青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.858] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/08/12(Sun) 00:21:17

副管理人さん、有り難うございます。
副管理人さんの仰る通りです。僕は、東京オリンピックの辺りの生まれなので、古き良き日本は語れませんが、寂しい世の中と感じます。主観的に物事を考えるのは良いのですが、それが、過剰となり、自己中心となりすぎているように感じます。相手を思いやったりする心が欠落してきている人が多いように思えます。残念なことです。
『仁』、『義』、『忠』の心を自分に時々問いけて、自分を確認しなければと思うこともあります。
 『後漢=高句麗』、高野新笠と武寧王のお答えよく分かりました。
献帝または霊帝から阿智王へと続く系図を見ていると諸説があり、
霊帝→延王→石秋王→阿智王・・・
献帝→石秋王→阿智王・・・
漢高祖→石秋王→康王→阿智王・・など
僕なりの素人的推測で、献帝から後漢王朝嫡流は、永嘉の乱309年劉秋が家族共々匈奴の将軍に殺害され途絶えたと言われているが、難を逃れ、朝鮮半島(帯方郡あたり)に渡り、国を立ち上げた。そして玄孫である阿智王の代で、618年頃、息子阿多倍王、17県の民とともに、日本へ渡ったのではと考えたのです。
そこで、309年から618年が問題となり、国を立ち上げは多くの国の集合体である馬韓で、後に百済となり、百済王族との血縁もあり、百済衰退と共に、先験的に日本に退避した。そうすると、阿多倍王の子孫高野新笠と百済王族武寧王との遠戚も繋がるという推測し、質問させて頂いたのです。
献帝→不詳の太子(延王?)→劉康(康王?)→劉瑾→劉秋(石秋王?)・・→阿智王→阿多倍王
あくまでも、推測でこれから何か分かっていければと考えています。

また、追伸して頂いた大蔵氏族肝付系長嶋氏の『右衛門』の世襲名が、一代限りか永代かについて、なるほどと感動してしまいました。やはり、その一部の狭い視野で物を見るのではなく、「人」「場所」「時」の手法、その時代の背景をもとにした手法、今後、ルーツを紐解いていく中で凄く参考となりました。それに、仕事をしていく中での、ものの考え方にも応用していけることであり、その点においても感謝いたします。
インターネットの情報については、鵜呑みにせず、バイアスの確認も行い、上手くフィルターにかけ、参考にしていくようにしていきます。有り難うございます。

また、4つの質問をお願いします。
1.篤姫の小松帯刀(肝付尚五郎)が被っていたような陣笠とは違い、もっと平らな形の陣笠を被り、城に入る事のできるような人は、藩に於いてどのぐらいの地位にあるのかを調べようと思ったのですが、あまり良い資料が見つからなく、詳しく分かる書籍、図鑑をご存じですか。
2.『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』を副管理人さんでしたら、どう理解致しますか?

3.例えば、2.から感じたのですが、歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。
以前、長嶋次右衛門→長島勘右衛門について
『分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋。
長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。』のお答えを頂いたのですが、
長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。

4.阿多倍と安部氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りか分かれば
今回、の鹿児島旅行では、肝付町と霧島連山周辺へ行こうと考えている為、その辺りにも足を運ぼうと思います。自分で調べてみましたが、探すことができませんでした。宜しければ教えて頂けますか。

いつも質問ばかりで申し訳ありませんが、また宜しくお願いします。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー