青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.994] Re:愛媛県南部の青木について
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/01(Mon) 12:19:24

今日は。
早速、お便りをいただきました。
ありがとうございます。

さて、長い間、歴史をやっていますと、ルーツ等を調べるには、「特別な感覚」が必要になると感じています。
それには、現在、我々が”当然の思考”と思う感覚は、”歴史観”では全く異なる事が判ります。
それは「思考概念」が昔と今では違っているからで、つい”現在感覚”で観て仕舞うと云う事が起こるからだと思います。
「昔の事」を「今の事」では無理で、[昔の事」は「昔の事」で見ることが必要だからです。
現在感覚では「真の事」が見つからない事が「違和感」と成って脳が受け付けなく成る現象だと思います。
これには、矢張り、何でも良いから”歴史観”の基に成る事を培う事かと思います。
そこで,お家のお便りを観ていますと、次第に、この”歴史観”を獲得できる様に成って来たように感じます。
故に、「青木氏の事」が出て来ると見逃す事が出来なくなる感覚が生まれているのだと思います。
私の経験では、この事が大事な事なのです。
この感覚が、”昔の感覚に入れる現象”の入り口に入った事を示しています。
脳の中に、歴史知識が左脳に入り、歴史に付いて、それを使って右脳が租借する能力が出て来た証です。
これが進めば進む程に、この”歴史観”が深く成って”真の史実”を見つける能力を持てるように成るからだと思います。
簡単に云えば、昔の事は昔の人の目で観る事だと思います。

筆者は、その意味で、お便りには忌憚のないご意見を記述する様にしています。
悪しからご了承ください。

さて、今回のお尋ねのご推理が、この”歴史観”の中に入って来た事を感じています。

そこで、お便りのこの部分の所に注目します。
>”曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、”

実は、「二つの青木氏」には、他氏が絶対に伝承できない「慣習仕来り掟」が特別にあって、この事からこの情報が浮き上がってきます。
前回にも書きました様に、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令」で他氏との区別が出来るのです。
それは、先ず菩提寺の寺名の”「宋光寺」”です。
つまり、何れも「・・光寺」の「仕来り」に従っているのです。
「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺も、「特別賜姓族青木氏」の菩提寺も、例外なくこの「仕来り」に従っています。
これは他氏が真似のできない禁令の一つです。
この「二つの青木氏」の「121氏の菩提寺」は、この「仕来り」の「菩提寺名」を持っています。
(寺名は問題が起こりますので匿名とします。)
つまり、「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」である事がこの寺名で判ります。
この”曽根の讃岐秀郷流青木氏”は、この”青木氏の仕来り”を厳然と護って居た事を示すものなのです。
「青木氏の家柄」で云えば、「本家筋の青木氏」に匹敵する位の「青木氏」である事を物語っているのです。

そもそも「菩提寺」とは、本家筋が中心に成って一族一門の全てを自前の一つの寺で祭祀する寺の事です。
その「青木氏」が、「・・光寺」名の特別の呼称を使っている「菩提寺」を持っていると云う事です。
この情報は絶対に見逃す事が出来ないものです。
この一つで”多くの事”を物語っているのです。
つまり、「讃岐藤氏の讃岐秀郷流青木氏」の中でも「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は家筋が良かった事に成ります。
ここに”何かの意味”を持っています。


更に検証すると次ぎの事が浮かびます。
上記する事に完全補足する様に、次ぎに、宗派が「天台宗」と成って居ます。

本来、「二つの青木氏」は、本来は、「浄土宗密教」か、その系列の「浄土真宗」であります。
古来は宗教に付いては、自由に選べるものでは無く、その家柄身分に依って決められていた習慣でした。
そこで、「青木氏」は、「賜姓族」であった事から、その「賜姓族の役目」(賜姓五役)を全うさせる為に、つまり、「古代の宗教」(和魂荒魂)と「古代仏教」を引き継がせる為に、「古代仏教密教の概念」を引き継ぐ「浄土宗」を指定されていました。
この「掟」からは逃れられません。
ところが、「特別賜姓族青木氏」、つまり「秀郷流青木氏」には、藤原北家筋の中にある為に、「藤原氏北家筋」の「97家」の内の「9氏」の秀郷一門は、この古来からの密教性の強い「浄土宗密教」を引き継ぎました。
しかし、この秀郷一門の9氏の中で ”京の公家族の影響”を強く受けた一族の2氏の内の1氏が、この「讃岐の秀郷流青木氏」であるのです。
ところが、その為に、「秀郷一門」でありながら「讃岐藤氏」(公家族)の流れを引く「讃岐秀郷流青木氏」は、「武蔵の総宗本家」の云う事をなかなか聞かなかったのです。

