青木ルーツ掲示板
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  [No.981] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/09(Wed) 11:24:33

今日は。 元愛媛の青木さん
お便りありがとうございます。
筆者のお答えご理解いただきましてありがとうございます。
ルーツ探究は、現在は伝統が消えて仕舞って、青木氏に関わる資料が無く成って居ますので、なかなか進みません。
これは昭和の時代の欠陥であったと観ています。
社会が、可成り社会主義化して、「伝統」に関わるような事等を云うと周囲から排斥されるなどがあって、伝統品なども持っていることなども大変な時代でした。
その為に伝統と伝統品が消えて仕舞いました。
現在で、「歴史観」が見直されて来て、若者の中でも「伝統」に懐かしさを感じる人が増えました。
しかし、反面、「個人情報保護」が見直され、情報を獲得する事や、情報を公開する事も、最早、不可能に近い状況に成って居ます。
情報が在っても、その裏にはある種の思惑が込められ、搾取情報が横行していて、歴史専門家の様に検証して真偽を確認して、公に情報を提供しているネットサイトは全く少なく成りました。
全国に歴史マニアの色々なグループが互いに連携して情報獲得交換をして何とか、正しい情報を提供できるように協力し合っています。
青木氏は、その中でも、ヤフーサイトでは段突の公認サイトです。
伝統を何とか遺した氏だと思います。

さて、今回のお便りは、3つありましたね。
この何気ない一寸した生活に根付いた情報が役に立つのです。世間の思惑に左右されていないからです。
それは、青木氏が持つ「過去の慣習」に照らしてみると「ダイヤモンド」の原石の様に大きな情報になる事があるのです。

1 「紋付」と「伝統品」(鎧やなぎなた)
2 「青木の庄屋さん」
3 「村長」と『結城家』


この「3つの情報」と、前回のお答えの「お家の情報」の未だ論じていなかった重要な「次の検証課題の2点」を組み合わせると、前回のA又はBの答えが導き出されます。

前回でも、お答えいたしましたが、筆者はAであると観ています。
つまり、「龍神説」から「讃岐藤氏の讃岐青木氏」に、南北朝事件で、本流に合流せずに、一切を捨てて頼った秀郷流佐野氏族の「脩行系の青木氏」であると観ています。
それには、前回のお答えに加えて未だ論じていないある根拠があるのです。

それは、次ぎの二つです。
1 「軍則規定」
これは平安期から決められていたもので、「時の政権」が適時に修正しながら、「武家」と「武士」に課せられた義務があったのです。今で云う社員などの服務規程の様なものです。
これは、互いに「石高」に合してそれに匹敵する「義務と責任」を与える制度で、これを護らせる事で、互いの力関係を維持し、偏りの無い様に厳しく取り締まった制度です。
多くも無く、少なくも無く、丁度良いレベルに保たなければならない制度です。
色々な面に対して詳細に決められていました。(江戸幕府も修正が加えられ維持された。)
さて、そうすると、お家の件でこの事に付いて検証しますと、次ぎの様に成ります。

お家は、「龍神説」から「讃岐青木氏」を頼ったことは判っていて間違いありません。
この時、「讃岐青木氏」と「お家の青木氏」は、果たしてどの様な立場に置かれたかの問題が残されていますね。其れに依って、「宇都宮説」が変わります。
前回でも落人やよそ者の末路を論じましたが、実はこの検証課題が最大の決め手に成るのです。

