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  [No.948] 質問させて下さい。
     投稿者:福岡の旧姓が青木です。   投稿日:2014/04/06(Sun) 16:56:04

こんにちは。わたし、旧姓が福岡市の青木です。青木氏のサイトがあるとは本当に驚きました。膨大なデータを集め、整理されておられる。大変な労力をかけておられるのですね。素晴らしいことです。
金曜にこのサイトを見つけたばかりのわたしも、時間はかかるでしょうが、じっくりと読ませていただくつもりです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。
今宿青木の青木さんの質問には、個人的に関心がありますが。

ただ、他のことはまた、別途お話するとして、今日は管理人さんに質問させていただきたいと思い、お邪魔しました。
どうぞよろしくお願いいたします。

A「天智天皇が「第4世族皇子」に伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護を命じて臣下させ、「第4世族内」で「第6位皇子」に位置するものは「賜姓」をして保護して臣下させました。」
これは文献があるのでしょうか。
五家五流の発生に至る経緯などの文献も含めて、ですが。
それとも、ご先祖伝来の古文書に依るものでしょうか。

わたしも興味を持ち、勉強したいと思いますので、宜しければお教え下さると嬉しいです。

伊勢青木氏が本家としての役割、例えば仕切りなどを担っておられたのなら、発生段階では、各地の青木氏の動向も把握しておられたのではないかと考えました。

B 皇賜姓青木氏の官職を拝見致しますと、従五位下、以上を見受けないように思うのですが、それはなぜでしょうか。

C 伊勢王について、ですが、日本書記にはお名前がありますが、彼の系図はあるのでしょうか。もし、あれば教えていただけないでしょうか。

D「嵯峨天皇が、民間が青木氏を名乗る事と、その数多い皇族としての「慣習、仕来り、掟」などの使用もあわせて禁じました。これは明治初期までこの規則は守られます」
とありますが、この文献も合わせて教えて頂ければと思います。

数々、厚かましい質問ですが、よろしくお願いします。


  [No.951] Re:質問させて下さい。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/07(Mon) 12:09:08

今日は。始めまして。これからも宜しく願いします。
確かに、多くの調査資料が投稿されています。
この資料は約50年程度調べ上げたものです。
それには、多くの歴史研究家の研究論文や、筆者の家の遺資料と口伝と物品と添書や、筆者自身が集めた研究資料や、青木氏と同族関係にある氏の膨大な研究資料や、その同族の内部資料や、他の歴史やいろいろなマニア関係者の研究資料や、日本書紀からあとに出ている江戸時代までの専門書籍や、歴史小説家の研究論文や、全国各地に分布している青木さんの持っている資料と伝来資料と口伝や、青木氏外の他氏のが持つ資料や、歴史関係を専門とする有名な脚本家の研究資料や高度な歴史史実に写真を添付させて発刊している専門書などありとあらゆる書籍から導き出した論文です。

お家がご質問されている前提は、「青木氏の事」を専門に書いたものとしての事に成っていますが、
そもそも、「青木氏の事」を単独で書いた公に成っている文献などは数えるほどのものはありません。
先ず無いと云っても云いくらいです。
故に、ここに長年に研究してまとめあげたものです。
まあ、あるとしても信頼できるものとして「近江佐々木氏」のものと認識しています。
あるとしても徳川幕府が江戸初期に農民から立身出世した全国の大名に無理に「系譜由来」などの資料を作る事を命じましたが、殆ど搾取偏纂で信用できません。
「文献」がすべて正しいと云う前提でのご質問のようですが、歴史に関してはその前提はありません。

ご質問の前提が違っていて歴史を甘く見ておられるようですね。
もし、ご質問の様な「専門文献」の様なものがあれば、わざわざ投稿していません。
ブログかチャットの様な感覚認識にあるようですね。
無いから投稿しているのですよ。利益サイトではありません。

もし、お知りに成りたいのであれば、高等学校で習った「歴史の参考書」に書いてある文献を全て読んでください。それはここでは書ききれませんし、書けたとしても、また、書く事が著作権や個人情報保護の関係から書けません。
「歴史の参考文献」の全ての内容知識を、全ての時代の慣習ごとを頭の中に入れて、それから知りたい事をまとめてどの資料が何処にあるのか等まとめて、ある程度推論を立てて足を使ってその文献を見つけるところから始めてください。
全てのマニアは毎日この事を繰り返していて見つける作業をしています。

全国の青木さんの主な家に電話等をして聞き出したり、資料などがあったら頂くなどして一つの調査内容をクローズアップさせるのです。
気の遠くなる作業です。現在では無理です。
青木氏と全く同じ事をした氏が佐々木氏であると思います。佐々木氏も100年はかけていると思います。司馬氏も同じだと考えます。私の知る範囲では日本8000氏ある中で5氏に満たないだろうと思います。

歴史家ではこの様な作業された人では、司馬遼太郎さん等5人が行っていますが、この歴史小説家が書いた中に青木氏の事も書いています。
上記した資料や研究した論文は、殆どが単行本で発刊されていて、且つ、非売品や限定版や特定版が多く、これらのマニアや、各地の歴史に観られる本家筋の青木氏を調べて来て販売するシステムになっています。
そもそも青木氏だけの事を書いた本などは本にしても一般には売れませんよ。仮に売れたとしても読む人がいないですよ。

”勉強したい”のであれば、それを上記した様に苦労してまとめあげた本論を信用されていない事を前提としてのご質問なので、それはご自分でお願いします。
そもそも本論はその文献のまとめた一つですよ。
内部の論文の内容についてはご質問にはお答えしますが。
その為に投稿しています。

Aに付いてのご質問ですが、両方ですが、幾つか文献と研究資料にあり、それらを学問的に総合するとまとまりが出ますが、伊勢青木氏は発祥の時期は647年です。
役割は「三つ発祥源」の「3つの役」を与えられて臣下しています。

そもそも、勘違いされているようですが、日本に遺されている古文書は一つの事が一つにまとめられて整理されて書かれている事はありません。
いくつかの文献を組合する事で一つの事がまとまるのです。
そんな昔に現在の様に整理された社会ではありませんでしたよ。
現在感覚で以て質問されていますね。