「讃岐秀郷流青木氏」と書いていますが、昔からの俗称では、”「讃岐青木氏」”と呼称されていたのです。
それだけに、「讃岐藤氏の影響」が強かったのです。
その中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”「讃岐藤氏」の影響を強く受けている”と云う事なのです。

実は、元は、北家の秀郷は、藤原氏で在りながら、「公家族」のみならず、「貴族」でも無かったのです。
武蔵の「押領使」(警察権と軍事権の両方を持つ官僚)と云う「令外官」の低い身分で在ったのです。
ところが、関東で独立国を創ろうとして「平の将門の乱」が起こります。
朝廷は長い間この乱を鎮める事が出来なかったのです。
そこで、窮地に陥った朝廷は鎮める事が出来る者を募りました。
この時、「藤原秀郷」と共に、同じく「関東の押領使」を務めていた清盛より5代前の「平貞盛」が手を挙げました。
そして、朝廷に対して二人は、これに「二つの条件」を付けたのです。
天皇に注文を付けると云う「前代未聞の事」が起こったのです。
それだけに窮地に陥って居た事を示します。

それは、秀郷の場合は、”武蔵の国を領国にする事””貴族にする事”の「二つの条件」であって、朝廷はこれを渋々認めました。
結局、二人は、この乱を鎮めこの「二つの条件」を獲得します。
ここで、やっと「貴族」と「領主」に成ったとする経緯があったのです。

それ以後、この為に勢力を拡大させた秀郷一門は、朝廷より各地に一族を守護職として赴任を命じられる立場に成ります。
その24の赴任先に配置されますが、この讃岐にも赴任先として配置を命じられました。
そこで、一門に同行しての「護衛役の任務」を担っていた「讃岐秀郷流青木氏」は、「公家族の讃岐藤氏」との同族血縁を進めます。
結果として、「讃岐藤氏」の中に組み込まれて仕舞ました。
「秀郷一門の護衛団の役目」を持つ「讃岐秀郷流青木氏」は、この為に”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”とまで呼ばれる様に成ったのです。
貴族に成った秀郷一門の宗家の中で、讃岐に赴任し護衛団を務めた「秀郷流青木氏」も、血縁でもこの「讃岐藤氏」の「公家族の血筋」を持ったのです。
結果として、身分と家柄が武蔵の宗家の秀郷一門より高く成ったのです。

丁度、この「平将門の乱」と並行して、同時に、西のこの「瀬戸内」でも、勢力を拡大していた「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」が起こったのです。
前回にも書きましたが、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云うことから、途轍もない財力と勢力を握った「純友」を朝廷は警戒して潰しに掛かったのです。
これを九州全土の自治を任されていた阿多倍一門で京平家とルーツを同じくする「大蔵氏」に攻めさせて成功します。
このため、「純友の讃岐藤氏」は衰退します。
しかし、その後、大蔵氏から「瀬戸内」の「管理支配権」の権利を譲られて「瀬戸内」を支配に入れていた平家が潰れて、「瀬戸内の勢力図」が変わっりました。
この為に、「瀬戸内の民」に慕われていた「純友の讃岐藤氏」を慕って「讃岐藤氏」は再び勢力を盛り返しました。
この時、同族血縁化した「讃岐秀郷流青木氏」は、この勢力を下にこの「瀬戸内」で勢力を高めたのです。
この時から、讃岐で、勢力を獲得した「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」との血縁を進め、今度は「武力」だけでは無く、「瀬戸内」を活かした[二足の草鞋策」の財力で盛り返します。
これを推進したのが「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」であったのです。
「護衛団の武力」と瀬戸内の「二束の草鞋策」での「財力」を得た「讃岐秀郷流青木氏」は、今度は「讃岐藤氏」に代わって讃岐を支配します。

それ以後は、以前にも書きましたが、そして、「讃岐秀郷流青木氏」は「瀬戸内の勢力と財力」を背景に自立の生き様を貫いたのです。
直ぐ東隣に同門の「阿波青木氏らの勢力」が在りながらも、自前の生き方を採用しました。
その一つとして、「四国の讃岐藤氏」との関係を深く持った事によるのです。
これが、”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”と呼ばれる所以です。
最早、「武蔵の秀郷流青木氏」よりは「讃岐藤氏の讃岐青木氏」としての行動を採り、民からこの様に観られる様に成ったのです。
他の24地域に分布する秀郷一門にはこの呼称はありません。
四国の秀郷一門の「青木氏」だけなのです。

