青木ルーツ掲示板
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  [No.927] Re:埼玉県の青木です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/10/06(Sun) 20:05:07

入間の青木さん 今日は。

お便りありがとう御座います。

ルーツを知る事は、ご先祖が引き継いで来た「お家の伝統」を知る事になり、お家のご先祖の生き様を知る事にも成ります。
藤原秀郷流青木氏は他の氏に比べて悠久の歴史を持ち無視する事のできない伝統を持ち得ています。この伝統を知る事は自分の生き様にも参考に成る事でもあり、生きる助けに成ります。
時代が変化しても人の生きる様は大して変わりません。その意味で伝統に関わる事には心を豊かにしてくれます。
筆者は、”「過去の自分」と「未来の自分」の輪廻”だと云う考えを持っています。
”子や孫は自分の分身”云う考えです。孫が生まれた時に無条件に無意識にうれしく可愛く感じますし、不思議な安らぎを感じます。
これは、”人は子孫を残す事に一義があり、「現世の喜怒哀楽」には有らず” と云う事を脳が覚えている事を物語ります。他の生物と変わりません。
この事から「青木氏」には「家訓10訓」が遺されていてこの中にも書かれています。
因みに、科学的に観ても、子供の血液型が同じであれば、その親の遺伝子の85%の遺伝子を引き継いで居ます。つまり、これはまさに「分身」を意味します。
サイトでは、その意味で「ご先祖の生き様」を研究して記録を載せています。

今後共に何なりとお尋ね下さい。

さて、お便りに付いて、「青木氏に関する過去の慣習」がお家の中に遺されていますので、お知らせします。
先ず、「臨済宗の柳沢吉保の三芳町の多福寺」の件ですが、昔の慣習は氏家制度の中で営まれていましたので、氏の一族一門の本家に従ってその寺を菩提寺か檀家寺とします。
お家のご本家がこの多福寺に有るとすると、お家は江戸時代は郷氏であった事から昔の氏家制度の慣習では分家が他所の寺になる事はありません。
何故ならば、全て、ご本家の慣習に従います。もっと云えば一族の冠婚葬祭の儀は分家が独自に営むのではなく本家が主催するのです。
判りやすく云えば、分家の生計の根幹も本家の背景で営まれていたのです。
冠婚葬祭のみならず、一般の出来事もご本家のお伺いを立てて、あるいは相談して進めます。
本家が、何事にも前面に出て面倒を看るのです。
従って、一族一門の行動と結束を高めて統一する為に、「家訓」などがあり、一族を見分ける為に「家紋」があり、更に詳しくするために「通名」「襲名」などを使いました。
恐らくは、ご本家に沿って、明治後、この習慣が無くなりましたので、昭和になってご曾祖父が後に再びご本家の菩提寺に戻した事に成ります。
故に、前回のお答えの通りの経緯となり、それを明治期に生きたと観られる「ご曾祖父の行為」が証明しています。
ご曾祖父はこのような慣習を十分に知っていたと考えられます。故に本家筋のところに戻したのです。

余談ですが、そもそも、更に、古い平安時の本当の一族一門だけを祭祀する独善の菩提寺は、現在の研究では密教形式の浄土宗の「西光寺」ではないかと見られます。
入間ですので武蔵国か常陸国の「西光寺」になると予想されます。
「青木氏の神社」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」です。お近くの「神明社」がお家の青木氏の独自の守護神です。
お家などの116氏の秀郷流青木氏は菩提寺は当然の事として、この神明社も自らの力で青木氏に関係する各地の地域に490程度もの神社を建立しているのです。

