青木ルーツ掲示板
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  [No.878] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/12/30(Sun) 11:49:48

長嶋さん今日は。
お久しぶりですね。今年もくれますが、お元気でしたか。
仰る通り色々ありましたね。少し国民は悲観的に成っている様ですが、何時の世も為政者の人柄や考え方が世情に影を落とします。何も仕事が出来る出来ない、と云うよりはその人間の人としての出来具合に左右されるようです。歴史の史実が物語っています。
青木氏を研究していると「長の資質」に左右されている様です。
でも、私は悲観していないのです。歴史的に観ると、現在明治初期より民が開放されて150年の今の日本人は「7つの民族」が本当に完全に融合した時期だと観ています。
諸外国は日本人ほどに「民族の融合」が進んだ国はないのです。必ず諸国の民族は「種の屯」を固守する習癖を持っていてそこから開放されないで進んでいます。ところが日本人は歴史を見ると一度「屯」を起こしますがある時期を過ぎると、この人族の「屯」を開放する不思議な癖を持っているのです。
その為に雑種化が起こり考え方などもこれに合せて融合させるのです。結局、雑種化が優秀な人種を造り上げます。
そして、今やっと江戸期の士農工商の身分制度で融合差別から開放されて明治期の維新に入り「7つの民族」が丁度今「屯の開放期」に入っているのです。これからは優秀な人材がどんどん出てくると思います。筆者の時代のころからを観ると、今の若者は優れていると観ています。
比較対照として、尖閣の中国人の態度や竹島の韓国人の態度を見ると良く判ります。日本国民の「民度」が極めて上がっていると見ています。中国系が20%程度、韓国系が35%程度も融合民族の日本人なのですよ。然し、彼等とは違っています。ノーベル賞でも中国、韓国と比べても歴然と違う事が判ります。
彼等には今だ「屯」−「融合」のサイクルが起こっていないのです。彼等には直ぐ理性を無くし野生動物と同じくカーとする性癖が残っています。
昭和の始め頃にはまだ日本人にはこの野生本能が未だ中国や韓国の様にあったから神風なぞという馬鹿げた考えに陶酔するという性癖から逃れられなくて第2次大戦という大失敗を起したのです。
然し、100年後の現在は逆に日本では更に融合化が起こっているのです。今が最大の融合期のピークだと観ています。だから民度が上がっているのです。
そして、人として優れた為政者に変わればこの融合力のファンダメンタルを持っているのですから、。必ず日本は蘇ります。安倍氏に代わる事で、景気が良くなると云うよりは、この「融合力」のファンダメンタルを蘇させる事が丁度今出来るかと言う事として観ています。彼もその様に云って論調の基盤としています。
全く賛成できます。
そうする事で景気を始めとして+サイクルのスパイラルが起ると観ているのです。
今、「青木氏と守護神(神明社)」で青木氏から観たその論調を展開しています。
8000もある氏姓の中で、この現象を歴史的に顕著に起こしてきた氏は長嶋氏や長沼氏等の「青木氏族」しか無いと見られます。

さて、話が長くなりましたが、ご質問に入ります。
その前に、総理の安倍氏は中国後漢の阿多倍一門の阿倍氏系安倍氏ですね。陸奥国豪族のあの安倍一族の出自で源の義家に滅ぼされ過酷な運命を辿ったあの有名な安倍氏です。ルーツを後漢にたどり着く安倍氏には必ず成し遂げてもらいたいと考えています。中国人知っているのでしょうかね。中国人も皮肉ですね。

ご質問の通名の件ですね。
実は、意味があるのです。
大蔵氏系肝付氏族長嶋氏も大化期には親族であったのですよね。
「兼・・」で繋いで行く場合、「・・」の部分には前の人の「・・」にある種の意味が繋がる字句を持ってくる事が慣習です。それはその時のその家の状況に応じて「・・」を選択する事に成ります。
古来より、仏教的な意味合いがあって、其処に願いを込めます。その為に「三相の理」がその家の発展に大きく左右されていると云う考えが仏教にはあるのです。
「三相の理」は禅問答でも良く使われていました。
「人の理」「時の理」「場の理」です。この何れかがその家の現状の継承しなければ成らない「理」であると説いています。特に古代密教の浄土宗はこの説で「・・」を選択します。これは確固たる情報手段がないころに用いられた古の慣習なのです。
元は賜姓族が用いたのが始まりです。大蔵氏も賜姓族ですが、これが後に分家方式が起こりこの通名が中級武士以上にも用いられる様に成ったのです。元は仏教的なお祓いの意味合いも強かったのです。
 兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉で観てみますと、通名は俗名や幼名と違い子供にそのものに期待する字句ではなく家の状況を託すものであるのです。
例えば、「定」があって「勝」が来ています。肝付氏の歴史の時系列・経緯を観て見ないと正確な事はいえませんが、「時の理」として安定していた状況をより拡大して戦いに勝利する様に、成る様にと、「願い」や「戒め」や「方針」として付けたものとも考えられます。
その「字」の語源や語意を用います。「勝」は「優れる」の語意もありますので「勝利」「勝つ事」は優れる事により「勝利」「勝つ事」になる訳ですから恐らくはこの様に付けたと考えられます。
次ぎの「忠」は前の「勝」に対して「人の理」を配慮して内部の混乱などが起こる事を予想してこれを沈静させるべく子供に託した「忠」と観る事も出来ます。

「直」「次」「吉」「勘」「介」「主」「守」「輔」「資」「工」「修」「理」「斎」とかの「跡目・世継ぎの状況」を指し示す字句でその字句一つに意味を持っています。
これらは、他にも沢山ありますが、「人の理」の官位、官職の字句です。
「人の理」を用いるか、「時の理」を用いるか、「場の理」を用いるかはその家の慣習状況に因って変わりますが、菩提寺の住職がその家の状況を観て客観的に寺の住職が付ける仕組みでした。
菩提寺はその氏の者が住職を務める仕来りでしたので氏の住職が名付け親の役目を果していたのです。そうしなければ氏家制度の氏の中で同じ通名が出来てしまうからで寺の親族の住職がこれを管理していたのです。
従って、当初は菩提寺を独自で持つ特定の氏の慣習でしたが、室町中期頃から上級武士、江戸期に入り中級武士、江戸中期では下級武士までも勝手に使う様に成ったのです。
昔は菩提寺が博学をベースとしていましたので、その氏の歴史関係や戸籍や系譜等を取り纏める役目と情報管理の保管等を果たしていたのです。
その氏の官位官職は全て把握していたので上記の字句をつけたのです。
因みに、「直」は”あたい”と呼ばれ官職で、例えば、古いところでは、後漢人の軍事職能集団の「東漢直」(やまとのあやあたい)があります。漢氏や東漢氏は蘇我氏の軍事職業軍事集団でした。
勿論、大蔵氏と坂上氏と内蔵氏と山本氏等の親族等はこの「直」の「永代官職位」を持っています。
これに肖って付けたと考えられますが、場合に依っては一代限りの官職を獲得したと云う事があります。
この場合は、「人の理」から「兼直」からは次、吉等の「一代限りの官職位」を獲得したとも考えられます。
この状況から観ると、「時の理」から「人の理」に途中から変わっています。
兎も角も、菩提寺や時代性や家の歴史経緯の関係を観て判断すると良いと思います。「官職の状況」を期待して付けたと観られます。
長嶋さんは今は表の情報を集められていると観ていますが、これからはこの様な裏の情報を研究される事をお勧めします。そうでないとこれ以上は進まないし正しいルーツにたどり着けないと考えます。
大蔵氏系はこの「直」と「輔」とかをよく使っています。「兼直」から氏が安定していた事からこの官職位を付けたことも考えられます。
一度この先祖の時の状況をお調べになるとその時の先祖の生き様がよく判ってきます。
筆者は研究の基礎は寺にその解明する糸口があると観て俗名や戒名や通名や世襲名や官位官職をベースに紐解く事をしました。(表に出ている情報には信用出来ない思惑が潜められています。)
それは特定の氏や家などの情報は「菩提寺」がその管理の役目を果たしていたからです。
インターネットや書籍などに記載されているのはあくまでも「氏の外枠のもの」であって直接の自分家の内容とは限りません。よほどの本筋としての資料や証拠が遺されていないと確定は困難です。
この様な揉め事が江戸期に起こって戦いと成った事が各地で多く起ったのです。あくまでも自分の直の家筋は菩提寺にしかないのです。その様な習慣だったのです。菩提寺が無ければそれで終りです。
檀家寺は人別帳ですから履歴は取りません。
そもそも氏を構成する室町期中期前の家筋以外にはこのルーツの概念がそのものが無かったのです。
凡そ200氏程度です。故に、江戸期の姓氏には本来ないのですが、なんとかルーツを造るために搾取が横行して系譜を強引に作り上げたのです。未勘氏族が多いのはこの為です。造り上げた物には当然に慣習からの矛盾が生まれるのです。
そして、その見分ける事が出来る一つがこの通名や世襲名です。

「人、時、場」の夫々3つに関わる「・・」が書ききれませんが沢山あります。「人の理」からでも上記の様に沢山あります。この「・・」と「氏家のその時の経緯」とでこの人物の大まかな事が判ってきます。「人」から来たのか、「時」から来たのか、「場」から来たのかはその経緯で判る筈です。その3相の何れであるかの事を判るだけでも生き様がわかってきます。この慣習は江戸期中ごろから誰でもが使って付ける慣習に成りましたが、本来はある一定の身分の者が宗教的な意味合いで用いていたもので、その慣習は今でもその慣習が遺されていて特定の人に戒名として院殿居士をつけてその人の生き様を読み込む風習が遺されています。

次ぎは世襲名ですが、これも上記と同じです。
左衛門や右衛門はある特定の氏しか世襲名として使えなかったのです。
朝廷より信頼される賜姓族で主に朝臣族や宿禰族がこの役目を果たしていました。
青木氏を第一として藤原氏、次ぎに源氏や橘氏や平氏の賜姓族でした。
阿多倍一門は近衛軍ではなくて自らの物部の兵の職能集団を率いた朝廷軍でした。
左衛門右衛門はこれは宮殿と皇族の身辺警護の近衛軍の官職名です。
普通は左衛門などの後ろにこの階級が付くのが本当の呼び名です。
青木左衛門上佐信定とかと成ります。この様に後ろに付いているのが本当の名です。
江戸初期では最初は幕府からの推薦で朝廷に金品を渡し一代限りの官職名をもらいましたが、中期以降は誰でも勝手に使う様に成りました。
大蔵氏は賜姓族でしたのですが、肝付氏がこの役にあったかは疑問ですが、本来は意味を持つものでした。兎も角も本家筋が使うこの世襲名の前に「次」と「勘」を使うのには意味があり、「次」とか「継」とかくると、婿養子や跡目養子や貰養子等が入るとこの状況を明確にする為に「次」又は「継」が附けられます。
ところがこの「次」から3代続きで養子がなければ、その時点で一応その男系血筋が整った事に成りますので、その時点で”血筋は整いましたよ”として世間に宣言として「勘」をつけるのです。
(昔は「勘」に対して整っていない場合は「未勘」と云う言葉を使われました。)
この様に、その状況に因って前にその状況を意味する字句を持って来るのが慣習です。
その字句でその時の世襲状況が判る様に成っているのです。「万」とか「作」とか「本」とか「継」とか「兵」とかです。
次ぎに左衛門と右衛門には大した意味がありません。
「左」を主として「右」の格式と成りますので、ここで継承に何か状況を下げる事があった筈です。
例えば、格式で下にある分家から跡目をいれた等の事です。
ご質問の2件はその時の家の状況を何らかの形で物語るものに成っているのです。
家の歴史の時系列と合せて観れば直ぐに判る様に成っていて、昔は菩提寺に行けばそれが判ったのです。従って、檀家寺ではなく菩提寺がないお家ではこの慣習は本来無い筈です。江戸中期以降の民の慣習と成りますので意味を持たなく成ります。

以前より、菩提寺を重点的にお調べになる様にお勧めしましたが、昔のルーツはこれ無では無理と考えます。そもそも菩提寺の役目はその氏等の関連する現在の市役所の役目をしていたのですから、其処に殆どの史料関係が遺されていたのです。

事程左様に、歴史的な事件などの経緯を時系列的に纏めて、それと菩提寺の資料等と付き合わせる事で何かが判って来ます。そのような努力無では生のルーツがでないと思います。
そして、それを文書や物語化して後世のロマンとして伝統として遺して上げれば後世の人の心の巾や深さが高く成ると考えます。
そうすれば、私達より優秀な融合で生まれた子供達に大きな心の影響を与えるのではないでしょうか。それが私たちに与えられた務めであると思います。
筆者はその意味で青木氏に限定してその務めを果たそうとして研究して投稿しています。
幸い中学生や高校生が本サイトの投稿を多く呼んで頂いている事がカウンターではっきりと判っています。
長嶋さんも纏められましたら是非物語風にしてでも青木氏サイトに投稿してください。室町期まで「青木氏族」として続いた長嶋氏ですからね。(青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏の5氏の青木一族)
(青木氏より大きい氏の悠久の歴史を持つ永嶋氏が自らの氏書を纏めていないのが不思議ですね。青木氏と佐々木氏が長嶋氏の事を調べているのもこれまた不思議ですね)

では、又お便りください。お待ちしています。



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