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  [No.979] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/03(Thu) 11:11:44

>  最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、
ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
>  伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。


愛媛の元青木さん
今日は。
色々お調べに成って居られるようですが、青木氏の事では無く宇都宮氏の事の様ですね。

色々情報を集めるとしても、その「情報の根源」がどの様に成っているかを先ず知る必要があります。
ネット情報は、特に、室町期中期以降から末期の情報では、ある特定の情報源がベースに成っているのです。
それを租借しないと正しい答えは出ません。
租借、つまり、検証が必要なのです。この事は前回にも何度も申しています


室町期末期から江戸初期に掛けて、立身出世したものが「姓族」に成りました。
殆どの武士はこの「姓族」なのです。
その「姓族」が民衆の支配者に成りました。
ここで困った事が社会の中に起こりました。
それは、全ての事に対する「権威」が無く成った事です。
そこで、秀吉や家康の江戸幕府はこの権威づくりに躍起と成ったのです。
先ず、大名に対して「権威づくり」を命じます。
当然に大名は家臣に対してもこの「権威づくり」を命じます。
最終は、足軽までこの「権威づくり」に懸命に成りました。
当然に、「姓族」である為にルーツを持ち合わせていませんでした。
そこで、ある権威を過去に持った「氏族」に繋げる以外には「家の権威」は出来上がりません。
ある権威のあったルーツの系譜と別に権威の在った系譜を繋ぎ合わせて一つの系譜を作りました。
その系譜の真偽如何は別で、先ず作る事が求められました。
この作り方には色々あって、そのような系譜や文面などの「物的証拠」を作り上げる職業が現れました。
主に古い神職や住職が請け負いました。
この「権威付け」は時代が進めば、真偽は真実になる事に成ります。
そして、これを「正しい資料」として「ネット上の情報」として提供されているのです。
多くは「地域的で恣意的な宣伝」を込めて提供しているものもあるのです。
明治初期に成ると、何時しか、武士のみならず「農民」までもが行いました。
「家柄」をよく見せる為に搾取偏纂を多額の金品を使って作り上げたのです。

当然にこれには無理が伴います。慣習仕来り掟等が、「氏族」や「姓族」等では違っているのです。
これは相当歴史を知らないと見抜けない事なのです。
今回のお問い合わせもこの事の明確な現象です。


初期ご質問
さて、そこで、今回のお尋ねはこの典型的なものです。
従って、先ず、”伝承が混じった”とすることには異論はありません。
「氏族」には問題はなく、この時に「全ての姓族」にこの「継承の混濁現象」が起こったのです。
特に、この時期の情報は特に注意しなければならないのです。
摂関家の「藤原兼隆流」と、「藤原秀郷流」の支流血筋として持つ「本家」の宇都宮氏とでは違いすぎます。
この「関東屋形」と呼ばれる一氏の「宇都宮氏」とは、同じ藤原氏北家でも身分家柄官位官職支流族等一切比べものに成らないほどに違っています。
江戸初期によくあった典型的な現象ですが、自分の家柄をよく見せる様に作り上げた事から起こった現象です。
氏家制度では、この様な事は実際にはあり得ません。明らかに搾取偏纂の見本のようなものです。
兼隆流を名乗る者は山ほどあるのです。
家柄をよく見せる為の「権威づくり」に使われた見本のような藤原氏なのです。

”搾取偏纂をしましたよ”と云っている様なものです。
つまり、「兼隆と青木氏」を結び付けたご先祖は ”、私は「第三の青木氏」ですよ” と云っているに等しいのです。
一方で、殆どの人が知り得ない情報の”「龍神村の青木氏」”の事を知っていた事。
他方で、「龍神村の青木氏」を知っているのに、”「脩行系の事」は知らない”と云う大矛盾があります。
明らかに「権威づくりの貼り付け」であった事を物語っているのです。
>どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。
このご指摘を証明する事に成ります。
お墓は1667年の刻みですから、江戸初期の時期のもので、兼隆説ではこの事で「第三の青木氏」の説に成ってしまいます。
この論調には、鎌倉期から時の政権が発する「軍則規定」と「西園寺と宇都宮氏の時代性」に矛盾が出るのです。

