青木ルーツ掲示板
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  [No.907] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/13(Mon) 14:48:14

御質問1
>長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
>そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
>長嶋武右衛門貞国が、肝付兼樹、兼亮からの系統なのか、当家の次右衛門からの系統なのか分かりませんが…。
>また、大蔵氏系長嶋氏と言う事もあるのでしょうか?
御質問2
>大蔵氏系長嶋氏の長嶋種武は菊池氏と血縁を結んでしますし、その他にも大蔵氏と菊池氏の血縁も見受けられます。
>九州の長嶋氏で『違い鷹の羽紋』を持つ長嶋氏は菊池氏との血縁の関連からかなと推測し、岐阜、>
>三重などにも『違い鷹の羽紋』の長嶋氏があるので長嶋武右衛門貞国との関連性を推測したのですが。
>また、長嶋武右衛門貞国は安土桃山期の方なのでしょうか?それとも江戸初期の方なのでしょうか?

静岡の長嶋さん 今日は。

さて、この「武右衛門貞国」なる人物の詳細が掴めません。
結城永嶋氏は平安期1000年頃の発祥で、その後「関東屋形」としての大豪族として伊勢長島まで勢力を伸ばしたのは鎌倉期末期から少なくとも室町期の初期の頃で、この人物の末裔(2)と観られる一族が伊勢長島で「分家」(説2)を伊勢で興したのは推測として安政4年の前くらいと系譜からの変異で推測します。

この人物の伊勢長島の末裔(1)が岐阜と静岡に移動していますので、その時期は信長−秀吉の時代の少し前と経緯から計算されます。
その分家の末裔(2)の長嶋氏の末裔が、その後にこのルートを頼って移動して行く事に成ります。
この末裔(1)の移動経緯の原因は、「宗家の結城永嶋氏」の信長−秀吉の軋轢から、全国の永嶋一族一門が対抗する為に後方支援に廻った歴史的経緯があります。
この時に、「九州の永嶋一族」と「肝付氏の長嶋氏」も後方支援に廻ったものと考えられます。
この後方支援に廻った時の「肝付氏族長嶋氏」(説1)か「安政の頃の肝付氏族長嶋氏」(末裔2 説2)の何れかが、伊勢長島で「元祖貞国」の「分家」を興したかは不明なのです。

つまり、この結城を始めとする「永嶋氏の家」から鎌倉末期の「元寇の役」で九州に派遣され定住し、「大蔵氏系永嶋氏」から「大蔵氏系肝付氏族長嶋氏」(宮崎の永嶋氏、肝付の長嶋氏、阿多の長島氏)まで血縁を拡げますが、恐らくこの過程で「宮崎の永嶋氏」から「肝付の長嶋氏」に成った時に、「伊勢長嶋氏」からこの「肝付氏族長嶋氏」に「跡目」を入れた実家先が、「伊勢長嶋氏」のこの「武右衛門貞国」の家からであったと考えられます。
だから、一族でありながら「永嶋氏」から「長嶋氏」に変化しているのです。
そして、再び、武蔵で永嶋氏に変名しているのです。
故に、「初代」と記述しているところから、つまり、元祖は「武右衛門貞国」としているのであって九州の人物では無く、「肝付氏族長嶋氏」の伊勢長嶋氏の「元祖」、又は「実家先の先祖」を表現しているのです。決して「武右衛門貞国」が肝付氏から来たと云う事ではありません。

そして、「何かの理由」でこの実家先に「肝付氏族長嶋氏」の一部が戻って、この実家の分家の分家として表現しているのであってここで興したと観ています。(説1と説2)
筆者はこの両方が興って、説1で分家、説2でここを頼った。そして、末裔1の移動先の岐阜と静岡に子孫を遺し、そこを頼って末裔2が移動して行ったと推理しています。
その移動過程で、幕末安政の頃にその末裔2の一部が静岡に何らかの理由で留まったと見ています。
その移動理由は幕末の薩摩藩の「買い付け」にあったと考えられ、それ故に実家先の移動先の伊勢長島と岐阜と静岡の移動経路を再び辿った事に成ったと考えられます。
筆者は「貞国の分家」は「説1」が興したと考えます。
これを肝付から来た「末裔2」が頼ったし、移動したと見ています。その最終は矢張り末裔(1)の武蔵の平方に辿り着いたと考えられます。