さて、この「讃岐藤氏」は「藤原氏の公家族」です。
この京のルーツを持つ「公家族の宗派」は「天台宗」なのです。
故に、西園寺氏や一条氏等の公家族は、この「讃岐藤氏」を頼って四国に来るのです。
また、藤原氏公家族(摂関家族)の「名義上の荘園」が四国域に多かったこともありますが、この「讃岐藤氏」(天台宗)の流れをより深く持ったのが「曽根の讃岐秀郷流青木氏」である事に成ります。

処で、上記2氏の中の1氏の「讃岐秀郷流青木氏」の中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、この「讃岐藤氏の影響」をより血縁的にも強く受けたのです。
故に、公家族が信心する「天台宗」なのです。
宗派を「浄土宗」から「天台宗」に「宗派変え」をするという事は当時の上級社会では、大変な事で、それなりの理由が無く成ては認可は得られません。
その位ですから、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”宗派変え”が出来るには何度も「跡目」を「讃岐藤氏」から取った事に成ります。

ここに、”何かの意味”の答えが潜んでいると観られます。
これは上記の”歴史観”です。
氏家制度の社会の中での「青木氏」に関わる”「慣習仕来り掟」に矛盾を生じているのです。

そもそも、「讃岐秀郷流青木氏」の宗家本家筋が居る中で、宗家本家の許可なく、「讃岐藤氏との血縁」や「天台宗の宗派変え」や「菩提寺の建立と寺名の使用」や「跡目縁組」等出来る事は絶対にありません。
「讃岐藤氏」の相手の方も、「讃岐秀郷流青木氏」の許可の得ていない関係を持つ事は、「讃岐秀郷流青木氏」との間に”亀裂”を作り出す事が起こりますので控える筈です。
しかし、出来ているところを観ると、考えられる「シナリオ」は唯一つです。
それは、”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、「讃岐の宗家本家筋]であった。”と云う事に成ります。
しかし、ところが”勢力末端の危険な南域に「曽根の在所」がある事”です。
これは、”宗家本家筋”であれば、戦略上あり得ない事です。
「讃岐秀郷流青木氏一族一門」の中で、”何かがあった”からこの様な、あり得ない現象が起こっているのです。
では、”その「何か」は何なのか”と成ります。
この”あり得る現象”とは、この「氏家制度」の中での「仕来り」にある筈です。

宗家本家の惣領、つまり、”当主に成れる者はその任に値する嗣子を嫡子に定める”とする掟です。

長男が嫡子に成ると云う慣習は江戸初期に家康が定めた武家の慣習です。

室町期以前は、特に賜姓族青木氏の中では、青木家家訓にもある様に、”嫡子はその任に値する者”と定められています。
従って、その任に無い嫡子が居た場合は「廃嫡」と成り得ます。
「曾根の秀郷流青木氏」は、「寺名」と「天台宗」の宗派換えも成し遂げています。

つまり、嫡子として当主と成ったが、瀬戸内から中国地方の島根までも勢力拡大を成し遂げた超大勢力に成った一族一門を統制するには、この当主は、”その任に値しない”と成った事を物語ります。
そこで、これを全うするだけの能力が持っていない「愚能」と見做された「曽根の秀郷流青木氏」の家長は、廃嫡の憂き目を一族一門から受けたのです。
故に、先ずは南域の”曽根”に移動させられたと成ります。つまり、「配流処置」です。
この「愚能」とは、起こる諸問題に一族一門の決定事項に、充分な理解を示さず、常に反意を示し、これでは一族一門は保てないと判断されたのです。
故に、南域の三間域に「配流の憂き目」を受け、そこで反乱を起こしかねない事から、その「行動の見張り」をお家に命じた事に成ります。

更に、後に、この南域を強化する為に、讃岐秀郷流青木氏を頼って逃亡して来た「武装集団」であった「武田氏系青木氏」と共に侵略して奪い、その上で「武田氏系青木氏」に南域の運営を任したと成ります。
「見張り役]を含めて南域の向後の安定化を謀ったと観られます。
(詳しくは、研究室論文の各所に記述していますので参照してください。)

「寺名」は兎も角も、「一族一門の行動規範の概念」が異なる宗派の「天台宗」が、あまりに公家化した為に廃嫡事件が起こった事を示しています。

「浄土宗密教」か「天台宗密教」かの選択は、「青木氏の伝統シリーズ」で論じていますので詳しくそちらをご覧ください。

そもそも、「天台宗密教」と「浄土宗密教」は、根本的に「行動規範の概念」が異なっています。
現在は兎も角も、昔は「宗派の考え方」が即、人々の基本的な「行動規範」であった社会でした。
ですから、「讃岐秀郷流青木氏」の「浄土宗密教」の一族の中に、「天台宗密教」の者がいる事は、日本人の中に外国人が居ると云う事に等しく成ります。
これでは、氏家制度の社会の中では、”一門の統制”は取れません。
当然に、排除される憂き目を受ける事に成ります。