「歴史研究」とはそもそもそのような行為をさします。依って、その詳細は由来書や研究によって裏付けられて判っています。

因みに「慣習仕来り掟」は50程のものがあり、「家訓」は10訓、「掟」も5つほどあります。

この様な関係資料から、”多分この様な事に成るだろう”として推論を建てて、その推論を証明するような事柄を何処から見つけ出して、それを整理して結論付けられるものです。

だめならばまた始めから「推論建て」をするのです。
その為には推論をより史実に合う様に近づける様に、出来るだけ多くの知識を持って記憶する必要があり、その知識の中から組み立ててす進めるのです。
現在の様に求めるものが書いてある訳では決してありません。
論文とはそう云うものですし、研究とは根気の居るその繰り返しで何年もかかります。

筆者は現役の時は元は「物理系技術者」でした。「技術論文」なども「歴史論文」と全く同じ事です。
「疑問立て」−「装具立て」−「証拠さがし」−「論理立て」ー「証明立て」−「結論附け」ー「論文作り」ー「修正作業」=「最終結論」
この全工程を研究と云います。
この「研究」の幾つかを次ぎの様に組み合わせて「史実の結果」を生み出すのです。
「最終結論A」+「最終結論B」+「最終結論C」+「最終結論D」=「事実」


お家はそれを一挙にしたいと思って居られるようですが、そんなものではありません。

伊勢松阪市と隣の玉城市や名張市や員弁、桑名、脇坂は青木氏の地主で、始めは56万石、925年頃から本格的な「二足の草鞋策」で150万石から200万石程度の経済力を持っていた事が判っています。
筆者の祖父の代の明治35年まで続きました。
それを導き出したそういうものを出せと云われている訳ですから、全研究資料を出せと云う事に成りますので物理的にそもそも無理と云うものです。
その無理の為に、多くの青木さんに観てもらえる様に、何とか公の場に投稿しているのではありませんか。
管理人さんにサイトを開いて頂いて利益を得ている訳ではありませんよ。
投稿する事の利益は筆者には全くありません。
信用するかしないかは読む青木さんの判断にお任せするしかなく、信用されないのであれば自分で装具立てて調査する以外にはありません。

Bに付いてのご質問ですが、違っていますので、本論を是非もっとお読みください。
因みに、身分は皇族朝臣族、家柄では浄大1位、官位では正二位、職位では左衛門上佐、担当職では民部上尉です。
青木氏は多くの家がありますので、上記の位階は家ごとに依って異なります。
しかし、最低でも従五位か従四位です。

Cに付いてのご質問ですが、「伊勢王」の事に付いては日本書紀や韓国の日本世記や中国のが最古ですが、奈良期の事に付いて研究された黒岩氏や松本氏などの数人の方の論文があります。その中にも非売品刊行本や対談本として載っています。
(中国と韓国に奈良期の事に付いて書き記した日記型の書籍が発見された。天智天皇と天武天皇の相談役や指導役をした学僧の実に詳しく細かいことまで書いた日記などに書かれています。)

Dに付いてのご質問ですが、例えば「嵯峨期の詔勅類」や「類聚三代格」等や「格式延暦式目」などの古文書に乗っています。
この様な「古文書の文献」では、個人では無理で、「歴史研究社」等の機関が取り扱う非売品の古文書にも記載が多くあります。
現実にはこれを獲得する方法しか現在では遺されていないのが現状です。

以上ですが、そこで、折角ですから、これらの事は、最低限の事ですが、高等学校の歴史参考書の中に日本書紀を含めた古文書の文献に殆ど記載されています。それを深くする詳細にするかは他の研究論文を読み漁りあつめてください。江戸時代にも寛永や寛政年間に研究された文献が沢山ありますが、その文献を調達することの難しさもありますが。その書籍をここに書き記す事は不可能です。
また、投稿の目的外の事ですので。

研究した内容そのものに付いてはご質問に積極的にお応えします。
その根拠を説明することはお応えしかねますし、物理的にも無理ですし、著作権、個人情報の法の順守の為にもできません。
尚、ここでは著作権などの問題で公的な形では書くことが出来ませんが、5家得5流の事も含めて、全てのご質問の事に付いては論文の何れかのところにその準根拠的な表現の形で文献や経緯を網羅していますので、そちらをお読みください。

では、内容についてご遠慮なくご質問ください。
歴史だけでは無く何なりとご質問ください。


  [No.954] Re:質問させて下さい。
     投稿者:福岡の旧姓が青木です。   投稿日:2014/04/07(Mon) 19:37:48

管理人さま、失礼いたしました。
わたし自身、身内の聞き取りでさえ、大変な思いをしていることをすっかり忘れて勝手なお願いをしてしまいました。我が一族の残した古文書は既に各方面にて、研究され、解説論文もありますので、簡単に考えたことも事実です。


しかし、管理人さんは「福岡には青木村がない」と仰っておられました。
信じられない思いがしたのはこのことからです。
けれど、データとして、お役に立てるのではないかと思い、ほんの少しですが、お知らせすることにいたしました。

「筑前國続風土記拾遺」には、以下のように、青木村の存在がありました。今宿、女原、谷村、上ノ原、青木村、などなど。その昔は、あの一帯は青木村でした。朝廷の直轄荘園(怡土ノ荘)のすぐ隣になります。

http://hakataboy.com/avenue/KaratsuGaidou/Imajyuku/m.html

そして、そこにはわたしの先祖、鎌倉幕府御家人である、青木窪之弥次郎盛能がいました。
室町幕府にも、足利尊氏からの着到状を掲げ、証判を受けています。
同じ「筑前国続風土記拾遺」によりますと「是は古来久保に居たりし地士なるべし。元亀の比臼杵鎮速かあたへし書も数通あり」
とあります。

ですので、今宿青木の青木理兵衛さんは、遡るとわたしの一族にあたるのではないかと思います。
今も色々な事情で苗字、家紋など違ってはいても、親戚筋がそこに住んでおります。


また今宿青木の神社、寺社について、ですが、

A 神社は、今宿の上ノ原には産土神として神代創建と伝える青木社(現在は八雲神社)があります。

B 寺社は「青木山長福寺」をインドの僧、清賀上人が西暦725年に建立。その後大同三年、弘法大師(空海)が唐より帰朝して当社に移り、当時は隆昌を極めていたようです。
その寺は全焼失により、順光寺と名前を変え宗派も変え、享保三年に西区姪浜に移転しています。

