青木ルーツ掲示板
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  [No.978] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/07/02(Wed) 17:35:18

 ご無沙汰して申し訳ありません。
 詳細なご教授に重ねて感謝いたします。
 その後、歴史音痴ながらも自分でネットなど巡ったりしております。
 その中で、またいくつかの疑問といいますか、ポイントが浮かびましたので投稿させていただきます。

 最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
 伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。

 またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
 あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。
 実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
 当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

 また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

 素人考えではありますが、今更ながらロマンの尽きぬ話と実感しております。



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