幕府は、戦乱で伸し上がった家柄の無い者が殆どであった為に、社会に権威を作り上げて「権威社会」を作り上げようとしました。
全ての家に対して搾取偏纂でも良いから作る様に命じたのです。

その為に、家柄のはっきりしない殆どの「姓族」の者は、平安期の良い家柄を繋ぎ合わせる作業をしたのです。
これをしないと、「黒印状」が交付されない事に成り、家臣としての筋目が定まらない為に俸禄を受けられない事が全ての武士に起こったのです。

特に、元は陸奥域の小豪族であった者が、秀郷一門が陸奥に赴任した時に、現地の土豪との間に出来た血縁族が、秀郷一門が任期切れで関東から戻ってくる時に付き従ってきた一族です。
特に、「関東屋形」と呼ばれる4氏(結城氏等は除く)の3氏はこの末裔です。
お家が拘る「宇都宮氏」の出自は、宇都宮域を秀郷一門の背景で奪い取って勢力を拡大させた陸奥の小土豪からの立身出世の豪族なのです。
この為には、結城氏等を除いた「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、・「赤松氏」等は、その系譜を藤原氏に求めたのです。
この他にも、足利氏の前身の「花房氏」、「小田氏」などは陸奥から来て大豪族に成った「姓族」です。
例外なく、これらの立身出世して大豪族の系譜には矛盾の持った「権威づくり」を100%しています。
それを見抜けるかはその人の歴史力に関わります。

況して、分家の「伊予の宇都宮氏」は、分家の宿命でより家柄を見せる為に時には、本家以上の「権威づくり」をしたのです。
この宇都宮氏も同様ですし、地域性の宣伝も垣間見れます。見抜けるかどうかに関わります。
本家が秀郷流一門支流族であるのに、それよりもより家柄をよく見せる為に、摂関家の藤原兼隆との系譜と繋いだのです。

恐らくは、「伊予の宇都宮氏」は「氏家制度」の社会でしたから、本家の許可が降りなかった等の何らかの問題があったと考えられます。
”本家の云う事を聞かない”や”献納金を納めない”や”血筋が違う”などのいざこざが当時、分家との間で起こったのです。その為に無理に兼隆と繋いだのです。

更に、お家も、紀州からの落人で地元の武士で無かった事から、全く系譜が在りません。
そこで、どこかで繋がりを創る必要があって、”「伊予宇都宮氏」との間で養子縁組の繋がり”があった様に作り上げたのです。
周りも例外なくが行っているのです。
「呉越同舟」です。観て観ぬ振りをする等の事が横行しました。

お家のご本家筋は伊勢か静岡に逃亡したのですから、到底、系譜を作る事が出来ません。
況して、南北朝では「武蔵の本家」の方針に従わなかったのですから、搾取以外には無かった筈です。
>『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。
このご質問には、答えは、つまり、極めて自然な考え方です。
この室町期中期から起こって、江戸期初期に爆発的に起こった事以外には歴史的に無いのです。
この時に、「伝承の混濁」が起こった事に成ります。
全ての「姓族」はこの時に「搾取の伝承」を公に作ったのです。
「姓族」は元より系統的な先祖の情報を持っていなかったのです。

上記に記した「関東屋形」で ”結城氏等は除く”と書いたのは、彼らの系譜にはこの現象が無かったのです。
宇都宮氏等と違って「氏族」ですから、「伝統的な継承」は持っていたのです。
丁度良い事例があります。

参考として、実は、鎌倉幕府を作った頼朝は、この関東の藤原秀郷一門を味方に引き入れる為にある行動を採りました。
敢えて消えていた由緒ある「結城氏」等の「氏族」らの「氏名」を復活させ、所領を与えて「権威づくり」をしたのです。
この「本領安堵策の復活劇」を二度も反対を押し切って強引に行いました。
有名な事で、この為に、頼朝の「政治的背景」と成っていた「坂東八平氏」に反発されて、トリカブトで暗殺されたのです。
頼朝の源氏子孫は全て暗殺された有名な事件がありました。

日本には、青木氏の様に、ルーツを持つ「氏族」と、室町期中期から発祥したルーツの持たない「姓族」とに別れます。
日本で最初に「姓族」に成ったのは「海部姓」です。
「姓族」には、元々ルーツを系統的に継承する概念が元々無かったのです。
この「姓族」が武士に立身出世して、幕府の命にて江戸初期には、「姓」と「家紋」と「ルーツ」を新たに作ったのです。

その江戸初期のルーツを持つ「氏族」には、正規には「48氏」があります。
それの流れを持つ氏流族が「200程度」でした。
鎌倉幕府と室町幕府はこの氏族を認証しました。
これを「家紋200選」と呼ばれていて有名です。
この248氏の「氏族」には正規の歴史と系譜はあるのです。
この「48氏」のトップに、滅亡せずに「青木氏」が在ったのです。
故に、この青木氏のサイトに過去の歴史などの情報が提供できているのです。
日本には「氏名」と「姓名」を合わせると約8000程度あります。
この10%程度が江戸期には武士であったのです。
その一割の20%程度が平安期から「歴史と系譜」などの情報を継承している事に成ります。
お家が拘る「宇都宮氏」は、この系譜を作らなければならない「姓族」なのです。
この「姓族」はこの一割の20%の「氏族」に歴史を何らかの形を作り上げて繋げようとしたのです。
この「氏族」の更に50%程度は滅亡しています。
この「50%の氏族」に歴史を繋いで置けば問題には成りません。
100%で「姓族」は、この「50%の氏族」の歴史と繋いでいます。
この事を知った上で「ネットのサイト情報」を使うべきなのです。
「ネットでの情報」を使うのであれば、先ずは、この「氏族」か「姓族」の判別が必要なのです。
(更に詳しく判別するには「第三の姓」と「未勘氏」との判別が必要です。「専門の歴史書」が在ります。)

ですから、お家は平安期から「脩行系の歴史と系譜」を正規に持つこの青木氏なのです。
しかし、「氏」と「家紋」と「ルーツ」を持てない事態が、お家に起こってしまったと云う事なのです。
「姓族」と全く同じ条件に成ってしまったのです。
それが「南北朝の結末」です。更に、お家は伊勢等の本流に従わなかったのです。
従っていれば、本流と同じに「氏名」と「家紋」と「ルーツ」などの象徴する事柄は、宗家より許されて元に戻す事が出来た筈なのです。
ところが、お家は、尚も、この本流との行動にも従わなかったのです。
お家にはこの様な「三つの絶対的なハンディ」があるのです。
だから、このネットに描いている事の”繋がりの物的証明”が必要なのです。
「青木氏」と云う「氏族」でありながら、「別の歴史と系譜」を作る以外には無かったのです。

ネット情報を使うのであるのなら、当時の”婚姻関係の仕来り”や「歴史の史実」をもっと先ず知る必要があります。
前回にも書きましたが、「ネット情報」はこの様な検証が出来ていないのです。
この様に「江戸期の搾取偏纂の系譜」を信じての「ネット情報」なのです。
この事を知っていて、敢えて、ある思惑を込めて描いているものもあるのです。
また、お家もその論理の中に入っている様です。

紀州から落ちて来た者に課せられた当時の江戸期の社会の条件をまず客観的に考えてみる事が必要です。

”よそ者、落ち武者、落人”を当時の社会がどの様に受け入れたかの史実を知るべきです。
簡単な例として、あの有名な名家の「平家滅亡」、「清和源氏衰退と滅亡」の逃亡時の生活をお知りに成ると判ります。
お家が主張する”「伊予宇都宮氏」との関係が果たしてあり得るのか”と云う事に気づく筈です。


青木氏には、お家の様な”青木氏の落人を救うシステム”が各地に構築して在ったのです。
先ず一つは、福井県に歴史からはみ出されたこの青木氏を集めて、保護し庇護する組織を持っていました。
次ぎに、近江ー伊勢ー信濃ー美濃ー甲斐には影の3つの「シンジケート」を持っていました。
落人を集めて「影の武力集団」を構築していました。
筆者の「伊勢ー信濃シンジケート」は青木氏等が「二足の草鞋」で営む「商いの運搬」などの保護などを担当していました。
このシンジケートには経済的な支援をしていました。
信長が「伊勢丸山城攻め」の時に、この「青木シンジケート」が「ゲリラ戦」で戦って勝ったのです。
歴史上極めて有名な事件です。歌舞伎にも成った位です。
何度も云っていますが、詳しくは、「青木氏の守護神ー祖先神の神明社」の論文をお読みください。
全国に500社に及ぶ「神明社」がこの「中核の役割」を果たしていたのです。


「江戸初期の系譜偏纂」の令に対して「よそ者」がどの様に証明する「物的証拠」を見つけ出す事が出来るかです。
お家には絶対に無かった筈です。恐らくこれからも全く無い筈です。
在ったとしても、「姓族」が採った「贋作手段」だけです。
江戸社会は、この現象事が特別な行為では無かった為に、当たり前に捉えられていたのです。

筆者はお家が「青木氏」は「青木氏」ではあるが、「家紋」や「氏名」やルーツさえも真面に継承出来なかったと観ています。
だから、その流れの中で匿名としている「・・」の姓名に成ったと観ています。

「氏家制度」の中で、”本家に反した行動を採った者の末路”が、「本家青木氏」と「宇都宮氏」と「秀郷宗家」とその一門がどの様な反撃を加えるかを考えるべきです。
゜秀郷一門の「第二の宗家」の云う事を聞かなかった者の末路は一族の「示し」から決まっています。
それも前回ご忠告した現在感覚では無く、江戸初期の「氏家制度の封建社会の感覚」でお考えください。

次ぎのご質問
>またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
>あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。

先ず、上記した様に、「落人の移動」に付いて、簡単ではありませんでした。
飛躍しすぎです。無いと考えます
当時には、「氏家制度の社会慣習」が在ったのです。
上記した様に、お家は先ず”生きる事の問題”が発生していた筈です。
「南北朝の問題」に対して、”氏家制度”の中で”「武蔵宗家の意」”に反して行動したのです。
この事は当時は”どの様な扱いを受けるか”です。
宗家側が”下手な扱い”をすると、今度は自分の立場は無く成る事に成り、一門の統制が採れなくなります。
「氏家制度の統制」も採れません。
まして、逃亡先が讃岐も秀郷一門の中でも二番目に大きい土地柄ですよ。
”「讃岐藤氏」”と呼ばれた土地柄です。
伊予を頼った南朝の「懐良親王」ことは承知しています。
だから、始めから「紀州の青木氏」が讃岐−伊予間に逃亡した事が判っていたのです。

このお家が主張する「伊予の宇都宮氏」がこれを保護したとすれば、次ぎの様な事が起こります。
「宇都宮の本家」は「伊予の宇都宮氏」を容認する事が出来ませんよ。
本家筋は、「秀郷宗家」から、「第二の宗家の青木氏」から睨まれます。
当然に、”何とかせよ”と圧力が掛かります。
「宇都宮の本家の圧力」があったから、親王は止む無く九州に逃亡したのです。
圧力が無ければ伊予に留まっていた筈です。
九州は大蔵氏族の土地柄です。
南朝方の親王が逃れるには四国より尚厳しい環境下ですよ。
ここまでは判っていました。
従って、お家の「青木氏」も、「武蔵の宗家の意」に反したのですから、「伊予の宇都宮氏」にお家が云うその様な扱いを受けるかは疑問ですね。
”先ず無い”と考えます。
秀郷一門の「第二の宗家」の「青木氏の意」に反しての行動をしたのです。
宇都宮だろうが伊予だろうが、「第二の宗家」に逆らって匿う様な事は出来なかった筈です。
匿う事の利益を宇都宮氏に与えるものはお家には何もなかった筈ですし、むしろマイナスの物しかなかった筈です。
従って、良い扱いを受けなかった事は100%確実です。
親王自身さえも九州に逃げているのですよ。
”お家が云う様な扱い”は宇都宮氏側には無かった筈です。
「伊予の宇都宮氏」に取っては何の利益もありませんよ。迷惑だけです。
ここでも「お家の言い分」は作り上げたものである事は間違いありません。
「江戸期の厳令」でしたから、何らかの贋作の物的証拠の書類等を用意しているかも知れませんが。

ただ、助けられる環境・方法が一つ有史来、「青木氏」に在ったのです。
ですから、前回に、「何故、”讃岐青木氏」が助けた”と筆者が書いたかです。
「青木氏のシンジケート」が、この讃岐にもあって、影で働いていたのです。
この事は青木氏であれば全て知っていた筈です。
しかし、お家は強力に「宇都宮氏」説を採っている事は、この事を知らなかったと云う事になります。
つまり、「紀州の青木氏」では無かった事を意味するのです。
「第三の青木」と云う事に成ります。