青木社(八雲神社)の宮司、順光寺の住職、共に今も姓はアオキです。

青木山とは、最近まで青木所有であった長垂山のことです。
そこには明治以降にも、分家二つ目である青木が長垂寺を開きましたが、今は糸島の雷神社が重要文化財なども含め、自ら求めてくださって、一切を管理してくれています。

神社は他に幾つもありますが、現在も宮司や住職が青木の名を持つのは是だけです。

今回は今宿青木に関連して述べさせていただきました。


管理人さま、以下二件は、うちの古文書の一部ですが
本日、青木氏のルーツ地名から発見したことがあります。

○ 差出人不詳の青木右京進宛、「忠勤の由、肝要。入部の刻、富永郷内久重名5町を預け遣わす」との書状

○大友義統から青木中務烝宛の「軍労を賞し但馬守に任ず」との書状

など他地域との関連を窺わせるものが幾つか。
Bなど、そちらのHPを拝見しましたら、愛知県新城市に青木の地名がありました。
もしかして何らかの関連が?と思い、お知らせしておきます。


それ以外のわたしの先祖、青木一族については

”世に晒す事無かれ、何れに利無し”

で、今のところ、公開して良いものやら、決断しかねておりますので、その旨ご了承ください。
それではまた。失礼いたしました。m(_ _)m


  [No.957] Re:質問させて下さい。
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/09(Wed) 16:42:43

今日は。お便りありがとう御座います。
そうですか、お家のルーツは判りました。

お家のルーツと思われる青木さんはサイトでは充分に判っています。
お家の事に付いては、サイトの左メニューの「地名地形データーベース」のところに書き込まれています。先ずはそこをお読みください。
尚、下記に論じるものに付いては、ルーツ掲示板や研究室に既に書き記しています。

福岡の件については充分な説明をしなくてはなかなか判らないのです。
では、早速、説明いたします。
先ず、”福岡に青木村が無かった”と云う件です。
この地域には「3つのルーツ」の青木さんが時代は異なっていますが定住しました。

先ず、この「3つのルーツ」を全て説明すると膨大なものと成りますので、「地名地形データーベース」を読んで頂いたとして、お家のルーツと観られる一つに付いて説明いたします。
この事で、「福岡に青木村は無かった」とする事が判ります。

お家の云う通り、ここに鎌倉時代に派遣された(「青木氏」)者が確かに居ました。
記録に残っています。この派遣された者には2氏があります。
一つは、鎌倉時代末期に「元寇の役」が起こりました。
この時、幕府から防衛軍として、「藤原秀郷流青木氏族の5氏」が派遣されました。
この5氏は秀郷の第3子の「千国」を始祖とする「兼行流」の「青木氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の3氏と、「文行流」の「長谷川氏」と「進藤氏」の2氏が派遣されたのです。
そこで、「元寇の役」が終われば、元の関東に戻るのが規則ですが、この5氏は九州の自治をしていた九州全土を支配下に治めていた「大蔵氏」と血縁関係を結びました。
ところが、「秀郷流」の「青木氏と進藤氏」は、現地で生まれた子孫も引き連れて関東に帰ってしまったのです。
「秀郷流の長谷川氏」と「秀郷流の永嶋氏」の「青木氏族」は「現地の末裔」を残して本体は関東に戻りました。
この残った現地末裔の「2氏の子孫」が大蔵氏の末裔として子孫を拡大させました。
これが「九州大蔵氏系永嶋氏」と「九州大蔵氏系長谷川氏」です。
この5氏は有名な「藤原秀郷流青木氏族主要一門」です。
この5氏の内、青木氏は勿論の事、永嶋氏と長沼氏は青木氏を名乗ろうとすれば名乗る事は兼行流である為に名乗る事は可能でした。
しかし、両氏とも名乗っていません。

念の為に、下記Aに付いて、この「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は119氏に広がり、赴任地域の「24地域」に末裔を残しています。全て現存しています。
この119氏の事は全ての内容が明確に判っています。
武蔵の国入間の宗家を中心に、全国24の地域に認定を受けた「青木村」を形成して定住しています。
一方、「皇族賜姓族5家5流青木氏」の14氏も全ての内容が明確に判明しています。
更に、「嵯峨期詔勅」に基づく「皇族青木氏」も5氏として全ての内容が明確に判明しています。


さて、次ぎはお家のルーツです。
内容は殆ど明確に判明しています。
鎌倉期に北家筋の「藤原利仁」の一族もこの地に派遣されました。
派遣された3人は現地の土豪との血縁族を作ります。
この血縁族が、後に「青木氏」を名乗ったのです。(但し、青樹氏から青木氏に後に変更)
「嵯峨期の詔勅」にて、「青木氏」を名乗れるのは、「皇族の者」と決められていました。
ところが、「皇族賜姓族青木氏5家5流青木氏」を補佐するために、特別に「母方族」の「藤原秀郷」に対して、皇族外から特別に賜姓して「青木氏」を名乗る事を許します。
この「青木氏」を「秀郷の第3子の千国」に対して継承する事を定めます。 

この秀郷は「平の将門の乱」を沈めた勲功から「武蔵と下野」を「領地」とし「貴族の家柄」をも与えました。
”貴族は武力を持つ事は出来ません”から、一族の宗家の「第3子」に、代々この「一族の護衛団の役目」を与えて永続的に役られる事で朝廷の認可がおります。
更に、「皇族賜姓族青木氏」と同じく補佐する「天皇の親衛隊の役目」も与えたものです。
そして、「皇族賜姓族青木氏」と全く同じ「全ての格式と立場」を与えました。

ところが、この秀郷の親族の利仁なる者の末裔が筑前に派遣されたましたが、現地の末裔が室町期の後に青木氏(青樹氏)を名乗ったのです。

北家筋の「藤原利仁流一門」は、皇族系ではない為に「青木氏」は名乗れる事が出来ません。
そこで、「嵯峨期等の禁令」を破って強引に名乗ったのです。当然に朝廷からも賜姓はありません。
勝手に名乗った青木氏である為に、「本流の青木氏」ではない為に、「第3の青木氏」と呼ばれています。
室町期から江戸期までの歴史書の全ては、この「福岡の利仁流」で名乗った「青木氏」を「第3の青木氏」と定義されています。
筆者もその説を採っています。

