青木ルーツ掲示板
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  [No.880] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/01/02(Wed) 09:28:51

長嶋さん 今日は。
おめでとう御座います。本年も宜しくお願いします。

さて、早速のご返事読ませて頂きました。

「個々のルーツ」をより正しく検証するのは、矢張り「菩提寺の確定」に尽きると思います。
ただ、一つアドバイスとして、この「菩提寺」の定義として、”自らの氏だけを祭祀する”としての「独善の自営寺」と成りますが、その家筋により室町期中期以後の場合に置いて、「下克上」が起こりましたので。この「菩提寺」を失ったとする氏がいて「下克上」で母体が弱体化して「菩提寺」を持て無く成った氏が起こりました。この場合は、その寺は近隣の「檀家寺」に定めますが、元より自営独善寺でしたから「浄土宗」の場合は「密教」でしたので周囲に浄土宗寺が無い場合があります。
其処で、「真宗」に切り替えた事が24地方等で起こっています。特に藤原一門の青木氏族にはこの「真宗」の氏が各地に多いのはこの事から来ています。当然に大蔵氏系肝付氏の長嶋氏は真にこの対象の氏に当ります。
九州鹿児島はこの「密教の浄土宗」が殆ど無く、もし浄土宗となればより「自営独善の寺」でなければなら無く成りますが、大化期からの悠久の歴史を持つ肝付氏は元は朝廷の五大官僚族の伴氏との血縁族ですので、慣習上は「古代密教の菩提寺」であった筈です。ところが島津氏との戦いで破れこの「古代密教の菩提寺」は先ず焼失した筈です。
当然に、島津氏は江戸初期の徳川家康の「浄土宗の禁令解除の督奨令」までは浄土宗ではありませんでしたから、肝付氏は浄土宗を維持する事は不可能になっていた筈です。家臣と成ったものが藩主以上の格式の浄土宗を維持し、又負けたのですからこの寺そのものを維持する事は慣習として困難であった筈です。まして家臣に成っていて密教の浄土宗を維持する能力あったかが疑問です。
そうすると、次には「真宗」とする慣習が秀郷一門の血筋を受け継いでいれば絶対的に出て来ます。
鹿児島には浄土宗派は4寺しかありません。高級武士や大名に許されたこの浄土宗寺での確認作業と真宗の確認が必要ですね。
室町中期以降の島津氏に敗退した以降の菩提寺として確認が必要です。
次ぎに、この島津氏に敗退前、即ち、室町期中期前の肝付氏の地元の日向域での浄土宗の菩提寺の確認が必要です。ここには室町期中期以降の肝付氏族永嶋氏3氏の一つの中ほどの永嶋氏と、元からの北よりの大蔵氏系永嶋氏と、日向南よりには肝付氏族長嶋氏が存在していましたので、この3地域の浄土宗と真宗の確認が必要です。南よりの地域の可能性があります。
もとよりこの地域の2つの宗派は少ない筈ですから、調べる事は可能です。
ではその検証の特長とは、「人、時、場」の何処にポイントを肝付氏族長嶋氏の場合は置くかという事に成ります。歴史的経緯から、その寺を菩提寺にするかは、「時>人>場の条件」が成立する事だと思います。前期と後期に別けて、「時」は長嶋氏の発祥期頃、「人」は初代か最大勢力の人物期頃の人、「場」は上記した様に前期と後期に別けてその時代の変革期の定住地と成ります。
これらが、3つ条件が良く矛盾がすく無く合った時に、可能性が最大と観るべきと考えます。
確定は歴史的経緯から鹿児島、宮崎は困難と見られます。可能性の確率ですね。
私は、室町期中期を境に宮崎から鹿児島に移した可能性があると考えます。(島津氏の影響)
そして、この時に浄土宗から真宗に宗派変えをしたと観ます。変えなければ無理な状況に追いやられたと観ます。以前の書きました永正3年頃で 兼重−兼成−兼幸の頃の前後の高山の頃で、天正8年に元の高山を領地として貰い宮崎から鹿児島に移りますので、この「2つの時代期、国の場所、当主の人物」の頃が寺を左右する事が起こっていますので可能性があると見ています。
このいずれかの前期は浄土宗か後期は真宗として観ます。三雁金紋を中心に。
元の勢力域を堅持していた兼成−兼幸の頃と 最大勢力は旧来の地の日向域を確保した兼続と、最低勢力は全てを失った兼道が境に成っています。この3ポイントか菩提寺を決める時期と見ます
兼幸のころか、兼続のころか、鹿児島の兼道かと成りますね。
お家の長嶋氏としては兼続の頃かなと思います。
兼幸は肝付氏の印象、兼道が長嶋氏の印象、兼続は肝付け長嶋氏の両方の期の印象となるでしょう。
菩提寺は氏に取って最も大事な事なので、この3期のところで決めていると考えます。

「真宗」を檀家寺として長く菩提寺役として使っている可能性がある筈です。
浄土宗は江戸期に島津氏の宗派変えをしていますので、4寺しかなけれは島津氏のものと考えられます。元は浄土宗族としても主君と同じと云う訳には行きません。兼道の時に真宗に変えている筈です。
尚、真宗と同じく浄土宗系の時宗もありますが、最後に見つからない時には調べられると良いと思います。

菩提寺は当時の慣習からどの様な時期に定めるかは時代が動いていますので上記の判断が必要です。

兎も角も、論理的に調べてください。

この様な調べた事を書きながら、その当時の時代の変異や経緯を添えながら添書として系譜を作り上げる事で物語が出来上がりますので、子孫として完全な由来で無くてもその生き様を求めると思いますので”より確率の高い論処で”主観を交えながら纏められると良いと思います。
完全な事は現在では特に肝付氏族長嶋氏の場合は困難ですね。
今までの事だけでも纏めれば子孫にとって面白い相当な由来書が出来ていると観ますよ。
最後は元のところの菩提寺の論処だと思いますよ。筆者のお家の論処も書き添えて造り上げれば、肝付氏族長嶋氏の始めての「平成由来書」が出来上がるのではないでしょうか。
そして、その場合、青木氏族として本サイトに投稿して下さい。
サイトもそれでこそ大化期から元は最大氏でしたから、「日本一の氏の最大サイト」と成ります。現在もヤフーによれば最大との話があります。努力はしていますが今だ永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏の青木氏族まで充分に手が廻りません。
現在もお家のご質問で掲示板には長嶋氏の方もカウンターから観ても見て居るようですよ。
何時か物語風に纏められて投稿して戴くとありがたいですね。

それには青木氏本サイトがご協力致します。

追伸 前回のお答えの左衛門の階級が判りました。
兼重の弟の兼成の子供を養子として永代の左衛門尉兼幸です。



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