「剣片喰紋」族は、元は愛知-静岡の付近に定住し分布し、その勢力を張っていた秀郷流青木氏の家紋類です。当然に藤原氏でもありますので、藤原氏の守護神の「春日神社」も2つのお家の守護神です。
そして、お家のご先祖は、上記した「氏家制度」を維持し、「藤原氏」と「賜姓族」の「青木氏の家柄や純潔性」を維持する為に徹底した「24地域の116氏の同族血縁」を前提としていましたので、恐らくは、この慣習の中で嫡男に恵まれずに「愛知の青木氏」から養子を迎えたが、再び2度も嫡子に恵まれずに「家紋掟」により「養子先の家紋」になった事を意味します。
この意味でどんな事があってもご本家は嫡子をはずす事は出来ませんのであらゆる手立てを講じてこれを守り通す責任を持っています。そして、総紋の「下がり藤紋」を守り通します。江戸中期からはこの慣習も緩んだのです。しかし、分家筋のお家は丸に剣片喰紋を維持したと見られます。
この家紋類は、実は、四国阿波国の秀郷流青木氏にも多いのです。

次に、過去帳の件ですが、これにもお家のご先祖の「青木氏独自の慣習」が遺されています。
「過去帳」や家系図は、本来はご本家が菩提寺に保管しているものですが、実家では、分家のお家の様に、ご分家ですので、ご先祖の一族の関係者の人を書き記した帳を置いておきます。
そして、「古来からの仕来り」として、その「ご先祖の人」は、「5代前までの身内のご先祖」と、「親族の3代前の親族」などを書き記した物を遺します。
仏壇では、法要では3代前までを原則祭祀する事、墓所では、3代まで墓を作り、50年経るごとに順次「先祖墓」に入れてこれを繰り返して行く事に成ります。
お家の様に、これは、仏壇のところでは、上記の「仕来り」で代々書き換えて行きます。
実際はそんなに前のご先祖まで覚えてゆく事は出来ませんので、その中でも、何とかこの「仕来り」が「古代密教形式」の「浄土宗の慣習」として引き継がれて来たのです。

(浄土宗は、本来は、江戸期前のものでは「密教系」であり、「特定の氏」しか入信できず、寺の建立なども独自に氏が立て、自分の氏から独自の僧を仕立て、独自の経済力で建設や修理にいたるまでの管理運営までの一切を賄ったのです。しかし、この密教形式はその氏が衰退すると立入らなくなり衰退し、無くなるなどの事が起こったのです。)

そして、江戸末期から明治9年まで何度も続いた「宗教改革」とその混乱に因って、この様な密教形式の浄土宗の寺は焼き討ちや取り壊しなどに会い、滅亡の危機に陥りました。特に浄土宗はこの影響を受けました。
特に、「秀郷一門の青木氏」は、平安朝は滅亡し、鎌倉期に多くは失職して経済的に低下し、一時これらの「仕来り」を維持する事が出来なくなりました。その後に勢力を盛り返して「関東屋形」と呼ばれるくらいに息を吹き返し大勢力を維持しました。しかし、この時から菩提寺や多くの仕来りや伝統の記録が消失したのです。
さすが「青木氏のメッカ」の入間ですので、研究でもかなり消えている事は判っているのですが、ある程度の事が遺されている筈です。
この「青木氏の仕来り」は、故に上記したことから、祭祀はご本家やご分家の関係者を帳としたのです。
今もお家の中の分家の慣習の中にもまだこの様に遺されている事を物語っているのです。
法事などが行なわれる時には、「先導僧」や「諷儀の僧侶」に供養する先祖を教える為にも、書き記している昔の浄土宗が採った慣習なのです。
この慣習には、寺から「曼荼羅帳」と云う掛け軸に上記した関係者の戒名を書いたものを書いてもらい仏壇前に吊るしておく慣習もあります。

この様に、お家には意外なところに古い観衆が遺されているのです。
前回のお便りからこの様な事が遺されていると予測できましたので前のお答えになっていたのです。
予測が当たりました。
決して余計な事ではありませんよ。伝統をこれからもこの様な事を是非守って行ってください。

気になりましたので、これらの事を追伸しておきます。
詳しくは「2つの掲示板」に論じていますので、膨大な資料ですのでゆっくりとお読みください。
読み終わるには先ず3年は掛かるかも知れませんね。

私も埼玉の草加には15年ほど住んでいました。入間川の傍の入間にも良く行きました。
何しろ、”おーい あおきさんー”と云えば、何処からも”ハーイ”と聞こえるくらいに、埼玉には青木さんが多いところですよね。
何か面白い土地のお話がありましたら教えてください。
では、又お便りください。



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