これがお家のルーツで、定義上からは「第3の青木氏」と成ります。
ところが、この「第3の青木氏」は、当初のその呼称は「あおき」では無く、「ウォーキ」でした。
その漢字も「青樹」でありました。
実は、この「ウォーキ」の呼称には根拠があるのです。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」の”青木の氏名”の賜姓は、「青木」と云う木があり、それを基に天智天皇は賜姓したのです。
奈良期からこの木は「神の木」として用いられ、その実の真紅は「血」、枝の青さは常緑の青さから「体」と考えられ、又、その木の成長力の強さから「生命」と考えられ、「天皇家の祭祀に用いる皇祖神の神木」として用いられていたのです。
つまり、この木の成り立ちが、この世の「生物の源」として崇められていて、この「生物の源」として「皇族の者」がこの木に準えて賜姓を授かり、下族して臣下として働きます。
この「天皇の末裔」が「下族」で生きる初めての「民の根源の意味」を持たして、「賜姓の氏名」としたのです。
”「全ての民」は「天皇の子」であると云う概念”が「古来の概念」でしたから、”その「子の基」と成るのだ”として賜姓したのです。
そして、この「神木のあおきの木」を以って、これが「青木氏の賜姓木」と成ったのです。

しかし、この「青樹氏の呼称」は次ぎの様な由来から来ています。
この「神木」の「あおきの木」の呼び方を神社の祭祀では、「ウォーキの木」と発声していたのです。
この「利仁流藤原氏」は、この「青樹で ウォーキ」と発声したのです。
この事から、「慣例の禁令」を「利仁流藤原氏」は破った事から、「青木氏」だけでは無く、「青樹氏」とし、更には、「あおき」ではなく、「ウォーキ」として発生して違いを出して罰を逃れたのです。

この「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」の「2つの青木氏」には「最高級の格式」を与え、「3つの役目」を与えて、「不入不倫の大権」を与えました。
この「青木氏」に「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」を「青木氏守護神」として、”民の安寧を図る事を目的”として全国に建立する事を命じます。
566社に及ぶ建立をしました。他にも多くの役目を任じられています。
これらを実行する為に、「2つの青木氏」は「経済的自立」を図ります。(二足の草鞋策)
その為に「伊勢古代和紙」を5家に広げて、「殖産ー販売のシステム」を構築するなどをしました。
徹底した「3つの発祥源の役目」を果たすように命じられ厳しい「特別の戒律」を与えられます。
特に、「侍の根源」(武家の根源等)としての50以上にもなる「慣習仕来り掟」と、「訓」と「戒め」を与えて「民の模範」と成る事の役を果たす様に定められます。
そして、「皇祖神の伊勢神宮」を「守護する氏」として始祖の「施基皇子」に「伊勢王」として命じたのです。(他の四家にも「守護する氏」としての役目を与えました。)
その為に、「皇位継承の改革」を実行した「天智天皇」と「天武天皇」は、「王の格式と呼称」は、この時、「皇子の第4世族」までとして変更しました。(それまでは第6世族までであった。)
この「第4世族」を「5つの地域」に配置したのです。
これが「5家5流の青木氏」と成って、「光仁天皇」まで「5代の天皇」の「皇位継承者」から外れた皇子を、この「5家5流の青木氏」の跡目に入れて護ったのです。
(光仁天皇は施基皇子の長男 女系天皇が続いた為に継承外の第6位皇子の伊勢から天皇に成った)
そして、この臣下した「青木氏」には「天皇と宮廷を護る役目」を与えたのです。
それが親衛隊の護衛軍トップの「左衛門上佐」として命じたのです。
これを平安期では「北面武士」として呼ばれていました。

この後、「嵯峨天皇」は、更にこの役目を強化して細目の「禁令と詔勅」を発し、その時に、「青木氏の賜姓」から、同じ賜姓の意味を持つ「源」を基にして、以後、「源氏」として賜姓する事に成ったのです。
この「源氏」は「嵯峨源氏」を始めとして、「花山天皇」まで11代の「第6位皇子」で継続されました。
この賜姓の受ける資格の持つ皇子は「真人族と朝臣族」に限定したのです。
そして、この資格は第4世族皇子で第6位皇子に与え、資格から外れた者が下族する際には「青木氏」を名乗る事を定めて、「全ての民」はこの「青木氏」を名乗る事のみならず、この「一切の慣例の使用」を禁じたのです。

この「5家5流の青木氏の跡目」に入れなく成った「下族皇子」と「還俗皇子」は「賜姓族」では無い「皇族青木氏」と呼ばれました。
その「皇族青木氏」には5氏が存在して居ますが、この青木氏には厳しい多くの戒律は与えませんでした。逆に身辺の保護も経済的な保護も与えなかったのです。
この「青木氏」から「源氏」に変わった「賜姓」は、11代続き、18人の皇子と7皇女とが対象となりました。
しかし、「賜姓」を受けた皇子以外は殆どは「比叡山門跡院の門跡僧」と、皇女は「皇祖神の斎王」に成りました。

従って、お家の「利仁流藤原氏のあおき氏」は、正規の朝廷から認可された「青木氏」でも無く、資格者でも無かったのです。
「青木氏」でも無い「北家利仁流藤原氏」の「青樹氏」である為に、当然に「氏名の青木村」は認可されません。
「家の格式」も与えられませんでした・
この禁令で「青木氏」を除く全ての氏は ”地名による氏名”となりました。
つまり、この時から「氏名」を地名とする事は出来なくなったのです。

ところが、この「青樹氏」は、後に江戸初期に「江戸幕府初期の系譜作成の命」に従って「青木氏」に変更しています。
他の地域でも、この令に従って武士としての旗本や御家人などは次ぎの様な類似の氏名を名乗りました。
この青城氏、仰木氏、葵木氏、蒼樹氏、青城氏等の昔の「第3氏」に対しては、「条件付き」で「青木氏」に変更さしたのです。
”正規の賜姓族の青木氏の権威”に似せて、「権威付け」を社会に浸透させさせ様としました。
この「政治的な目的」の為に、上記の「あおき氏」等に「青木氏」に変更する様に命じたのです。

(注意 この幾つかの「あおき」を使って、逆に、江戸初期には姓を持たなかった農民から伸し上がった「下級武士」はこの上記の異なる「あおき」を名乗ったのです。
又、明治初期には苗字令に依って全ての農工商の民は苗字を持つ事に成りますが、この時にも、この「あおき」を名乗ると云う現象も起こりました。)