また、「讃岐秀郷流青木氏」と、四国の関係も「青木氏の分布と子孫力」にも詳しく論じていますので参照してください。
「平の将門の乱」と「藤原純友の乱」の関係も論じていますので歴史観を養う意味でも参照してください。
お家のルーツに少なからず関係する出来事です。

そこで、これ等の”歴史観”から、「讃岐の秀郷一門」で在りながらも、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、「地元の郷土史」などにも出て来るのかは想像がつきますね。
そして、更には、同じく”歴史観”から、何故に、その地域が「讃岐の本領地」では無く、南の「宇和島市吉田町立間地区」にあったかも判りますね。
本領の「瀬戸内の讃岐域」では、同じ一族とは言え生き難い事が云えますし、「天台宗」と成った「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の生き方を貫くには、「浄土宗密教」の「讃岐秀郷流青木氏」の本家の居る所よりは、遠く離れたところが好ましい事は判ります。
本家宗家の側から観ても、”「統制」”と云う観点から「集団」から離すところに移動させる必要が出てきます。
まさしく、”武家の集団の中に、公家の概念を持つ武家が居た”のですから、まとまる訳はありません。
到底、宗派が変われば、思考概念が異なる事から同じ一門の所で同じ行動を採ることは出来ません。
況して、昔はその「宗派の考え方」、つまり概念が生き様を大きく左右した時代でしたから、宗派が違えば行動も違う事から、「讃岐秀郷流青木氏」の本家から観れば、「讃岐」から離して遠く南に定住させられた可能性が有ります。
自ら「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が勝手に好きな地域に移動できる社会制度ではありませんでしたから、宗家本家の支持に従うのが常道です。
最初は”「曾根の讃岐秀郷流青木氏」”も「讃岐の本領」付近に居たと考えられます。
しかし、「讃岐秀郷流青木氏の一族一門本家」の意に従わない事が多くあって、四国の他の勢力と近接する南域に配置させられた可能性が有ります。
そこで、場合に依っては、”「讃岐秀郷流青木氏」の意に沿わない行動”を採る事も良くあって、「見張り」も含めて周囲に”お家”を配置した事が考えられます。
(曽根の秀郷流青木氏は、この処置では済まない事は充分に想像できます。)

では、何故に、1339年頃に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って移動して来た「脩行系佐野氏族青木氏」のお家を配置したかの疑問です。
実は、この地域に配置した理由の一つには、”「脩行系佐野氏族青木氏」”の”ルーツ”にあるのです。
この証拠と成る事があるのです。

その前に、「南の讃岐秀郷青木氏の勢力」を補完する為に、「甲斐武田氏系青木氏」が、お家の様に、やや遅れた時期(1582年)に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って逃げてきました。
武田氏が滅び「賜姓族武田氏系青木氏」は「讃岐秀郷流青木氏」を頼って来たのは、お家の南北朝期(1392年)のより後(250年位)になると思いますが、これも配置された地域は南域に成ります。

この「讃岐秀郷流青木氏」は、この時、南に移動させて土佐域の南東域を「讃岐秀郷流青木氏」と共に、この域を奪って、ここにこの賜姓族系の「甲斐の武田氏系青木氏」を定住させたのです。
目の届き難い地域は同じ一門でもなかなか命に従わない一族も居る事からも、他の豪族の調略の誘いに乗って反抗する事もあって配置したのです。
頼って来たお家の「脩行系青木氏の配置」も、この「武田氏系青木氏の配置」も皆南側です。
「讃岐秀郷流青木氏」に取っては、南域は他の豪族と身内の一族の反乱が最も警戒することで在ったのです。
「瀬戸内」を護るには”背後”を安定させる必要があり、身内の反逆や他氏の侵略に供える必要があったのです。
その証拠に、この理由から「讃岐秀郷流青木氏」を頼って四国には多くの逃亡者が入ってきましたが、全てこの南域に配置しました。
この意味で、お家のこの地域への配置には、先ずはこの意味の一つが在ったのです。