では、先ず、「讃岐青木氏」から論じます。
(南北朝 1331年から1392年)
南北朝の終わった直後の1397年頃には、ここは「西園寺氏の荘園」で、藤原氏北家筋の「西園寺氏」(藤原氏)が慌てて強引に荘園を自分の領地の様にしてしまった有名な事件が起こりました。
この時、この地域は「讃岐藤氏(秀郷一門)」の支配地域でありました。
「西園寺氏」は、この平安期から居た地元の勢力の秀郷一門の「讃岐青木氏」を「家臣」にしました。この「家臣」に問題があるのです。
しかし、この時、この「軍則規定」で「地元の武士」を家臣にする場合は、「家臣の家臣」、つまり「陪臣」か、更に家臣の家臣の家臣の「倍陪臣」にする事が義務付けられています。
これを身分的には、この昔から定住していた「地元の豪族」は「郷氏」と呼ばれていました。
それと、豪族では無く、「地侍」と呼ばれる武士等は「郷士」と呼ばれていました。
これらは、封入して来た新しい領主の「陪臣」か、殆どは「郷氏」か「郷士」は「倍陪臣」にする様に決められていました。
軍則に従えば、藩主からすると「陪臣」までを家臣として扱われます。

中には、地元のこれらの勢力との折り合いが悪く、この「家臣」にしない事も多く起こりました。
有名な事件があります。
例えば、「山内氏」は「土佐の藩主」として封入しますが、地元のこの郷士や郷氏勢力との折り合いが悪く、結局、戦いの末に、これらの全ての勢力と和睦するとの事で、”藩主と話し合う”を理由に全員もれなく城に入れます。
ところが、突然に城門を占めて、騙し討ちをし、壮絶な戦いをして全員これらの勢力を皆殺しにした事件がありました。
この様に、この勢力をどの様に取り込むかは重要な判断が必要であったのです。
取り込むと、逆にこれらの勢力の発言力が大きく成り、転入藩主側の勢力が小さく成ってしまいます。
この「郷氏」はある程度の私有地を認められた勢力です。
新しい藩主は、この勢力を無視する事が出来ませんでした。
特に、「郷氏」の中でも、最大とされ、且つ、実際に無視できない勢力を持っていて、全国的な秀郷一門の動きに依っては、封入して来た藩主よりも数倍もする勢力も現実に持っていたのです。
その秀郷一門に依って潰された藩主もいるのです。

有名な事では徳川家康が秀吉に依って関東に転封されます。
家康は、関東全体を仕切っていた秀郷一門の勢力を取り込む事に成功して、むしろ三河よりも数倍に成る勢力を取り込んだのです。
家臣と旗本と御家人として全ての秀郷一門の勢力を直参として取り込んだのです。
「軍則規定」を無視して、敢えて逆手に取ったのです。
秀吉は殆どは全国の秀郷一門には反発を受けていたので、この勢力に家康は反発を受けると観ていたのです。ところが、旗本にと御家人にしてしまった事のみならず、秀郷一門を家臣として「直接の政治の場」に用いたのです。
更に、家康は「松平氏」から「権威付け」の為に自らも「藤原氏の系譜」と繋いで「藤原朝臣の氏」を名乗ったのです。

そもそも、伊予と讃岐に入った西園寺氏も宇都宮氏も同じ藤原一門です。
そこで、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は、最大勢力の郷氏勢力を使って、両氏の「陪臣」、或は、「倍陪臣の立場」を確保していたのです。

其処に、お家の佐野氏族の脩行系青木氏の一切を捨てた者等が逃げ込んで来た事に成ります。
公然とは扱えないにしても、お家を「讃岐青木氏」は「身内の者並扱い」にしてたのです。
つまりは、お家は「軍則規定」からは「倍陪臣の形」と成ります。

お家は”「家臣」”と伝えられていますが、「軍則規定」から、まして「逃亡者」ですから、「家臣」の既定の領域には入らないのです。入る事が無いのです。
ここでも正しく伝えられずに「搾取の口伝」が起こっていますね。

何故、「家臣」にしない様に軍則は決めているかと云うと、石高に合わず陪臣以上を雇うと、「謀反」と観られるし、財政が「人件費」で圧迫して藩財政が逼迫しますし、それだけの雇う余裕があるのであれば、石高を下げられる等の理由にもなります。また犯罪者を無暗に匿う事にも成ってしまう事も起こり、「軍則規定」は、厳しくこの点を定めていたのです。
何よりも、藩主は陪臣を雇いすぎると自分の「謀反の嫌疑」を恐れたのです。
藩主は、勝手に家臣の陪臣や倍陪臣などが増える事を嫌い、むしろ減らさせようとして難癖を着けて減らす方向にあったのです。

従って、お家が、西園寺氏や宇都宮氏と直接に付き合える環境には、先ず100%無かったのです。
「よそ者」のお家の前には「讃岐青木氏」が在って、それを飛び越えて直接家臣に成る事は「軍則規定」では起こる事は無いのです。
「上下関係」をはっきりとさせる目的もあったこの「軍則規定」はお家が主張する様な事は、最大の禁じ手でした。
まして、「よそ者」だけでは無く「敗残兵」で「お尋ね者」です。
よそ者が、テレビドラマの様に仕官すると云う事は、先ずこの「軍則規定」があって、あり得ない事なのです。相当に何かの強力な「伝手・縁故」が無い限りは無理でした。
お家の場合は、”讃岐青木氏の影に隠れて生きる事”以外に無理であったのです。
同じ「青木氏」を利用して、身内の様に見せかけて、生きる以外にはなかったのです。
より安全を守る社会の慣習を作らせて護らせる「軍則規定」の縛られていたのです。
現代の様に自由社会の慣習では無かったのです。
武士道はこの「軍則規定の慣習」から生まれたとも言われています。

それには、「石高」に応じて家臣数は決められていたのですから、欠員でも出ない限りは先ず無理な事なのです。

お家の場合は前回で述べました様に、その様な都合の良い条件はありませんでしたから、「軍則規定」から矛盾しているのです。
養子や縁組なども良く調べられる必要があります。
軍則規定のみならず、当時の社会慣習から先ずお家が云う様な血縁は起こりにくいと観られます。
尚且つ、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」を飛び越える事は先ずありません。
家臣説も血縁説も何もかも軍則規定で護られた社会の慣習を遥かに超えています。
お家の立場から、”つくり上げたもの”である事は100%判ります。
家柄をよく見せようとした「搾取偏纂の結果」だと思います。

次ぎに、更にこの搾取偏纂を超えていると観られる事が他にも在ります。
それはお家のお墓の年代が1667年と成って居る事です。
西園寺氏は、長曾我部氏に1584に完全に滅ぼされています。有名な戦いです。
宇都宮氏は毛利氏に伊予攻めで1585年に完全に滅ぼされて完全滅亡しています。
長曾我部氏は秀吉に負けています。
1590年頃には四国は安定し、江戸期には大洲は加藤氏が入っています。
もし、仮に、西園寺氏や宇都宮氏と血縁をしていたとする説にすると、お家は1585年には滅亡しています。
1667年のお墓は無い筈です。お家のお墓は1585年で終わって居る筈です。
そうすると、お家が滅亡して讃岐青木氏は滅亡しないのも理屈に合いません。
「讃岐青木氏」の宗家筋の方からは、本サイトのルーツ掲示板にもお便りをいただいていますが、滅亡せずにむしろ勢力を拡大させています。
次に、兎も角も「軍則規定と社会慣習」から先ずあり得ませんが、仮に血縁した説として、185年間の間に成りますが、四国の戦国時代は1500年の頃からです。
四国は主に宇都宮市の場合は、1519年から1585年ですから、65年の間の婚姻できるとしてもせいぜい30年間程度と成ります。

この間に、「倍陪臣のお家」が「大名の家」とどの様に血縁で出来るかの問題もあります。
「青木氏一門」から青木氏を消されたお家が、何故、「倍陪臣の家」との血縁が成り立つのでしょうか。
それも養子と成りますとあり得ないと云えます。
まして、「宗家の意」に反発をした家が一門の宇都宮氏との血縁は極めて考え難いものです。
お家の宇都宮氏の説は根本からあり得ないのです。
つまり、家柄をよく見せる為に「家紋も家柄も宗派」も何もかも宇都宮氏に「作り上げた説」と成ります。
ところが、「軍則規定」では、この説も成り立たないのです。