更に、この「青木氏の権威」は、正式には「平安期までの朝廷の権威」で保障されていたのであり、お家のは「鎌倉期の権威」では最早、「幕府の権威」はありません。

(「朝廷の禁令の権威」は遺され、且つ、「社会的慣習」による「権威」は遺る。)

お家は、この「権威の期」も異なっていますので、朝廷の「正規の青木氏」ではありません。
「青木氏」の名乗り、のみならず「青木村」も認可外のものと成るのです。
「青樹氏」の氏名の「青木村」は、本来であれば「青樹村」に成りますが、「氏名」から「村名」にするのは禁令ですから「青木村」は出来ないのです。

故に、「室町期の青木氏」は存在するは、当然の事としても、”論調の範囲では無い事”から存在するも”「青木村」は無い”としているのです。
(他の理由もある 下記)
この様な「青木村と青木氏」は福岡以外の他にも数か所存在して居ます。

この「第3の青木氏」では、室町期初期ー室町期末期ー江戸初期ー明治初期の4期に起こっています。(下記)

更に、「お家の青木氏」にはもっと異なっているところがあるのです。
それは「氏名」を使った「村」は、詔勅によって一切の賜姓族の慣例の禁止で禁じられていますが、
「利仁流藤原氏」の場合は、「青木村」は使えないのですから、禁令を破っている事に成ります。

但し、当時には、この「村」の種類も「3つの種類」があったのです。
税制上の仕組みからですが、「村」より少し大きい「しょう 荘」、「村」より少し小さい「あざ 字」があります。

(参考 4郡から5郡で「国」、4村から5村で「こおり 郡」、「しょう 荘」は2村程度 、「あざ 字」は0.5村程度、一村は400から500人程度となっていたとされています。)

そこで、「お家の青樹氏(青木氏)」の「青木村」とすると、鎌倉期の頃は、税の記録から「字」の範囲であった事が記されています。
つまり、禁令のみならず、実質的にも元々「青木村」ではなかったのです。
その後、室町期の中頃から末期頃には「大きめの村程度」には成っていた事が判っています。
「村の定義」の「青木村」としての記録は発見されない事から、”俗称的な村”であった事も考えられます。

従って、ここでも鎌倉期末期から室町初期頃の事では、「字程度」として記録されていて「青木村の定義」からも外れるのです。
ここでは論文ですので、お家が主張する大雑把な「村の定義」では論じられないのです。

何れにしても、以上の様に、全ての「青木氏の条件」からは外れる事に成りますので論じられていないのです。

ただ、「第3の青木氏」を論じる場合は、余りにその”多種多様な範囲での青木氏”と成りますので、一括して論じる事は難しいのです。

千差万別の内容の異なる「青木氏」を名乗った時期は次ぎの4期に成ります。
A 奈良期末期から平安期末期(皇族賜姓青木氏 賜姓秀郷流青木氏)
B 鎌倉期末期から室町期初期(源氏から青木氏 皇族から青木氏 北家公家族から青木氏)
C 室町期末期から江戸期初期(武士からの第3の青木氏) 
D 江戸期末期から明治期初期(民衆からの第3の青木氏)

お家は、このBに当たります。(ここまでの論議では)

従って、判っているこの福岡地域の「他の青木氏」は、全て判っていてます。
一つ目は、「黒田藩の日向青木氏」
二つ目は、「黒田藩の摂津青木氏」
である事が判っています。

この流れの中に、「別の2つの青木氏」が「筑後」と「肥前」から流れ込んできている事も判っています。家紋分析からは判別できます。

そもそも、「別の2つの青木氏」は次ぎの通りです。
この「筑後」は、「源の為朝」が平家に追われてこの地に逃げ込んで出来た「配流孫」が、後に「青木氏」を名乗った事が判っています。(嵯峨期の詔勅による正規の青木氏)

この「肥前」は、ここには「藤原秀郷流青木氏」が平安期から鎌倉期にかけて「秀郷一門宗家」の赴任に同行して「青木村」を形成して「秀郷流青木氏」が護衛団として定住していました。

この「2つの青木氏」が、”「筑前の国境」付近の地域に定住”していた事も判っているのです。
この「肥前の青木氏」の判別も可能で平安期の詔勅による「正規の青木氏」です。

これらは「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「戒名」などの慣習で判別できるのです。

当時は「氏家制度」の社会によって、その「家柄や身分」などによってこれらの慣習は決められていて、自由には選択できない社会でしたので判別できます。
これらの事がその「氏の絶対的ステイタス」に成っていたのです。

お家が云う様に、”「苗字や家紋」は違っていても・・・”の云々の主張は、現在感覚の発想であります。
「氏家制度」の社会の中では、「苗字や家紋」は「絶対的なステイタス」として扱われていて、これを護るために厳しい戒律として「同族血縁」を繰り返して守ってきたのです。
この”「絶対的ステイタス」”が侵されれば戦いも辞さない時代でした。
現実に、記録から観ると、「青木氏」では事件も含めて10回程度起こっています。(研究室に記載)

当然に、この「絶対的なステイタス」を護るには、「宗派や戒名」等の慣習もそれに準じて分けられていたのです。
自由に、誰でもが、家紋や宗派や寺や神社や戒名等のステイタスを勝手に選ぶ事が出来ない社会でした。

ですから、宗派や戒名でも氏のステイタスは判るのです。

青木氏の場合は、「賜姓族」として、「武家」のその先頭に立っていたのですから、絶対にこれを護ったし、故に、氏の絶対的命題として「同族血縁」を進めていたのです。
(筆者の祖父の代までこの慣習が護られていました。)

(ここで云う「武家」とは、「公家」に類する「武家」であり、江戸時代で云われた武家では無い。「八色の姓の制」に従った「正規の呼称」。)
「賜姓族青木氏」はその「武家の頂点」にあり、「武家、侍の発祥源」として位置づけられ権威付けられていた。)


そもそも、社会に対して政治的に”体制の確固たるあるべき姿”を民に示す為にも、”護る事を主務としての賜姓氏”であったのです。
ですから、この為に、それを護ろうとして「必死の同族血縁」が進むために「筑後」や「肥前」や「日向」から「筑前」に近づいてくるのです。
そして、その為に近隣地域に「棲み分け」をするのです。
同じ「青木氏」でも「氏」が異なれば絶対に住み分ける当時の慣習が護られていたのです。
他氏と異なり混在する「青木村」は形成されませんでした。
(「賜姓族青木氏」でも、「家の格式順位」があって、その格式で済み分けていた。)
それが「氏名」を「村名」とする「由緒を示す青木村」の持つ意味なのです。

