嶋氏系の九州の大蔵氏系永嶋族長嶋氏である事も含めて)にすることが適切と判断したのでしょうが、その代わりに家紋は家紋掟の慣習に従い地元の実家先の家筋の家紋にしたのでしょう。
故に杉浦氏のではなく長嶋氏の墓所には根笹紋を遠慮したのでしょう。
そしてバランスを取ったのでしょう。
又、長嶌氏から長嶋氏に変えた事により墓所は新規の別のものとの考えもあったとも考えられます。
根笹紋の伊勢長嶋氏が同じ地理的要素により武士の血縁の釣り合いが取れますので伊勢美濃よりに多く住んでいた事も考えられます。

>時代背景的には一致するのですが、喜平次と喜平で一文字足らないのですが、同一の可能性も考えられすのでしょうか?

徳川時代には家康は武家の家の嫡子は長男とすると決めましたが、この事から、長男と次男の差は大きくなり扱いも極めて異なり部屋住みの言葉まで生まれました。
この時の習慣により、「次」は名の後ろに「次」を付けて名乗る習慣が生まれました。この習慣は平安時代から室町期まで氏の家柄の中では持ちられて来ましたが江戸期には一般の武士も家康の令で一般化したのです。そして江戸末期から明治にかけて「・・次」「次・・」として一つの名として庶民まで位置づけとして用いられるようになったのです。
長男の場合は「太郎の太」、次男の場合は「次郎の次」として使われました。
平安時代は「八幡太郎源義家」「鎮西八郎源為朝」「九郎判官源義経」などの様に名乗る場合は特別に位置づけを明確にしていたのです。それが「太」「次」と省略して行ったのです。
「太」「次」は名の前後にどちらに付けるかは原則自由で、源太郎とか太吉、太郎兵衛の様に。
「喜平次」と「喜平」とはこの慣習の意味で同じです。武士には特に氏や姓を継承する習慣がありましたのでこの慣習は大事なので、これと対比して武士外の名とは氏継承の慣習がありませんのでたいした意味は無く、名そのものとして使われていました。
喜平さんは武士の出であれば「次」は立場の意味は持ちます。武士であれば喜平次も喜平も同じです。「後付」と云うつけ方です。「前付」と「後付」との違いは主に家柄で決めます。「氏族」は「前付」と「姓族」は「後付」の違いです。(長嶋氏は「氏族」)
次を付けるかどうかは記録する人か編集する人の差によるものと考えられます。
他に長男の場合は「大」「長」「衛門」「兵衛」「右」「嫡」、次男では「介」「助」「継」「捨」などが使われました。 
ただ牧野氏の件は女系に成りますので家紋と姓の関係の変化は無関係です。
ルーツには余り関係しませんが太吉さんの妻は鹿児島である事には間違いありませんね。
問題は養子にも色々な形がありますが源吉さんの養子の形がどんな形かによりますね。
源吉さんが後に離婚されたとの事を伺いましたがそれと養子の形が「長嶋氏と根笹紋」に影響しているのでせはありませんか。


それにより杉浦氏の家紋の根笹紋の根拠となるのではと考えます。
太吉さんは元杉浦氏の源吉さんとは材木関係で知り合った可能性が高いと考えます。

以前のお答えの繰り返しになりますが、個人名探求だけではなく時代の経緯と生活の背景も合わせて考える必要があると思います。
一度お調べになる必要がありますね。

では又お便りをお待ちしています。



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