次に、今回のお便りのこの「庄屋の件」は、恐らくは伊予の東と讃岐と土佐の東側に勢力を持っていた「讃岐青木氏」だと思います。お家の青木氏では無いと思います。
庄屋は土地の郷氏が成るものです。家紋と宗派を確認ください。
お家が100年程度で「郷氏」に成れる事は100%あり得ません。
お家は「郷氏」では無かったのです。依って「庄屋」に成る事は出来ません。
67年の間には無理です。もちろん「軍則規定」とその「社会慣習」からもあり得ません。

同じく、「村長の結城氏」は「関東屋形の結城氏」ですが、この「結城氏」は秀郷一門の先祖・元祖の氏名に当たり、奈良期から「名家の結城氏」で在った”「古氏」の氏族”です。
京平家にこの「結城」を奪われて追われて武蔵に逃れたのです。
鎌倉初期に、この結城に付いては、頼朝はこの事を知っていて、開幕後、すぐに特別に「本領安堵」と奈良期の名家の「氏名」が復活させた位なのです。
そして、藤原の宗家の「朝光」がこの「結城氏」を引き継ぎます。

結城氏は、「土木工事の官僚の専門家」の氏族で、現在の山口から飛鳥までの「山陽道」はこの氏が設計し建設したのです。
現在でも、その「土木工事の技術」は、何ら劣っている事が無いくらいの極めて進んだ理論的に一致する道路を建設したのです。現在もその道路を使っています。
「土盛り工法の見本」でもあります。

この氏が「関東屋形の首魁」として勢力を持ち関東以北を抑えていました。
その配下には、宇都宮氏や”「赤羽氏」”や九州から来て勢力を持った佐竹氏等があるのです。

ところが、遂にはこの「結城氏」は秀吉と対立します。秀吉にとっては最早無視できない勢力と成ったのです。
秀吉は関東の本拠地は攻める事は出来ないとして、陸奥の結城氏を先ず攻め落とします。
秀吉一番の犠牲を負って超激戦の末に落とします。有名な戦いです。
この時全国から助けに一門が駆けつけます。
背後を攻められる様に成った秀吉は危ないとして無理にせめて一応戦いに勝って一目散に大阪に逃げ帰ります。
本拠地の結城秀郷一門が動いたからです。
勝つ見込みは全く無かったのです。
そこで秀吉はここを家康に押し付けたのですが、上記で書いたとおりの結果と成ってしまったのです。
名門中の名門の結城氏で、秀郷一門の24地域にはこの名門が「名門の家柄」として必ず存在させているのです。秀郷一門のステイタスとして意識させる為にも各地に置いていたのです

さて、この”結城氏は何を意味するか”と云う事なのですが、この地域一帯が「讃岐藤氏 讃岐青木氏」の「勢力領域」であった事を物語っている事です。
云い換えれば、お家は「讃岐藤氏の讃岐青木氏の支配下」にあった事を意味します。
秀郷一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の「庄屋」があった事は、お家が更にこの「庄屋の支配下」にあった事に成ります。
(前回に説明しました様に「龍神説」を採るとお家は100%と「庄屋」に成れる事は無い。)

云い換えれば、決して、西園寺氏や宇都宮氏との血縁族で無い事に成ります。
その様な行為は無かった事を意味します。つまり、家柄をよく見せる為の搾取偏纂であった事を意味します。
「庄屋」や「結城氏」が在る中での生活で、「宇都宮氏」と血縁する事は、「結城氏」や「庄屋」を超える立場である事に成り、「結城氏」や「庄屋」や、はたまた「讃岐青木氏」の中にいる事との矛盾を生み出しています。
筆者は、これは、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」であった事の説を採っている。

