青木ルーツ掲示板
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  [No.993] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:元・青木   投稿日:2014/08/30(Sat) 11:54:21

 いつもながら詳細なご回答をありがとうございます。
 当方としましては副管理人様の情報評価・分析を全面的に信頼させていだたいておりますので、過去に投稿させていただいた『西園寺氏』、『宇都宮氏』等との関係につきましてはもはや一切拘泥しておりません。
 当家のルーツにつきましても、ご教示頂いた方向で間違いなかろうと考えております。

 それでもなお、こうして素人調査を続けておりますのは、ただ伊予西南部の田舎で百姓をしていたとしか理解していなかった当家に未知の過去があったことに対する驚きと、一族について可能な限りのことを知りたい、という好奇心が尽きぬゆえです。
 大きなことを申し上げるようですが、家族愛・郷土愛からのもの、とご理解いただければ幸いです。
 

 同時に、当ブログの青木氏研究に少しでも材料を提供できれば、という気持ちもあり、『青木』と聞けばつい目がいくようになってしまった、という面も否めません(苦笑)

 そこで昨日の今日なのですが、郷土資料から注目すべきものを発見いたしました。
 地元郷土史家による『曽根庄屋青木家-古文書と墓石銘からの郷土史研究』なる史料であります。

 『曽根』は現・宇和島市三間町にあり、当家の墓がある場所からは『丘一つ』越えた地域です。
  最初にご相談しました当家の伝承『三間町で庄屋をしていた』の部分に符号するものですが、一読した結果、副管理人様が既に下された評価・分析の通り、『この庄屋青木家は、当家の先祖ではない』と思われます。
 
 ただ内容は一五〇〇年代に遡る墓石銘・過去帳・他家の庄屋史料を元に、曽根庄屋青木家歴代のつながりを解き明かしたもので、伊予西南部における青木氏の活動を知る上でも良好な史料と思われます。
 以下のURLにコピーを貼らせていただきました。
 ただ、地方の歴史研究雑誌に投稿され公開されているものではありますが、一応は著作権の問題もあろうと存じますので、副管理人様が確認・保存され、お返事を頂いた段階で削除する予定です。
 『原寸で表示する』というボタンを押しますと見やすくなると思われます。


http://shashinkan.rakuten.co.jp/my-page/community/top/c/aokishouya

 『見えない』という場合はご連絡をお願いします。メールアドレス等をお教えいただければデータを送付可能です。

 上記史料に若干の補足を致しますと、曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、史料にあります通り現在は無住となっております。創建年代等は不明です。

 現在、曽根青木家の過去帳を所蔵している『医王寺』は、当家が住む宇和島市吉田町立間地区にあり、同じく天台宗。寺伝等によれば『草創期は不詳であるが、『吉田古記』に「医王寺は、立間大光寺十二坊の一つで、天台宗である」とみえている。戦国争乱の世には堂宇は荒廃し、各宗の僧侶が時に応じて住持するなど、宝灯明滅、宝財・文献の類が散逸したという。応永二二(一四一五)年西園寺氏の配下清原勝円の帰依を得て浄財を募り、上日和尚が中心となり堂塔の再建をみた』とあります。

 また宗光寺を含む一体は中世城郭『岩倉城跡』にあたり、道路建設のコースとなったことから自治体による調査が行われています。
http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/kankobutsu_hoka/hokokusyo/1 ..... yo_157.pdf

 『曽根庄屋青木家』は現状、子孫はおられません。また道路工事に伴い、庄屋青木家の墓は宗光寺の山門内の境内に移され、歴代住職の墓に隣接した場所に集めた形で地元の方々がお世話をなさっているようです。(地元の皆さんの墓地は別の場所です)。

 史料にある『庄屋以前の墓』は、今も岩倉城跡の山中にあります。
 先日、実家の父と共に訪れましたが、竹やぶと雑木が密生し、歩くのも困難なほど凄まじい荒廃ぶりでした。
 微力ながら墓の上の倒木を片付け、倒れた五輪塔を積み直すなどし、手を合わせて参りました。
 やがて土に帰る、という思想からは余計なお世話であったかもしれませんが、ひょっとすればご先祖に何らかの関係があった方々、と思えば放っておくのも忍びなく思った次第です。

 なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
 よって曽根青木家の家紋は不明のままです。

 言うまでもありませんが、浄土真宗である当家と天台宗である曽根青木家とは宗派が違いますし、通字に『正』の字を入れる、といった風習も異なることから、曽根青木家が当家のルーツではない、という結論に達しました。
 恐らくこの曽根青木家は土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。

 一方、 曽根青木家が庄屋となった年代が、当家の初代の没年より後であることから、『庄屋から分家した』という当家の伝承に矛盾があることも明白です。
 副管理人様の分析通り、当家が『庄屋をしていた』との伝承は信用できないものと断定してよいと思われます。

 ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
 三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。

 連投となりますが、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
 



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