仮に、お家がこの末裔(2)の者の一人であったとして、それが静岡で留まった末裔では無いかと見ているのです。
岐阜と静岡にも長嶋氏が存在するのは、元々の伊勢長島の本家長嶋氏と、末裔(1)の長嶋氏が存在している事に成り、この時に末裔(2)の一部の者が何らかの理由(木材買い付け)で残留した事に成ります。

故に、仮にお家の先祖が薩摩を出たとして静岡で留まってしまって、家紋も宗派も法名も家柄もルーツも姓も伝統も何もかも途絶えてしまったとも考えられます。
ところが筆者が書き記し出来る程度に、武蔵平方郷に辿り着いた末裔は厳然と必要な伝統を引き継いで現存しているのです。

以前の最初からのお答えからも、これらの情報を先ず調査して確認して、矛盾無かった場合に、肝付氏族長嶋氏の末裔であるとすべき事を提案し忠告しています。
以前これ等の情報は何度も申し上げていますが全く頂いていません。
初回から提供いたしました全ての資料と記録はお家を限定として申し上げている訳ではありません。
「一つの氏の経緯」を申し上げています。それがお家であるかは判りません。
ところが、この証拠を裏付けることも無しに、独自に先行してルーツとして決め付けて発言も「下記ご意見」の様に投稿されていますが、その事は自由ですが、根拠無くサイト発言とサイトの回答を利用される事は、サイト運営上好みません。念のために、筆者と青木氏氏サイトは確定はしていませんのでご留意してください。

実は、ところが、最近の筆者の調査では、この「肝付氏長嶋氏の末裔」と観られる家筋が肝付の付近に現存されていて存在が確認されています。この家の家紋や宗派や家柄や姓も伝統記録や法名や過去帳も全てが矛盾無く持ち合わせています。恐らくはこのお家が本家末裔と考えます。
この本家筋が見つかった以上は苦情が出ることも起こりますので、是非、提示する必要な情報を無視されること無く是非にご提供ください。

(以前提供しました系譜の下記の「ご意見」の系譜の部分に対しては、お家である事の証拠は何も有りません。更に本件もお答えすれば追認した事を意味しますので、お宅の常套手段のやり方に異議があります。)

今回も含めて、薩摩からはこの様な「長嶋氏の末裔」の定住移動が筆者の資料から分析すればあったとしているのです。上記の様な事柄を確認された上での「末裔2の残留者」と確定できるものです。
既にただ一つの戒名だけの提供がありましたが、この事からも上記の「末裔1」と「末裔2」の戒名がその相当な家柄等を示す伝統ものを完全に持っていますので、その意味からしてお家が「末裔2の残留者」の者とするには大きな疑問が残ります。その様に以前お答えいたしました。
従って、他の筆者が提示する情報を是非提供いただいた上でのお答えしたいと思います。恐らくは戒名からも大きな疑問がありますが答えが出ると思います。

因みに、この「末裔1」の平方での家紋は変名して「長嶋氏」ではなく「永嶋氏」で「立沢瀉紋」です。
この沢瀉の文様は三重東、愛知から静岡にかけて拡がった文様ですので、これが平方にある事はこの地域から移動してきた事を物語ります。
元は何であったかは不明で家紋掟に依って変紋したと観られます。
参考として大蔵氏系永嶋氏一門の「三雁金紋」から変紋しています。
肝付氏族長嶋氏にはいくつかの家紋群があります。この中にあるかの問題も含んでいます。

何度も申し上げていますが、上記の様な情報を確認していただければ、他に持ち合わす資料から「末裔2の残留者」のお家である事が確認出来るのです。
今回は元祖とその歴史的史実の経緯を提供いたしましたが、お家に確定している訳ではありません。
今のところではお家はその戒名からは疑問です。(末裔1と末裔2は疑問矛盾は少ないですよ)

質問2に付いては質問1でお答えはできていると考えます。

ご意見
> この伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている未勘一族と当家の長嶋と関連する可能性はあるのかもしれないですね。
> 肝付(長嶋)兼道→肝付幸之丞兼継(肝付兼樹の養子)→肝付次右衛門兼弘(初代長嶋次右衛門兼弘)→次右衛門兼定→次右衛門兼勝→次右衛門兼忠→次右衛門兼光と続き、兼光の代で嫡子がいなく、長島勘左衛門兼直が養嗣子となり、そして勘左衛門兼直→勘右衛門兼次→勘右衛門兼吉(長嶌太吉)となります。養嗣子の勘左衛門兼直は助貞という名もあるようです。
> この『助貞』は気になります。
> 長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
> そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。



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