(この時に家紋まで変えたのです。 前の本来の家紋は和歌山の6家の家紋に成る筈です。
明恵地域で、藤原氏の影響を受けていた土地を代表する土豪の家紋の可能性があります。
且つ、それが秀郷流青木氏の家紋の中にあって、秀郷一門の佐野氏族の家紋の中にある事に成ります。「三つ巴紋」では和歌山に繋がらない。故に「元の家紋」は把握できている。)

(「三つ巴紋」にした理由には、この「元家紋」が大きく影響したと観られます。
むしろ、”間違えた”と観ています。そして、極めて良く似た家紋が傍にあった。その為に、その家紋の繋ぎて搾取偏纂し戯曲して合わせたとすれば、上記の矛盾は解けます。”思い込んだ”と云ってよいのではと思います。先ずは「元の家紋」は1400年頃の何かの資料にあると思います。
それ以後はこの三つ巴に全て合していると思います。
先ず、家紋に繋がる情報をお調べください。その後にお教えします。

もし、このBの「宇都宮氏説」を採った場合は、Bの「第三の青木氏」と云う事に成ります。
前回に論じましたこれでは矛盾が解決できません。

村長の時代が何時であったのか、
お家の宗派は浄土真宗の何派であったのか、
庄屋の家紋と宗派は何であったのか、
家紋、苗字帯刀 家紋使用 登城権 墓所 墓形式 仏壇形式、永代供養のお寺 菩提寺の有無
結城氏の家紋と宗派は何であったのか
以上のどれかかが判れば、「結城氏」や「庄屋」との繋がりが判りますよ。

お家のご先祖の青木氏のお墓の刻みが1667年です。
お家は1585年に、既に「倍陪臣の立場」が無く成って居る。
その前に、家臣の範囲であった場合は、お家は滅亡している筈で、生き残ったとすれば、「倍倍陪臣」、つまり、「秀郷一門の郷氏の支配下」に入っていて戦責を逃れられた事に成ります。
普通は「倍陪臣」から武器放棄すれば「掃討難」を逃れられます。
戦いには必ず「敗残兵」の「掃討作戦」が行われます。
織田氏や武田氏等は厳しさで有名で、歴史上に遺っていて、織田氏は「皆殺し」、武田氏は「奴婢売却」であった。戦国時代は奴婢売却が多かった。
この地にそのままに住んで1585年までに生き残った事を意味しますから、生き残ったとして「家臣と陪臣」ではこの地から逃亡しなければならないし、激戦であったし、逃亡は四国と云う島の土地柄から困難で、掃討作戦では逃げ切るのは難しいし、当地に定住する事は到底困難です。
そのこの時の証拠があって、宇都宮氏と西園寺は南に逃亡したが掃討されて完全に根絶やしの滅亡した記録があります。
長曾我部氏は北側は秀吉に依って一切掃討されたが、南の土佐は許されたのです。

何か変だと思いませんか。
そもそもこの両者は藤原一門のど真ん中での伊予讃岐と云う真ん中で負けて滅んだのです
この意味は大きいです。
普通は秀郷一門の勢力圏の中で起こった一門の戦いでは、「一門の抑止力」が働いて勝負には成らないし、滅亡となる様なところまで行きません。
しかし、瀬戸内を背景に「秀郷一門の第二の勢力」を誇り、東域全域には「阿波の青木氏」が勢力を誇っていた中で、「二つの藤原氏」が一度に何の助けも無く完全に滅んだのです。
滅ぶことは先ず無い筈なのですが滅んだのです。
匿う事、助ける事は絶対に出来た筈です。
また、そうしないと身内を見殺しにしたとして「讃岐青木氏の立場」はない事に成ります。