お家は宇都宮氏に「物的な根拠」のみならず「状況証拠」もない中で拘っています。
筆者は何度も「讃岐青木氏」だと云っています。
実はこれには、助けた明確な理由があったのです。
「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、平安期から「武蔵の宗家」に匹敵する以上に歴史的に長く経済的に恵まれていたのです。
その為に、宗家に対して独自の行動を採って来たのは有名なのです。
その有名な事件が瀬戸内で起こった「藤原純友の乱」です。
この前から、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「瀬戸内の経済力」を独占していたのです。
昔から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われていました。
絶大な勢力を瀬戸内で持った「讃岐藤氏の純友」はこの事に巻き込まれたのです。
秀郷宗家の云う事を聞かなかったし、摂関家の云う事も聞かなかったのです。

その勢力を以てしたことから、「甲斐の武田氏系青木氏」が逃亡した時も、「讃岐青木氏」は高知で勝手に保護したのです。
ですから、前の回答に記しました様に、「青木氏の歴史」の中で、「紀州の藤原脩行系の青木氏」が「讃岐青木氏」を頼った事が判っているのです。
ここがお家の言い分とは違う所です。
「伊予宇都宮氏」と結び付けての根拠が成り立つのかをお考えください。
陸奥から出て来て豪族に成った「宇都宮氏」は、秀郷一門の「関東屋形」との繋がりの持つ豪族で、「第二の宗家の青木氏」の支配下にありました。
だから、お家は、可能性が有るかのように見えるところを系譜に「繋がり」を持たしたのです。

しかし、もっと直接的に繋がりがある「讃岐藤氏の讃岐青木氏」では無くて、何で間接的な「宇都宮氏」が出て来るのでしょうか。
紀州から逃亡時はこの「讃岐青木氏」を頼ったのですよ。
お家は「伊予の宇都宮氏」と繋げていますが、氏家制度では、「お家の青木氏と伊予宇都宮氏」ではどの様な関係なのでしょうか。
もし、その論調で行くのであれば、下記にも論じていますが、青木氏である事の疑問の方が大きいのです。

他の二つの本流の逃亡グループも「伊勢青木氏」と「愛知静岡の青木氏」を頼っているのですよ。
「伊予宇都宮氏」であって、何故に「讃岐青木氏」では無いのでしょうか。
この南北朝から江戸初期まで、「落人のお家」が生き残るには「相当な武力」と「経済力」の背景と、「近親関係」が無ければ無理な事です。
何より、落人ですから大義はありません。
何時の時代も、況して、「氏家制度」で成り立っている社会のなかで、「大義の無い者」を助けるには相当なそれを跳ね除ける力を有して居なければなりません。

どの様に信じるかは自由ですが、どの様な「物的根拠」があるのかは判りませんが。

「讃岐青木氏」の勢力圏は愛媛と香川の南部と高知まででした。
”南朝方に従って・・”のところは賛成できません。逃亡者に対しては描きすぎています。
ここにしか「讃岐青木氏」は移せなかったのです。
「高知青木氏」の定住地は、武田氏が滅んだ際に「讃岐青木氏の背景」を借りて奪い取った地域です。
南北朝期には未だ香川と愛媛の国境にしか移動定住する地域は出来なかったのです。
自由に住み着ける時代ではありません。
戦いに負けて逃亡する者は殆どは山奥の山賊に成るしかなかった時代ですよ。
平家の落人も、龍神村の山奥に逃げ延びたのですし。四国の山奥に山賊として逃げ延びたのですよ。
お家の論調には、この普通あり得る状況や環境の配慮が欠落しています。
直ぐに普通に生活して血縁しての論調の中にあります。
「家柄身分」の「つり合い」を重視する社会の中で、直ぐに「宇都宮氏」との血縁であるとする、論調には着いて行けません。

前回にも書きましたが、お家には「国抜けの罪」(打ち首)が働くのですよ。つまり、罪人なのです。
「よそ者」が生きるには、それなりの「保護者」が無ければ生きて行けないのですよ。
そう云う物的証拠が見っかっていますか。


