青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.859] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/08/13(Mon) 16:42:26

静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。

暑くなって、原稿の整理もなかなか進みません。
暑いのが弱いタイプですので、頭が都合良く回転しません。

何とかそのルーズに成った頭を働かして、少しづつで整理を進めています。

さて、そんな中でお便りありがとう御座いました。

私見にご理解いただきありがとう御座います。
日本が或いは社会が近代化が進めば進む程に、社会が個人に与える責任はよりシビヤーに成り、より個人の能力を要求されます。それは私たち年代の者よりお家の様な年代の方、さらには現在の若者とその近代の進んだ高い能力で維持していく国は社会は人間の限界に近い能力を要求して来ます。
そうでないと、社会も個人も生きて行く訳には行きません。
当然そうなると、個人はその与えられた限界の能力を発揮しようとしてより個人資質を追及し無ければならなく成ります。そうなると、必然的に「個人性」が強く成るのは人間の脳の性です。
その端的に表していて原因の一つとしてあるのがコンピータです。(情報量の整理分析能力の負担)
私達の時代ではなかったのですから、より「近代の能力」を要求されているかが判ります。
かなりの負担増と成っている筈です。
従って、現代の個人性、利己的な態度は個人の意思や資質に関わらず等しく出てくるのも仕方のない事だと思い一理あります。現在の社会現象にこの事が出て来ます。
私は社会が要求している結果であってその「必然的な歪み」として社会現象にあらわれているのであって、日本人の根底にある潜在的な資質まで変化させたものではないと考えています。
当然に、「伝統」等が位の一番に無視されてくる筈です。
潜在的に変化していないのであれば、今は伝統に理解を示されなくても何時か過去のその伝統に目を向けてくる筈だと考えています。(この世は輪廻)
現に我々現在の者が過去の人から観ればより個人性が強くなったと観られている筈ですから、今、理解が示されなくても今その「伝統の記録」を遺しておく責任があるのだと考えています。
歴史を見れば、同じ様にその事を繰り返しています。ただ、「伝統の記録」が少ない所を観れば、今から観れば「伝統の記録」を残す努力を過去は少し怠っていたとも観られます。
お家にしても、私にしてもその努力を今していると見ています。(幸いCpがあります)
潜在的な資質が余り変化していない証拠に東北の震災の時の日本人のとった態度です。
日本人には脳に大きな衝撃を与え遺伝子的な資質を引き出したのだと観ています。
今のオリンピックの日本人の興奮度でも見ると良く判ります。
「伝統」に目を向ける余裕が全てに少なくなった、又はないのだと思います。
私は、[青木氏と守護神(神明社)]のところでも論じましたが、明治から150年の身分階級が無くなり、「自由な血縁融合」が起こっている100年以上経った今が、日本人の融合が完全に興った時期で、新しい日本人が生まれて来て、「雑種融合」の利点の「優秀性」が今の若者に出てくる時期だと観ているのです。
個人性と自由性を大いに発揮し、その裏では民族性の高い態度を示している事として、オリンピックがそれを物語っています。私たちの時代には何か一つの事に拘り頑なところがありました。
それが取れて開放されたと見ていますので、これからは局所的にではなく日本人と日本が広い意味での進化を遂げる時期と観ています。確かに伝統のようなものが無く成っていて寂しい気がしますが、これは一時期仕方がないとも思えます。兎に角は反面で昔に比べ相対的に今が”柔軟性が生み出され民族が優秀に成っている”と観ているのです。
それだけに記録を遺したいと考えます。