それでも、二つの氏は完全に亡びたのです。
何故なのかです。何か一門の協力を得られなかったと云う事です。
それも、讃岐藤氏や讃岐青木氏が助けないと知っていたから、長曾我部氏も、毛利氏も知っていた有名な事であったから安心して攻めたのです。
この事は前回にもこの二つの氏が宗家側と上手く行ってていなかった事だからです。
今回も、郷氏の讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係が悪かった事から来る事だったのです。
これは有名な事だったのです。
仲が良かったとお家が述べていますが、仲が良ければこの様な事は起こりません。

つまり、もうお判りと思いますが、お家は生き残った事は、この「讃岐青木氏の配下」にあったからなのです。つまり、「倍倍陪臣の位置」に居たからそのままに定住地にいて生き残っているのです。
西園寺氏や宇都宮氏の中に無かった証拠です。

そもそも、「倍倍陪臣の位置」とは「半農民」の者が多く、家臣で生活できる石高は250石程度で、「倍陪臣位」からは石高100石以下程度ですから生活できないで、農業もして生き延びたのです。
「農兵」とも云う事もあるが、実態は苗字も家紋も鎧兜も持っていて、戦いが起こると、契約して戦いに出る形を採っていたのです。
この場合は登録して置いて「讃岐青木氏の組支配」が必要な人数を集める等支度を整えて、契約金を渡す仕組みで総支配の指揮の下で出陣するのです。
その土地の藩主から「割り当て」を軍則規定から強制的に与えられるのです。
藩主とこれらの集団と上手く行かなかった場合には、人も集まらないし、戦いも積極的でないし、
直ぐに逃げる等の事が起こったし、元は武士の人が集まらない場合は、農民も駆り出されたのです。

何で、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」をしたかは、生き残った一人が、鎧兜などから200年前はれっきとした”青木氏を名乗る武士”であった事が伝わっていた事から、江戸初期に武勇伝を作り、和歌山からの逃亡の汚名を消したかった事から起こった事です。
しかし、その後にその生き残りの人物の青木氏はその人物で絶えた事に成ります。

その後、讃岐青木氏の環境の中で、農民に成って200年間、明治期まで過ごして、「江戸初期の後付」の言い伝えもあり、そこで、苗字令によって所縁のある匿名の「関東屋形」の姓の匿名「・・・」を名乗った事に成ります。

農民に成って居た頃の青木氏から、別の関東屋形の武士の「・・・」氏名を名乗りたかったと観られます。

「讃岐青木氏」に関わった「瀬戸内の青木氏」には、農民では無く、船頭に成って居た者も多かったのです。
1582年に甲斐から逃亡して来た甲斐の武田氏系青木氏は、同じように土佐で讃岐青木氏の勢力を借りて土地を奪い、最終「土地の郷氏」に成った青木氏もあったのです。
丁度、四国も戦国の嵐が吹き、西園寺氏や宇都宮氏が危うく成った時期に「甲斐武田氏系青木氏」が、「讃岐青木氏」を頼って逃げて来て、長曾我部氏が勢力を張っていた地域の東域を讃岐青木氏と共に奪い取ったのです。お家と武田氏系青木氏の違いは、敗残兵であったが、武田氏系青木氏の場合は讃岐伊予の本領地に留まらずに土佐の生きるチャンスを求めたと云う事に成ります。
恐らくは、その規模が違ったのではないかと思われます。
讃岐伊予の讃岐藤氏の勢力圏では生きていける規模の軍団ではなかった事に成ります。
そこで、南下して土佐の国境を攻めて生きる場所を作った事に成ります。

(最後には転封して来た山内氏と争いを起こした勢力。甲斐でも山内氏と戦っている。)

この事でもお家は西園寺氏や宇都宮氏に、云々して・・・出来る勢力のレベルでは無かった事が判ります。
 

以上の事がお便りからは判りますが、歴史には、武士の行動規範の基にも成り、服務規程の様なこの様な「軍則規定」の様な事の知識での判断も大事です。
ネット情報はこの様な考証や検証をして投稿していないのです。

では、また、ご遠慮なくお尋ね頂き、またお便りをください。



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