況して、「よそ者」が定住するには、この地域では「伊予の宇都宮氏の背景」では無い筈です。
「讃岐青木氏の背景」があってこそ「定住地」を奪い取れるものでした。
其処からの先ずスタートです。其れが無くしてはそれこそ「山賊」となるしかなかった筈です。
果たして、この背景に「伊予の宇都宮氏」が出来た事でしょうか。その様な史実はありませんよ。
筆者は、「伊予の宇都宮氏」の説には信用出来ません。「江戸期の搾取偏纂」の典型的な結果と観られます。

「讃岐青木氏」は氏名を村名と出来る許された氏で、讃岐には「青木村」を形成してました。
「讃岐藤氏」と呼ばれて、昭和20年まで廻船問屋を手広く営んだ氏です。
東には徳島青木氏の青木村を形成していた定住地です。
四国では讃岐青木氏の援護が無ければ身動き取れなかった筈です。
それには讃岐青木氏にも何らかの特典が無ければ無暗に保護してもらえる事はありません。
そういう証拠や史実を見つけて検証する事が大事なのです。
ネットの情報や郷土史は筆者の経験から青木氏には無理ですよ。
筆者は全く信用していません。
「讃岐藤氏」は「純友のルーツ」です。「藤原純友の乱」の論文を投稿していますので参照してください。

前回のお応えの「関東屋形」の結城氏を除いた4氏の一つが、お家の「現在の姓」に成っている事に付いてもう一度お考えください。
匿名とされているので論じる事が出来ませんが。

第四のご質問
>実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
>当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

「藤原純友」は「海賊」では無く、「海部族や塩飽族」等を擁する「海族」です。
「讃岐藤氏」と呼ばれる瀬戸内の利権を制していた大豪族です。
朝廷にその勢力を睨まれて「経基王」に讒言されて、九州に勢力圏を持っていた「大蔵春実」に攻められて潰された讃岐藤氏を率いていた人物です。
大蔵氏は平家とは同族で、平家はこの「瀬戸内の利権」を狙っていたのです。
それを先に同族の大蔵氏が獲得しますが、この利権を最終は平家に渡します。
この為に、貞盛より5代目が清盛が勢力をもったのです。
「経基王」も「瀬戸内の利権」を獲得しようとして讒言してまで働きましたが大蔵氏に奪われてしまいます。

丁度、この時、関東では「平の将門の乱」が起こり、「藤原秀郷」と「平貞盛」が沈めます。

南北朝の「逃亡する親王」と「お家のルーツ」を結び付けようとする考えには無理があると思います。
それに「伊予宇都宮氏」を介在させる論調には上記した様に無理が在ります。
もし、お家がこの論調とすると、そもそも「青木氏」であるとする論処は無く成ります。
室町期の「第三の青木氏」の可能性の方が強く成ります。
江戸の中期に出た「姓の歴史書」に記載されている「第三の青木氏」とすれば矛盾は無い事に成ります。
「落人の青木氏」が辿る経緯ではありません。


>また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

「第一の根拠」
お家は、紀州に藤原修行一族の護衛に同行した「秀郷流青木氏」で、「明恵村」の付近の青木村に住んでいた青木氏であると観られます。
しかし、この根拠は、「広域の龍神村」に青木氏が住んでいたとする極めて局所の「青木氏の情報」を持っていた事です。
これは、”口伝でしか伝わらないものである”と観られることからの根拠です。
当地でも知られていない位の消えた「青木氏の情報」です。これが「第一の根拠」と成っているのです。
この根拠が消えれば全ては消えます。
つまり、嵯峨期の詔勅と禁令を破った「第三の青木氏」と成ります。

「第二の根拠」
そもそも家紋も青木氏には無い家紋です。
「左三つ巴紋」では ただ、「関東屋形」と呼ばれる秀郷一門の4氏の内の2氏がこの家紋を持っています。
この4氏とは「秀郷流青木氏」は「第二の宗家」として関わっていた事が繋がりです。
これが「第二の根拠」です。

「第三の根拠」
この家紋が、丁度、紀州の「脩行系の青木氏」が、南北朝で「讃岐青木氏」を頼って讃岐伊予方向に落ち延びたとする情報があった。
そこに、「左三つ巴」紋の伊予宇都宮氏が居た。
「関東屋形」の「宇都宮の宇都宮氏」と「匿名」とする氏の家紋と繋がった。
しかし、この根拠は「左三つ巴紋」が前提と成っています。
だから、これが「後付の家紋」であるとすると「消える家紋」です。