「天台宗」の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、宗派違いや家柄等の事もあって、この意味でこの地域に配置されたのです。
この地域に頼って来た大きい勢力を持った「武力集団の武田氏系青木氏」を配置して、更に二重のリング状に固めたのです。
依って、南域は1590年頃を以て小競り合いは在ったにせよ安定に向かいます。
この間に「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「土佐の青木氏」は何れも「青木村」を形成していまして、関係があった模様です。
戦国期より少し後に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」もお家もほぼ歴史的には同時期に衰退していると観ると何かがあった事が考えられますが、現在の所は正確には判っていません。
お家はこの地域にお墓が在りながらも荒廃している時期(1660年頃)と考え合わすと、1600年頃に「讃岐秀郷流青木氏」の命に従わなかった事もあったのかも知れません。
(「小競り合い」の合力に巻き込まれた。土佐一条氏か西園寺氏か宇都宮氏か長曾我部氏か等の戦いの「小競り合いの前哨戦」かで)
「土佐の青木氏」の衰退や、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の衰退には、完全には一致はしませんが、しかし、共に、「同地域での戦乱での合力」に何か原因していると考えられます。
その基は「讃岐秀郷流青木氏の意」に従わなかったことが充分に考えられます。
なにせ意に沿わず独自路線を採った「宇都宮氏」も「西園寺氏」も「土佐一条氏」も、全ての関係族は、短期間に「讃岐秀郷流青木氏一門の勢力圏」で滅亡している位です。

では、核心に入ったとこで、何故、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の居る地域にお家が配置されたのかと云う二つ目の理由の事ですが、これは、実はもう一つ”「脩行系青木氏」の本流のルーツ”に関わる事なのです。

それは「秀郷一門の青木氏」の中でも、この「始祖の脩行のルーツ」は、実は系譜では母系で”京の摂関家の血筋”を持っているのです。
秀郷の嫡子の千常より2代目の文行の子供の脩行は、一時、近江国に赴任していて近江の役人(掾)を務めていました。(「掾」とは、国司、介、掾、目の順に役職が異なる。副知事の様な役目)
この時の近江の時に、母方が摂関家から入ります。

途中で、秀郷の三男千国から発した「本流の青木氏」と、同族血縁をして「脩行の末裔」に青木氏の跡目を入れて「脩行系青木氏」を発祥させたのです。
(千国の青木氏は赴任先の地名を付けて呼称するが、文行系はその始祖の名を以て、脩行系青木氏と呼称する仕来りです。)
「秀郷流青木氏」は、秀郷の第三子を本流とするもので、秀郷より4代目の兼行系青木氏が本流と成ります。
しかし、お家はこの兼行の弟の文行の子供の脩行系の青木氏です。
秀郷一門は盛んに同族血縁をし跡目を入れたりして血筋の平準化を図っています。
「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は「讃岐藤氏の公家の血筋」を引く「青木氏」ですが、お家も母方に摂関家の血筋を持つ「秀郷流青木氏」の「脩行系青木氏」なのです。

故に、お家は秀郷一門の24地域とは別枠の、「京の影響」を強く持つことから、「紀州の守護」の護衛団を務めたのです。
故に、紀州の藤原明恵一門は京の公家族です。
お家は、この紀州に赴任した公家を護る役目を受けた護衛団の秀郷流青木氏で、配置されたのです。
恐らくは、お家の「近江掾」を務めていた時の縁での「母方の公家族」は、この「藤原明恵」のルーツに関わっていると観ます。

それでなければ、秀郷宗家の赴任先の護衛団として同行するのに、お家の「秀郷流脩行系青木氏」は、秀郷宗家一門ではない京の公家族の赴任先の護衛団を務めていた事に成ります。
慣例を重視する社会の中では、特別です。
先ずは無い事です。しかし、現実にはあったのです。
他の「秀郷流青木氏」が護衛団として同行した24の赴任地にはこのパターンはありません。
何かの強い所以があったからこそ、実現しているのです。
それは、筆者は、”この「藤原明恵」の家筋がお家の始祖の脩行の女系の実家先で在った”のではと観ているのです。
故に、紀州の守護を命じられた時に、婿先のお家に護衛団を依頼したのではないかと考えられるのです。
それには、「秀郷流青木氏」ではあるが、本流の兼行系では無く、文行系の青木氏であった事の柵の少ない理由から「宗家からの許可」が出たと観ています。



だから、上記した様に「讃岐藤氏」の「公家族」をも頼りに、お家はこの系譜を頼って讃岐に逃げたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏]の「見張り役」として南域に配置された理由にはこの縁もあったのです。

伊勢、駿河に戻った本流は本来の先祖の所に戻った一団であって、恐らくこの時に、意見の違いが起こって居た事が判ります。紀州に残る派もあった事が判ります。

つまり、伊勢派、駿河派、讃岐派、紀州派、の4のグループに別れた事が判ります。

伊勢派は前回にも述べましたが、「皇族賜姓族青木氏」の「不入不倫の権」に護られる事と、特別賜姓族の伊勢秀郷流青木氏も伊勢に定住していましたので、ここに逃げ込めば安全です。