従って、”黒田藩の青木理兵衛さん”のルーツとは、お家とは完全に異なっているのです。
(次ぎのお名前からも異なっている。)
市左衛門さんのルーツも異なっているのです。格式の違いによって地域を変えて住み分けていたのです。
先ず、「家の格式」の差が大きいが為に異なっていますので、恐らくはお家とは血縁は無かったと考えられます。
故に、上記した様に、その「氏」その「家」に依って異なるところから、「家紋や宗派や過去帳」などの事が判れば判別できます。

「福岡の3氏」と「近隣に居る3氏」の青木さんは、故に、「集合村」では無いことから、「氏家制度の棲み分けの慣習」からすべて異なっているのです。
この福岡も従って、「福岡3地域」「近隣3地域」に分かれていて、「家紋、宗派、守護神、菩提寺」等が異なっています。
同族であれば、「青木氏」の場合は異ならず、「戒律」に依って「統一したステイタス」を持っているのです。

率直な感想として、実に、お家の現在感覚での発想と主張で驚きます。昔の慣習を無視した”ごちゃまぜ”には着いて行けません。
そもそも、良し悪し好き嫌いは別にして、「歴史」は「過去の感覚」なのですよ。

さて、更に疑問があります。「第3の青木氏」である証拠が他にもあります。
それは、”ご先祖のお名前の内容”です。
”「青木窪之弥次郎盛能」”と成っています。

上記にも前回にも記述しました様に、
身分は皇族朝臣族、
家柄では浄大1位、
官位では正二位、
職位では左衛門上佐、
担当職では民部上尉
以上の氏の格式の立場を持っています。

この「格式の立場」は、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」以外には名乗れません。
これは永代に朝廷から認められたものです。
因みに、この「格式の立場」はどの程度かと云いますと、「征夷大将軍の徳川家康」が「青木氏」と面会したとしますと、「徳川家康」が下位の儀礼の立場を採らなければならない立場なのです。
殿様が座る上段の場では、家康は席を譲って下段に座り、座布団などの敷物は外す作法の慣例の立場にあります。
馬に乗っていれば下馬する立場なのです。
(現実にこの慣例に則り家康と対面している。)
因みに、この事を物語る事件が歴史上に起こっています。
この「二つの事件」は有名な歌舞伎にもなっています。

一つは、信長が甲斐武田氏を滅ぼしました。そして、甲斐視察を実行している時、甲斐の賜姓族源氏と青木氏が白の布衣を着て、白の馬に乗ったままに信長を迎えたのです。
これを観たこの格式の慣例の知らない信長が、怒ってこの白装束で白馬の者を自分で引き釣り降ろし殴る蹴る乱行に及んだです。極めて有名な事件です。

次ぎは、4代将軍が伊勢神宮参詣に至った時に、「伊勢青木氏」がこの慣例に従って迎えたのです。
それを観た将軍は怒って家臣に命じて罰する様に命じたのですが、家臣がこの「古式の慣例」を知っていて、将軍を咎めて難無くを得ますが、江戸に帰ってから将軍は収まらず、「青木氏」に対して嫌がらせをしたのです。この事は青木氏の口伝にも伝えられています。これも有名な事件です。

事ほど左様に、現実には、筆者の祖父の代まで、紀州藩とはその慣例に原則従ったと聞いていますし、現実にその儀礼に従った徳川氏の手紙の記録もあります。

さて、そうすると、正式に名乗る時には、”正二位青木朝臣左衛門上佐信定”と云う事になります。
少なくとも、どんなに「格式の立場」が低くても、「青木氏」であった場合は、必ず最高で「左衛門上佐」か「左衛門尉」か「右衛門尉」が付く筈です。
しかし、お家のご先祖には付いていませんから、これは明らかに「正規の青木氏」でない証拠です。
つまり、附けられないのです。

(青木理兵衛さん、青木市座衛門さん、共に付いています。この事でも、依って、違うのです)
ただ、室町期末期から江戸期には大名や上級家幕臣は、衰退した朝廷の財政を賄う為に一代限りの官位と職位を金品で買って名乗る事が起こりました。

例えば、よく知るところでは”遠山の金さん”の”遠山左衛門尉時定”と名乗っていますね。
これは朝廷から金品を出して幕府の許可を得て授かった一代限りの官位です。
幕末中期ころからは武士はこの左衛門、右衛門を勝手に付けて名前にしました。
明治期には遂には庶民も名前にするほどに成りました。
鎌倉期から室町期中期まではこの格式の慣例はまだ守られていました。

ところが、それでもお家のご先祖の名には、幼名と俗名しかなく青木氏に関わる全く格式らしきものが付いていません。
「第3の青木氏」である証拠です。

次ぎに、更に疑問点があります。

>”そこにはわたしの先祖、鎌倉幕府御家人である、青木窪之弥次郎盛能がいました。”

”御家人”がこの格式の無いのも疑問です。
そもそも、あるから、「御家人」と云う「格式のある幕臣」の家臣に成って居た訳です。
全くの疑問です。

明らかに、江戸期の歴史書の通説通り、福岡の「第3の青木氏」である事を物語っています。
これを更に証明するものがあります。(江戸期の「第3の青木氏」の可能性が高くなる)

それは「宗派」と「菩提寺」と「過去帳」と「戒名」でも判ります。
違うと云うのであれば、この4つの事が伝えられて判る筈ですから、教えてください。
(恐らくは、菩提寺も過去帳も無い筈で、檀家寺は菩提寺ではありません。過去帳は人別帳ではありません。戒名も格式を示すものが付いていない筈です)、

そこで、更に、お便りの情報ですが、先ず、Aの件でも違っています。

「青木氏」はそもそも”「産土神」”ではなく、”「祖先神」”です。
「青木氏の守護神」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」ですから、全く別の派で異なっています。
「藤原秀郷流青木氏」も、「神明社」と「春日社」です。
これでも、正規の守護神を祭祀出来ない立場にあった事を物語っています。

これも通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠です。

更に、「氏名」を「神社の社名」には、禁令に反しますから使えませんし、その青木氏には慣習はありませんし、出来ない仕来りです。(神社がお家のルーツの神社である事の根拠はありません。)
そもそも、社名は統一して「神明社」です。
全く大きな違いです。

これも通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠です。

お家は強引に使っていますので、当初は「青樹」を使い、呼称も「ウォーキ」であった筈です。
それを「江戸初期の令」により「青木」に変更したと観られます。(各地でも起こった)
自らが「青木氏の禁令」を破るような事は絶対にしないし、「3つの発祥源」を自らが否定するような馬鹿な事はしません。
これも「正規の青木氏」では無い事を物語ります。

これも通説通り「第3の青木氏」である事を物語ります。

次ぎはBのことですが、これも「青木氏の慣例」に従っていません。
「青木氏」は「密教浄土宗」です。
従って、”氏独自に寺を創建して、自らの氏の中から住職を出す仕来り”です。
ですが、つまり「菩提寺」では無く、情報の寺は「檀家寺」と成っています。
青木氏は独自独善の「菩提寺」を持っています。(寺名も統一されています。)
その「寺名」も違っています。
これも「第3の青木氏」である証拠です。

もっと異なる事があります。
下記のお便りの様に、この寺は「真言宗」です。
「青木氏」は「浄土宗系」で「密教」で、「真言宗」ではありません。

(青木氏は法然の密教浄土宗の前からこの浄土宗の前の「古代密教浄土宗」です。
赴任によって一時的に真宗に入る場合がある。)

>寺社は「青木山長福寺」をインドの僧、清賀上人が西暦725年に建立。その後大同三年、弘法大師(空海)が唐より帰朝して当社に移り、当時は隆昌を極めていたようです。

これも「第3の青木氏」である証拠です。


更に、禁令と慣習慣例に違反しています。
「青木の氏名」を山名に使っています。
明らかに「正規の青木氏」ではありません。
「青木氏」は「嵯峨期の詔勅と禁令」に従って、勝手な所に「青木」を使う事は禁じられています。
そんな慣習はありません。

「第3の青木氏」である事に間違いはありません。

恐らくは、上記等の資格が無い為に、「青樹」を使い、「ウォーキ」と呼称していた筈です。
江戸初期の令に基づき変更したことに成ります。

更に違いがあります。
「青木氏の菩提寺」の「住職」は「密教」ですので、全て「青木氏」です。例外はありません。
(一部に同族の近江佐々木氏が代行している)
”清賀上人建立”となっています。
住職も青木氏である筈で全く違いますし、建立も青木氏と成ります。
他の上人が建立することなど全くあり得ません。

これも「第3の青木氏」である証拠です。

そもそも、「自らの氏」が「自らの力」で「自らの住職」が「自らの僧侶」を揃えて建て、自ら”「達親方式」”で運営するのです。
この点も異なっています。

これも「第3の青木氏」である証拠です。

>”当時は隆昌を・・”
と成っていますから、この場合は「布施方式」です。

「達親方式」は、”隆昌”は一族一門の寺の方式ですから一族の範囲で一切を行いますのであり得ません。
これも全く異なっています。

これも「第3の青木氏」である確実な証拠です。

そして、時代にも疑問があります。
「布施方式」は、真言宗も密教方式で、浄土宗の「浄土密教」と異なる「真言密教」です。
「真言密教」が「密教」を解いて「布施方式」と「檀家方式」に変えたのはもっと後の時代です。

江戸初期に家康が全ての宗派に対して、「密教方式」を解き、「菩提寺方式」を解いて、全て「檀家方式」に変え、「達親方式」を止めさせて「布施方式」に変えさせた時からに成ります。
「家康の宗教改革」で、幕末にも起こっています。

「時代性」も明らかに異なっていますから「第3の青木氏」である事は500%間違いありません。
むしろ違いすぎています。

>”青木社(八雲神社)の宮司、順光寺の住職、共に今も姓はアオキ”

この件は、「青樹」であった事が考えられ、後に江戸期初期には「青木」と成った筈です。
住職と神職共に青木氏であったとしても、この福岡地域には「3つの青木氏」と、近隣には「3つの青木氏」が存在して居るのですよ。
お家の青木氏であるかは別問題で、その為にもお家の宗派や菩提寺や家紋や過去帳や戒名等と照合する事が必要で、其の上で検証して確定させるべき事柄です。

例えば、この地域に「明治期の第3の青木氏」が存在したとした場合も、そのお寺や神社は青木氏だからと云って、「明治期の第3の青木氏」と親戚だとなるのですか。
福岡でも「明治期の第3の青木氏」は発祥していますよ。

そもそも、上記した様に「神明社」と「菩提寺」であり、異なっていて論外です。
「青木氏」は神職と住職は「伊勢青木氏」から送り込むシステムに成っていますが、その福岡の記録がありません。
まして、大蔵氏の基盤の中に「青木氏の菩提寺」の建立は殆ど不可能です。
菩提寺を維持するだけの「村の規模」がありませんし、「経済的」にも成り立ちません。

そもそも、既に、「達親方式」では無く、上記で「布施方式」で、「檀家寺方式」ですので、この件も無理です。

関西より以北の「神明社」と「青木氏」が定住している地域の菩提寺は、全て「青木氏」で務めていましたし、現在は減少していますが、「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」から送られた末裔である事は判っています。
間違いだらけの論調です。

これも「第3の青木氏」である証拠です。
むしろ、「明治期の第3の青木氏」の可能性が高くなりました。

”書かれている何れの文章”にも明らかに「矛盾の問題」が多すぎます。
多すぎるを超えています。

この書籍の書いた人物かご先祖が「正規の青木氏」の寺であるかの様に、辻褄を合わして、誤魔化した様な、「明治期の第3の青木氏」であるが為に非確定ですがそんな気もします。
それは、周囲に「利仁流藤原氏」が居た事があった事から、この知識や慣例を知っていて、それに辻褄合わせの類似する方法を採った可能性があります。
(秀郷流と利仁流は、秀郷の祖祖父の藤成と、利仁の祖祖父の鷲取は兄弟)


次ぎの問題は、「郷土史」を正としての前提で主張していますが、前回にも上記にも論じましたように、その”「郷土史の論処」は何辺にあるのでしょうか”、疑問を持たれないのでしょうか。

「郷土史」の論処の殆どは、江戸初期に幕府が命じた系譜や由来書や歴史書や宗派や家紋や等の一切の格式に関する書籍の作成令から来ています。
自らが歴史の研究をして、その「論処の是非」を研究せずに、この江戸初期の書籍を基に作成されているのです。

さて、この江戸初期の大名やそれに準ずる豪族とその上級家臣等の主だった武士が命じられた者達は平安期からの悠久の歴史の持つ者達であったのでしょうか。そうではありませんでした。

室町期の下剋上、戦国時代で、殆どの歴史や由来を持つものは11代の源氏を始めとして豪族と云う豪族は悉く例外なくすべて滅亡しているのです。
そして、それらと入れ替わって、歴史由来の慣習と概念の持っていなかった”立身出世した有能な農民や庶民”が伸し上がったのです。
主君に例外が無いのですから、家臣の領域までも例外がありません。

”作れ”と成れば、例外なく ”搾取偏纂の虚偽の書籍しか作り様がありません。
江戸初期の幕府は、それでもよかったのです。
「権威つくりの政治体制」を作らねば政治に「権威」を無くし又乱れるます。
その「権威づくり」に躍起となったのです。
「過去の権威」と繋がった様に書いていなければ受け付けなかったのです。
当然に領主がそうであったように幕府が求めていなかった下級家臣にもこの影響が及びました。
そうして、社会全体が、”「家柄 身分の格式」を重んじる社会”となって行ったのですが、結局は徹底した封建社会が確立しました。
この作られた書籍は、事態と時代が進む程に、「真偽化」していくことに成り、「虚偽」を打ち消す資料と人は、無くなって行きます。これが世の中の条理です。

さて、そうなると、この「虚偽の書籍類」を信じて以外に郷土史を作る方法は無くなります。
それが「郷土史の実態」です。
ですから、上記の様に、文章などに時代考証や慣習考証などに矛盾が生まれるのです。

幸い、その中でも最も悠久の歴史と由来や慣習や仕来り掟などが消えずに残していて生き残った青木氏が存在していれば、その「青木氏が持つ資料」で、この様な「郷土史」は、是非を判定する比較対象がある為に、搾取偏纂虚偽の真偽の判別が可能と成るのです。
それに上手く嵌ろうとしたのが「第3氏」で、「青木氏」であれば「第3の青木氏」と成って浮き上がってしまうのです。
この様な判別が出来得る氏は前回でもお応えした様に、8000氏の中で虚偽で出来ていないのは、数えるほどの「僅かの氏」しかありません。

歴史研究する者は「郷土史」も一応は資料対象としますが、その「真偽」から先ず調査して資料とします。
殆どは、”虚偽搾取偏纂”とは言わずとも「矛盾」を持っています。
これを取り除いた上で資料として使うのが普通です。
ところが、お家はこれを省いていると云うよりは前提としていて我執に拘り主張するで困るのです。
それも、自分の範囲で留まればそれはそれで信じるは自由ですから良いのですが。

>古来・・速かあたへし書も数通あり

以上の表現と成って居ますが、これも史書籍としての表現がおかしいのです。
「郷土史」も歴史の書籍の一つで学問の規純と成る知識であるのに、”数通あり”の表現は驚きます。
普通、この様に書けば、先ず歴史研究家や歴史通マニアから噛みつかれます。
その”数通”が判っているのであれば、それも大きな確認材料でよりその真偽度を増すものですから、書くのが普通です。
真偽度に自信の無い様子を呈していて、故意に信じさせようとする意図が見え隠れしています。

更に、”古来”とは何時なのか。
歴史書にしては、あり得ない表現です。
普通はその年代を明確に書けなくても、”居た”とする事が確認できるのであれば、その年代時期は判る筈です。
しかし、”古来”は地域の歴史書なのに雑過ぎますね。

お家の青木氏の根拠とするものにも、これほどの矛盾を持っているのです。

むしろ、矛盾が在りすぎます。
「利仁流藤原氏の青木氏」と云うよりは、完全な江戸初期の「第3の青木氏」では無いかとも思えます。

>室町幕府にも、足利尊氏からの着到状を掲げ、証判を受けています。

その証拠としている古文書なる書物も観てみなければ判りません。
権威の作成令の「江戸初期の第3の青木氏」が良く使った手口です。
上記した様に江戸初期の令は、無いものにある様に無理に書き記せとしているのですから、書き記す以上はその根拠と成るものを捏造するは、どんな書類であっても作ります。
それが江戸期初期に起こった現象です。
典型的な例が、家の格式や立場を表すステイタスの「家紋」です。
1つの権威ある家紋に対して、判りにくいところを少し変えて類似家紋に作り変えるのです。
大抵は100から200位は類似家紋があります。
この数字が如何に”捏造”が凄かったかが判ります。


通説を否定するだけのとても筆者としても覆す材料の論処を残念ながら持ち合わせません。
「利仁流藤原氏の第3青木氏」とする通説にしても、余りにも、異なりすぎます。

「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「過去帳」と「戒名」などの慣習で判別をする為に教えて頂いて、確定をしなければなりませんが、”明治期の青木さんではないか”との可能性が強過ぎます。
お家の地域には、この「利仁流藤原氏の第3の青木氏」が現実に住んでいました。

ただ、明治の3年の苗字令と8年の督促令に従って、余りに令の進捗が悪かったのです。
そこで、ある日突然、期限を区切って政府の強い指導で地域の土豪の氏名を「村」、或は「字」ごと一斉に名乗らした事も起こっています。
その青木さんではないかとも考えられますが、ただ、お家の古文書なるものがどの様な意味を持つかは判断し兼ねています。
下記の情報で判定は出来るでしょう。

参考
 「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「過去帳」と「戒名」と共に、維新政府の戸籍簿でもこれらの「出自の事」が書き記されています。


以上ですが、”青木村が無かった”の説明に時間が掛かりました。
是非、これらの事は青木氏サイトに全て詳しく論じていますので、先ずは、そちらをお読みください。そこには、家紋などもありますので、この中にお家の家紋があるかを確認ください。

念の為に、”家紋と宗派は変わる”と云うご主張であるのなら読むことは無駄です。
それは、最早、歴史ではありませんね。ですから、歴史サイトですので無駄です。

宗派や家紋や戒名や菩提寺等々を情報提供のご意志がおありなら、お応えいたします。
しかし、その前に維新の戸籍簿の確認で一目瞭然ですよ。