では、「後付の家紋」でないとするためには、次ぎの前提が成り立たねばなりません。
「第一の根拠の明恵村」の付近に「三つ巴紋の青木氏」があるかと云うことが大前提と成ります。
これが崩れれば、「三つの根拠」は全て崩れます。
つまり、別にお家の「青木氏の家紋」があった筈である事に成ります。
この事を前回にご忠告したのです。
この「左三つ巴紋」は「青木氏」には無い事は判っています。
「明恵村の青木氏」のルーツとみられる和歌山の末裔の「6家の青木氏」の「家紋」にはこの家紋はありません。

ですから、上記の経緯から「本来の家紋」も「氏名」も継承出来なくなった事を物語っているのです。
つまり、お家の「左三つ巴」の家紋は明らかに「後付」です。
「宇都宮氏」に繋げるための「後付の家紋」と成ります。
そうすると、「後付の家紋」をベースにすると成れば、「青木氏」では無く、匿名「・・」の姓名にする必要があります。
では、匿名の姓名「・・・」を名乗らずに、その時に、何故、「宇都宮氏」を名乗らなかったのですかね。
何故もう一つの左三つ巴紋の「・・」の方の姓名を態々名乗ったのでしょうか。
もっと云えば、青木氏と元の家紋を名乗らなかったのでしょうか。

宇都宮氏や親王の様に間接的な方向での証明できない疑問の前に、青木氏の疑問の方の解決の方が信頼性は高まると思いますが。

家紋掟によって変紋した可能性は、宗家がお家のご先祖の行動を許したとする前提で成り立つ話です。
然し、許してはいませんね。「青木氏116氏」の中に「三つ巴紋」がないのですから。
上記した様に、伊勢方向に移動した別の本流が居る限り許されたとする前提は成り立ちません。
その証拠に伊勢方向に移動した青木氏には「左三つ巴紋の青木氏」が無いのです。
青木氏全体にも無いのです。
「後付」の家紋で氏名も何代かで継承する事も出来なかった筈です。
「匿名の姓名」に現在も成っている事もその状況証拠です。



お家のご先祖のお一人が伊予に居て「紀州の龍神村」の「青木氏」を何故知り得たのでしょうか。
これが「最大の謎」です。

A お家の先祖の聞き絶えた口伝
B 周囲の讃岐青木氏から聞き伝えの情報

紀州では、讃岐青木氏に庇護を求めて逃亡した情報がある事。
本流と分流の2流で逃亡した事。
青木村は誰もいなくなった事。

Aであれば、本論
Bであれば、江戸期の歴史書の「第三の青木氏」

兼隆説に結び付けた事では「第三の青木氏」に成ります。
有名な佐野氏系の藤原脩行系であった事が知らない事、
有名な摂関家の藤原氏の兼隆に結び付けた事
以上ではBに成ります。

何か、Aに関してのお家の””「お墓の状況」””が何かを物語っている気がします。

兎も角もこれ以外に証拠に成る情報がないかをお調べに成る事をおすすします。

(不確定な「ネット情報」に頼るのではなく、「身の回りの情報」を推理して検証して行く「ルーツ探し」をお勧めします。
それには持っている情報をフルに提供いたします。
何度も云いますが、「ネット情報」は「氏族のトップの青木氏」には無理なのです。
ですから、「青木氏サイト情報」を提供しているのです。)


匿名「・・・」の根拠からも検討して観てください。。
匿名「・・・」関連はBになる要件ですね。
AかBになる重要な要素です。

筆者はAと観ていますが、出て来る情報はBに成っています。

上記の ””「3つのハンディの立場」”” から、更には、””「伊予の地」での行動”” 即ち、”「讃岐シンジケート」をも受け入れられなくなった事情”
この「Aの情報」をもっと探される事を期待します。

”宇都宮情報”は、青木氏に取っては間接の更に間接情報ですし、更には、上記の「江戸期の混濁問題」があり、Aは無理だと思います。
故に、完全にBに陥ってしまったと観ています。

では、ご質問が在れば、お尋ねください。 



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