駿河派は「丸に州浜紋」の本拠地です。本家一族に護られる事を期待したのです。

讃岐派は京藤原氏の血筋を持つ本論の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」とを頼った事に成ります。

紀州派は、居残り派で、恐らく地元の土豪(玉置氏)との血縁を持っていた事から、それらを頼り、中には、その末裔はその豪族の姓を名乗った事に成ります。

これらの3派は、訳ありの支流族と成るので、宗家の意に反して南北朝の戦いに合力したこともあって責任を採って、「丸付き紋」の「丸に州浜紋」と、紀州では「玉置氏」を名乗って生き延びたのです。全て3派は「丸に州浜紋」です。

そこで、何故、「宗家の意志」に逆らって「南北朝の争い」に合力したのかの問題は、この「脩行のルーツ」の母方の所以が在ったからです。恐らくは母方の親族から誘われたのでしょう。
秀郷一門はこの戦いに合力していません。「宗家の戒律」に逆らう事に成るからです。

「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の縁を頼ったお家は、この南北朝の問題で、この「合力」を強く主張したのではないでしょうか。
しかし、敗退した。そこで、全面的な責任を取って、少数団で「讃岐青木氏」を頼り、その配置先を後に所縁のある「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に成ったと考えられます。
「讃岐青木氏」もこの「曽根の讃岐秀郷流青木氏」を見張る意味でもお家を南域に配置したのです。
「大きい武力集団」であった場合は、「武田氏系青木氏」の様にその力を使って土佐域に配置したと観られますが、小集団であった事から「南域の三間と立間地区」の配置と成ったのです。

さて、”墓の家紋が無い事”への理由ですが、「青木氏の掟」に依り「宗家の意」に反しての行動を採った場合は、一切のルーツのステイタスが剥奪されます。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」は、墓に家紋が無いとすると、「讃岐秀郷青木氏」の意に従わず、上記した様にペナルティがあったと観られます。
当然に、家紋は当然に一門のステイタスも失いますが、この事が上記した様に”一族の責任”を採ったのです。
つまり、お家にも南北朝の事で当然にこの現象が起こったのです。

「讃岐青木氏の庇護」の下で、農業をしながら、武士であった事から、この地の「郷士」或は「郷氏」に成って生き延びたのです。
生粋の農民では無く「半農の武士」と成って生き延びたのです。
坂本龍馬の様に、有名な「土佐郷士」と呼ばれたか、或は「讃岐郷士」と呼ばれていた事も考えられます。
「讃岐秀郷流青木氏」は、郷氏として何れも歴史上では「四国の戦乱」では「大きな役割」を果たした事で有名です。
中でも山内氏との「土佐郷士」との戦闘は、過激で激戦した事で有名ですね。
何せ、この四国では、「讃岐藤氏であり秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」の、この「郷士や郷氏の協力」を得られなければ戦いには成らなかったのです。
潰れた豪族は、この土地の「武力集団」の「郷士団」の協力を失ったから短期間で滅亡したのです。
逆に、この多くの地域の「郷士団」に対して調略も働く事も強かったも云えるのです。
「お家の郷士」と成って居た見張り役の”「秀郷流脩行系青木氏」”も ”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」”も、この「郷士団」を支配下に入れていた「讃岐秀郷流青木氏の意」に反して、これらの「調略」に載ってしまった事が在った可能性も否定できません。
故に、お家の「脩行系青木氏」は、この事から遂には農業に専従し、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は潰されたのです。
お家のお墓が1667頃に荒廃しているところから観ると、何かがあって、「青木氏」を捨て、「郷士」を捨て農業に従事したと推測されます。
「合力」の様な事が在ったとして、せめての「農業」に従事出来たとすれば、「讃岐秀郷流青木氏の意」に逆らっての「小競り合い程度」の「合力」の内容の如何で、許されて「農業」に専従できたと考えられます。
「合力」も何もなければ、「讃岐郷士」の身分で終わっていたと観られます。
恐らくは、お家のお墓の荒廃が1600年前後にあったとすると、少なくとも「郷士の立場」も失う何かがあった事が考えられます。


故に、お家には、紀州での事件もあって、ステイタスも無く成って居る事もあって、最早、頼る事も出来ずに、「讃岐秀郷流青木氏」の許可を得て”農民”となったと考えられます。

恐らくは、途中で何とか家を興そうとしたが、讃岐での長い間に「ルーツの伝統」を失い、龍神から来たと云う口伝だけが遺され、家紋もルーツも郷士も失って仕舞ったのです。
そこで、ご先祖の誰かが間違えた「ルーツと家紋」の矛盾の持つものを作り出してしまったのです。

