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  [No.1151] ご先祖の探求
     投稿者:青木正明   投稿日:2020/03/09(Mon) 08:57:37

初めまして、約30年前妻を亡くし、その時に過去帳やお寺を色々調べましたが、以降そのままにしておりました。
 最近、年も取り再び、研究したくなったしだいです。
過去帳には 江州の字や 安政 享保 香具屋半兵衛とか甚兵衛とあり、
 曾祖父は京都で油問屋を営んでいたと聞いております。
油問屋はつぶれ、京都で明治天皇の墓守をしていたと聞いております。
 何か情報があれば教えてください。

江州出身と思われる青木です。
過去帳には江州・香具屋・安政・享保の字があります。
江戸時代は香具屋を名乗っていた。
明治時代になり青木を名乗ったようです。
明治時代は京都に住んでいて、油問屋を営んでいたと聞いております。
家紋は【抱き角に日足】ですが推測である
  但し、親父の描い当た家紋は角の根元の間に日足を書いていた。
祖父は戦前神戸駅の助役をしていた。
祖母は伊賀上野の出身と聞いております。
何か情報があれば教えてください。


  [No.1153] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/09(Mon) 12:22:24

ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

サイトには膨大な青木さんに関する情報が入っています。
それを先ずゆっくりとお読みください。

さて、お尋ねですが、お便りから推測する範囲では次の経緯が成り立ちます。
近江には、奈良期より「近江青木氏の三氏」が定住していました。
この「青木氏」は「賜姓近江青木氏と近江佐々木氏系青木氏と佐々木氏系青木氏」の三氏です。
ところが、この三氏系は何れも「皇位臣下族」で、同じく「皇位臣下族佐々木氏・川島の皇子・天智天皇の皇子」と血縁をして発祥します。
同じ伊勢の「施基皇子の賜姓臣下族の青木氏」とは血筋を有する一族でした。
ところが、源平戦でこの「近江一族三氏」は二つの戦いで滅亡します。

ところが、滅亡した「支流末裔の近江青木氏」が「滋賀・琵琶湖東」でその後に子孫を増やしますが、これも再び室町期の戦乱で滅亡します。
僅かに遺された「支流族近江青木氏」が近江西に戻ったのです。
ところが、これも戦乱で支流族を伊勢の「伊賀の上田郷の出身の盗賊」に乗っ取られて秀吉の面前で決着を着ける為に「戦い」を挑みますが、これまた敗退し潰されてしまいます。

この傍系の分家の跡目を無くした家を乗っ取った「上田郷の盗賊」はこの「青木氏」を名乗ったのです。
この「上田の青木氏」も江戸期には内紛で潰れて滋賀より江戸と下総に移動します。

次に、明治3年に苗字の持たない国民9割に苗字を持つ事を命じますが、進みませんでした。
止む無く、維新政府は明治8年に督促令を発して絶対命令を発します。
そして、「青木氏」に”「所縁」”のあった農民・庶民にその「青木氏」を一夜のうちに名乗る事を一郷の民に命じたのです。


さて、ここで、上記の経緯で「明治期以降の事」は参考に成りませんので、お家のルーツを辿る事が実は難しいのです。

先ず、そこでそもそも「過去帳」とは、「武士以上の身分の者」が「寺」で系譜を元に造られるもので、武士で無ければ「人別帳・税に対する戸籍簿」と成ります。
武士でないと成れば、その「人別帳」を造られるのは「顕教寺」と云って、「菩提寺」では無く、「檀家寺」と云う事に成ります。

これらの在所等の事が何方かであったかをお調べに成るには、お家の江戸末期の在所のあつた処に「明治維新戸籍簿」と云うものが役所に有りますから、それを観れば一目瞭然に判ります。

次に、家紋に関しては推測として、「抱き角に日足」かも知れないと云う事ですが、そもそも「抱き角紋系」は「信濃諏訪族青木氏」の家紋類と成ります。

これに「副紋の日足」が組み込まれている事ですが、「信濃諏訪族青木氏」は皇位族系であった事から「副紋形式」を採用していませんでした。
つまり、この「信濃諏訪族青木氏」の本当の系では無い事を意味します。
そこで仮にあるとしたら、上記の”「所縁」”と成ります。
つまり、「明治期の苗字令」の「所縁」に関わつている事が考えられます。

それを観るには、次の事が必要です。
更に、その寺の「享保期前後の頃の御先祖の戒名」を観てください。
この「戒名」で、本当の「御先祖の宗派と身分とお家の格式」が判ります。
当時の事を示すお墓がありますか。

何故ならば江戸期の「大きい商人」の多くは元は「武士」であったのです。
それ故に「戒名」にそれが現れます。
当然に、「宗派」も判り、その宗派で身分格式も判ります。

最後に気に成ることが一点あります。
それは「御祖母の出」が「伊賀上野」であったと云う事です。
上記の”「所縁」”を物語る事として、”明治期に「青木氏」を名乗った”と云う事ですが、上記した様に3年の苗字と8年の督促令で、この「所縁」のあった者を優先的に名乗らせたと云う事を書きましたが、問題は“どの様な所縁であったか”という事です。
勝手に、他の姓を名乗る事は、武士株券を買う事以外は、江戸期末期まで禁じられていた事から進まなかったのです。

そこで、「所縁」で納得させて無償で庶民が名乗る事が出来る様に成つたのです。
有名な「坂本龍馬の実家」もこの「坂本の武士株券」を高額で買い取り武士に成ったのです。

これを示すのが実は「伊賀上野」なのです。

「伊賀」は奈良期より「伊勢青木氏」と血縁も含めて「郷士・氏人」として深い繋がりを持っていたのです。
この「伊賀」には「伊勢青木氏」の系列の「伊賀青木氏」があります。
「伊勢青木氏」は「天智天皇施基皇子」の「賜姓臣下族」ですが、奈良期より同じ「賜姓臣下族信濃青木氏」と「四掟制度・一定の身分内で血縁する掟」に基づき「同族」として「氏人の伊賀郷士」と女系で血縁をして、其の後その嫁ぎ先から「優秀な男子」を選び、「福家の許可」を得て「青木氏の家人」として「青木氏」を立てたのです。
つまり「女系の親戚族」で血縁し、当然にこの「信濃青木氏」とも上記した血縁した同族の「信濃諏訪族青木氏」があります。
史実的に、更にこの奈良期からの「信濃青木氏裔系」の「信濃諏訪族青木氏」が上記の「伊賀青木氏」と血縁をしている事に成ります。
従って、「伊賀青木氏」の中に「抱き角紋」が有り得るのです。

そこで、お家の事ですが、そして、お家は明治期にこの「所縁」から「祖母系の母方の所縁・直接に青木氏では無くても青木氏に関わっている家」であったことから、「青木氏」を名乗つた事になり、「分流の傍系族」であったこと成り、その事から、直接、この「抱き角紋」を使えず、ここに「副紋」として「日足」を組み込んだとする説が成り立ちます。
「副紋」はそのような時に使います。

そこで、それは、「日足の意味」は、言葉の「意味」から「商人であった証拠」であって、本流が明治期に「母方系の伊賀青木氏」を名乗る以上は、この「商人の商号・商標」の「蝋燭の紋」の「日足紋」を「抱き角紋」に組み込んで「青木氏」を名乗ったとすれば「所縁」は成立し全て間尺に一致します。

「蝋燭の紋」の「日足紋」は、元の語意は「太陽の移り行く様」を云うもので、江戸期には「商いの相場の動き」を表したものです。
恐らくは、お家の父方の元の「家紋・商標」はこの「日足」であったと考えられます。
これであれば「江戸期の慣習」とも一致します。
この様な「所縁での事」が「明治維新」にこの慣習が全国的に起こったのです。
それを家紋類に表現して遺そうとしたと考えられます。

この説が正しいとすると、「伊勢青木氏、伊賀青木氏、信濃青木氏、諏訪青木氏」の「融合族傍系族・女系」として成り立ちます。
これが「お家の所縁の根拠」と成ります。

そこで、では何故、「近江」であったのかでありますが、これもこの説で行くと成り立ちます。
何故ならば、「伊賀青木氏」が江戸期末頃に、幕府の弱体から糧を得る為に「近江に多く出た事」が知られているからなのです。
又、「近江商人」も伊勢に入ってきました。

滋賀・昔の近江には、「近江青木氏、近江佐々木氏系青木氏、佐々木氏系青木氏」の三氏が定住していましたが、源平戦で滅亡し、その後、支流族の一部が摂津で生き延びました。
「伊賀青木氏系の甲賀青木氏」もあり、信長の妾と成り子供と共に滋賀に移動します。

お家の御祖母のお家のご先祖は、明治期前後に、この「伊賀青木氏」が、この「近江滋賀」に出て来ていたのではないかと考えられます。

最後に「明治天皇の墓守」をしていたとする事は、更にこの事を証明しています。
「青木氏」は上記した様に、「天智天皇の施基皇子」を始祖とする「伊勢松阪の青木氏」が賜姓を賜り名乗つた皇位族です。
「光仁天皇と桓武天皇と平城天皇と嵯峨天皇と斉明天皇」の5人は、この「伊勢青木氏の直接の出自元」で、古来より元、「天皇家の天智天皇天武天皇の墓」の「造営管理の役目」を「賜姓五役」として負っていたのです。
その意味からも、「伊勢青木氏の裔系」の“「伊賀青木氏」として「繋がり」がある”として雇われたことも考えられます。

そのその、「伊勢王の施基皇子」は日本書紀にも書かれている様に「天智天皇と天武天皇と持統天皇の墓」を三つを造った責任者です。
実際に工事をしたのは「伊勢桑名の額田部氏」です。
この様な謂れもありますので、推論の確率は高いと考えられます。

この説論は、明治3年と8年の令より「青木氏の所縁論」より導き出した説と成ります。
情報が現在では少なく成っているので、これ以上の事は無理と考えます。
後は、これ等を証明するのは「維新戸籍簿と檀家寺の戒名」だと思います。
もし判る範囲でいいですから判りましたお知らせください。
それでほぼ上記の推論を何とか証明できると思います。

以上、何かご質問や情報が有りましたら又お便りください。


  [No.1155] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/14(Sat) 22:59:30

色々、ありがとうございます。
五里霧中から光がみえてきました。

過去帳から
 文化6年  釋浄栄   俗名 新兵衛 (青木家先祖)
 安政6年  釋浄教   俗名 新五郎 (新五郎 父)
 享保20年 釋敬眞   俗名 半兵衛 (堀家先祖)
 明治3年  霊誉澚善  俗名 ひさ   (新五郎妻 春ノ母)
 ・・・
 ・・・


 父は浄土真宗大谷派と言ってた
 信玄袋の中に封筒の端切れに安楽寺幼稚園の文字があり、小生 
 安楽寺を訪ねたが寺の過去帳には青木家はなかった。

 以上、解る限りの情報です。


 
 


  [No.1156] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/15(Sun) 08:24:17

近江の青木さん 今日は。
早速のお便り有難う御座います。

お便りの情報は個人情報に関わる内容ですので一部を削除させて頂きました。
ご了承ください。

この度のお便りの情報で、判る事が沢山出てきました。

先ず、「商人」で在り乍らも、「享保期」に戒名を持つ事は先ず普通の商人ではあり得ません。
江戸期の仕来り掟がそう成っていました。

つまり、元は武士であった事で無ければ、享保期、戒名、堀家等の姓を持つ事は、士農工商の身分制度許の中では許されていませんでした。
ハッキリと「武士」であって「商人」を営んでいた事に成ります。
故に、戒名を遺す事、菩提寺並みの檀家寺であった事に成ります。

そして、これを更に証明する事として、戒名が「釈」を使っている事に有ります。
この戒名の付け方は浄土真宗の付け方です。
浄土真宗は武士か郷士か庄屋や豪農や名主等の武士並みの格式を有する者が主に入信する宗派でした。
中に農民庶民であってもそれなりの扱いを受けた家筋を持つ者が帰依筋としていました。

更に、「浄土真宗」ではこの戒名は最高格式の戒名ではありませんが、普通の格式での戒名で、庶民は俗名を戒名としていたのです。
従って、先ず「戒名」を持ち、享保期では俗名外に「敬眞」の格式名が着けられている事はそこそこの立場を有していた事に成ります。

享保期には「商人」や「名主」で在り乍らも「武家」を未だ持つ、つまり「姓・青木」を持つ家筋をはっきりさせていた事を意味します。
これは「堀家」と云う姓を持つ事の繋がりを持つていた事でも証明できます。

その後、普通に使われる浄土真宗で使われる「浄の戒名の字」が宛がわれていますので、少し格式が下がった事に成ります。

上記の武士などの格式が時代の変化に伴い家柄を示す伝統が忘れ去られて行った事を意味します。
文化期には、格式が「普通の商人」に切り替わった家筋と成っていたのでしよう。
然し、依然として戒名は持ち続けていますので、元は「武士の出」の言い伝えが密かにあったのでしょう。

そして、明治期3年か8年に成り、「所縁」により「青木氏」を再び呼び興したのでしょう。
その「所縁」が祖母方の伊賀かは確定は出来ませんが、「所縁」の示す「家紋」からはお家の結び付く情報は今の所は「抱き角の日足の副紋の家紋」と成ります。
これが、「明治3年」の「誉・・・善」の祖母の戒名に表れています。
これには「宗派性」が無く、「伊賀者の原士の慣習」に良く使われた戒名です。
「祖母の系」は宗派に関わらない原士の様な系の戒名的な物です。
「現世と彼世の概念」の無い「神道」もこの様な名を使うのです。
「四つの世代」に分けて男女に分けての「神に導かれる概念」が強いのです。
「原士」もこの概念に導かれたのです。
宗派によってその宗教観から「戒名」にその特徴を持たしています。

「浄土真宗」は浄土宗より分かれ庶民に焦点を合わせて「親鸞」が新たに「宗教観」を創立したもので、大まかには「武士階級」と「庶民階級」に分けられ、お家は「商人」で在り乍ら「武士階級」に分けられた宗派と成ります。
これが、江戸末期に顕在化して、「明治維新」にこの「揉め事」を解決する為に「武士階級の浄土真宗」を「真宗」と改名して分けたのです。
これが現在では、「西と東の派」とよばれているのです。
「西本願寺」と「東本願寺」の事です。
お便りは、「浄土真宗大谷派」と記述していますが、正しくは「真宗大谷派」です。
この真宗はその後に「9つの派」に分かれますが。大谷派が本流です。
お家はこの「真宗」の「東本願寺派」に成りますので、「伊賀の青木氏の血筋」も持つ間違いの無い「近江の青木氏」であった事に成ります。

従って、滋賀には過去には次の「青木氏の菩提寺・清光寺」が有ります。
お家も祖母方も武士であった事に成りますので、次の清光寺をお尋ねください。

大津市山上町
甲賀市信楽町
京都市左京区

此処の三つの内の一つに遠いご先祖が祭られている筈ですのでお尋ねに成る事をお勧めします。
「伊賀青木氏」から分かれた「甲賀の御寺・青木氏の清光寺」かと考えます。

「大津の山上」と成ると少し意味が違ってきます。
又、京都市と成れば更に意味が違います。
当然に、甲賀に成れば推論が進みます。

武士であった事の出自が違就て来る事に成ります。

尚、参考に、
滋賀県多賀町大字 神明社
長浜市宮部     神明社
長浜勝町      神明社
東近江市三津屋町 神明社

これが江戸期直前まで「青木氏の守護神」でありました。  
此処も訪れる価値はあります。

これを更に超える情報が次の作業かと考えられます。

先ず元は「武士・郷氏」であつた事からは外れる事は最早ありませんので、この家紋の「時、場所、人」の要素でお調べに成る事でしょう。

必ず、郷土史等の記録に何処かに遺されている筈です。
筆者も更に伊賀の中での情報を調べてみます。