さて、本題のご質問やご意見に入ります。
後漢の件ですが、お答えご理解頂けて幸いです。
確かにこの件では諸説がありますが、本説は研究が進んで2つくらいだと中国や韓国は観ています。
私はその内の一つだと観ています。
諸説には、夫々の利害や思惑がこめられた説や小説性をこめた面白半分の説が多く、歴史の経緯性から納得し兼ねる説が多いのです。これは中国も日本も同じですが、特に共産国は個人性は学説の決定には個人性は認められませんので特に別です。政治性が働きます。
また、その様なわざとらしい学説が政府筋の御用学者から出るのです。これは日本も有り得ます。
特に国を跨る内容には思想的、国益的な思惑が挿入された説が多く排除しなければ成りません。
この後漢も中国を中心に韓国そして日本と絡んでいます。
以前に韓国と日本の歴史認識の問題が出て話し合いましたが物別れに終わりました。
実はこれに絡む事として、最近、韓国で大変な発見がありまして、日本の天智天皇と天武天皇の秘書をしていた百済の僧で学者の者が毎日の日記を書いていたものが見つかったのです。
きわめて詳細にきっちりと朝廷の出来事や行事仔細を詳しく書き記した物です。
これには天智天皇の皇子の賜姓や臣下時の事も記載されていて象徴として仏像を送ったこと(青木氏に関わる事等)や日本書紀に書かれている事等が記載されていたのです。
これにより「日本書紀」に書かれている事の信憑性が見直され、かなり史実である事が証明されたのです。書籍の題名は「日本世記」と呼ばれていまして、百済に帰ったこの秘書が持ち帰ったのです。それがこの子孫が見付かりその家から発見されたのです。
この内容から武寧王と阿多倍らの関係がある程度判明していまして、末裔親族を含めて親交は考えられるとしても血縁的な関係は無かったものと解釈されています。
特に「武寧王」の日本での行動は比較的はっきりしていて、その末裔は日本人に成っています。
この当時の帰化人の首魁や亡命者は一定の所に住まわせる事になって居ました。一つは近江と伊勢西北部に住まわせました。「武寧王」と「阿多倍王」とは近隣に居た事は史実ですが、阿多倍王は「高尊王」や「高望王」(朝廷では「平望王」とした)と呼ばれていてその行動ははっきりしていますので、「武寧王」とのラップは不可能です。
阿多倍王はかなり高齢(100歳位)であった事が記録から判っています。
この阿多倍の末裔の次男系列の大蔵氏の太宰大監の大蔵種直(原田の次郎太夫種成 平安末期)が半国領の伊賀北部の名目上の主権を平族と共に朝廷に返上しています。(納税の義務を果す)
この事からのも「武寧王」の関係説は消えます。
特に阿多倍の父の「阿智使王」は朝廷の「史部」(ふみべ)の首魁を司っていて、朝廷の出来事の全ての記録を管理していたので、「武寧王」との関係にもこれ等の記録から作った日本書紀には記載されているのです。大蔵氏の添書にも史部の首魁であったのですから必ず記録として、もし関係があれば出てくる筈です。
日本書紀編集には舎人親王がこれ等の後漢帰化人の史部の官僚50人ほどを指揮して作った事がわかっています。そして、この状況を天武天皇と妻の持統天皇はこの事を嘆いて、”日本人の官僚をこれ等に付けて勉強させて育てる様に”と命令している事が日本書紀等にも記されています。
この事が確かに上記した様に、阿智使王と阿多倍王は大隈の半国割譲と伊勢の半国割譲を受けて伊勢北部伊賀地方に住んだ事が判っていて、阿智使王は高齢に成って退き、薩摩大隈に帰り、後に西鹿児島と熊本の県境の「阿倍」と云うところに移動しています。
ここはお家の3家流の一つ「長島地区」の直ぐ隣です。
(ご質問の件)
この様な事から、「武寧王」と「高野新笠」の関係説は難しいと考えらけれますし、後漢と三韓の馬韓の百済の関係も発見された韓国や中国の歴史史実からこれを覆す事は困難と観られます。
確かに、考えると面白い推理と思いますが。この様な歴史的根拠に基づく事が必要です。
大事な事は推理して頭に締まって置く事です。歴史に関わらず。根拠に基づけば、何か時にひょっと気がつき頭から出てくるものです。不思議です。それを一つづつ潰してゆく事が大事なことだと思います。
私も歴史のみならず論理的根拠に基づき仕事の事でもこの事に徹しました。

次ぎは陣笠の件ですが、書籍は敢えて判りません。この様な雑学は書籍ではなかなか得られません。
例えば、郷士や郷氏で、庄屋や名主等が苗字帯刀と羽織袴を許された者は昇城でできる事に成っています。中には歴史の記録から百姓でも家紋を許された者は昇城が許された事が記録に載っています。
この場合の多くはその手形や許可書のようなものとして、代表的なものとして特定の「家紋使用」が許可され、その場合の家紋の多くは「七三の桐紋」の使用を許されます。
その城主そのものも将軍や関白等からこれを与えられ、これを城主は更には家臣や農民や豪商に与えて特別の権利を付与する一つの仕組みです。上から与えられない城主は自分で自分の家紋に似せたものを与える事をしますが、他の藩には適用しないのです。その様に扱われないのです。
城主も同じの仕組みの中にありますので、将軍などの上位の身分の人に会う時はこの家紋が効を奏します。(この桐紋を与えられた農民は墓も作る事が出来ました)
因みに、筆者の先祖の祖父の代まで紀州藩の殿様の座る位置より上座に座りましたし、座布団の仕様も許されました。「武家発祥源」の扱いでこの様な作法があり、この場合は青木の者が座るまで殿様は座らない事等の「武家作法掟」がありました。(お茶の出し方などの全ての所作を定めたもの)
筆者の先祖は紀州藩の5代藩主で8代将軍と成った吉宗を伊勢で育てたことから、もう一人の本育親の伊勢加納氏(伊勢青木氏と血縁関係)で紀州藩の家老(将軍家の吉宗御側用人)であった者と共に直接会える事が出来ました。
青木氏の本家筋は家紋の綜紋が「笹竜胆紋」ですので、将軍よりも上位の家柄ですので、上位の座に座る事が出来たのです。天皇家と青木氏だけです。この事が歌舞伎にも成っています。信濃青木氏の事が歌舞伎にも成っていますし、同じ様な事件として、他に特に信長の事件と4代徳川将軍との事件が在ります。3事件ともにこの「高位武家の仕来り」を知らなかったのです。
例えば、高位の人を迎える場合、白馬に乗ったままで白の紋付袴の礼服で迎える等、出陣などの場合は馬の上で出陣酒を武将と酌み交わす仕来りがあり、「馬上盃」と云う特別な盃で行う等、高位来客時は高瓶でそのまま差し出す等の所作が決められていたのです。
更には、この青木氏の分家子孫には「布衣着用」で大大名扱いと成り、将軍と言葉を交わすことが出来ました。この様な仕来りがありました。(武家諸法度・公家諸法度等)
例えば、青木氏の末裔や縁者の場合はその藩に届けておけば昇殿や昇城の登城許可が下りました。
そもそも「五三の桐紋」は天皇家の祭祀式紋で、天皇家は財政難からこの祭祀紋の使用の許可を出したのです。鎌倉期から続いていたもので、因って直接「五三の桐紋」を使う事は避けて、これに似せて「七三の桐紋」として権威を持たせたのです。特に秀吉は大いにこの仕来りを使いました。
ですから、青木氏等の事は別として、「郷士」や「郷氏」や「名主」や「庄屋」や「下級武士」や「農民」や「豪商人」等は、先ず一つはこの「七三の桐紋」を持つかどうかです。

次ぎに、藩には「・・組」で構成されています。この組頭は組の代弁者として昇城が可能です。
問題は殿様にお目見え出来るかは別です。(家老職と側用人だけであとは取り次ぎによる)
念の為に、朝廷では従四位から昇殿出来ますが、天皇に会えるのは、発言するには正三位からです。
将軍以外は昇殿や天皇に会える事さえもできません。
後は、武家の社会では大名の大小にもよりますが、「半農武士階級」では戦いで大きな手柄を立てた者で特別に姓を与えられた者には昇城が許されていました。
さて、この様な記録をまとめ上げた書籍はあるのでしょうかのご質問ですが、私は全て色々な記録から得た知識です。書籍にしても売れないのでは。その専門協会の論文や研究資料ではあると思いますが。
これ等を雑誌や単行本や雑談形式での書物にしているものは中にはありましたが限定販売や非売品です。殆どはこの類です。(上記の事は研究室などに全て記載)
そもそも、昔は、書籍に依ってその「規則等の伝承」が行われたのではなく、つまり、マニアルのように者が無かったのです。ではどの様にして伝承したのかと云うと、それはその専門の者或いは氏や家があってその氏や家が極秘に親から子、子から孫へと代々「口伝」で教え込み伝承してその職責を果していたのです。ですから、マニアルのような物があってもそれが「氏や家の生活の糧」に成るのですから外には決して出しません。門外不出なのです。
例えば、忠臣蔵の吉良家です。吉良家はこの役目を担った家であってこの事が原因で浅野家は揺さぶられて失敗してしまったのです。
従って、大名に成るとこの様な専門の者を探し出して何とか抱えるのです。見つけられないと浅野家のようになって仕舞います。このシステムは奈良期から始まったのです。その元は阿多倍一門が率いるこれが「部制度」です。180位の組織で成り立っていました。江戸の末期まで維持されました。
青木氏や藤原氏等の古い氏は自らの家には幾つもの部の組織を置いていたのです。今回ご質問の阿多倍の父の阿智使王は真にこの「史部」の首魁でした。