後に、ご先祖の誰かがこれに気付き、そこで矛盾のある「青木氏」から明治期には苗字令により矛盾の無い様に関東屋形の一氏の「・・氏」に替えたのです。(「・・氏」は依頼により匿名)

その時に消えて忘れられていた「ステイタスと家紋」を、「丸に州浜紋」を間違えてか、周囲の滅亡した豪族の類似する「三つ巴紋」にして、それに合う様にルーツを戯曲して「・・氏」にしたか、或は、その戯曲に合わせて類似する「宇都宮氏等」の家紋をこれまた「矛盾」を含む事を採用して仕舞ったと観られます。

讃岐に移動してから、江戸期までの200年は、「讃岐秀郷流青木氏」の下で「郷士生活」の波乱の中にあったのですが、そして江戸期の安定した200年近い「農民生活」からの「伝統の忘却」が起こったのでしょう。

ここで、お家は、正しくは、元は、過去の柵みを無くせば、室町期には上級武士であって、室町期末期までは「郷士の立場」にあった筈で、家紋は「州浜紋」で、「秀郷流佐野氏族脩行系青木氏」で在ったのです。脩行の母方が摂関家に繋がっている事が読み取れます。
そして、そのルーツは駿河付近に定住していた秀郷一門と成ります。これは間違いありません。
そして、紀州と伊勢と駿河に親族がいる事を意味します。

>なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
>よって曽根青木家の家紋は不明のままです。
>恐らくこの「曽根の讃岐青木家」は、土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。

良い点に目を着けられました。所謂 青木氏の”歴史観”が出て来たようですね
これには、「青木氏の掟」の理由があるのです。
そもそも「青木氏」は、墓などに家紋(正式には青木氏の賜姓族では「家紋」では無く「象徴紋」と云う。)を付ける事が朝廷より古来より許された数少ない氏族です。
そもそも墓は上級武士以外には作れなかったのです。
一般の武士でもせいぜい「砂岩の石」を簡単に加工しての簡単な作りしか認められていませんでした。
庶民は墓所は明治初期までありませんで認められていませんでした。
大抵は土葬でその上に砂岩の石を一つ積み上げる事しかしなかったのです。
現在の様に、禁令が解けたために「花崗岩の墓所」と「家紋を刻む習慣」は明治期に入ってからの事です。
従って、江戸期以前の武士の墓所には砂岩であった為に刻んでも直ぐに消えて仕舞う事が起こったのです。一応はそれなりの武士の家柄では刻みますが20年もすれば消えて仕舞います。

しかし、氏家制度の社会の中では、宗家の意向と威光に従いますので、家紋などが無い事は、本家宗家との間に何かステイタスと伝統の継承が出来ない何かの異変が起こった事を示しています。
これは家紋のみならず、「戒名の院殿居士」の使い方にも関わってきます。
墓のみならず、仏殿の曼荼羅にも関わってきます。

「青木氏」は、上記した様に、「密教浄土宗」ですので、家紋では無く「象徴紋」と呼称され、原則、変紋や副紋はありません。総宗本家と同じ象徴紋を使う事に成ります。
従って、「象徴紋」の使用は厳しく扱われます。
秀郷一門青木氏は、宗家の許可で121紋の中で変化します。
依って、墓石に家紋が刻まれなかった理由は、上記の事が起こった事に依る理由以外には有りません。
「讃岐青木氏」の宗家の意に従わなかった事からステイタスをはく奪された事になります。
墓所も朽ちている処を観ると、何かがあって衰退滅亡して居る筈です。
この時代では「宗家の意」に反しての行動は放置しておくことは先ずあり得ません。

家柄から観ると、家紋は「下り藤紋」で、副紋は讃岐の本家筋の宗家は「雁金紋」ですから、副紋がこの地域の最大豪族の家紋を副紋にしている筈です。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の家柄から、本家筋と同じく副紋方式を持っていた筈です。
意外に雁金紋で在った可能性が高いと観ます。
副紋に「公家紋」を使用している可能性が有ります。
宗派も変えているところを観ると、「讃岐藤氏」の代表家紋の「松紋」(三階松紋等)を副紋としている可能性が有ります。

地域から「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の背後には、「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えていますので、南から北への移動は無いと思います。
むしろ、上記した様にお家と共に北からの移動です。
「讃岐秀郷流青木氏の戦略上」から背後を固める意味からも北から南への移動と成ります。
南から北への移動は、一族との争いが起こりますので不可能です。
それだけの公家化した勢力は、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」には無かったと考えられるます。
それこそ反逆者で完全に根絶やしの滅亡の憂き目を受けて仕舞います。
恐らくはその後の行動も含めて、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の「墓」が荒廃しているところから、”根絶やしの憂き目”を受けていた事が考えられます。

そもそも「本家宗家の意」に逆らえば、どの様に成るかと云うと、「讃岐シンジケート」が掟を護る為に必ず「影の力」が動きますからね。何処にも逃げる事は出来ません。
宗家が手を出さなくても、「シンジケート」が処置しますので、滅亡の憂き目と成れば、成るのです。
つまり、お家は、周囲の豪族に合力したとしても、「シンジケートの粛清」を受ける程に、そこまで「厳しい処置」を受けなかった事を意味し、「農民」で生き残れたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のお墓が荒廃している事となれば、”歴史観”から観れば、恐らくはこの「影のシンジケート」に次第に目に見えない形で末孫までも粛清を受けた可能性が有ります。
独自の菩提寺と天台宗のステイタスを持っているところから、子孫が簡単に自然に絶えると云う事は先ず無い事です。

例えば、ドラマで、”山から山賊が降りて来て、村を焼き払い皆殺しにする”と云う場面がありますが、この様な場合は、”歴史観”から観れば、”「シンジケートの仕置き」”と観るのが正しいのです。
これも当時の「武家社会の掟」の”歴史観”です。
”反対し反抗すれどそれで済む”と云う安易な武家社会では決してありませんでした。
これが”歴史観”です。
「氏家制度の社会」を保つには、保つだけの厳しさもあったのです。

「山賊」等も山に家族を持ち住まいしていますが、「シンジケートの経済的支援」を受けていて、その為に「組織の取締」の云う事を聞きますので、勢力圏の中で無暗に村を襲うと云う事は先ずありません。
”「山賊」”と云えども、元は、地域の土豪であって、勢力争いに負けて潰されて、一族が山に籠った者達なのです。
これを大きい氏族がシンジケートの中に組み込み、「経済的支援」をして、「組織の力」に成って働き生き延びていたのがこの山賊達なのです。
普通は、「山賊」ではなく、「山族」なのです。
”いざ、戦い”ともなればシンジケートに従って参加しますし、「讃岐秀郷流青木氏」の様に「二足の草鞋策」を手広くする場合は、その”運送過程の安全”なども担当する役目を負っていたのです。

(そもそも、「四国の山族」の殆どは、元は「平家の落人」が逃げ延びた地域なのです。従って、そもそも”山賊のシナリオ”は無いのです。
「紀州龍神村」の奥手は、元はこの「平家落武者の村」なのです。「平家落武者の村」として観光地としても有名です。
この村は「十津川村郷士」と呼ばれて、今でも有名で剣道では日本一ですし、山奥村です。これも山賊の歴史観の一つです。)

ですから、無暗に襲えば組織から今度は自分達が潰されます。
これが、”戦国時代の歴史観”です。
この”歴史観”が無ければ昔の社会の在り方を正しく理解して掴む事は出来ません。
「讃岐秀郷流青木氏」の中での「合力」には、単純な合力の意味だけの事では無く、この”歴史観が大いに働く事に成ります。生か死かの選択です。
「土佐一条氏に合力」には、この歴史観を租借する必要があります。
果たして、”本当に「合力」をしたのか”と云う疑問をこの”歴史観”から持つべきなのです。
「郷土史」などは簡単に「合力」と書いていますが、ここに検証として「郷土史」には問題があるのです。検証に必要とする”歴史観”が不足している事が判ります。
でも、滅亡させられずにお家のご先祖は農民として生きていますよね。
そして、「讃岐秀郷流青木氏」は戦後の昭和20年までその勢力を維持していましたから、「郷土史の論説と検証」は変ですね。

そもそも明治10年頃までこの各地の青木氏の「シンジケート」が生きていた事が記録から判ります。
明治初年から10年頃まで続いた一揆などの騒乱にはこの「青木氏のシンジケート」が働き、一揆などの背後からの支援がなされていた事が記録に遺されています。

>ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
>三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。

両方共に、全くその通りです。異論はありません。
いよいよ”青木氏の歴史観”が出て来ましたね。
実はこの事をまっていました。
上記しました様に、氏家制度の社会の中での武士から転身して生き延びて行く為には、ある組織の中の庇護の下で静かに生きて行くことが必要なのです。
逆らえば、それなりの覚悟が必要です。
現在感覚では考えられない”歴史観”の必要な事が起こっているのです。
この”歴史観”は、歴史知識をより多く獲得して応用する事だと思います。
それには、青木氏であるので本サイトの論文をお読みください。
必ずや、この”歴史観”が得られます。

この青木氏の歴史観から観て、お家は必ずこの上記した論説の中にあったと観ています。

では、何か判りましたらお便りください。



 



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー