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  [No.905] Re:品川さんルーツのお尋ね
     投稿者:品川さん   投稿日:2013/05/11(Sat) 16:15:57

[3167]
> 何度も申し訳ありません
>品川です。
>2013/05/11 14:20 - パソコン
>  何度も申し訳ありません
>消去キー が作れず 何度も申し訳ないと思ったのですが こちらから失礼します。


>書き忘れてしまった事なのですが 宗派は日蓮宗との事です。

>家紋の事なのですが [藤に祠紋]は珍しい家紋なのでしょうか?

>恥ずかしい話ですがまだ家紋の確認ができてないのですが 上がり藤?に祠紋というのは 藤の中に祠が入ってるという感じでしょうか?

>上がり藤といってますが違う [藤に祠紋]もあるのでしょうか?


>こちらからおじゃました事を深くお詫びいたします。

品川さん 今日は。

早速ですが、追伸に対してお応えします。

「藤に祠紋」は大変珍しい家紋です。前のお答え通り、日本には凡そ家紋は8000程度あります中では、極めて珍しい家紋類です。

次ぎのご質問ですが、手を上に向けて丸を作ります。その中に祠を図案化したものを中に入れます。
この方式は、藤原氏が用いた文様方式で、祠紋を家紋とする氏が居て、その氏の血筋の流れを汲む藤紋の一族である事を意味します。
この副紋方式を真似して造った家紋が沢山あります。
本当は藤原氏一族が使う方式なのですが、藤原氏以外の氏も何らかの理由でこの方式を真似したのです。
例えば、血筋は無いのですが、遠縁に当る為に許可を得て用いた等もあります。
中には藤の花では無いものに別の家紋を入れて完全な偽紋を造ったのもあります。
一見して、見分けが着きません。
藤紋144紋中、20紋程度がこの方式を使っています。

さて、お家の家紋が、この藤紋の上がり藤紋の藤原氏の藤の花の紋様かの確認が必要です。
次に、そもそもこの祠紋が珍しいのです。それにこの藤紋?の中にこの祠紋が入る文様と成ると更に極めて珍しい文様です。

この家紋の上がり藤を使う家紋は家紋の中では実は新しいのです。
江戸初期に多くの下級武士も家紋を持つ様になりました。それまでは土地をもつ中級以上の武士階級が家紋を持っていたのですが、この時にこの上り藤紋に似せた家紋を沢山作ったのです。
その上り藤紋の中にこれまた珍しい祠紋を組み込んだ文様と成ったのです。
従って、江戸末期か明治初期の家紋類と成ります。

藤紋の藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家がありましたが、同族争いの結果、北家を除き殆どが滅亡しました。
この上がり藤紋は、北家の一部とあとの3家の家紋類です。3家は滅亡していませんので、北家の一部の摂関家が使用する家紋と成ります。摂関家も公家衆となって一部残ります。
元々は藤原氏は下がり藤紋です。
従って、江戸初期と明治初期には類似紋を使っても子孫が居ないので文句が出ない上がり藤紋を使ったのです。
更に元々「下がり藤紋に副紋方式」なのですが、これに似せて「上がり藤紋に副紋方式」を用いたのです。
そもそもの「上かり藤紋」は公家衆で武門ではありませんので、この「副紋方式」そのものがないのです。
「公家」の家紋はそもそも「武家の家紋」では無く、「象徴紋」を前提としているのです。
つまり、文句が出ないように中に更に副紋の文様を入れると云う事が起ったのです。
そもそも、「下がり藤紋」にしろ「上がり藤紋」にしろこの紋は「藤原氏の綜紋」で、個人の家の家紋ではありません。この綜紋を引き継ぐ事ができるのは極めて限られた数の宗家筋一門だけです。
「上がり藤紋」を使う云う事態が搾取なのです。そこに「副紋」を使い、更に、「祠紋」となるとその使用そのものと、時期を限定する事が出来るのです。
本来通常使わない紋を通常紋として使っているのですから、議論の余地はありません。

さて、宗派が日蓮宗との事ですので、家柄も絞られます。
農工商の身分の者と下級武士が入信する宗派です。
この日蓮宗で、家紋を持っている事、新しい家紋類である事、珍しい家紋である事、類似紋である事、から答えは限られてきます。後は「藤の花」が藤原氏の藤の花の文様を使っているか否かで答えは決まります。
然し、更に、問題なのは、藤原氏は日本一最高の身分と家柄を誇る氏です。この氏は同族血縁を主体としながらも、江戸期には高級武士との血縁をしました。「祠紋」は珍しい文様である様に、子孫が少ないことを意味しますので、この藤原氏と血縁できる身分と階級ではありません。

つまり、血縁関係を江戸末期まで結ぶ事はまずありません。従って、藤原氏の正規の「上がり藤に祠紋」はあり得ない事に成ります。更に、秀郷一門の「下がり藤紋に副紋」はありますが、公家衆の「上り藤紋に副紋」は先ずあり得ない事を意味します。そもそも公家衆には自らの氏を武力の護衛軍で守る慣習がありませんでしたので副紋方式は必要ありません。

と成ると、明治期の家紋類と成り得ます。更には、全国家紋8000の中にも無い家紋類ですので、明治の時に財をなして家紋を作った、姓を持ったと云う事に成ります。この搾取偏纂の現象は明治期にブームのように起ったのです。むしろ、明治維新政府が今までになかった苗字などの伝統概念のながで、庶民に苗字を持たす為に積極的に周囲の武士の氏名を使用させるように指導したのです。
一夜にして、郡全体が同じ姓名の家が増えたのです。国民全員が姓名を持つのに約く8年もかかったのです。なかなか諸民は持たなかったのです。そこで政府は強引に持たしたのです。
特に藤原氏の氏名は関東東北北陸では一夜にして県郡に興りました。
藤原氏そのものが宗家以外は藤原の氏名を名乗る習慣がなく、例えは、伊勢の藤原氏であれば伊藤氏の様に名乗る習慣でした。この後ろに「・・藤」が付かない氏名をもつのは秀郷一門主要5氏あるいは8氏しかありません。後は全て「未勘氏族」(藤原氏を装った氏)と呼ばれる姓です。

祖父の段階までしか現在でも解らないと云う事は、この事を意味しています。
何故ならば武士であれば、少なくとも菩提寺があり、「伝統」を守りますので、最低でも4代-5代前くらいまでは完全に判っています。「永代供養」と云う習慣が武士にはありましたので、最低でも先祖の「曼荼羅」がある筈です。
「本家の墓」に行けば法名も書いているし、判らないと云う事はありえません。法名の形でも身分家柄は直ぐに判ります。

藤紋の確認とともに、一度本家や法名もお調べに成ると直ぐに判りますよ。江戸期のご先祖が判るとしてそのお住まいに成っていた村の名前でも判ります。
武士はお城の家臣長屋か与えられた城屋敷で住まいしますので、村名でもわかりますよ。

その前に、先ず日蓮宗ですので、もとより過去帳はありません。人別帳ですので、ご先祖の法名も解らない筈です。先祖も辿れません。(西関東と日蓮宗は地域的にも一致しています。)
つまり、だから解らな無く成っているのです。そうなれば、江戸初期か明治初期かの答えは先に出ます。
万が一のこともありますので、藤紋と本家筋と法名と出自地を確認が必要です。

ではまたお便りを下さい。



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