「青木氏と守護神(神明社)」等の論文にはこの事が詳しく記載しています。是非、全体的に少しづつでも良いですからお読みに成ってください。そうしないと、ルーツ探求などには正しい答えは出ませんよ。
本サイトは100%営利ではありません。ヤフーより歴史カイゴリーではお墨付きを貰いその情報量は日本一段突との事です。否営利な為に某公的な放送機関からも特別に管理人室に情報集めに毎日来ています。そこから情報を得て既に4度関連放送がありました。時代考証などのための知識集めとしても利用されています。ディレクターの方が多い様ですね。ご質問の問い合わせも一度ありました。
実は管理人室にはカウンターが幾つか付いているのです。
恐らくはお家のご質問のこの文章も見ていると思います。

現在感覚で”何でも書籍”は歴史には間違っていると思います。そして、仮に有ったとしても上記で書いた様に全てをその書籍に根拠を置く事は危険です。読み取る事は是とします。然し、「現在書籍本」には其処には「色々な思惑」が介在しているからです。少ないのは純粋な研究書や営利に走らない雑誌から出来る限り取捨選択して雑学を広げる事です。

この極秘の門外不出の書き記したものを集めて本にするにはなかなか難しいのです。発掘と経済的なことから書籍にはなり難いのです。

次ぎのご質問ですが、『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』の件ですが、「温故知新」”古を温め、新しきを知る。”温故、即ち「伝統」や「先祖」の御蔭を受け生かされている自分、つまり「氏家制度」の中で「一族一門」に支えられて助けられ、又、助けする一族の共助社会の御蔭で自分が生かされている。その社会の中で、一生懸命に働き尽くし「氏」を支えて来た。その中でも、「一族の長」としてその伝統、功績、名誉、家を引き継ぎ、累代にその責務を滞りなく果たして来た。と云う事だと思います。
つまり、真意は”「次右衛門」と云う「重い世襲名」を代々長い歴史の下に大変に苦労して引き継いでここに至った自分。”要するに「次右衛門」に全てを物語る大きな意味を持たしています。
大蔵氏系肝付氏族の藤原氏長嶋氏の悠久の家柄、身分、名籍、伝統、習慣を汚れなく護ってきた満足感をこの一説の文章に表現しています。
この文章を知るか知らずか、「次」に対して後にこの文章を末裔は捉えて「勘」と応えたと観ています。
これ以後に直系が続くと「次」と「勘」を含めて、長男の「長」や三男の「三」等その時の状況に相応しい字を世襲名の先頭に付ける事にして選びます。総宗本家筋である事を意味しています。
「縁者養子」や「婿養子」や「跡目養子」等の場合は、その都度、清とか嘉とかその人物の最もたくみにした字を選びます。主に俗名のものが多い様です。

この文章は「身を徹し」と「償い奉り」に大変な意味を持たせています。
大変に苦労した事を表現しています。
昔の文章は、現在の直接表現と異なり、奥ゆかしさを主としてその意を如何にして持たせるかによる間接表現です。歌、短歌、俳句はその表現方法の手段です。
従って、この意味からも、温故、身、寄せる、徹し、償い、次右衛門、ニ代三代の言葉を上手く選び真意を悟らせる方法ですので、上記の様な事に成ると思います。
昔の文章は決して直接表現は採っていません。それは奈良期の昔からある「4と6の規則」に基づいています。5は何れにあるのかはその者の知る範囲だとする考え方です。
日本人に根深くある今でも時には出てくる考え方です。

歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。

さて、歌舞伎や落語の様な世襲芸名とは根本的に違います。
それは、人気家業との違いです。人気家業だから昔の芸人の名を継ぐ事はありますが、それは芸と人気の前提にあります。別の氏のものでもその世襲は引き継ぐ事がありますので別のものですね。
武家の世襲名は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ為の一つの世間への宣言手法です。
根本的に意味が違っています。手形みたいな物です。
その代数はその「世襲」が続く限りです。理由は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ理由がなく成った時に辞めるのです。筆者の家も明治35年の祖父の代で辞めました。
因みに、945年も続いた家業と1365年も続いた名籍もこの時点で社会的にも困難と成った事に因ります。松阪の大火の火元でした。社会に対して大変な迷惑を掛けた事から1365年の名籍を名乗る事を中止したのです。5万石程度の土地等の全財産を賠償に当てたのです。
それまでは、長兵衛でした。正式な世襲名は代々「正三位青木民部上尉長兵衛信定」でした。中には「上尉」のところが「上佐」の人もありましたが、全体としてこの世襲名でした。(信定のところは代々別の名と成る。)
私には、この場合から観て、実質は名籍など残ったとしてもその「財産」が裏打ちされていると考えています。人気手形と財産手形の差と云う所でしょうね。

次ぎのご質問です。
”長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。”
の件ですが、真にこの通りです。
この為には先ずこの「勘右衛門」の次ぎがどの様に成っているかを調べる必要がありますね。
長嶋と長島の違いは3家3流の何れかの縁者養子があって長島系の中に組み込まれた事も有り得ます。つまり、血を絶やさない為にも縁者養子を向かえたが嫡子が生まれず遠戚別家の長島家系の中に組み込まれたが、その後に嫡子が産まれたが、ルーツはそのままにあっても長島家の「勘」であるので勘右衛門とした事に成ります。
日向の永嶋氏、肝付の長嶋氏、長島の長島氏の3家の間の家名の変化を起したことを意味します。
この場合は肝付と長島との間の呼称の問題で、その長島勘右衛門の子供が嫡子の継承があれば長嶋氏に戻す事は可能です。元は長嶋氏なのですから。「家紋掟」でその様に成ります。
この時に家紋の変化が一時興っていて嫡子が出来た時点で戻した筈です。
次ぎの「勘右衛門」の後の事がどの様に成ったのかで決りますのでお調べに成ると良いと思います。
この場合、問題は明治以降の新体制でどのように扱ったのか、それには上記した様に裏打ちの財産の有無も働いてきますね。無く成っていれば長島で続けたことも有り得ますし、明治以降で維新戸籍簿で変更が出来なかったことも有り得ます。
人気芸人の世襲名とは違いますので、武家の「家紋掟」に従っています。

この点に絞ってお調べに成ると良いのではないでしょうか。以前の情報から察するに財産の裏打ちと明治維新の後者の説になるのではないでしょうか。

阿多倍と安倍氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りですか

このご質問ですが、西鹿児島の熊本の県境付近で出水郡長島の直ぐ南下側の中ほどにありました。
昨年来の全国的な総合市町村合併に因って消えた様です。鹿児島大口村の九州唯一の青木村は何とか残った様ですが、全国の青木村も無くなったものが観られます。歴史的な意味の持つ村名が消えるのは寂しい限りです。現在の阿久根市と出水市と薩摩郡さつま町の中間の所にありました。
出水郡の島の長島町の長島は残っていますが、島隣の長島も無く成っています。
確かに合併に成りやすい地域所です。他の全国の阿倍氏と安倍氏に関わる阿倍村も多く無く成っています。「青木村」もそのために地名地形データとして遺しています。私が研究し始めた時から観るとかなり無く成っているのです。

以上です。
兎にも角にも、以前の情報からも大方の推測は尽きますが、「勘右衛門」の次ぎの人の成り立ちをお調べに成る事をお勧め致します。

では又、判らない時はご遠慮なくお尋ねください。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー