青木ルーツ掲示板
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  [No.854] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/07/02(Mon) 22:52:54

福管理人さん、有り難うございます。
鹿児島旅行お疲れ様です。羨ましい限りです。
私も、9月の初めに計画しています。今回は、初日は阿多倍王、阿智王ゆかりの物に出会えるかなと考え、湧水町から韓国岳周辺、旧隼人町を廻り、2日目は肝付町を訪れ、肝付氏代々の墓と高山城、3日目に鹿児島県立図書館で書籍を読みあさろうかと思っています。
運の良いことに、旅行の前の週は、奈良で講習会を受けることになり、足を伸ばし明日香村を散策し、於美阿志神社等も訪れる事としています。

『右衛門』件、非常によく分かりました。
江戸初期の長嶋次右衛門、江戸末期の長島勘右衛門どちらとも『右衛門』を名乗っていたので、この間の方々を繋ぐキーポイントになるかなと思い、伺った次第です。
結論としては、この間の方々が『右衛門』であったとしても偶然と考えるのが、自然で、可能性としては、代々ある程度の地位についており、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」か、一代限りなのに無視して名乗り続けたと言うことで理解しました。
『通り名』の「前付」と「後付」も理解できました。親族間の協議と思惑(本家の意向)については、現在から考えると少し驚かされますが、家を守る重要性を感じました。鹿児島県史料の系図を見ていても、様々な想像ができ、楽しく見ています。

ところで、『青木氏と日本書紀』を拝見していまして、気になる部分があり、下記に示させて頂きます。
<抜 粋>
入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40−50程度と観られ、590−630年の間には40−50万人は入国していたと見られる。
第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)

の部分です。この『後漢(高句麗)』は、後漢=高句麗と理解して良いのでしょうか?
高野新笠が武寧王の子孫とか遠戚と云うこともヴィキペリアなどにも記載があり、青木氏サイトでは、高野新笠は阿多倍の子孫の記載もあり、阿智王、阿多倍王は百済王朝と関連があるのかな?と素人考えを持ったのですが。
晋から唐代の後漢と高句麗の関係を教えて頂けますか。宜しくお願いします。



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